巻の11 尾獣の脅威を盾に、暗部の重鎮を脅すの事
「う――」
黒い泥――絶えず性質変化する混沌は崩れ、岩流ナギが倒れるのを見届けた後、私は自身の身体を支えられず、地面に尻餅付いた。
「……はぁ、はぁっ。全く、梃子摺らせる」
脂汗を流し、激しく息切れする。身体に酸素とか栄養分とか色々足りない。
流石に七十二時間も月読を持続すれば精神疲労も凄まじく酷いし、チャクラも底を尽きる。この眼が永遠の万華鏡写輪眼でなければどうなった事やら――。
「ルイ、大丈夫か!」
「心配は、無用だよ、ヤクモ」
普通の写輪眼さえ維持出来ず、素の黒眼に半強制的に戻る。
それから薬物中毒の如く兵糧丸を口にするが、チャクラを練られるようになるまで暫く掛かるだろう。意識が途切れないように気張るだけで精一杯だ。
「一時はどうなるかと思ったが……とりあえず一刻も早く離脱するぞ。ルイ、自力で走れるか?」
「無理です。ヤクモ、すまないが手貸して」
カイエは精神疲労で昏倒する岩流ナギを注意深く探ってから安全と確認し、彼女の小さな身体をひょいと背負う。
それに対して予期せぬ役を回されたヤクモは眼をまん丸にして驚き、かと思いきやにやりと悪戯心を丸出しにした笑みを浮かべ、あろう事か私の背中と膝裏を持ち上げて――俗に言うお姫様抱っこをしやがった!
「な、ふざけるなヤクモッ!」
「なぁにぃ、聞こえんなぁ~! 舌噛むなよー」
恥ずかしい格好に歯痒く思いながらも、抵抗出来ない自分が恨めしい。
ヤクモの胸に納まりながら、私は自身の顔が真っ赤になるのを実感した。
「これは貴重だな、ルイが素で赤面するなんて」
「~~~~っ! 気を抜くな、馬鹿っ!」
更に此処ぞとばかりに追い討ちをかけるユウナに怒鳴り散らし、そっぽを向く。
「ルイの言う通りだ。ユウナ、走りながら二キロ後方まで見通してみろ」
「……先生、白眼を便利アイテム扱いしてませんか? 遠方の透視は結構辛いんですよ」
走りながら振り返り、数秒間余り遠視した後、ユウナの顔が見るからに青褪める。
聞くまでも無く追撃者を発見したのだろう。それも複数人、思った以上に岩流ナギで時間を消費してしまったと眉を顰める。
「――確認出来るだけで何人だ?」
「……っ、七人、八人、いえ、もっといます。まだ一キロ以上距離がありますが、敵側の方が速い……いずれ追いつかれるかと」
追手の事を予測していたカイエは苦々しく表情を歪ませ、奥歯を噛み締めながら黙り込んだ。だが、その躊躇も数秒の事――。
「ユウナ、ナギを頼む」
カイエは覚悟を決めた強い意思を眸に滾らせ、ユウナに一声掛け、気を失っている岩流ナギを乱暴に手渡す。
ユウナは驚くが、私はカイエの意図を悟る。
「――オレが時間を稼ぐ。お前達はナギを連れて木ノ葉に戻れ」
「そんな……!? それじゃカイエ先生がっ!」
ヤクモが喰らい付くが、致し方無い。一人囮として足止めしなければ岩流ナギを守りきる事は到底出来ないだろう。
先程とは事情が変わった為、何が何でも岩流ナギには生きて貰わなければならない。任務遂行の為にも犠牲は已む無しだろう。
「――っ、やはり八門遁甲の体内門を……! 死ぬ気ですか先生ッ!」
白眼でカイエの体を凝視しながらユウナは叫ぶ。
その聞き慣れた単語を耳にし――あ、と心の中で電球が点灯した。
「やれやれ、まさかオレの先生と同じ選択をする羽目になるとは因果なもんだ。この際だ、同じ言葉を贈るぜ。――死ぬ順番は年功序列だ、オレの分まで逞しく生きろよ」
「カイエ先生、格好付けているところ残念ですが、その必要はありません」
