妙に現実味のある夢だな、と彼は思った。自分の体がまったく持って動かせない代わりに、風や木々のざわめきがはっきりと感じ取れた。子供たちが走る音、ブランコの鎖がきしむ音、のこぎりで木を切っているような音を上げるシーソー。――どうやら、自分は公園の砂場にいるらしい。ふと、彼は視線を移した。眼球を移動させたわけではなく、まるでカメラの位置を変えたように映像が変わった。
右手には砂がついており、左手には――ビーズの宝石がついた指輪が親指についていた。夢の中の彼はそれを珍しげに眺め、目の前にいる少女に突き出した。少女の名前は『東方唯(ひがしかたゆい)』。巻き毛の黒髪がチャームポイントの、可愛らしい少女だ。
「なんだよ、これ」
彼はうーんとうなりながら、血の気が通わなくなり始めた指を軽く動かした。突き指にでもなったように、指が張っている。
「窮屈だし、これじゃ指を折り曲げるだけで痛い」
そんな彼に対して、少女はくすくすと笑った。
「それじゃ窮屈に決まってるよ。それはね、お姉さん指につけるものなの」
きょとん、と目を丸くして彼は指を見た。なるほどよく考えて見れば当然だ。そもそも、なぜ親指につけようと思ったのかが我ながらわからない。
いそいそと指輪をはずすと、輪状に赤い跡ができてしまっていた。ふっ、と息を吹きかけ、指をさする。そして彼は指輪を薬指に引っ掛けて、少女に向きなおった。
「それで、なんでこんなものくれるんだ? おままごとか何かか?」
彼の言葉に、少女はゆっくりと頭を振る。やかましく暴れまわる鼓動に手を当て、乾いていく喉に唾液を送り込み、少女も彼に向き直る。
「あ、あのね……、そのね……」
たった一言、それだけにもかかわらず、小さな体は細かく震え、顔にどんどんと赤みが差していく。もう一度唾を飲み込んで、少女は口を開いた。
「ゆ、唯と……け、結婚してくだ、さい……」
言えた、と安堵するより先に、歯の根が合わなくなるほどの不安が少女を襲った。握り締めた服には皺がより、張り裂けそうな少女の気持ちを代弁していた。いたいけな少女がここまで勇気を振り絞ったのだ。悪魔だって少女に心を動かされるだろう。
――だが、少女の望んだ答えは返ってこなかった。
「え……? 嫌だ」
#
「あーくそ、頭が痛い。睡眠不足かな」
まだ夜も明けきらぬ早朝に、青年は一人自転車を漕いでいた。犬の散歩をする老人も、ジョギングする若者もいない、暗さの残る朝。うっすらとかかっているもやに音を吸い込まれたように、住宅街はひっそりと静まり返っている。
そんな中を、彼は特殊な格好――燕尾服で移動していた。ドラマなどで執事が着ているそれだ。なんの変哲もない住宅街にはおよそ溶け込まないであろう彼の服装は、しかし意外なことに住民たちの名物となっていた。
なにせ、モデル顔負けのスタイルと顔を持っている精悍な青年が、毎朝新聞を届けてくれるのだから、世の女性たちが放っておくわけがない。
中にはわざわざ早起きして青年に声をかけたり、お菓子を差し入れしたりする者までいる。
今日も彼は自転車の籠にいっぱいのプレゼントを無造作に詰め込んで、会社へと向かっていた。そんないい朝、としか形容しようのない朝にもかかわらず、青年の顔には深い影が落ちていた。
冬の冷たい風が頬を撫でるが、それでも彼の影は吹き飛ばせない。
「プレゼントくれるのはいいけど……はぁ、現金か金券でもくれりゃいいのにな……」
ぼやきながら、支給されている自転車を定位置に返し、鍵をかける。昇り始めた太陽を恨めしそうに眺めて、彼は歩き出した。
新聞の配達は終わった。――だが、彼の一日は始まったばかりだ。
#
「唯、朝ですよ、起きてください」
心底いやそうに顔を歪めて、青年はキングサイズのベッドを覆う天蓋の幕を開けた。アロマオイルの匂いと、シャンプーの香りがふわりと広がり、部屋を覆う。白に白を塗ったような純白のベッドの中で、東方唯は薄目を開けて青年を睨んだ。巻き毛が片目を覆っているため、ちょっとした幽霊のようになっている。
