世の中には理不尽なことがけっこう沢山ある。生まれる家を選べないこともそうだし、いきなり神秘に巻き込まれることもそう。そして謂われのない非難を受けることもだ。
早朝の市場で周囲の人間から冷ややかな視線を注がれるヒタキは、大地に膝をついて涙にくれる老婆を虚ろな目で見ながら溜め息を吐いた。
もう、帰りたい……。
心なんて、すでに折れていた。鑑定してもらおうと窓口に収穫品を出そうとして、「こ、このペンダントは孫の……!」という声が奇跡的を通り越した作為的なタイミングで横から響きわたった瞬間に。
目に入らない程度に適当に切り揃えた黒髪を緩慢な動作でボリボリと掻き、二つ折りにして腰に巻いている、黒が強い灰色のローブのポケットの中を、面倒くさそうにまさぐる。
「孫は……孫はもう…………ああ……っ!!」
本日の収穫である魔術師の杖や儀式用の短剣、宝玉のついたペンダントなどを両腕で抱え込み、人垣で囲まれた店先で悲痛な声をあげて泣きじゃくる老婆。
迷宮で遭遇した死体から拾ってきたそれらは、この都市のルールでは問題なく拾った本人であるヒタキのものと認められてはいるが、如何せん観衆の冷めた目が無言で告げているのだ。婆さんに渡してやれよと。
店の窓口をさっさと閉めて、奥に引きこもって下さった鑑定士の爺も、もうこれらの品の鑑定書は書いてくれそうにない。
「……もういいや。それ、あげるから」
ここで粘っても埒があかないという判断しか下せないこの場は、さっさと退却するに限る。面倒事は御免、部屋に逃げ帰ってそうそうに寝るのが一番。そう自分に言い聞かせながらヒタキは、割れた人垣の間をのろのろと歩く。
ちょっとした茶番も終わり、何事もなかったかのように再び動き出す人の流れに紛たヒタキは、じゃらりと貨幣を掴んだ手をポケットから出して、閑散としてる手のひらに視線を落としてみた。
「ひー、ふー、みー、………………みー」
占めて三百デル。
みーみー呟くヒタキは頭をボリボリ掻きながら、人間社会の面倒くささに溜め息を吐く。
「どうするかな……ふつーの朝飯が食えねえや」
ああ、それにしたって金がない。
* * *
迷宮都市と呼ばれる空間がある。来る者は拒まず、去る者を許さない空間だ。
世界からは平原に聳える巨大な門としか観測されない入口――――その一方通行の門を通り抜けた先にある、地下に存在する迷宮の上に創られた都市。それを人々は迷宮都市と呼ぶ。
都市などと立派な名前がついているが、その実どの国にも属せないどころか、外部との繋がりを一切持てない牢獄――それが神界とも天獄とも呼ばれる迷宮都市の実態だ。
「つまりさ、俺ってここに閉じ込められてるんだよ。五十日前に起こったっていう神秘の余波に巻き込まれて。不本意にも」
「それが代金を踏み倒す理由になるか? 金がないんなら働くか餓死しろ」
「…………」
「憩い亭」という平凡な名称の中庸な宿屋兼酒場に戻ったヒタキは、ダメ元で十割引で朝食を頼んでみたが、やっぱりダメだった。
足の怪我で引退したという恐ろしく似合っていないコック帽を被った中年店主は、傷だらけの凶悪な人相を更に凶悪にし、危なく光る隻眼でヒタキを脅す。「憩い亭」で唯一平凡でも中庸でも普通でもない店主の眼力は、それはもう凄まじかった。
「…………わかったよ。今日はもう寝るさ」
くるりと店主に背を向けて、ヒタキは自室へと引き上げるべく階段を目指す。商売は商売と面倒事を恐れずに割り切ることができる店主には、これ以上何を言っても無駄だ。そもそもヒタキ自身が面倒事になるのが嫌なのだから、部屋に戻るしかない。
逃げるように。
「おい、お前」
「ん?」
階段をのろのろと上がるヒタキに、肉厚の包丁で野菜を切り刻む店主は憮然と訪ねる。
「今、どこまで潜った」
「今日でちょうど五十階だけど、何で?」
階段を軋ませながら、ゆっくりと登っていくヒタキは首を傾げる。店主が迷宮の話題を自分からふってきたのは、初めてだった。