揺るぎ無い覚悟を胸に、単騎で死地に赴こうとするカイエの出鼻を見事なまでに挫く。そんな格好良い役割はカイエに似合わないと内心微笑む。
「任務も遂行する、皆無事に帰還する。両方達成出来る策があります」
タイミング良く邪魔され、文句言いたげのカイエに私は自信を持って進言する。
「カイエ先生、八門遁甲の体内門は幾つまで開けられますか?」
「その気になれば全部開けられるが――」
最高だ、条件は全て揃った。これを天佑と言わずして何を言おうか。カイエの悪運の強さに、私は賞賛の意を表する。
「それは僥倖、今すぐ七門まで開いてください」
「あぁ? 馬鹿言うな。敵と玉砕する前にチャクラを使い果たして――」
即座に却下しようとしたカイエに、私は真摯の眼差しを向ける。
「――先生」
私は気合で写輪眼を開き、急速に薄れる意識を繋ぎ止め、維持し続ける。
肉体は悲鳴を叫んでいるが、そんなものは精神で捻じ曲げる。精神が肉体を凌駕し、不規則な呼吸も平常値に戻す。
「任務を果たし、全員無事に帰還する。お前の言葉に偽りは無いな?」
カイエは真剣に問い、私は力強く頷く。一人で死地に赴こうとしたカイエの覚悟を上回る覚悟を持って――。
「当然、こんなところで朽ち果てる気はありませんし、一人だけの犠牲の枠に私が嵌ると思いで?」
「ハッ、思わねぇな。――さあ篤と見晒せぇ、これが八門遁甲の体内門の七門・驚門開けだぁ!」
カイエの肉体から普段では考えられないほど膨大なチャクラが湧き上がる。
次々と開かれる体内門を写輪眼で完全に盗み取り、間髪入れず片っ端から開いていく。
全身が熱暴走しているみたいで激痛が走る。神経が焼き切れないか心配だが、チャクラ切れした体に通常時を超越する膨大なチャクラが猛烈に漲る。これなら――いける。
「ルイ――!」
ヤクモの元から離れ、言葉無く佇む三人に自信満々の笑顔を持って答える。
「ヤクモ、ユウナ、カイエ先生、出来る限り避難して。手加減が出来るとは思えないから」
体中に殺人的な電流が駆け巡る感覚に耐えながら親指をがりっと噛み切り、十六の印を結ぶ。
「早速出番だ――来い!」
地に右掌を当て、口寄せの術式が広がる。莫大なチャクラが瞬く間に消え失せ、私は全身の気怠さと共に確かな手応えを感じた――。
「――は? な、なんなんだあれは……!」
突如、森を押し潰して現れた巨大な影に、岩隠れの暗部達は口をぽかんと開けて立ち竦んだ。
それは山の如き聳える六脚六尾の黒狗だった。
一帯の空気を震撼させる次元違いのチャクラを滾らせ、六つの尾を翼の如く羽搏かせるだけで周囲の樹木が塵芥のように吹っ飛ばす、人間とは比較にならない暴力の塊だった。
「……こ、こんな化け物を火の国に誘導するだと? ふざけんな畜生ッ!」
魂の根底を支配する恐怖に暗部の男は震え上がる。
――当然と言えば当然だろう。五国広しと言えども尾獣と実際に対峙した事があるのは木ノ葉隠れの里だけであり、他の隠れ里の忍にとっては未知なる脅威そのものである。
未だ嘗て体験した事の無い天災を前に、岩隠れの暗部の指揮系統はお粗末なぐらい乱れていた。
「クソッ、撤退するぞッ! おい、立ち止まってどうしたんだ!」
「……馬鹿な、あの眸の模様は……!」
男は一人立ち止まり、感情の色が一切見えない尾獣の紅眼をこの世全ての憎悪を籠めて凝視する。斯くも忌々しき眸を再度見る事になるとは夢想だにしなかった。
巨大な眼にはハッキリと奇妙な模様が浮かんでいた。その黒い三つ巴の模様の魔眼を、男は今でも夥しき血の香りと共に鮮明に覚えている
