巻の45 青桐カイエ風嵐忍法帖の事
「げほぉっ、がほぉっ……!」
肺の中まで侵入した水を彼は必死に咳き込む。
水気の無かった内陸地で溺死しそうになるという特異な経験を乗り越え、青桐カイエは何とか生き延びた。
(……我ながら、良く生きてるなぁ……)
幸いな事に痛覚が麻痺しているので今は何とも無いが、体内門を六門まで開き、限界の一つや二つ軽く超越して打ち放った左拳の骨は完全に砕け、腕は本来曲がらない方向に曲がっている。
そしてあの馬鹿力で左肩を圧壊され、左上半身は欠片も動かせないし、酷く出血している。
更にはあの一瞬の攻防で六門まで開いたチャクラを根刮ぎ奪い取られ、もはや生命活動に支障が出るぐらいの重傷である。
(……でも、まぁ、五影級の敵を討ち取った代償なら、軽い方か)
凡人を自称する青桐カイエにとっては、自他共に認める前代未聞の快挙と言った処だろう。
干柿鬼鮫の死体は何処に行ったか解らないが、経絡系が密集している心臓を穿ち抜いたからには生存は在り得ない。――不死身の化け物も、頭部か心臓を穿ちさえすれば、呆気無く死んでくれるのがセオリーだ。
ルイ達の話では、"暁"の中には心臓をぶち抜いても死なないトンデモ人外が何人かいるらしいが、干柿鬼鮫はそうでは無かった筈だ。
(……とと、このままじゃ、結局死ぬな)
とりあえず応急処置をしなければまともに動けないし、このまま楽に死ねる。
カイエは覚束無い手つきで自身の上着のポーチを開き、ルイ印の兵糧丸と増血丸を自身の口の中に放り込む。
劇的に不味いが、良薬口に苦しとも言うし、効果は折り紙付きだ。
「簡単に死なれたら困りますから」と、わざわざ定期的に作って渡してくれた、相変わらず素直じゃないルイに感謝せねばなるまい。……ツンデレっぽく言ってくれって頼んで蹴られたのは良い思い出である。
(……良し。これで暫くは出血死しない。次は、行動に支障が出る左腕か。うわぁ、嫌だな絶対痛いぞあれ)
物理的な意味で血の気が失せた顔が更に青褪める。
カイエは嫌々手頃な太さの木の枝を探し出し、歯が砕けぬよう轡代わりに口にかます。
右手で左手首を掴み――意を決して、間違った方向に曲がった左腕を元の方向に戻した。
「~~~~~~~~~~~~~~ッッッッ!?」
カイエは声にならない悲鳴を上げる。麻痺していた痛覚が突如蘇り、死に勝る激痛が全身を駆け巡った。
暫くの時間、痛みでのたうち回り、苦しみ悶える事しか出来なかった。
若干痛みが和らいでから、轡代わりの木を今度は添え木として、いつも腰元に巻いてある木ノ葉の額当ての布を使い、右肩に巻いて固定していく。
珍しく木ノ葉の額当てが役に立った、というのがカイエの素直な感想であるが、皮肉な事に、相変わらず本来の用途には使われていなかった。
(……これで、少しは動けるように――)
「――おや。少々、待たせてしまったようですね」
嫌味なほどの慇懃な口調で、大刀"鮫肌"を担いだ霧隠れの怪人は再び青桐カイエの前に立ち塞がった。
「――っ、この正真正銘の人外め。心臓がもう一個でもっ、ありやがったかぁ……!?」
「いえいえ、流石の私も一瞬逝きかけましたよ。――逆に私が此処まで削られたのは、初めての経験ですよ」
その連呼した『初めて』という語句が酷くおかしかったのか、「今日は初めて尽くしですねェ」と鬼鮫は嬉しげに、絶対的な死を告げるが如く凶悪に笑った。
(……半魚人化は解けてるようだが、こっちと違って全然余裕じゃねぇか……!)
