第二話 痛いわ怖いわで最悪の夢
何かが胸を貫いていった衝撃に、世界が震えるように鳴動する。
暗闇の中でも広がっていくのがはっきりとわかったのは、血の赤色であった。
それが何処から出ているのか、何故広がっているのか。
喉の奥からこみ上げ、同じ色が再び広がった時、カズキはようやくそれを察した。
体の奥底から外へと流れ出る命、そう自分は死ぬのだと。
普通の人の様に、いずれ今の学生時代が終わり、学生気分も冷めやらぬ内に就職。
さらに多くの人間関係を形成して結婚、両親のような温かな家庭を作り、いずれ多くの人に看取られ逝くのではない。
何かに殺された。
胸を貫くのは金属製の丸太のような何か、異形とも呼ぶべき大蛇の尾。
自分はこんな化け物に殺されたのだ。
「うわああ!?」
想像すらした事のない、あまりにも悲惨な死に様に悲鳴を上げて跳ね起きた。
体全体で跳ね上げられた布団は、そのままベッドの上から零れ落ちていく。
死んだはずのカズキが、撥ね除けたである。
「俺が殺されたァ!」
生きている、まだその事に気付かないままカズキが改めて叫ぶ。
どうやら寝ぼけているらしいが、まだまだその瞳が現実を映す事はない。
「くそぉ、俺の仇だ!」
ベッドを飛び降り、現実にはいない仇へと向けて身構えた。
中学一年生の頃から、とある雑誌にて掲載されていた通信空手である。
いくらそういうお年頃であったとはいえ、普通の人ならば一ヶ月も持たない。
だがカズキは高校二年生になった今でも続けているのだ。
実際に使用する事はなかったが、カズキ自身はその腕前にかなりの自信を持っていた。
「くらえ必殺、怒りの怪鳥蹴り!」
空手、かどうかは不明だがライダーキックにも似た蹴り技が炸裂し、続いて正拳突き。
空気を相手に仇討ちを繰り広げては七転八倒。
近所迷惑この上なく、両親が長期の海外出張に赴いている事を感謝すべきだったろう。
だが起き抜けにそんな事をしていれば、息が切れてしまうのは自明の理であった。
さらに自分のベッドからむくりと起き上がった小さな影が、カズキを現実へと引き戻した。
何故か聖祥大付属小学校の制服姿のまま、同じベッドにいたまひろである。
「むー、お兄ちゃんうるさい……」
「あ、悪いまひろ。待ってろ、もう直ぐ俺が俺の仇を……誰が誰の仇?」
はっと我に返ったカズキは、自分が寝ぼけて暴れていた事を悟った。
自分の仇などいない、全くの夢の中での出来事。
なんだそうかとほっとしたのも束の間。
目元をこしこしと擦っていたまひろが、その瞳を大きく開いてカズキを見つめていた。
俺が何かしたかとうろたえる間もなく、まひろがふにゃりと顔を崩す。
その瞳には次第に涙が溜まり始め、決壊は直ぐそこであった。
「びぃぃぃぃぃぃ、お兄じゃん。何処行ってだの!」
先程暴れていたカズキの騒音よりも酷い、大泣きであった。
慌てたカズキが要領を得ぬまままひろを抱き上げ、その背中をぽんぽんと叩く。
「どうした、まひろ。何処ってここだ。俺はここだぞ!」
「だっれ、いらかったもん。お腹ずいでも、全れん帰ってこらくれ」
「帰って……来なかった?」
そもそも、自分は今日どのようにして家に帰ったのだろうか。
特性明太パスタの為にスーパーへと急ぎ、その後の記憶が曖昧であった。
何時家に帰り、何時ベッドに入り込んだかも覚えていない。
さらに着替えもされておらず、まひろ共々制服に皺が出来てしまっている。
色々と疑問は残るものの、今は寂しかったであろうまひろを必死にあやしていく。
事実がどうであれ、まひろがそう言うには自分が帰って来なかったのだろう。