嘗て第三次忍界大戦で幾度無く対峙した血継限界の一族。最も多くの同胞を葬った死神の如き瞳術使いの一族の名を――。
「――滅びて尚我等の前に立ち塞がるか、うちはぁッ!」
「くく、あはは、あーっははははははははははっ!」
六尾・渾沌の頭の上で、追手の忍を見下ろしながら私は狂ったように哄笑する。
今までの怠惰感と殺人的な疲労が全て消え去るほど爽快な気分だった。
(――素晴らしい。無尽蔵のチャクラに自動攻撃の混沌、これはまさに飛び抜けた優秀な殺戮兵器だ。人柱力の中に封印されていなければ制御する事すら不可能だったがね)
そう、この渾沌なる化け物は元より視覚など存在しない。人柱力の中に存在するからこそ万華鏡写輪眼の月読が有効であり、我が瞳力で使役出来ているのだ。
もしも岩流ナギが死亡して封印の枷から抜け出せば、私に制御する術は無い。この契約状況は紙一重の死が見え隠れしている事を、興奮冷めぬ思考の中で念頭に入れる。
(七門まで開いて、もうチャクラが尽き掛けている。今の私では制御下に置くだけで荷が重過ぎる、か。初のお披露目としては残念だけど、一撃で終わらせてよう――)
印を結び、尾獣に大規模な術を行使させる。六尾の戦力把握は月読の精神世界で調伏した時に済ませてある。
宿主の岩流ナギも行使する固有能力、混沌の泥は常に何らかの性質変化を起こし、基本的にチャクラの大きい対象から攻撃する自律型の武装であるが、何も操れない訳でもない。
「名付けて、混沌・針千本の術――」
――地に劇的なまでの震動が鼓動し、幾多の忍の鼓動を停止させた。
周囲の地を猛烈に突き破り、幾重に枝分かれして生え伸びる混沌の針が自動的にチャクラを持つ忍達を串刺しにしていく。
刹那の断末魔が幾つも木霊し、一瞬にして森を血染めの剣山に豹変させる。
その凄惨極まる絶景は正に地獄絵図であり、絶頂に達しそうなぐらいの快感に私は法悦して身悶えた。
「ああ、ごめん。一撃というのは嘘だった」
大量虐殺に現を抜かす事も無いので、仕留め損なった存在を見逃さず始末する。
芝居じみた仕草で指を鳴らし――その瞬間、針状の混沌が全て爆裂して大炎上した。
初見で生き残れたのならば賞賛していやりたいぐらい、我ながら悪辣な殺害方法だった。
「――隙を生じさせぬ二段仕込みは基本、だよ、ね……?」
くらりと酷い眩暈がする。張り詰めていた緊張感が切れ、全身の感覚が急速に薄れていく。途切れる意識の最中、最後の気力を振り絞って口寄せした六尾を宿主に強制送還し、私の身体は宙に投げ出された。
「あ……」
此処まで手酷い災厄を齎したのだから、岩隠れの追跡は事実上不可能だろう。
だが、最後の最後に仕損じてしまった。この間々無防備に地に激突したら間違い無く死ねるが、幸いにもそれまでに意識は持たないだろう――。
「やれやれ、本当に大した奴だよ。目が覚めたら説教だがな――ったく、無茶しやがって」
お決まりの褒め文句を吐いて、沈む夕日を背に九班のメンバーは疾走し続けていた。
カイエの背には小さな寝息を立てるうちはルイが背負われている。六尾が強制送還され、宙に舞った時、カイエによって無事確保されたのだ。
ルイは七門まで開いて体内のチャクラを使い果たしたが、事前に兵糧丸を複数粒食べていた為、チャクラ枯渇による死の心配は無かった。
尤も、無理に体内門を開いた事で内部の損傷は計り知れない為、然るべき医療施設での精密検査が必要であり、一週間以上はチャクラ不足と激痛で動けないだろう。
率先して生命を賭けるべき自身の立つ瀬が無いとカイエは内心苦笑しながらも、犠牲無くして絶対の窮地を乗り越えたルイに、そして良くぞ生き残ってくれたヤクモとユウナに感謝する。