「唯の睡眠を邪魔するなんて、覚悟はできているのかしら? ひざまづいて這い蹲りなさい」
「いやです。つーかせめてどちらかにしてもらえませんか?」
唯の吐いた毒をなんなく受け流して、青年は重さのほとんど存在しない羽毛布団を一気に引っぺがした。勢いで、唯がころりと転がる。あう、と小さな悲鳴を上げて、唯は寒さに身を震わせる。
「いくら東方グループの傘下の学校とはいえ、遅刻なんてしてたら面目が立ちませんよ」
「わかってるわよ。ほら、早くお湯を持ってきなさい」
顔にかかっている髪を鬱陶しそうに払いのけて、唯はベッドの縁に腰掛けた。低血圧のため、頭が痛む。心なしか、風景が揺れているような気さえする。本当に、朝は髪の毛の手入れの何倍も鬱陶しい。
その上目の前にいる青年は、朝から不機嫌そうにため息を漏らしている。これでは鬱屈とした気分にならぬほうがおかしい。
「顔を洗うぐらい、自分でやってくださいよ」
桶に入れたお湯の温度を指で確かめてから、青年は唯に差し出した。唯は何度か顔にお湯をつけて、眠気と汚れとを洗い流した。
「あら? 生意気な口をきくわね。借金増やされてもいいのかしら? 唯がいなくちゃ利子だけで月収超えちゃうわよ――仗輔くん?」
にこりと――にやりと微笑んだ唯に、青年――『松永仗輔』は苦虫をいくつも噛み潰した。口端がぴくぴくと痙攣し、噛み締めた奥歯がぎしぎしと音を立てる。拳を思い切り床に叩きつけたくなる衝動をどうにか頭の隅に追いやり、仗輔は頭を下げた。
「ぐっ……、ぬ、す、すみませんでした……。だ、だから借金増やすのだけは勘弁してください」
今にも土下座しようとしている仗輔を見て、唯は満足そうに笑い、腰より低い位置にある仗輔の後頭部に踵を乗せた。
痛みも重みもないが、ひたすらに屈辱が彼の胸をかき乱した。仗輔はぐぬぬとうなって、足の乗せやすい位置に頭を動かした。
「ふん。唯のおうちにお金を借りてるくせに頭が高いのよ。仗輔くんはそうして額を床にこすり付けている姿がお似合いだわ」
「……くそが」
「なにか言ったかしら?」
「イイエ。別に、なんでもありませんよ」
「そう、なら床を舐めて」
「なんでもないって言ったのにか!?」
#
午後八時過ぎ、どうにか唯を学校へと送り出した仗輔は、五十人はいようかという使用人たちが使った食器を片付けていた。
慣れたもので、仗輔はレストランの店員のように次々と皿を腕の上で積み重ねていく。皿はすべてベルトコンベアの上に乗せられた後、巨大な食器洗い機のなかに入り、自動で食器棚のなかへと戻っていく。
「食洗機に金かけるくらいなら、俺の給料増やしてほしいもんだな、くそ」
機械の中で水が噴射される音を聞きながら、壁にもたれていた仗輔は小さく零す。そんな独り言に、一人の使用人が反応して、寄ってきた。
「ふふ、相変わらずお金に困っているようだね。どうだい、よかったら多少は貸してあげてもいいんだよ?」
使用人の名は『葵かずさ』。三つ編みにフルフレームの眼鏡をかけた、優等生然とした少女だ。仗輔より3つ年下の十七歳で、とある事情で高校にもいかずに東方家で働いている。とはいえ読書好きであり、また仕事の片手間ながら独学で英語を修め、知識は深く、博学才穎にして該博深遠、才色兼備とはまさに彼女のためにある言葉だと、常々仗輔は思っていた。
そんなかずさはにっこりと笑って、仗輔の目の前で割烹着から財布を取り出した。
「金額は応相談だよ?」
かずさが財布を振ると、ちゃりん、と小銭がこすれる音が響く。
「そいつぁ嬉しい相談だけどな、さすがに年下に金は借りられねーよ。なにより、女に借りるのは御免だ」
ふっ、と笑い、財布を押しのけるようなジェスチャーをとって、仗輔は壁から背中を離した。かずさは目を細めて、財布をしまった。
「おや、今はヒモと呼ばれる男性も増えていると聞くよ。さらに言えば、このご時世で女がどうとか言っては差別ととられかねない」
冗談なのか本気なのかわからない妖艶な笑みで、かずさは仗輔を見た。仗輔はそんなかずさの笑みが好きだった。女性でもあり少女でもあるような、鋭い笑みはどこか知的で、魅力的だ。