自分の左腕と同じぐらい御釈迦になった腕は何事も無かったかの如く元通りで、穿ち貫いた筈の心臓部分は綺麗に完治しており、口からの乾いた出血だけが先程の余韻だった。
呆れるほどのチートっぷりに、相応しい恨み言が全く考えつかない。何もかも理不尽だった。
(――ははっ、たくよぉ……)
――余りにも絶望的過ぎて、青桐カイエは簡単に諦められた。
心の何処かで、自分はまだ甘えていたのかもしれない。まだ生き残れるかもしれない、と。そんな的外れな夢想を、まだしていた。
「さて、名残惜しいですが終わりにしましょうか」
生物が如く脈動し、棘々の刀身の穂先に異形の口を持つ大刀"鮫肌"を、干柿鬼鮫は柄を両手で掴み、真正面に構える。
カイエもまた立ち上がり、姿勢を低く構える。
互いに必殺の機会を窺いながら静止する様は、さながら西部劇での決闘であり――何があろうが、次の一撃で一切合切終わる。
余力を残して死ぬつもりなど欠片も無い。まだ体内門は七の門・驚門と――終の門・死門が残っている。
全部開いて初めて"八門遁甲の陣"と呼ばれ、自らの死を代償に少しの時間だけ火影を上回る力を振るえるようになる。
だが、相手はその火影を凌駕しかねない怪物、一体どれほど食らいつけるか――否、意地でも相討ちにせねばなるまい。
――世界が崩壊しそうな殺人的な緊張感と、自分の存在を見失いそうなぐらい絶対的な静寂と、瀕死の身体でも五月蝿く鼓動する心臓の音――鬼鮫とカイエは、この不協和音の調和が崩れる一瞬を待ち侘びていた。
「――ぅぅぅううぉおおおおおおおおおおおおおっっ!」
不完全な世界の調和が崩れ、最後の火蓋は切って落とされなかった。
それを破ったのは、他ならぬ、いなかった筈の第三者の声だったからだ。
「「!?」」
その第三者は鬼鮫が反応出来ぬ速度で豪快に蹴り飛ばし、カイエの前に割って入る。
――木ノ葉剛力旋風。此処まで卓越した業を繰り出せる人物など、木ノ葉広しと言えども一人しかいまい。
「ッ、何者です!?」
青桐カイエと比べても、一段と上回る体術の使い手――流石は五大国最強の忍里、粒が揃っていると干柿鬼鮫は素直に賞賛した。
「木ノ葉の気高き碧い猛獣、マイト・ガイ!」
そして鬼鮫は即座に後悔する。
オカッパのゲジ眉に奇妙な全身タイツを着用する珍獣の姿に、干柿鬼鮫は呆れると同時に、この至高の決着を邪魔された怒りがふつふつ湧き出る。
(丁度良い。削られたチャクラをこれから補給しますか)
敵が幾ら増えようが、この"鮫肌"でチャクラを削れば何も問題無い。
青桐カイエに削りに削られたチャクラをこの濃い人物から補給しようとした時、鬼鮫の肩に一羽の鴉が忽然と留まる。
「む――?」
鬼鮫が不審に思い、咄嗟に振り払おうとした刹那、その鴉の瞳が特有な模様である事に気づく。
それは良く見慣れた、鮮血より色鮮やかな真紅であり、特徴的な三つ巴の紋様が入っていた。
一気に思考が冷め、鬼鮫は溜息一つ付いた。
「……少しはしゃぎ過ぎたようですね。邪魔者も入りましたし、この続きは又の機会にしましょう。――次は、是非とも名乗って欲しいものですね」
心底名残惜しそうにカイエに語りかけ、干柿鬼鮫は即座に撤退する。
ガイは鬼鮫を敢えて追わず、唯一人で足止めしようとした親友の下に迷う事無く駆け付けた。
……やや遅れて、ナルト、恐らくはルイが攫われた事を知らせに行った影分身が息切れしながら追いつく。
「カイエ大丈夫か!?」
「オレの事は、どうでもいい……! 何でこっちに来やがったガイッ……!」
助かったという安堵など何処にも無く、カイエは心底からそう叫んだ。
ガイとカカシ、二人がかりならばうちはイタチにだって勝機がある。だからこそ、一人でも欠けたら意味が無い。
特にカカシの場合、その高い実力故に万華鏡写輪眼を出し惜しみせずに使われるだろう。今回の鬼鮫の事といい、中途半端に強いとロクな事にならない。
「イタチにはカカシと暗部の者が二人向かっている。オレも今から駆け付ける。カイエはナルトの影分身と一緒に医療班の処へ――」
「そんな悠長な暇あるかっ! ナルト、さっさと案内しろ!」