「眠ってりゃ年相応の少女なのに勿体無いな。二人の何方かは知らぬが、尻に敷かれるなよー?」
カイエはからかうように笑い、深く眠るルイから視線を部下の二人に向ける。
「――ぶっ、な、いきなり何言いやがりますか、カイエ先生!」
「反応するのも面倒なのでノーコメントで」
岩流ナギを背負うヤクモはバランスを大きく崩しながら吹き出し、ユウナはやや疲れたように眼を細める。
死線を乗り越えて傷だらけになりながらも気力溢れる部下達を頼もしく思う。里に帰ったらまたラーメンでも奢ってやろう。前回は仲間外れだったルイも一緒に――。
「三日三晩、不眠不休で走り続ければ敵と遭遇する事も無い。木ノ葉隠れに到着するまで気張れよテメェら!」
「「あいあいさー!」」
「ふ――む。殊の外、都合良く進んだが、厄介極まるか」
岩隠れの人柱力、岩流ナギの木ノ葉亡命までの顛末を読み通し、ダンゾウは深い溜息をついた。
忌むべき最悪の事態――木ノ葉への尾獣襲来こそ回避したものの、不安定な人柱力を木ノ葉に匿う危険性は軽視出来るものではない。
そもそも人間とは比べ物にもならぬほど莫大なチャクラを持つ尾獣は天災そのものであり、当然の如く人間程度が御せる存在ではない。
初代火影とうちは一族の創始者、四代目水影だけが尾獣を使役するという規格外の偉業を可能としたが、逆を言えばこの三人以外は歴史上を顧みても誰一人として使役出来なかった。
それ故に人間の中に直接封印して力を操ろうとする人柱力なる存在が生まれた。長い年月を掛けて内に封じた尾獣と共鳴する事で人智を超える力を制御しようとしたのだ。
「掌中に納めた強大な力は使わずにおられぬ――人の業とは斯くも罪深きものよ」
だが、その試みの大半は失敗に終わる。尾獣と共鳴するどころか侵蝕され、天寿を全うした者は皆無とされている。その例外は今代の八尾の人柱力だけだが、誰しも彼の境地には至れまい。
ならばこそ、生涯燻ぶり続ける不発弾など誰が欲するだろうか。
――岩流ナギの存在は木ノ葉隠れに必要無い。外交問題に発展した際に強制送還させるか、人柱力ごと永久封印するかの二択になるだろう。
渦巻く思考に一応の結論が出た時、ダンゾウの忍としての直感が最大級の警鐘を鳴らす。
思えばあの時もそうだった。選りすぐりの根の護衛を無音で潜り抜け、静寂と死の気配を引き連れて奴がやって来たのは。
悍ましき写輪眼が血の鮮血より色鮮やかだった事を、ダンゾウは今でも畏怖と共に覚えている――。
「――こんばんは。夜分遅くの来訪をお許し下され、ダンゾウ殿」
うちはイタチ――ではなく、それは一本の三つ編みおさげを揺らす十二歳程度の少女だった。
少女は魅入られるほど妖艶な微笑みを浮かべ、右肩に黒い子犬を乗せ、両の眼の写輪眼はダンゾウの精神を根底から射抜く。イタチとは異なる、超越的な風格を纏っていた。
「……うちはルイ、だと――?」
ダンゾウは心底信じられない、と己が眼を疑った。
現在、生き残っているうちは一族は三人だけであり、性別が女なのは一人だけ――消去法でこの少女がうちはルイとなるが、聞き及ぶ情報が余りにも掛け離れすぎて混乱する。
うちはルイ――うちは一族でも写輪眼の開眼率が極めて低い家系の生まれであり、もう一人の生き残りである天才児、うちはサスケとは比較する事すら愚かしい〝落ちこぼれ〟である。の筈だった。
だが、目の前にいる写輪眼の少女は当時のうちはイタチに匹敵する脅威そのものだった。
うちは一族を皆殺しにした彼とて、此れほどまでに禍々しいチャクラを纏ってはいなかった。