俺はここだと知らせる為に、抱き上げたまひろを抱きしめ、頬を重ね合わせた。
全身で己の存在が今ここにあると伝え、心細かったであろう気持ちを慰める。
まひろも泣きながら必死にカズキに抱きつき、逃がさないとばかりに掴まっていた。
きっと、お腹が空いたままカズキを探して探して。
ベッドの上にカズキの姿を見つけ、安心してそのまま一緒に寝てしまったのだろう。
「ひぐ、うぅ……お兄ちゃん、ちゃんといる」
「よーし、よし。ごめんな、まひろ。明日こそ、特性明太パスタを食べさせてやるからな」
「本当!?」
「ああ、俺は嘘はつかない。約束だ!」
特性明太パスタと聞いて一転、まひろが涙で濡れた瞳を輝かせ始める。
カズキもまひろを抱き上げたまま、小指を絡め指きりげんまんと二人で歌いだす。
指切ったと言ったところで、まひろの機嫌も表面上は直ったようだ。
ただまだ心の底では寂しいようで、ぎゅっとカズキに抱きついたままであった。
そのまひろが、カズキの体をよじ登るようにし、不思議そうに尋ねてきた。
「お兄ちゃん、制服のここ破れてるよ? あ、シャツも」
「え?」
必死に抱きついていたまひろだから、気付いたのだろう。
片腕を背中に回してみると、肌触りの荒い部分があり、そこを越えると直ぐに肌であった。
ピッタリフィットではなく、本当に肌が露出している。
そして今気付いたが、シャツの胸部分裏と表で同じ場所にも同じような穴が。
「え、え!?」
いやいや、そんなまさかと思いつつもあの恐怖を思い出してブルブルガタガタ震え出す。
「お兄ちゃん? 怖いの怖いの飛んでけぇー」
アレは夢だと心で繰り返すカズキを、今度はまひろが何か察したように慰め始めていた。
その様子を、遥か遠方から窓を通して眺めている一人の女性がいる事に二人は気付いていない。
「どうやら、暴走とやらの兆候はなしか。ならば、常に張り付いて見守る必要もない。後はシャマルにでも、時折監視してもらうか」
もちろん、彼女のそんな呟きも遠く離れたカズキに届くはずもなかった。
そこはいつものバス停、それも特に騒がしい時間のアレである。
普段通りの時間に着いたなのはは、毎朝見かける顔ぶれが列を作る光景を前にし小首をかしげる事になった。
本当ならば直ぐにでも挨拶すべきなのだが、意外すぎる二人に言葉が直ぐに出てこない。
バスが来る前に、カズキとまひろが列にちゃんと並んでいたのだ。
もう少し正確に言うならば、まひろはカズキに抱え上げられギュッと抱きついていた。
「「おはよう、なのはちゃん」」
重なる兄妹の声に、慌ててなのはも挨拶を返す。
少しまひろの声が沈んでいるように聞こえ、何かあったのかと思う。
「おはようございます、カズキさん。まひろちゃん、どうしたんですか?」
「ああ、ちょっとね。怖い夢を……」
「あ、そうなんですか」
カズキの言葉を途中まで聞き、なのはは凄いと思った。
素直に怖いものは怖いと、家族に甘えられるまひろがである。
自分の場合はきっと我慢してしまう、迷惑をかけたくないから。
一人で布団の中で震えて、まひろが少し羨ましいと思った所で、続けられた言葉に耳を疑う。
「俺が見て」
「カズキさんが見たんですか!? え、じゃあ甘えてるのは……でも、どうみてまひろちゃんで。あれ、え?」
「詳しい事は、皆が来てから話すよ」
その余りにも真面目な顔と声に、なのははそれ以上今は聞けなかった。
まひろが、さらに強くカズキに抱きつき、決して離さないようにしていた事もある。
数分後にはバスが到着し、少し時間をオーバーして停車。
