「ミイラ取りがミイラなんて笑えないわ、本当に」
薄暗い店内でグラスに浮かぶ氷を指先で突き、間延びした声で女性は笑えないともう一度溜息を吐いた。
「レオンには悪いことをしたね。まさか騎士団に捕まっちゃうとは」
「自分で殺しておいてあなたは何を言ってるんですか」
商業区の一画の地下に存在する酒場。店の場所を知らなければ到底辿り着けない隠されたその店には、二人の男女しかいない。
否、一人は十を超えた程度の幼子と言っていいような年齢だった。
その少年は、グラスのアルコールを一気に煽る。あまりにも似つかわしくないはずのその所作は、しかし嫌になるほど堂に入っていた。
「それにしても、十七柱目の神の加護者を誑かすだけが、まさかの大事に発展しちゃったね。というか、君が逆に誑かされるとは」
「私も未だに信じられいですよ……。私、あんな子供に夢中になってたなんて」
「それが迷宮神の加護者の力なんだろうね。神眼。事象操作の力か。流石にこの迷宮を統括する神、はっきり言って反則だよ」
「まあ、私にしてみればあなたも十分に反則なんですけどね。あのワイバーンの件だって、本当にもう」
「僕の力は、まあトップランカーとしては普通の域を出ないよ。騎士団の全十二席達も、それに聖女とか切り裂き魔とか、奥の手を隠している似たような奴らはたくさんいるさ」
楽しそうに笑う少年は「さて」とグラスを置いて、未だに不貞腐れている女性ミリア・フロマージュに改めて向き直った。
「本題だ。白銀の神子はどうだった? それに僕のワイバーンを倒したっていう、ランクFの二人は。まあ、二人に関してはレオンの話を信じるなら、だけど」
「私、記憶が曖昧なの。この数十日間の」
「記憶、というか意識を操作する力があるってことがわかっただけでも十分な収穫かな。それも同ランクの君を操れるほどの」
「でも、そこまで万能でもないのかもしれないわ。現に私より後に会ったメリルって子には、神眼で魅了を……いえ、あの子はまあ、魅了する必要すらなかったものね。とにかく、私にリソースを使いすぎていたようだったわ。あとは、能力と精神が不釣り合いという印象かしら」
「……期待外れと言うべきか、期待通りと言うべきか」
「あとは、あの二人ね……。何と言えばいいのかしら…………」
ミリア・フロマージュは少年の視線に気づき、グラスを傾ける。注がれた琥珀色の蒸留酒を一口だけ味わう。
相変わらずの高級な味わいに、彼女はほっと一息吐いた。しかしすぐに陰鬱な気分になる。
「理解できない。意味がわからないわ。ランクの差を覆すなんて、信じられない。信じたくないわ」
「僕もさ。だけど、事実かもしれない。ワイバーンは、確かに二匹とも殺された。それは揺るぎない事実だよ」
少年は思う。
白銀の神子を手中に納めるはずの脚本は、見事に破綻した。この数十日間の暗躍は、水疱に帰した。
夢にも思わなかった、異端者達の介入によって。
迷宮都市の神々。全十六柱の神々を統括し、そして事実この迷宮都市を作り上げた張本人である十七柱目の神。その名を迷宮神、またの名を異界神。
十七柱の神々がこの迷宮を想像した真の目的のための最後の鍵。
それが迷宮神の加護者、つまりリョウ・アカツキ。
彼を手中に納めることが、少年の長きに渡る悲願の成就には必須だった。そう、必須だったのだ。
だけど、と少年、否、かつて迷宮都市初の最終階層踏破者であった男は、唇をつり上げて笑う。
「迷宮都市ができて五百年。ついに現れた迷宮神の加護者と、彼に付き従うカナートの末裔。そしてやっと物語が動き始めた頃に出てきた異端者二人」
愉快だった。辿り着いてしまったが故に絶望し、そしてこのろくでもない物語の舞台裏へと引きずり込まれてしまった男の乾ききった心を今満たしているのは、歓喜の感情だった。
「僕は、知らなかったよ。こんなことが起きるなんて、知らされていなかった。神々はその二人を物語に組み込んだようだけど――――」
何かが起ころうとしている。五百年間も停滞していた――――順調に進んでいたとも言える、迷宮都市の歴史が、動き出そうとしている。
神でさえも知らない、何かが起ころうとしている。
「楽しそうですね、本当に」
「楽しいよ。楽しいに決まっている。こんな気持ち、何時ぶりだろうか」
「直接確かめてきたらいいじゃない、自分の目で」