「木ノ葉暗部の重鎮である貴方にまで我が名が知れ渡っているとは光栄の極みですわ。――今宵は岩隠れの人柱力である岩流ナギの対応につきまして一考して頂きたく参上しました」
不意に、その写輪眼に吸い込まれるように惹きつけられ、ダンゾウの視界が暗転する。
瞬間、膨大な映像が走馬灯の如く駆け巡る。巨大な魔獣とそれを使役する写輪眼の少女が縦横無尽に暴れる様を。――六つの尾がある黒い魔獣の紅眼には写輪眼の模様がはっきりと浮かんでいた。
「グッ……よもや、これが……まさか、それが――!」
ダンゾウは痛む頭を押さえ、今まで眼中に入らなかった子犬に嫌悪を露にして凝視する。
「ええ、この子が岩流ナギに巣食う尾獣、六尾・渾沌ですわ。尤も、今のこれは完全体とは比べ物にならないほど程遠い規模ですが」
右肩に乗る小さな黒狗の紅眼にほんの一瞬だけ写輪眼の模様が浮かぶ。
ルイの圧倒的な存在感に眼を奪われ、今の今まで気づけなかったが、この子犬もまた酷く淀んだチャクラを滾らせている。ダンゾウは開いた口が塞がらなかった。
「御覧の通り、六尾は完全に私の支配化にあります。私がいる限り暴走する心配は無いでしょう。――これほどの戦力、岩隠れに返還するのは勿体無き事と存じ上げますわ」
冷や汗と悪寒が止まらず、ダンゾウは心の底から身震いした。
よもやうちはの末裔に、それも齢十二で尾獣を使役する者が現れようとは正に青天の霹靂である。
――この少女がその気になれば、九尾襲来に勝る災厄が木ノ葉隠れに訪れるだろうし、またはそれを防ぐ最強の矛にも成り得るだろう。
(――この儂が、十二歳の小娘如きに飲み込まれるとは……!)
落ちこぼれの風評から察するに、この少女は徹底的なまでに自身の実力を隠し続けたのだろう。無能を装えるほどの有能さ、周囲の忍をも騙し切る狡猾さを持ち合わせている。
その女狐が己が正体を曝してまで自身の前に現れたのは完全無欠なまでの打算か、はたまた個人的な私情か――。
「一体、何が目的だ」
うちはルイの腹を探るべく、ダンゾウは殺意混じりの独眼で睨みつける。
この少女は彼が相対した誰よりも底知れず、深淵を覗き込んでいるような焦燥感が募る。
――いざとなれば、右眼と右腕を使わざるを得ないだろう。シスイの瞳力と禁術『イザナギ』をもってすれば、完成されたうちは一族とて敵では無い。
その歪な万華鏡写輪眼に『月読』が宿っていなければ、もしくはこのうちはルイが影分身でなければ、という二つの前提が必要であるが。
「そう身構える必要はありませんわ。私は貴方と敵対する為に訪れたのではありません。その真逆、貴方は私の味方になるのですから」
怯える子供を宥めるように優しく慈愛溢れる言葉の韻は年不相応のものであり、ただの微笑みが恐怖を生む事をダンゾウは生まれて初めて実感した。
「ダンゾウ殿、貴方は今の木ノ葉の現状をどう御覧になれておりますか? どの国も軍拡競争で鬩ぎ合っているのに、三代目火影のお甘い方針で平和惚けしたこの嘆かわしい現状を――」
打って変わって、うちはルイは詠うように、演説するように、芝居じみた仕草を時折混ぜて語る。
木ノ葉隠れは五国最強の忍里と謳われるものの、それは既に過去の威光である。
うちは一族も健在で、九尾襲来する前ならば最強の名に相応しき陣容だったが、今現在で大きな戦が勃発すれば木ノ葉隠れは非常に危ういとダンゾウは考える。
「その危機的な現状を憂い、汚名を被ってでも里の為に奔走する貴方のような逸材がいなければ、木ノ葉隠れの里は滅亡の淵に瀕する事でしょう」
少女の甘い蜜の如き言葉は容赦無くダンゾウの心の裡に浸透してくる。