カイエは怪我をおして立ち上がり、鬼気迫る表情で影分身のナルトに恫喝する。
「なっ、その怪我と消耗では無茶だぞ!?」
「んな事は先刻承知だ! 今のオレでもイタチのチャクラを消耗させるぐらいやれる……!」
「この馬鹿野郎っ! 今そんな状態で行けば確実に死ぬぞっ!?」
「教え子を失うぐらいなら死んだ方がマシだッ!」
頭に血が昇って飛び出したカイエの言葉に、ガイは重苦しく沈黙する。
互いに視線を逸らさず、カイエの乱れた呼吸音だけが場に重く響く。時間と共に、徐々に冷静になったカイエはしまったと猛烈に後悔した。
「……すまない。またオレは――」
「言うな。お前の気持ちは、痛いほど解る……」
――大切な者を失った痛みは耐え難く、青桐カイエは過去に二度、絶望のどん底まで沈んだ。
一度目は担当上忍と班員二人を失い、一人だけ生き延び、二度目は九尾襲来で悪友と想い人を失い、また一人だけ生き延びた。
周囲の者は良くぞ生き残ったと賞賛する。されどもカイエは『何故自分一人だけ生き残ってしまったのか』と未来永劫後悔し続けたのだ。
その当時のカイエは、見るに耐えなかった。ガイ自身も、親友一人すら立ち直らせる事の出来ない自分自身の無力さを何度も痛感し、己の不甲斐無さを何度も呪った。
「……また、死に損なったな。はは、格好良く死ねないもんだ……」
カイエは項垂れながら自嘲し、ガイは内心打ち震える。
今のこの言葉は強がりでも虚勢でも何でもない、彼の掛け値無しの本音だからだ。
(……カイエ、やはりお前はまだ――)
九尾の一件以来、青桐カイエは暗部に潜り、危険度の高い任務を優先的に、休む間無くこなし続けた。
その様は生き急ぐというよりも、死に急ぐという言葉が相応しい、自暴自棄の暴挙だった。
九尾の襲来によって壊滅状態に陥った木ノ葉隠れの里を立て直す為に、ほぼ全ての忍に殺人的な任務を強要した任務斡旋の担当者さえ、彼だけには無理矢理休暇を取らせるほどだった。
(……それなのにお前は自分から"根"からの暗殺任務に従事しやがって――)
カイエは誰よりも――自分が許せなかったのだろう。
唯一人生き延びた自分自身を許容出来ず、だからこそ誰よりも苛烈で壮絶な死に様を望んだのだ。
その在り方は悲しく、何よりも――親友として我慢ならなかった。
「カイエ。お前は――生きて良いんだ。いや、生きなければならない……!」
カイエは両目を見開いて驚く。
誰よりも過酷な死に様を望む彼に、その真逆の事を言う大馬鹿者がいるとは思いもしなかった。
「先に亡くなった者達の為にも、彼等がやりたくて出来なかった事を生きているオレ達がやらねばならん。それが、残された者の務めだ……!」
「……後に、しろ。今は時間が、無い」
「いいや、今だからこそだ! 確かに死すべき場面は存在する。だがその務めを忘れ、放棄して死ぬのはただの一方的な押し付けだ」
「……それ以上は、お前でも許さんぞ……!」
自身の根底に巣食う問題を突かれ、獰猛に殺気立つカイエに影分身のナルトは息も出来ずに竦む。
味方同士で一触即発の空気が漂う中、ガイは構わず言った。
「――お前は、お前の弟子達にその重荷を背負わすつもりかっ!」
すとんと、ガイの何の打算もない、掛け値無しの言葉がカイエの胸に突き刺さった。
――ずっと辛かった。自分の為に散った生命が眩しすぎて、余りにも重すぎて、どうして良いか解らなかった。
彼等に見合う輝きなど、凡人の自分には未来永劫届かない。死ぬのが自分で、彼等でなければどれほど楽だったか。
どうやったら報いる事が出来るか、答えなんて幾ら考えても永遠に出て来ない。それに答えられる人は、既に死んでいるのだから。
だから、自分も彼等のように死ぬ事が唯一の救いだと信じて疑わなかった。
凡人の自分でも出来る限り足掻いて、後の者に希望を託して――無様でも良いから死にたかった。
――どうして気づかなかったのだろう。
どうして、気づいてしまったのだろうか。
自分が今死ねば、ルイ達に自分の生命の重みを永遠に背負わせる事になる。嘗ての自分と同じ苦しみを、彼等に押し付ける事になる。