「五十階を抜けたら、教会から中級認定を受ける。申請すれば報奨金と何かCランクの物がもらえるはずだ」
「え、俺、金もらえるの? どのくらい?」
「五十万、中層に入るために必要な装備の準備金の補助としてだ。さっさと教会に行ってもらってこい」
そしたら飯を食わしてやる、と巨大な肉塊を解体しながらぶっきらぼうに告げる、味は普通なのにリピーターがやたらと多い憩い亭の店主だった。
「あー……でも、今はいいや。一回寝て、その後で取りに行く」
途中で一度立ち止まったヒタキだが、しばらくぼんやりと何もない空中を眺めて、それから再びのろのろと機敏さの欠片もない足取りで、階段を登って行った。
そのだらけきった青年の姿が見えなくなった後、浅黒い強面の店主は豪快にパンの種をこねながら、憮然と鼻を鳴らした。
「たった五十日で五十階を超えた奴が、朝飯も食えないなんて馬鹿げた話があってたまるか」
毎日毎日顔を合わせている、掴み所がない青年。ヒタキは一日一階という偉業を毎日達成しながらも、常にギリギリの貧困生活しか送れない、迷宮都市五百年の歴史の中でも例のない、困った実力の探索者だった。
* * *
「店長、オススメランチ、半額で頼む。五百デルはあるんだ」
「報奨金があるだろう、セコい真似をするな」
昼間の稼ぎ時を過ぎた憩い亭に帰ってきたヒタキは、椅子に座るなりカウンターの上に上半身を投げ出した。これ以上は動きたくないと全身で訴えるヒタキに、店主は隠そうともせずに舌打ちをする。くだらん嘘を吐くと刻むぞと。
この人、何人殺して来たんだ。
混じり気のない殺気を放つ店主に、ヒタキは本職のみが持ち得る狂気をひしひしと感じながらも、覇気が全くない今にも死にそうな声で、嘘じゃないんだと訴える。
「面倒事があったんだ……で、気づいた時には金がなくなってた」
「…………」
三時間前に五十万デルを受け取るために憩い亭を出たのに、たった五百デルしか持ち帰ることが出来なかったいうヒタキに、さしもの店主も唖然としていた。お前は何がしたいんだという店主の引き気味の視線に、ヒタキは密かに傷つく。好きで無くしたんじゃないのだ。
「あー、腹へったな…………店長、頼むよ、パンだけでも売ってくれ」
「今金を使って、晩飯は食えるのか? 空腹のまま潜っても、死ぬだけだぞ」
「晩飯もパンだけでいいよ。そこそこ稼げる当てがあるから、今日だけ乗り切れば何とかなるんだ」
金があっても面倒事、金がなくても面倒事。金なんてなくなればいいと、ヒタキは本気でそんなことを考える。
そして長い長い溜め息を吐いて、
「金がなくて困っているのか?」
聞こえて来た女性の声に、のろりと顔を上げた。
「んん? そうなんだけど、お嬢ちゃん……迷子?」
声はやたらと落ち着き払った貫禄さえ感じさせるものだったのに、声の主は真っ赤な髪を長く伸ばしたあどけない少女だった。でもやっぱり幼女かもしれない。
「幼女と言うな。私は二十五だ、本当に」
心の声を的確に指摘して来た達観した瞳の幼女を、ヒタキと店主は胡乱げな瞳で見つめる。
つり上がった目に細い眉、細い顎に筋の通った鼻、そしてきめ細かい白い肌は、どことなく育ちの良さを感じさせる。黒いワンピースの上に簡素な鉄の胸当てと頑丈そうな革の腰巻きといった出で立ちの、美少女といっても差し支えない十歳程度の小さな少女は、しかしやはり少女と言うより幼女と言うほうがしっくりきた。
が、どれだけ背伸びをすれば気が済むのだと呆れる店主とは違い、ヒタキはわりとすぐに適当に頷いてみせた。
「じゃあ、おねえさん。俺に何か用?」
それでいい、と幼女は鷹揚に頷いて、担いでいた大きな布袋を置いてヒタキの横に座る。
「私は探索者を探していてな、それらしい人がいたから声をかけさせてもらった」
「ふーん、探索者か。でもおねえさん、この都市って人口の八割は探索者だぞ。探すも何も、そこら中に溢れてるじゃん」