だからこそ、他国の不穏分子を特定し、暗部を使い潰して病的なまでに暗殺してきた。その敵味方の犠牲こそ今日の平和を謳歌する為に必要な尊き代償である。
それを理解しない大多数の者は仮初めの平和に胡坐をかいて理想論を語るのみ。その危機管理の薄さに深刻な懸念を抱かざるを得なかった。
「さて、此処で一つ話を脇道に逸れますが――三代目火影は御高齢の身、次代の火影が必要ですが、今の木ノ葉隠れの里に火影の名を背負える忍は二名ほどしかおりません。三代目火影の弟子であり、彼の名高き三忍である自来也殿と綱手姫だけでしょう」
突如変わった話の意図を掴み兼ねるが、概ね少女の言う通りであり、ダンゾウは彼女の見識の深さに息を巻く。
嘗てダンゾウは火影の座を巡って三代目火影である猿飛ヒルゼンと争った。
伝説の三忍を育て上げた彼とは違って弟子に恵まれず、自身の意志を受け継ぐ後継者すら事欠く現状で、彼等三忍以上に火影に相応しい忍はいない。例え半ば里抜け状態で放浪していようとも――ヒルゼンは、常に自身の先を歩んでいる。
「御二方の何方が五代目火影を襲名しようとも三代目火影からの方針は何も変わらないでしょう。果たしてそれで木ノ葉隠れの里を内外の脅威から守る事が出来るのか、私は不安でなりません」
悲しげに眼を細め、うちはルイは憂いの色を浮かべる。
何処まで建前で何処までが本音なのか判別出来ず、この少女の底知れなさにダンゾウは畏怖を抱く。本当に十二歳の小娘なのか、未だに信じられずにいた。
如何に忍として優れていようと、色情狂または博打狂に里の長を任せるのは不安要素が強すぎる。彼等もまた師の方針を引き継ぎ、依然変わらぬ旧体制が続く事だろう。
「それ故に彼等の日和見方針を受け継がず、真に里の為に決断を下せる六代目火影が必要になるでしょう。其処で本題ですが――この私が六代目火影を襲名する為に、御協力して頂きたいのです」
ダンゾウは独眼を限界まで見開いて驚いた。
確かに、この年で尾獣を御するうちはルイは将来、歴代の火影に匹敵する忍に成長するだろう。
それだけに残念極まる。如何に天才の名を欲しいままにしようが、うちは一族の者である限り火影になる事は出来まい。
無限に続くかと思われた暗闇の中、漸く器の底が見えたと、ダンゾウは内心ほくそ笑んだ。
「大した言い草だが、それは実現不可能の夢物語よ。幾ら御主が将来うちはの名に相応しい忍に成長しようとも、な」
「――うちはの血族は過去永劫、未来永劫、火影にはなれない。それは初代火影から続く因縁、うちはマダラの反乱と三年前のうちは一族のクーデター未遂から起因する事ですかな?」
笑顔で語る少女が一体何を言ったのか、ダンゾウには理解出来なかった。
(――在り得ん。うちは虐殺の真相は秘中の秘、それがうちはの生き残りに知られる事だけは絶対に在り得ん……! ――ならば、うちはルイが此処に訪れた本当の理由は――木ノ葉上層部に対する復讐か。……幾ら写輪眼を持とうが小娘の一人や二人、否、此奴は尾獣という切り札を保有したからこそ行動に打って出たのか……!?)
ダンゾウの思考が乱れに乱れて混乱の坩堝に陥る中、うちはルイは口元を三日月のように歪めて笑う。
「真逆(まさか)、あのうちはイタチが自身の弟以外に手心を加えると思いで?」
それはうちは虐殺の夜から燻ぶっていた疑問であり、この瞬間を持って氷解する。
うちはイタチは忠実に任務を遂行した。実の弟という唯一人の例外を除けば、実の両親だろうが恋人だろうが女子供だろうが容赦無く皆殺しにした。その彼が何故、縁の所縁も無い少女を見逃したのだろうか?