昨日の朝の風景を焼き回したように、岡倉達三人が駆け込んでくる。
なのはやアリサ、すずかと同じように武藤兄妹が先にいる事に一応に驚いていた。
そしてやはり、バスの最後尾の座席にて待っていたアリサとすずかに合流し、まひろを座らせようとするが失敗。
駄々をこねるように拒否をしたまひろを抱えなおす。
「痛いは怖いはで最悪の夢。おまけになんか凄くハッキリ覚えているし」
仕方なく、そのままでカズキが話し始めた。
「公園の散歩道?」
「それって昨日、私達が通った道じゃない。近道だから」
「うん、そこでフェレットさんを」
疑問符を浮かべたなのはに続き、アリサがあそこねと呟いた。
ただすずかの言葉は、横道にそれそうだったので誰も深くは追求しなかった。
「そう。そこに俺より先に歩いていた女の人がいて、得体の知れない怪物に襲われそうになったところを助けて……」
得体の知れない怪物というキーワードに、誰もがそりゃ確かに夢だと思っていた。
アリサやすずかは、理解不能という顔をしているが、岡倉達は覚えがあるという顔である。
得体の知れない化け物から女性を救う、何処にでもあるヒーロー願望だ。
ただ一人、なのはだけはどちらとも異なる反応を示していたが、誰もそれには気付いてはいなかった。
「代わりに殺されちったん」
「「倒すんじゃないんだ!」」
「それは斬新だな」
突っ込んだのは岡倉と大浜で、やるなカズキとばかりに六桝が眼鏡を指で押し上げた。
「なによそれ、変な夢なのは認めるけどって。あ、やばい」
アリサが指差した先を見て、誰もがカズキの失言の結果を目の当たりにしていた。
それはカズキの腕の中にいるまひろであり、そのまひろの顔であった。
可愛らしい顔をくちゃくちゃに歪めてしまい、一度火が付けば爆発するように泣き出しそうだ。
昨晩に、泣きながらカズキを探し回ったばかりである。
たった一人の頼れる兄が、しかも本人の口から殺されたと聞かされては、火が付くのは間もなくであった。
「悪い、まひろ。泣くな、死んでない。俺は生きてる」
「ふ、ふぇ」
「そうだぜ、まひろちゃん。カズキは殺したって死ぬような奴かよ」
元気付けようとしたのだろうが、岡倉の慰めは幼いまひろには理解しがたいものだったのだろう。
「びぃ」
今正に、岡倉の言葉が火花となって、まひろという火薬庫に飛び火する。
「まひろちゃん!」
本当にその刹那、珍しい事に普段は大人しいすずかが声を大きくしてその名を呼んだ。
「私のお昼のお弁当の、タコさんウィンナーあげる!」
「ひくっ」
「そう、そうよ。私はえっと……何入ってるのか分からないけど、好きなおかず一個あげる。だから、泣くんじゃないわよ!」
「なのはも、お母さん特性の卵焼きあげる!」
畳み掛けるようにアリサ、なのはが貢物を進呈する。
「大丈夫、大丈夫だぞまひろ」
最後の駄目押しとして、カズキが優しく宥めるとやっとまひろがひへらと笑った。
だがこのままでは、まひろはカズキから離れて小学校へいけるのか。
その笑顔を見つめながら、カズキはまひろの小さな体を座席に座らせた。
そのままそっと手を離そうとすると、再び瞳に涙が浮かぶ。
「ほら、何時までもぐずぐずしてんじゃないの。泣いたら、さっきの約束はなしよ。本当、ほっとけない子ね、アンタは」
「今にも涙が零れ落ちそう。はい、これで拭いて、もう泣かないもんね。まひろちゃんは強い子だもん」
「へへー、アリサちゃんもすずかちゃんも大好き」
「ああ、アリサちゃんもすずかちゃんもずるい。私も、私もえっと、よしよし」
三人が懸命にまひろをあやし、ようやく落ち着き始めたようだ。