「ヒモ……ねえ。俺の親父の借金数千万を返してくれるような女がいれば、それでもいいけどな。そんな女とであうとなると、宝くじ当てるより確率が低いだろ」
「おや、それなら私がそんな女性になってあげてもいいよ」
かずさは自身の胸に手を当てて、下から仗輔の顔を覗き込む。
「はっ、馬鹿言え。二つの意味で無理だよ、そんなことはな」
「ふふ、私を侮ってもらっては困る。その意味とやらが、金銭面のことと私の恋愛感情のことだというのなら、一方は解決済みだよ」
かずさは仗輔の胸に飛び込むようにして彼を壁においやり、胸と胸をくっつけた。相変わらずの冗談めいた笑みは薄くなり、代わりに頬の赤みが増していた。
恥ずかしいのなら止めればいいのに、と思いつつも、仗輔はあえてかずさを引き離そうとはしなかった。
「じゃあ三つ目の問題だ。まったく意味がわかんねーけど、あの馬鹿お嬢様は、俺が借金を返すまで不純異性交遊を禁じているらしくてな、俺もそれに付き合わないといけないんだよ」
あの性格じゃ、したくてもできないだろうけどな、と付け加えて、仗輔は頭をかいた。唸りをあげて稼動していた機械が水を出すことを止め、熱風を吹き出す音が髪を揺らした。
だるそうに口端を歪める仗輔に、かずさは「それは残念」と呟いて、細く息を吐いた。
「じゃあ尚更、急いで借金を返してほしいものだね」
かずさはくつくつと喉を鳴らして、「ところで」と人差し指を立てた。
「君は何年も前から借金が数千万といい続けているけど、正確にはいくらなんだい? いや、言いたくなければ言わなくてもいいのだけれど」
「別に言いたくないなんてことはねーよ。毎晩確認していることだしな」
「小学生が時間割を確認するようだね」
「うるせー」
唇を尖らせながら、仗輔はポケットを探った。中から取り出されたものは、薄いハードカバーの手帳だ。それを仗輔は慣れた手つきでパラパラとめくり、目的のページでに万年筆をさしてかずさに見せた。
「ほらよ。赤文字で書いてあるのが借金の残りだ」
「ふむ、なるほど家計簿と一緒にしてあるのか。どれど、れ……!?」
かずさの目が赤色を認識した瞬間――彼女の表情は凍りついた。
「どうした?」
「え、いや、これ、九千九百九十九万五千二百五十二円って書いてあるのだけれど……」
「なんだ、数千万って知ってたんだからそんなに驚くことでもないだろ?」
「いやいやいや驚くよ! もう数千万じゃないよ!? ほぼ一億だよ!? 婚活してる女性なみにサバ読んでるよ!?」
「お前、全国のアラサーおよびアラフォーを敵に回したぞ……」
「論点はそこじゃないよ、もー!」
「あー、そうだよな。婚活とかやってる時点でちょっともう結婚とか無理だよな」
「そっちでもない!!」
#
夜七時。使用人たちが全員揃って夕飯を食べているころ、東方唯専属使用人こと仗輔は、唯の自室で文字通り足蹴にされていた。椅子に座っている唯の足は仗輔の背中に乗っており、仗輔は土下座の格好のまま、怒りに震えていた。傍にはかずさが控えており、苦笑しながら珍妙な光景を眺めている。
「ところでオットマ……仗輔君、今日の晩御飯は何かしら?」
「お前今オットマンって言いかけたよな。人を家具扱いしたよな」
「いいでしょ事実なんだから。それより唯はお腹が減っているの。早くメニューを言いなさい」
「……フランス料理ですよ。名前はやたら長かったんで忘れました。まあ、ヌーヴェル・キュイジーヌあたりだと思いますが」
「そう、唯はどちらかというと中華の気分だったのだけれど。……まあいいわ。かずさ、持ってきて」
命令を受けたかずさは、すぐにぺこりと頭を下げて退出した。――本来なら、自室ではなく、東方家専用の食堂で家族のみで食べるのだが、唯だけは昔から仗輔と二人で食事をとっていた。幼いころは和気藹々と食事を楽しんでいたのだが、いつからこんなSMプレイのような食事風景になったのか、仗輔にはさっぱりわからなかった。
「ところで仗輔君」
「……なんですか」