方法も過程も今となっては推測しようが無いが、うちはルイは生かされたのではなく――自力で生き残ったのだ。当時九歳程度の少女が、あのうちはイタチの眼を欺いて――。
「誤解が無いように言いますが、クーデターを画策して自ら滅びた傲慢な一族に自業自得以外の感情は抱けませんわ。むしろ古き体質で淀んだうちはが一掃されて丁度良いぐらいです」
復讐など問題外だと心底退屈気に斬って捨てたうちはルイに、今度こそダンゾウは理解出来ないと恐怖を覚えた。
「……うちは一族の虐殺を指示した、儂等木ノ葉の上層部に復讐するつもりは無いと? その妄言を信じろとでも?」
必死な形相で顔を歪ませ、語気を荒げてダンゾウはルイに問う。
「そもそも理由がありません。一族など矮小な枠組みに拘る気にもなれませんし、私が木ノ葉隠れで平穏に住まうのに彼等のような不穏分子は不要でしたわ」
ルイは場違いなほど爽快な笑顔を浮かべる。
ダンゾウは深淵を覗き込む気概で挑んでいたが、その深淵が自身を覗き込んでいた事までは気づけなかった。
「古きうちはは死に絶え、この私が今のうちはそのものです。故に不可能など御座いませんよ。――三年前の夜から、私は不可能を可能にして生き残ったのですから」
器の底を見据えたと思いきや、それは器の縁ですらなかった。
この途方も無い少女を如何に表現すれば良いのか、ダンゾウは検討も付かない。
「私が火影の座につく事こそ、うちはマダラの妄執が蔓延るうちは一族に対して、最高の供養となりましょう」
彼の知るうちは一族とは写輪眼なる血継限界を持ち、忍としての腕前は突き抜けていたが、政には致命的なまでに疎く、それ故に覇権を握る事が出来ない武一辺倒の一族だった。
それなのにうちはルイはうちは一族の特性を全て引き継いだ上で、欠如していた政治能力と、頂点に立つ者たる器を併せ持っていた。天は二物も三物も与えたのだ。
一体うちは一族は最期に何を生んだのか、うちはイタチは何故この少女を確実に殺さなかったのか。
実の弟を殺せなかった事こそ、最大の汚点だと考えていたが、それは間違いだった。この少女こそ、真に殺すべき者だった。
(――詮無き事、か)
渦巻く思考の中、ダンゾウは苦々しく辛酸を嘗めた。
尾獣の影をちらつかせる中、うちはルイを敵に回すという選択は出来ない。
圧倒的な戦力を背景にした脅迫ではあるが、互いが共倒れにならない為にうちはルイは交渉しに来たのだ。なるほど、敵対するより味方として協力し合えばこれ以上無い結果を生む事だろう。
下らぬ憎しみの感情に左右されぬこの少女ならば、利害が一致する限り、安全に利用出来るとダンゾウは判断する。
元よりダンゾウは、自身が火影になる野望を捨てる気など欠片も無かった。
「――火影の座につき、御主は何を望む?」
だが、うちはルイが第二のうちはマダラ、第二の大蛇丸になるのならば里に脅威が及ぶ前に全力を持って駆逐せねばならない。如何なる犠牲を払おうとも。
ある種の覚悟を伴って、ダンゾウは最後に問う。
うちはルイは羨望の眼差しを持ってダンゾウの覚悟を見届け、少しだけ皮肉を籠めて答える。
「十歳未満の小娘が必死扱いて策謀を練らねば生きられない、そんな今の里の現状を変える事ですね。綺麗事は綺麗事で片付け、綺麗事で済まない問題は手を汚してでも片付けて――この木ノ葉隠れの里で平穏に暮らして大往生するのが、私のささやかな願いです」
そんな退屈な夢が今の今まで、唯の一度も叶わない現状に、皮肉以外何物でもないとルイはダンゾウに悟られぬように自嘲した――。