まひろが満面の笑みと共に抱きつき、きゃあきゃあとはしゃぎ始めていた。
その様子を見てカズキ達もこれで一安心と冷や汗をぬぐった。
「で、お前が怖い夢をみただけじゃ、まひろちゃんのあの様子は説明がつかないな」
「ああ……いや、なんでもない。怖い夢を見た、それで終わり」
「良く分からないけど、まひろちゃんを泣かせてまで続ける話じゃなさそうだね。冬服じゃなくて、夏服なのも聞かないでおくよ」
六桝からは鋭い指摘を受けたが、大浜の言う通り続けるべきじゃない。
怖い夢の内容通り、破れてしまっていた制服。
例え夢と一致する証拠があろうと、この世界に化け物などいるはずがない。
きっと、知らないうちに転んで夢と同じ場所を破いただけ。
学校指定の鞄も失くしていたが、きっと散歩道で転んで余程混乱していたのだろう。
高校生にもなって情けなくは感じるが、きっとそうだと思いたい。
「考えるより先に体が動く性分だけど、それでまひろが泣いたらなんの意味もない」
アレは夢の中での出来事、それで良い、それで良いのだ。
「それにあんなに痛いのも、怖いのもまっぴらだ」
これで本当に終わりとばかりに、カズキは自分の顔を両手でぴしゃりと叩いた。
そこからは、何時も通りの馬鹿話。
主にカズキ達がおどけて笑って、アリサ達が突っ込み笑う。
その中でなのはだけは、表面上は笑いながらも心の中で呟き、ここにはいない誰かに話しかけていた。
『ねえ、ユーノ君。ジュエルシード、昨日発動したのはアレだけなんだよね?』
『絶対とは言えないけど、アレだけのはずだよ。他に発動したジュエルシードを感じなかったし。どうしたの、突然?』
『ううん、なんでもない。ただの夢、カズキさんの言う通りそれでお終い』
覚えたばかりの魔法、念話を用いて一匹のフェレットと短い会話を終えた。
間が悪いとは、こういう時に使う言葉なのだろう。
カズキは本日、掃除当番であったのだ。
つまりは自然と帰りが遅くなってしまい、今正に帰宅の途中であった。
しかも作ると約束した特性明太パスタの為には、スーパーへと寄るのは必須である。
さすがにまたまひろを心配させるわけにはと、先にメールを打っておかなければならない。
心配するなと、直ぐに帰るからと。
なのは達のおかげで元気を取り戻したといっても、昨日の今日である。
メールを打ちながら歩いて昨日の公園へと差し掛かり、送信ボタンを押して完了。
「これでよし、それでも急がないとな」
さあ走ろうとした所で気付く、数メートル先に散歩道の入り口がある事に。
それを見た途端、頭の片隅で夢の内容が思い出され、体の底から震えが染み出してくる。
走り出そうとすれば、一歩目で転んでしまうのではと思う程に。
「いや夢、そう決めたんだ。さあ、早く帰ってまひろの相手をしないと」
慎重に一歩目を踏み出し、二歩目からは軽快にとんとんとんと跳ねるように走る。
そのまま散歩道の入り口を尻目に通り過ぎ、一度空を見上げてからふうっと息を吐く。
ほっと胸を撫で下ろすように息は下に向けて吐き、その視線の先にどさりと何かが落ちた。
驚き、一歩飛びのいたが長方形のそれは学校指定の鞄であった。
それもカズキが失くしたとばかり思っていたそれである。
「俺の鞄、なんで急に?」
鞄を拾い上げ、顔を上げると少し先に一人の男がいた。
歳の頃は三十前後、センター分けの髪が少し外に跳ねたスーツ姿の男である。
どうやら彼が鞄を放り投げたようだが、何処で拾ったのだろうか。
そもそも、何故それがカズキの物だと知っているのか。
「その鞄は貴様の物か」