「ふ、残念だな。話を聞いてくれるのなら、少し遅めの昼食を一緒にと思っていたのだが。もちろん代金は私持ちで」
「ぐっ……!」
幼女によって目の前に吊らされた餌に、ヒタキは分かりやすく動揺した。そんなヒタキに幼女は、わざとらしくやれやれと肩を竦める。
「しかしだ、私が今日この都市に来たばかりの人間だと分かっていながら、そういうことを言う人間とは、食事を共にしたくはない。ご指摘通り、他を当たらせてもらう」
躊躇うことなく席を立ち、旅に必要な道具でいっぱいの布袋を担ぎ直した幼女の腕を、ヒタキは無言で掴んだ。
「お、おねえさん。是非とも、是非とも話を聞かせてほしいんだ。だけどさ……面倒なことは強要しないよな?」
「引き受けるかどうかは、私が決めることではないだろう」
――……幼女は笑った。収めた勝利に。
* * *
迷宮とは神々がおわす地へと続く荊の道だ。神々は苦難の迷宮を歩む人間に試練を、そして試練を乗り越えた者には加護を与える。
この閉ざされた都市で生まれた人間は例外なく、常に感じる神々を敬い崇める。
この閉ざされた都市に流れ着いた人間も例外なく、明確な試練とそれに伴う加護を与え賜う神々に感謝する。
故に神と非常に縁深い迷宮は、実質的に信者が運営する教会によって管理されていた。
神々が作りし迷宮に挑む信者たちを導き助け、神々の存在を伝え広める。その確立された教会の存在意義と活動は、都市全体の迷宮探索の効率を上げ、円滑なものとしていた。
円形の都市の中央に存在する地下にある迷宮への入口。そこに建てられた一際大きな石造りの古風な建物こそが、教会の本部である。
時刻は昼前。
寄付金を納めさえすれば様々な援助を受けることが出来るそのありがたいで場所で、報酬金を受け取りに来ていたヒタキは何故か受付のお姉さんの軽蔑の視線に晒されていた。
「ああ、迷える仔羊よ――ったく、たまにいるんですよねぇ、こーゆー人。レベルの高いパーティーに入れてもらって、五十階クリアしたからご褒美ちょーだいっ、てシレーっとした顔で言いに来る不届き者が」
何故かヒタキは暴言を受けていた。金髪眼鏡の知的に見える、敬虔なる神の僕らしい女性から。
「迷える仔羊よ、神々は何時もあなたを見ているのです。刮目しなさい、奇跡の一端を! 神々の鏡よ、この者の真なる姿をーっ!」
装飾が施された手鏡をヒタキに向け、楽しそうに、本当に楽しそうに笑う聖職者らしいお姉さん。
「あーあ、やっぱりそうでしたねぇ。レベルがたったの1ですよ。これじゃあ五十階どころか五階だって無理ですって。教会の中級認定条件は、レベルの差が5以内の四人までのパーティーで五十階を越えることですよ、信者ヒタキ……ヒタキって変じゃなくていい名前ですね、信者ヒタキ。まあ、とにかく教典読んで出直して来て下さい……って、え? 五十階踏破時のパーティー情報……なし? 同行者人数……ゼロ? ………………きゃ、キャアアァァァアアアアアアア!! し、司祭様、変態が、変態が来ましたぁああああああ!!」
唖然としてぼんやりしてるうちに捕縛されて、変な部屋に連れ込まれ、
「…………神々の目に、誤りはありません。規定は満たしています。ですが、ですが……神々の加護をまったく受けていないあなたを……いえ、ですが……」
司祭服を来た老人にひたすら首を傾げられ、
「…………今日はこれでお引き取り下さい。検討のための時間が必要です」
前金として五万デルを渡され、教会から追い出されたのだった。
――――と、幼女が恵んでくれたただ飯をもぐもぐと食べながらそこまで語ったヒタキは、これまた幼女に施されたミルクで喉を潤した。久しぶりに水以外の液体を飲んだヒタキは感動する。贅沢って素晴らしい。
「おい、五万デルはどこに消えた」
「帰る途中にちょっと奮発して、新しいシャツを買ったんだ。で、残りは病気の娘がいるんだって言いながら、にたにた笑ってナイフ突きつけてきたおっさんに渡してきた」
