「見るな」
隙間はどこにある?
遠い場所。近い場所。見えない場所。見える場所。あそこ。ここ――――?
宇宙外生命体がその隙間から俺の宇宙を覗く。
見られている。見る目は見えない。
俺を覗く隙間はどこだ?
「見るなよ」
手足が痺れる。なんでだろう……。
そうだ、今、俺の手足はきつく縛られているからだった。
血がうまく流れていないのだろうか。もしかしたら、このまま血が止まり続けたら、俺の手足は壊死してしまうかもしれない。
―――別にそれでもいい。
俺を見る目がなくなれば、それだけでいい。他はいらない。
俺を見るものが何ものなのか、俺はすでに知っている。
異邦人―――
異星人―――
異銀河人―――
異宇宙人―――
もしくは異次元人。
俺が生きる次元宇宙の外側にいる生命体。
そいつは、隙間からいつも俺を見ている。
「見るな見るなよ見ないでくれみるなみないでみないでみないで―――」
先ほどから、何か声らしきものが聞こえる。
唸る風のような、ぶつかり合う金属のような声が。もしかしたら、この声は俺を見る宇宙外生命体のものかもしれない。
この、聞けば誰でも不快になるだろう音は、間違いなく奴であるだろう。
「―――――ッ!!!?」
絶叫が聞こえた。
もう嫌だ。見られている時間の中で、『向こう』の音なんか聞きたくない。耳をふさぎたくなるが、俺の手は縛られている。
音と同時に、俺の体内に温かい何かが流れ込んできた。
なんだろう、これは。分からない。分からないけど不快にはならない。
むしろ、俺の意識は段々と落ち着いてきた。
ああ、今ならあの空に浮かぶ星屑たちの奥の奥の奥の奥の奥の奥の奥の――――――
きもちいい。
もう声も聞こえない。
好きなだけ俺を見ればいい。
俺も見るから。
隙間は意外とすぐ近くにあった。
いや、近いどころではない。
俺が隙間だった。
〆
『丘の上にでかい廃墟があるだろ? あそこの大広間に死体があるんだってよ』
――――それは、誰から聞いた噂話だったか。
友達である優希だったか。
それとも彼の兄だったか。
いや、彼の兄の友達が、別の友達に聞いた話を優希が聞いて俺に教えたのだったか。
曖昧な記憶の中に浮かび上がった三つの候補。答えがどれであるかは分からないが、噂話なんて出所の分からないものなんだから、誰が話しても同じだろう。
そんな、信憑性の無い噂話を、それを聞いた少年時代を過ぎ、優希とも敬遠気味になっていた俺が思い出したのは、久々に帰郷したふるさとで空を見上げたその時に、くだんの廃屋敷が見えたからである。
「凄いな。数年前までは、まだ人は住んでいそうだったのに……」
いつの間にか、俺の足は坂を登り、廃屋敷の前で止まっていた。
屋敷は三階建ての西洋風の建物である。
清楚なイメージを抱かせた白い壁は、ツタが生い茂り、色を緑へと変貌させていた。
庭も、雑草が好き放題に伸びていて、俺の腰に届いてしまうほどのものまである。
黒い塗装もすっかり剥がれてしまい、むき出しの鉄棒の門はところどころが錆びていた。確か門は南京錠で閉ざされていたはずだが、それは影すらも残っていない。
俺が軽く門を押すだけで、甲高い音を立てながら、ゆっくりと開いた。
一歩、敷地内に足を踏み入れると、まるで異界に入り込んだような疎外感を感じた。
たとえば、女性用車両に入ってしまったときのような。自分が異質であることに気付いてしまったときのようなイメージだ。
自然に呑みこまれたこの空間に、人の手が入るのは―――人間が入り込むのは間違っていることであるような気がする。
だが、完全に内部に入ってしまえば、そんな感覚は消えてなくなった。
岩で作られた道。隙間には小さな雑草が無数に生え揃っているが、さすがに歩行を邪魔するほどの背の高い草は生えていない。
遠くで一斉に鳥が羽ばたいた。ここにまで聞こえてくる音に、俺は空を見上げた。
東の空に、鴉の群れが飛んでいた。
数えるのも億劫になるほどの鴉たちは、その雄大な空を悠々自適に飛び回る。黒い塊が円を描くように宙を舞う光景は、どこか不吉なものであるような気がした。
ガタンと、近くで音が聞こえる。
屋敷の方向から聞こえてきた。そちらを見ても、何かが倒れているような様子はない。どこかの窓際で何かが倒れたのだろうか? この位置まで聞こえてくるとなると、相当大きなものであると思うが。
岩の道を進み、玄関まで向かった。一歩進むたびに、周囲の無音さがやけに気になった。
「玄関の鍵が閉まっていたら、もうここで帰ろう。ここは一応私有地なんだし、きっと鍵はかかっているから」
俺はそっと右手を伸ばし、冷たい鉄のノブを握る。ノブを回し、ゆっくりと扉を押した。
ギギギ、門と同じような堅く高い音を発しながら、扉はゆっくりと開いてしまった。
顔だけだして内部を覗きこむと、閑散とした広い玄関が見える。天窓から西日が差して、内部はずいぶんと明るかった。
とりあえず、中に入ってみることにする。一歩進むと、フローリングの床がギシギシと軋む。
玄関は、外から見て分かるように正方形の形をしていた。左右には下駄箱がずらりと並んでいる。金持ちであるここの元持ち主は、靴を集めるのが趣味だったのだろうか?