それだけは、許せない。死ぬ寸前であっても、世界が崩壊したとしても、絶対に許容出来無い事だった。
「……マジ格好悪ィ。我ながら最低だなオイ。――どうして、言われるまで気付けなかったのかねぇ……?」
「気付けたのなら今からやり直せば良い。オレの親友の青桐カイエは、何度転ぼうが絶対に立ち上がる不屈の男だっ! このオレが全力で保障する!」
カイエは力無く天を仰ぎ、ガイは力強く手を差し伸べた。
昔から、ガイはこういう男だった。自分が簡単に諦めそうになっても、強引にこの手を引っ張って立ち上がらせる。――昔から、そんな一途で真っ直ぐな彼が純粋に羨ましかった。
「死んでも自分の言葉を曲げない男から保障されちゃあ、気張るしかないよな」
カイエはその手を掴み、ガイの力を借りて立ち上がる。
「うむ、その意気だっ! それに死ぬ順番が年功序列ならオレの方が先だ。オレがくたばるまで死ぬ事など絶対に許さん! 約束だ!」
「あぁ? お前もオレと生年月日同じだろ!?」
「いいやっ! 確かにオレとお前は一月一日に生まれたが、オレの方が先に生まれた! 一秒か一分かは知らんが絶対にそうに違いない!」
「何だそれ!?」
自然と肩を貸し、二人は笑い合いながら突っ走る。
こういう熱い男の友情も良いなぁと後ろのナルトは置いて行かれぬよう急いで後を追うのだった――。
「……げほっ、ごほっ。ユウナぁ、早く爆破しすぎだよぉ……!」
「イタチが早すぎたんだ、文句言うなナギ」
土埃が眼に入ったのか、岩流ナギは眼を擦りながら涙目で抗議し、未だに白眼を発動させている日向ユウナは即座に切って捨てる。
「駄弁っている暇は無い。今は一刻も早く撤退すべきだ」
「シノの言う通りだな。あんな面倒な化け物相手はもう御免だ」
油女シノは冷静に進言し、チャクラ切れでバテている奈良シカマルもそれに続く。
「サスケ、ルイちゃんは!?」
「……幻術で気を失っているだけだ。外傷は無いようだな……」
その反面、あれだけの影分身を作ったうずまきナルトは未だにぴんぴんしており、意識の無いルイの容態を心配する。
うちはサスケはルイに掛かった幻術を解き、彼女を縛っている縄をクナイで斬り、歪な模様が刻まれた包帯の目隠しに手を伸ばし――それに触る直前、何らかの強い力場によって指が弾かれた。
「っ、封印術か……!?」
今の段階では対処出来ない。即座にそう判断したサスケは眠り続けているルイを背負った。
――皆、全力を尽くしてルイの救出に当たっている。
それなのに自分はルイと一緒にいながら守れなかった、その自責の念で黒羽ヤクモは今も精神的に立ち直れずにいた。
ルイを助けられたのに、今はルイを背負っているサスケに嫉妬さえしている。そんな醜い自分が堪らなく嫌になった。
「良し、一刻も早く離れるぞ。それとヤクモ、呆けるなら後に……!?」
ユウナが反応し、ほぼ同時にシノが同方向に振り向く。
ただ、察知出来たからと言っても、彼ほど卓越した忍から逃げ果せるのは不可能だった。
――うちはイタチは音も無く舞い降り、無言で立ち塞がる。
生き埋めになったからには逃げ出す程度の時間は稼げたと全員が思っていただけに、動揺はより大きかった。
「イタチ……!」
サスケは二つ巴の写輪眼にありったけの殺意と憎悪を込めて一族の仇を射抜く。
イタチは背筋が凍えるような冷たい眼差しでサスケを――否、サスケが背負っているルイを鋭く睨んだ。
「――ま、お前達が大人しく追跡だけするとは思ってはいなかったけど無茶しすぎだ」
ほぼ全員が慄き、絶体絶命の窮地に身を震わせる中、飄々とした声が割って入る。
イタチの視線が下忍達の前に飛び入った彼等三人に向けられる。猫の仮面と犬の仮面を付けた暗部が二人、そして元暗部にして今の木ノ葉隠れで最も優れた上忍が一人――。
「だが、ルイを取り戻しているのは良い誤算だ。後は俺達に任せろ」
既に左眼の写輪眼を解放した状態で、はたけカカシはうちはイタチの前に立つ。
うちは一族が虐殺されて以来、此処まで写輪眼が一同に揃ったのは初の出来事だった――。