人はそれを恐喝という。
謎の出費を問いただした犯罪者面の店主は、無言で包丁の手入れを始めた。今月分の宿代を十日後までに支払いさえすれば、店主は何もしない。支払いさえすれば。
一方で探索者とは食うにも困る存在なのかという疑問に、ヒタキが特殊らしいという答えを得た幼女は満足そうに頷いて、新たに生まれた疑問をなげかける。
「ふむ、何となく事情は理解した。それで、レベルというのがかの有名な迷宮の神々の加護なのか?」
「うん、そうだな。モンスターを倒してたら、勝手に神様たちがくれるらしい。ご褒美だって」
迷宮都市の特性上、外の世界に情報が流れることはない、唯一の例外を除いては。その外に流れた数少ない情報の中でも、神々の加護は迷宮都市の代名詞ともいえる存在として、世界中に広がっていた。曰く、超えられぬ試練を超えた者は超常の力を授かると。故に迷宮都市に自ら望んで入る人間はこう呼ばれるのだろう――夢絶えた落人(死にたがり)と夢見る愚者(ただの馬鹿)と。
「それで、おねえさんも探索者になるのか?」
「ああ。聞く限りでは教会に行けばいいのだろう?」
頷くヒタキにありがとうと礼を言い、幼女は席を立つ。
「今から行ってくる。世話になったな」
そして腰に下げている小さめの一杯に膨らんだ袋から硬貨を取り出し、カウンターに乗せた。店主はその硬貨に一瞬眉をひそめたが、すぐに代金を受け取りおつりを渡して、幼女の大きな荷物に目をやる。
「宿がまだ決まってないなら、ここにするか?」
「宿か……そうだな、今から他を探すのは疲れるしな。早速で悪いが、この荷物を預かっておいてくれ」
「ああ。細かいことは帰って来てからでいい。教会の場所がわからないなら、そこの男を連れて行け。当店からのサービスだ」
勝手なことを言い始めた店主に、ヒタキはゆっくりじっくりと味わっていたミルクを噴きそうになった。
「店長……俺、店の手伝いなんてしたくない」
「黙れ、滞納している家賃の利子分だ。期限まであと十日だぞ」
手入れの終わった包丁の輝きにヒタキは言われた通り黙り、面倒くさそうに席を立つが、それを幼女が「必要ない」と止めた。
「また後で色々と話を聞かせてくれ、同居人」
それだけ言って幼女は憩い亭から出て行った。とてつもなく尊大な幼女である。
しばらくの沈黙の後、店主は未だにのんびり食べているヒタキに、何とも言えない複雑な声で呟いた。
「たくましい子供だったな」
「え、二十五歳なんだろ?」
まだ外見に引きずられている店主と違い、完全にヒタキは割り切っていた。
「そうなんだろうがな……あんな子供がいたら、それはそれで不気味だ」
あの幼女はきちんとこの都市の通貨・デルで支払いを済ませた。大抵の人間が最初の数日はまとまったデルを持てずに困り、そのために教会の支援金の制度が作られたほどだというのに。
迷宮都市へと続く門がある大陸では、百年前に通貨が統一されている。一文無しで門を潜る人間がいる一方で、ある程度の人間は大陸の通貨を持ってこの都市に入ってくる。都市の情報が外に流れることがないがために、それが交換不可能な無価値なものであると気づかずに。しかし外から来た人間は、この都市の金と交換可能な、何か価値があるものを持ち込むことはできる。
あの幼女は都市に入るなり、何かを売ってまとまった金を得たのだろう。都市に入る前にそのことに気づいたにしろ、入った後に気づいて売れるものを探したにしろ、大半の人間が最初は金欠で戸惑うことが現状なのだから、当然のように硬貨で一杯の財布から支払いを済ませた幼女は不気味以外の何でもなかった。
「まあ、店長たちの言い方で言うんなら、単純に夢見る愚者(ただの馬鹿)ってわけじゃあない、ってことなんだろ」
「ただの馬鹿が偉そうなことを抜かすな」
店主は一文無しでこの都市に迷い込んだ、未だにオススメランチを食べているヒタキというヒモな青年に冷たい視線を送ったのだった。