珍しくも歳相応の笑顔を見せる彼に、ミリアは少々驚きつつもそう提案した。
しかし、彼の反応は芳しく無い。首を竦めて、再度グラスを煽る。
「嫌だよ、二人はあの子の店にいるんだろ?」
誰があんな不味い飯を食いに行くか、と少年は吐き捨てた。
それは二人しか客がいない、否、正確には一人の客と一人の店員しかいない、地下の酒場での一幕だった。
* * *
「あー……、ミルクがうまい」
「うむ、紅茶が美味い」
コトコトと煮立つ鍋の音だけが聞こえる、昼下がりの憩い亭。
夜の営業に向けて年季の入った扉に準備中の看板をかけた憩い亭の厨房では、凶悪な顔で店主がシチューの鍋を睨んでいる。
そんな彼の背をぼんやりと見ながらカウンター席の一番端とその隣で、ヒタキとヴェルマは気の抜けた声を上げていた。
「贅沢って素晴らしいな」
「百デルでここまで喜ぶのか。安い男だな」
「じゃあおねえさんは、三百デルで喜ぶお高い――」
「貴様喧嘩を売っているのか、誰が幼女だ」
「いや、言ってねえよ」
リョウ・アカツキを中心に繰り広げられ、そして中途半端に終わりを迎えたあの事件から、すでに十日が過ぎていた。
その間、ヒタキとヴェルマはただただ眠り続けていた。ヴェルマはあの時の後遺症のため、そしてヒタキは療養と柄にもなく熱血してしまった反動から来る倦怠感のため。
「まあ、いいけどさ。それよりヴェルさん、体はもう大丈夫なのか?」
「む? ああ、一応はな。死ぬかと思ったが、生きているよ」
「……それ、大丈夫なのか?」
「言っただろう? 私はもう死なないと。お前を、大切な友人を一人残すような真似はしないさ」
色々と衝撃だった。主に友人と言い切られたことが。
「おい、そこの幼女趣味」
店主の容赦のない呼び声が胸に突き刺さる。
「それ、訴えたら俺が……俺が…………」
勝てそうになかったのでヒタキは押し黙った。
冗談抜きでゴミを見るような目で睨みつけてくる店主から瞳から逃げるように、ヒタキは視線を逸らす。
しかしだ。よくよく考えれば別に幼女趣味なのではなく、優しくてかっこ良くて可愛くて、先日稀に大きくなって綺麗になることが判明したヴェルマのことが大好きなだけだったため、ヒタキは悪いことをしているわけではないということに思い至った。
開き直って何時もの調子を取り戻したヒタキは、ティーカップの持ち手を衝動的に粉砕して慌てているヴェルマに布巾を渡しながら大きく溜息を吐いた。
まあ、いいか。
「で、何かあったのか?」
「お前、というかお前たちだな」
店主の嫌に真面目な声に、ヒタキとヴェルマはきょとんと首を傾げた。
「出て行け」
「は?」
「え?」
店主の衝撃的な一言に、二人は揃って放心する。
「え、店長、俺最近はちゃんと家賃払ってるぞ」
「そうじゃない。お前らがいるせいで、あのメリルって娘と白銀の神子が毎日毎日押しかけてきやがるんだ。揃いも揃って人の話を聞かない餓鬼共を追い返すのはもう面倒だ。というより、あれは立派な営業妨害だ。目当てのお前らがいなくなれば、家は平穏になる。だから出て行け」
「…………」
「…………」
今度は二人揃って閉口しだ。何だそれは。
衝撃の事実に呆然としていると、準備中の看板がかけられた扉がガンガンと打ち鳴らされる。そう言えば、この店に準備中などという時間帯は存在しなかったはずだ。定休日以外は朝から晩まで常に営業中なのが憩い亭のスタイルだった。
「店長さーん! 開けてくださーい!! 今日こそはお二人のお見舞いを!」
ガンガンガンガンと響くノックの音に、いたたまれない空気が流れる。
あまりにも迷惑すぎる来客だった。
「なあ、店長」
「なんだ」
溜息を吐いてヴェルマは、席から立ち上がった。
「あの二人が来なくなれば、私達は出ていく必要はないのだろう?」
「ああ。今すぐ追い返せ。奴らのせいで店の売上が右肩下がりだ」
立派な営業妨害だった。
頭を抑えて店の入口に向かい、ヴェルマは相変わらずガンガン叩かれ続ける扉を一気に引いた。
倒れるように店に転がり込んできたメリル・カナートと、リョウ・アカツキ。きょとんとしていた二人は、じっとりとした視線で見下ろしてくるヴェルマと、カウンター席で呑気にミルクを啜るヒタキの姿を発見し、ぱっとその瞳を輝かせた。
「ヴェルマさん! 元気になったんですね!!」