カズキの言葉を聞いて、男まるで蛇のような鋭い眼光を向けてきた。
その男に見覚えはなく、何処かで会った事があるわけではない。
なのに睨まれた瞬間、ザワリと嫌悪感のようなものが背筋を駆け上がった。
「それは昨夜、私の使命を邪魔した輩が落とした物」
カズキへと向けて男は歩き出し、何か奇妙な音を立て続けていた。
パキパキと、何かが割れるような音。
割れていたのは、男の肌、のみならずスーツやその他と男を構成する全ての物であった。
ひび割れその下にある何かが顔を出そうとしているようにも見えた。
街灯がもたらす明かりだけでは分かりにくいが、金属質の銀色が見え始めている。
「貴様がそうか。あの場の近くにあったジュエルシードを何処へやった?」
男が近付くにつれ、警告を鳴らすようにカズキの心臓が脈動する。
その脈動に反応するようにXLLの文字が胸に浮かび上がっている事をカズキは知らない。
「なんだろ。心臓がすげェ、痛いや」
「喋る気はなしか。昨夜に心臓を串刺して殺したはずだが」
お互いに会話がかみ合わないまま、一方は距離を詰め、一方は距離をとるように後ずさる。
「そっか、これも昨日と同じ夢なんだ。じゃなきゃ俺今、生きているはずがないし」
「それでも生きているなら今度こそ。確実に殺す!」
人の形に限界が来たように、男の姿が瞬く間に変わり始める。
腕も足もなくして、大きく長く、えらまでもが生まれ、巨大な金属製の蛇と化す。
その姿は、カズキが夢の中で見た大蛇と完全に一致していた。
彼がまだ人の姿を保っていた時に、なんと言ったか。
何を串刺しにして、何をしたと。
「う、わああああああッ!」
全てを理解するより先に、カズキは走り出していた。
帰り道を逆走するように、そして本能の赴くままに直角に曲がり飛びこんだ。
その直後、カズキがいたはずの場所へと、大蛇は頭から突っ込み喰らい付いた。
ごろりと体を回転させて振り返った先で、大蛇が食い千切った大地を丸飲みにしている。
すぐさま立ち上がったカズキは、丸飲みに失敗し、怒り狂う大蛇の声を背に受けながら走りだした。
咄嗟に飛び込んだのが、件の散歩道であろうと構っている暇はなかった。
(夢じゃない。夢なんかじゃなかった! じゃあ、あの男が言った事は!?)
混乱しながらも思考停止だけはせず、必死に逃げるカズキの頭に直接誰かの声が響いた。
『三分で行く。それまで持たせろ』
ほぼ暗闇に等しい中での突然の声に、足をもつれさせ転んでしまう。
だが生きる為にと、間髪入れず立ち上がりまた走り出す。
『君は一体、それよりアレは何なんだ!? 俺は一体、どうなってるんだ!』
自らの混乱をぶつける相手を得て、ほんの少しだけカズキに冷静さが戻る。
それが良かったのか、悪かったのか。
この危機に誰かが気づいていると言う安心感、それに反する冷静な思考力。
プラスとマイナスで減らしあいながらも、ふっとさらに闇が深くなった事に気付く。
「うわあッ!」
再び、大蛇に頭上から襲撃を受け、かろうじてその餌食になる事を避ける。
『私もまだ全てを把握しているわけではないが、アレは敵だ。私達やお前の平穏を乱す敵だ!』
『単純明快、分かりやすい。けど無理、怖い。すっごい怖い!』
『今は逃げ続ける事だけを考えろ。ただし、できるだけ他に人を巻き込まないようにしろ。昨晩のお前のようになるぞ』
『分かった。幸い誰も来ないような場所だし、なんとしても逃げきる』
緊急時は、出来るだけ単純な言葉の方が従いやすい。
この瞬間だけは、単純な命令をされたロボットのように、逃げる事だけを考える。
「シャィアアアアッ!」