「今日かずさと抱き合ってたとか聞いたけど、どういうことかしら?」
全身を見えない針で刺されるような視線で、唯は仗輔を睨んだ。背中にかかる圧力が一気に増し、仗輔は思わず鼻を床にぶつけた。
「はぁ――抱きつかれてたが本当ですけどね。というか、唯はどこからその情報を知ったんですか」
「そんな些細なことはどうでもいいでしょ。不純異性交遊は認めないといったのに、まったく、躾が足りないのかしら。これじゃ愚かな仗輔君には罰を与えるしかないわね」
「一般的には今の状況がすでに罰ですが。もう俺の人権がどこにあるのか見当もつきませんよ」
「安心しなさい、仗輔君の人権は借金の保証書と一緒に大切に保管してあるから」
「いや、どうやって保管するんだよ……」
「ちなみに保管にかかるお金は仗輔君の借金に随時追加されていくわ。月二百万よ」
「フリーターの年収レベルじゃねえか!? どんだけ厳重に保管されてんだ俺の人権!」
「壺に入れて床下に埋めてあるわ」
「梅干と同じ扱いかよ!! せめて金庫に入れろよ!」
「失礼ね、ちゃんと暗証番号つきの鍵をつけてあるわ。絶対に仗輔君にとられないようにね」
「お前本当に俺を虚仮にすることにかけて全力だよな! 床下にあるって聞いた瞬間スコップ探しに行こうとした俺の情熱はどうすればいいんだよ!」
「うるさいからちょっと黙ってくれる?」
「な! 唯から話ふってきたんだろ――!」
「借金増やすわよ」
「すいませんでしたチクショーがァ!!」
泣き出したい気持ちをぐっと堪えて、仗輔は足を乗せやすいよう背中を丸めた。横目でしか確認はできないが、どうやら唯は自分を散々弄ることができて満足しているようだった。今にも鼻歌でも歌いだしそうだ。
しばらくそうして床に顔をつけていると、車輪の回転する音が地面を揺らした。ようやくかずさが食事を食器を持ってきたようだ。
「ほら、そろそろかずさが来ますから、足をどけてもらえませんか」
これ幸いとばかりに、仗輔は解放を要求するが、唯は背中に乗せた足を離そうとはしなかった。むしろ、片方の足で仗輔の頬を爪先で押し付けて、そっぽをむかてきた。どうにも唯の意図はさっぱり読めない。
「まだ、罰を言い渡してないから駄目よ」
「罰って、俺は夕飯を頂いたら仕事に戻らなければならないんですが」
「ふふ、そうよね、しっかり働かないと夜の分の給料がでないものね」
童顔に似合わない頬を切り裂くような笑みに、仗輔は嫌な予感しかしなかった。――だが、仗輔にとって死刑宣告ともいえる罰の内容はなかなか言い出されず、車輪の音が大きくなるばかりだった。
どうしたのかと覗いてみようとするが、頬に爪先が刺さっているので顔を動かせない。
「だ、だから」
仗輔が疑問の声をあげようとしたその時、空気の抵抗に負けて落ちてしまいそうなほど弱弱しく震えた声が聞こえた。
「こ、今晩は……、わ、わたしが眠るまで膝枕しなさい。う、腕枕でも……可よ」
「……へ、へぁ?」
仗輔はあっけにとられてしまい、ヤギのような声を上げた。
「も、もうおわりっ。は、早く立ちなさいよ、料理が冷めちゃうでしょ」
「い、いや、ですが、え? それが罰ですか?」
立ち上がることもしないで、仗輔は丸まったまま言う。あまりにも罰を恐れるがあまり、自分の耳がおかしくなってしまったのだろうか。そんなことを真面目に不安に思う。
「い、言っておくけど、私が眠るまでお話をやめちゃ駄目よ。それに、夜更かししても残業手当は出ないわ」
「なんですかその地味に困る罰」
「ふ、ふふん、働いているのに給料がでない苦しみを味わうがいいわ」
「は、はぁ……」
仗輔がゆっくりと立ち上がり始めると、ちょうどドアがノックされ、かずさが入ってきた。屈伸しつつ唯を見ると、素知らぬ顔でかずさに礼を言って料理を受け取っていた。
はたして今のやりとりはなんだったのだろう。疑問は腹の音にかき消され、仗輔も何も言わず料理を受け取り席についた。
かずさが再度退出し、二人だけとなった部屋にいただきますの声が響く。口に含んだスープは、いつもより少しだけぬるく感じた。