歓喜のあまり飛びつくように抱きついてきたメリルからさっと身を躱し、ヴェルマは哀れに地面に這いつくばるメリルを無視し、リョウ・アカツキを睨んだ。
「私達に何の用だ。貴様らのせいで私達は宿を失いかけている。くだらない要件なら、身の安全は保証しないぞ」
「あ、え…………」
突然湧き出た死活問題の発生源を威嚇するヴェルマにたじろぐリョウ。そんな彼を庇うように、床から飛び起きたメリルがヴェルマの前に立つ。
「ち、違うんです。私達は、お礼と謝罪のために来たんです! ほら、リョウ君もちゃんと謝って!」
「ん? リョウ……君?」
違和感に首を傾げるヴェルマの目前で、リョウ・アカツキが勢い良くその頭を下げた。
「本当にすみませんでした! それと、本当にありがとうございました!」
「…………」
「…………」
「僕、ヴェルマさんとヒタキさんに、勘違いと自分勝手な思いで迷惑ばかりかけて……なのに、なのにお二人は僕の命を救ってくれました!! お二人には、本当にいくら感謝しても感謝したりません!」
「…………」
「…………」
「僕、ここに来て調子に乗ってました! 自分は選ばれたんだって、何をやっても許されるんだって調子に乗って……みんなの意志をスキルで操るなんてことまで!!」
「…………」
「…………」
誰だこいつは。
唖然とするヒタキとヴェルマに、彼の横に並んだメリルが苦笑しながら説明する。
「リョウ君は、本当は優しい人なんです。迷宮都市にいきなり飛ばされて来て急に特殊スキルを与えられて、気が大きくなってただけだったんですよ。まあ、それでも困っていたミリアさんや私を助けてくれた、優しい人には変わりありませんでしたけど」
「僕のパーティメンバーだった人達には、全部事情を話しました。当然と言えば当然なんですが、みんな僕に愛想を尽かして出て行ってしまいましたけど。だけど、メリルだけは残ってくれたんです」
申し訳無さそうに、だけど嬉しそうに報告するリョウ・アカツキ。その姿はかつての板についていない不遜な態度よりよほど自然で、よほど好感が持てた。
だがしかし。
ヴェルマは痛みが増した頭を押さえ、並び立つ二人から遠ざかるようにカウンター席へと戻った。
「そうか、それは良かったな。だが……何故それを私達に?」
「僕は、メリルと一緒にもう一度やり直すことにしました。それで、一番迷惑をかけてしまった恩人のお二人にはちゃんと報告して、許可を貰わないといけないって思って」
「…………」
「いいんじゃないか、別に。俺達の許可なんて取らなくても、勝手にやったら」
何も答えなくなってしまったヴェルマに代わり、ヒタキは本心から好きにしたらいいのにとばかりにそう答えた。
「いえ、でも……。もしも、もしもですが、借り物のこの力でも、僕は恩を返せるなら、お二人の力になりたいと思ってます。だから僕は、もしもお二人のお手伝いができるなら、そうすべきだと思って……」
「いいよ、別に。俺は、あんたのためにやったわけじゃない」
「私も別に、お前のためにやったわけではない。だからメリルと二人で一からやり直したいと言うのなら、好きにするといい」
「ヒタキさん、ヴェルマさん……」
感極まったように涙を拭うリョウ・アカツキ。そしてその隣でうんうんと頷くメリル・カナート。
「本当にありがとうございました。ヒタキさんとヴェルマさんは、私達の恩人です。今はまだ私達は未熟ですが、いつかきっとお二人の役に立てるくらい強くなってみせます!!」
ありがとうございましたと、何度も何度もそう告げて、二人は憩い亭から去って行った。
嵐の後が如き静けさが、部屋に訪れる。
以前にも、こんなことがあった。
だが、以前の嵐は一つだった。今度は、今度からは二つ。
「結局、恋は盲目というのが結論か」
疲れたとばかりに首を振るヴェルマ。自分たちがあの大騒動に関わることになったきっかけであるその謎の解は、目も当てられないものだった。
取っ手が粉砕されたティーカップから少しばかり冷めてしまった紅茶を啜って、やれやれと苦笑するヴェルマ。そんな彼女を横目に見ながら、ヒタキ飲み干してしまったグラスをカウンターに置いて言った。
「まあ、そういうこともあるんだろうな」
「ん? 以前とは随分と違う反応だな」
「え、何が?」
きょとんと、ヒタキとヴェルマは二人揃って呑気に首を傾げる。ここ最近日常となったそんな何時も通りのやり取りに、店主は溜息を吐きつつカウンターにミルクと紅茶のおかわりと、ケーキが乗った皿を置いた。