二度も獲物を逃した大蛇が、さらに怒り、威嚇の声をあげてその声が肌を裂くように震わせても。
今はできるだけ恐怖に気付かない振りをして、逃げるという命令だけをこなす。
そうすれば余計な事を考えなくて済む。
もしここで捕まるような事になればどうなるのか、そもそも昨晩本当は何があったのか。
逃げる事だけを考えて、木々や茂みが鬱蒼とした散歩道を駆け抜けていく。
そして前方に見えてきた邪魔な大木を避けようとして、カズキは逃げるという命令をみずから拒否して立ち止まった。
どうしてここに、何故今と目の前に現れた小さな影に問いかける。
「まひろ、どうしてここに」
「びっくりしたぁ。お兄ちゃん、迎えにきたよ。まひろもお買い物、手伝うよ!」
両手を上げて普段の笑顔で良い子をアピールするまひろ。
よりにもよって、そのまひろを巻き込んだ。
いや、まだ大蛇はまひろの存在に気付いていないかもしれない。
だがさすがにまひろを抱えて逃げ切れるとは思えないし、まひろ本人に走って貰うなんてなおさら無理だ。
背後より聞こえた大蛇の叫びを耳にして、決断した。
考えるより先に体が動く性分で、それでまひろが泣いては意味がない。
それでも、まひろが泣く事もできないような事になるよりは、何百倍もマシだ。
まひろを置き去りにするように、逃げてきた道へと反転して駆け出す。
「逃げろ、まひろ。俺がなんとか足止めをする!」
「え、お兄ちゃん何処行くの? 一緒にお買いも」
カズキの焦りが理解出来るわけもなく、付いて来ようとしたまひろの足元がぼこりとふくれあがる。
そこからは全て、一瞬の出来事であった。
「ふえ?」
状況がまるで分からず、理解できないと言葉にならない疑問を浮かべるまひろの声。
その声ごと包み込むように地面の下から伸びたのは、大蛇の顎であった。
小さなまひろをその顎で、バクンと包み込む。
続いて聞こえたのは、ゴクリと何かを飲み込んでいく音である。
それら全てを、カズキは背中越しに聞いていた。
「空腹のまま、この形態で動くのは少々堪える」
ただただ聞くだけで、カズキは身動き一つ見せなかった。
まるで、内に秘めた怒りを爆発させる切欠を求めているかのように。
「昨夜、尾を斬り飛ばされた分の補充はこれで十分」
まひろを飲み込んだ理由がそんな事かと、カズキはついにそれを爆発させた。
「うおおおおおお」
零れ落ちる涙を振り払いながら、唯一の武器である拳を振り上げる。
向ける先は、大蛇の口から伸びていた舌、その先にある男の顔であった。
「返せ!」
殴りぬけ、硬質な感触に逆に拳を痛め、破れた皮膚の下から出血しても殴るのを止めない。
「まひろは関係ないだろ。返せ、返せ返せ返せ返せ!」
殴っても殴っても微動だにしない顔を、殴り続ける。
それで痛みを覚えるのは自分だけであったとしても、まひろを取り返そうと必死に。
だが現実は、あまりにも無情であった。
「調子に乗るな。無駄だ!」
カズキが十数発は拳を打ち込んだのに相手はものともせず。
逆に大蛇の尾の一振りで、カズキは体ごと薙ぎ払われ吹き飛ばされてしまった。
そのまま後方にあった大木に背中から叩きつけられ、木の幹を滑り落ちていく。
ぶつけた時に切ったのか、頭部からは血が流れ落ち、体の各所が痛い。
たった一振りで、この様であったが、カズキは大蛇を睨むのを止めなかった。
「錬金術によって造られたこの体は、同じ錬金術かそれに相当する他の力以外は受け付けない」
錬金術とは何か、それに相当する力とは何か。
分からない、それが何であるか全く分からないが、もしそんな物があるとしたら。
「力が、欲しい……」
願い欲したカズキの言葉に反応するように、今再び心臓が脈動する。
これまでよりも強く、さらに大きく。
それに促されるように、カズキは木の幹に手をつき、足に力を入れて立ち上がる。
乱れた呼吸をするだけで全身が痛くても、まだ自分は何一つできていないのだから。
昨晩に失った自分の命、そしてたった今失ったまひろの命、その奪還を。
「諦めの悪い。お前の命は昨夜、既に尽きているはずなんだ。ジュエルシードを差し出すか、さもなくば先程の少女と仲良く喰われろ」
最後通牒を前にしても、カズキは揺るがない。
奪われたものを取り返す、それだけを決意し、吼える。
「喰いたきゃ喰え、ただしまひろは返してもらう!」
そうカズキが高らかに声を上げた瞬間、その姿は消えた。
瞬きの間もない一瞬で、まひろと同じように大蛇の口の中へと。
飲み込まれていった。
「世迷い言に付き合う暇はない。貴様はもう、大人しく死んでろ。ジュエルシードの行方は、残る昨夜の女性ッ!?」
目の前の全てを平らげ、次なる標的を大蛇が定めたその時、大蛇の体が不自然に震えた。
その震源は、大蛇の体内。
たった今、飲み込んだカズキが送られた先であった。
「な、なんだ?」
正体不明の違和感、異物感に苦しみ身悶える。
「これは一体!?」
その正体は、のた打ち回る大蛇の頭部より現れた。
カズキの拳では傷一つ付けられなかった外皮を、竜が内側から食い破った。
いや竜に見えたのは、大蛇の牙よりも大きく鋭利な刃。
刃に浮かぶ幾何学模様と、刃の片側に浮かぶ青い宝石が瞳に見えたのだ。
「ぎゃああッ!」
大蛇の頭部より刃が飛び出し、それに連なる柄をカズキがしっかり掴んでいた。
片腕に気を失っているまひろを抱えながら、共に飛び出してくる。
刃の本来の姿は突撃槍、それに打ち上げられるように二人は大蛇の腹の中より生還を果たしていた。
「まひろと俺の命、返してもらうぞ」
「Sonnenlicht Slasher」
刃の瞳部分が明暗を繰り返しては、電子音のような物を発する。
すると突撃槍は柄の後部にある飾り尾から爆光を生み出し、さらに二人を打ち上げた。
のみならず、生み出したサンライトイエローの爆光により、大蛇を破壊していく。
まるでそれこそが、大蛇自身が言った錬金術かそれに相当する力であるかのように。
だが頭部を半壊されてもまだ、大蛇はその意識をはっきりと持っていた。
「まさかそれはアームドデバイス、何故貴様がそんな物を!」
獲物ではなく、己を滅する力を持った敵と認識してカズキに襲いかかろうとする。
そのカズキは、自分が手にした力の正体も分かってはいない。
宙に打ち上げられたまま、まひろを庇うので精一杯であった。
一矢報いたものの今度こそやられる。
「突撃槍のデバイスか。何故そんなものをとは、私も思うが……考えなしで飛び出すお前らしい、似合いの代物だ」
今にもちくしょうと呟きそうなカズキを守るように、宙で立ちふさがる者がいた。
約束の三分はとうに過ぎていたが、動き回ったカズキにも非は多少ある事だろう。
「レヴァンティン!」
「Explosion. Schlangeform」
紫色の炎が刀身より燃え上がり、木々により閉ざされた暗闇の中を照らし出す。
「蛇には蛇を、だが私の蛇は少々気性が荒いぞ!」
現れた女性、シグナムが剣を振るうと刀身に等間隔のひびが入る。
ひびを中心に幾重にも刀身が分かれ、それぞれ一本のワイヤーのような物で繋がっていた。
刃の鞭、連結刃をシグナムが振るうと、言葉通り蛇のようにうねりながら標的を目指していった。