「店長、俺達、おかわり頼んでないけど……」
「十日前の予約分と、こっちは予約特典だ」
無愛想に告げた店主に、ヒタキはそういえばと思い出してローブのポケットの中をまさぐる。手に握りこんだのは、あの日投げ返された数枚の硬貨だった。
何のことかわかっていないヴェルマには、今晩の快気祝いの席で語って聞かせよう。あの日、ヒタキの背を押してくれた、迷宮都市のお人好し達の話を。
カウンターにあの日の硬貨を置いて、ヒタキは小さくお礼を言った。
「店長、ありがと」
「……よくわからないが、ありがたく頂こう。ふむ、以前出してもらったケーキの完成品か?」
以前はヴェルマの前にだけ置かれた一枚の皿が、今度は二枚。白く綺麗なそのケーキは、凶悪な人相の店主が鬼気迫る様子で丹精込めて作り上げた一品だった。
「完成一歩手前だ。前はろくに改善点も言わないまま出て行きやがったからな。今度からは少しくらい店の売上に貢献しろ」
感想を聞かせろとぎろりと睨まれ、ヒタキとヴェルマは顔を見合わせて、同時に匙を取った。
人を数人は殺していそうなその眼光と純白のケーキのギャップに混乱する思考を振り払うように、ケーキを勢い良く口に運ぶ。
「お、何か何時もの普通じゃない」
「美味い……うむ、いいなこれは。気に入った。これは何と言う名前のケーキなんだ? この都市のものか?」
「店長、お菓子も作れるんだな。メニューになかったから、そういうのはないと思ってた」
まったく役に立つとは思えないそんな感想しか発しない二人に、しかし店主は少しだけ満足そうに鼻を鳴らした。
「もともと俺は菓子作りの方が得意だったが、需要がなかったから店には置いてなかっただけだ。あと、そのケーキはオリジナルだ。名前はまだない」
「…………」
色々と衝撃の事実に呆然とする二人を気にした様子もなく、店主は続けた。
「そう言えば、お前ら、固定パーティを組むのか?」
「ああ、そのつもりだが……」
本当にいいのか? と視線で語りかけてくるヴェルマに、ヒタキは満足そうにケーキを食べならが不思議そうに答える。
「俺はヴェルさんと生きていきたいって言っただろ?」
「……まったく」
何を今更と答えるヒタキに、ヴェルマは小さく溜息を吐く。そうやって言葉を選ばないから幼女趣味とか言われるのだ。
「パーティの名前が決まったら教えろ。役に立たん感想の代わりに、お前らの名前を使わせてもらうことにした。あと、それを食ったらさっさと出て行け。いつもなら、教会の奴らが勧誘に来る時間帯だ」
腕を組んでそんなやり取りを繰り広げる面倒臭い生き物たちを冷たい瞳で眺めていた店主は、一方的に告げてくるりと背を向け再度夜の仕込みに戻って行った。
どうやら、店の営業妨害をするのは小さな台風二人だけではなかったようだ。
店主の言葉通り、店に近づいてくる数人の魔力に感づいたヒタキは、呑気に紅茶を啜るヴェルマを抱え上げた。
「まったく、落ち着いて紅茶も飲ませてくれないのか。神の寵愛だか何だか知らないが、いい迷惑だ」
加護を、そして寵愛を与えてくれる神々に暴言を吐きつつ、ヴェルマはヒタキの腕に身を任せ空に指を滑らせる。
「扉を固定した。今のうちに装備を回収して、久しぶりに迷宮にでも潜るとしようか」
「あ、もうそこまで回復してたのか。なら別に、運ぶ必要ないか」
「いや、残念なことに私はまだ紅茶を飲んでいる最中だ。せっかく淹れてもらった紅茶を残して行くのは失礼だからな、このまま部屋まで運んでくれ」
つい先程から随分とご機嫌になったヴェルマを不思議に思いつつも、ヒタキはまあいっかと軋む階段を上がる。腕の中で幸せに紅茶を飲むヴェルマを見ていたら、ヒタキも幸せだった。
「あ、店長。名前、決まった」
ふと思いついたようにそう言って、自分が決めていいかと尋ねるヒタキに、ヴェルマは特別驚くこともなく頷く。
昼下がりの憩い亭で急に何だと訝しむのは、店主のみ。面倒な二人の客は、呑気に幸せそうに微笑みながら、今日も今日とて迷宮へと逃げる。
その光景はこれから暫く続く日常にして、迷宮都市で、世界で語られることになる、一つの物語の一幕。
迷宮の神々が夢見る物語なんてものではない、今から綴られる物語だった。
彼と彼女が綴っていく、二人の物語。
呪われた姫君と愚かな賢者の、二人の物語だった。
* * *