カズキへと向けて襲いかかろうとしていた大蛇を、瞬く間に縛り上げ、切り刻んでいく。
完全に身動きを封じたところで、最後の一押し。
手元に残った唯一の部分、剣の柄をシグナムが渾身の力で引くと大蛇の体は細切れに砕け散っていった。
「この力、小僧の非では……貴様一体」
「答える必要はない」
粉々になりながらも、しぶとく呟く男の顔を剣に戻したレヴァンティンで貫く。
「尋常ではない生命力、なのに魔力を感じない。だが……」
「あの、貴方は」
「悠長に話すつもりらしいが、君は飛べるのか?」
「ふおお、高え!」
シグナムに指摘され、下を見たカズキは宙に浮かぶ己の状態を再認識したようだ。
取り乱し、まひろを強く懐に抱きかかえるもそれ以上は何もできない。
まひろだけは死守だと、身を固めたところで全身を包んでいた浮遊感が途切れた。
「騎士になりたてでは、やはり飛べないか」
「重ね重ね、ありがとう」
シグナムに首根っこを捕まれ、穏やかに下ろされる。
それから一先ず、大蛇の死を最優先で確認する事になった。
金属のような肉体を持つ大蛇は、死後はその体を保てないようで砂と煙の二つに別れ消えていく。
完全にその姿が消え去った所で、シグナムとまひろを抱えたカズキは向かい合う。
微妙な警戒心を向けるシグナムを前に、カズキが先に口火を切った。
「俺、思い出したよ。下校の途中でこの道を通って、こいつに貴方が喰われそうになってて」
一番最初の恐怖から目をそらさず、封じた記憶の底から掘り起こす。
「思わず助けようとして飛び込んで、貴方の尊い犠牲になった」
「厳密には違うな。確かに不意は突かれたが、それだけで遅れをとる私ではない。先程見ただろう、私の騎士としての腕前は」
「ウソん」
「自分の瞳で見た事実をまだ否定するか?」
尊い犠牲に重ねられて説明され、それでも尋ねて見たが逆に指摘されてしまう。
「要らないお節介で死んじゃったのか、俺。うわぁ、へっぽこ過ぎ」
「少し、その突撃槍を良いか?」
「え、うん。なんだろこれ。心臓から出てきた宝石が、これになったんだけど」
自分の武器をあっさり手渡され、逆にシグナムの方が驚いていた。
そして改めてそのアームドデバイスを観察し、気付く。
刃の幾何学模様の中にある瞳のような宝玉、コアの部分に浮き上がる文字に。
アラビア文字のXLL、七十番。
それはカズキの心臓代わりとなっているであろうジュエルシードのシリアル番号である。
つまりカズキは元々ベルカの騎士だったわけでなく、死んで生き返った後にベルカの騎士になったという事だ。
自分の力を偽り、シグナムに近付いたわけではなさそうだ。
「すまない、お前の事を少し疑っていた。これは私のせいでもある」
「貴方の?」
「それを話す前に、一度この場を離れるぞ。結界も張らずに無茶をしたし、その子の事もある」
腕の中のまひろの事を案じられ、悪い人では無さそうだとカズキは素直に頷いた。
-後書き-
ども、えなりんです。
ここまでほぼ原作通りです。
ちゃんと混ざって来るのは次回からですよ。
カズキが敬語チックなのは、シグナムが明らかに高校生より上だから。
ガッチガチではなく、中途半端に敬語みたいな。
前回お茶を濁しましたが、原作との相違点をちょろっと書きます。
・闇の書は一年早く起動
・なのは達三人娘が仲良くなる切欠
・カズキ達錬金側は寮ではなく実家
(カズキとまひろは二人暮らしで、両親は海外設定)
他にもありますが、大筋はこんなところ。
さて次回はなのは側のお話で、ホムンクルスとぶつかります。
水曜をお待ちください。