天井には蜘蛛の巣が静かに揺れているだけで、顔の形をしたシミとかがあるわけではなかった。
真正面には幅の広い廊下が続いている。ここを真っ直ぐ進めば、そこには確か、死体があるという大広間があるはずだ。
俺は靴を脱がぬまま、廊下に向かって歩いていく。赤い絨毯はすっかり草臥れ、色あせていた。
廊下は真っ直ぐと進んでいる。左右には扉が四つずつあった。イタズラで、俺みたいに入り込んだ誰かが書いたのだろう。扉には大きく赤いスプレーで『×』と描かれていた。しかし、右側の、玄関から見て一番最初の位置にある扉だけには『〇』が描かれており、やけに俺の目を引いた。
廊下を抜けると、だだっ広い部屋に着いた。
天井は三階まで突き抜けた高いもので、豪華なシャンデリアがぶら下がっている。部屋の真ん中にはそれは大きな机が置いてあり、右側には見たことも無い壁画が埋め込まれている。
「死体は、やっぱ無いよな」
そう呟いた俺は、事実ではないと知っていながらも、なぜか落胆の気持ちを抱いた。
小さくため息を吐き、戻ろうと後ろを向く。開けっ放しになった玄関の扉から、外の風景が見えた。
――――ふと、振り返ってみる。
そこには、一人の女性が立っていた。
「え?」
その女性は笑っていた。いや、哂っていた。つりあがった口は、紅いルージュで染められ、目元はなぜか暗く見ることが出来ない。黒髪はさほど長くなく、肩の辺りで切られていた。前髪も眉の辺りでパッツンと切られており、それで何故、目を見ることが出来ないのかがわからない。
着ている服はルージュのように紅いドレスだ。薔薇の花模様が浮きでるように刺繍されたドレスは、見るからに高価そうであるが、どこか廊下に続く絨毯のように草臥れている。
ドレスから伸びる手足は、真っ白だ。
――――いや、『真っ青』だ。それも死体のような、血の気を感じることの出来ない青さ。
よく見なくとも、女性の右腕は『欠落』していた。
ポトリと、液体の落ちる音が聞こえた。
まばたきを忘れていた俺だが、それを聞いたと同時に、目を瞬く。
一瞬で、女性の姿はなくなっていた。
「……幻覚?」
幽霊だとかという前に、その考えが俺の頭に浮かんだ。
首を傾げる俺。とりあえず、幻覚であると判断し、実家に帰ることにした。
廊下を進む。
ふと右を向く。
赤い〇が見える。
何故、周りの扉は全て×なのに、これは〇であるのだろう。
異端。それは人であろうが動物であろうが扉であろうが、有機物であろうが無機物であろうが目立つものなのである。
それが空間であるなら、そこはそれだけで異界と化す。
気付けば、俺はドアのノブを握っていた。
ノブに当てた掌がざわめく。ガチャリと音を立ててノブを回した。この無音の建物の中で、やけに響く音だった。
そっと中を覗く。そこは書庫であった。西側にある部屋なので、窓からは西日が差し込んで明るい。
その中でひとつ、倒れてしまっている本棚を見つけた。
建物に入る前に聞いた音の原因は、これなのだろう。扉から入ってすぐの場所にある本を持ち上げる。
「題名は……、何語だこれ?」
ぐちゃぐちゃとミミズがのた打ち回ったようなよく分からない文字の刻まれた書物。周りを見れば、床に落ちてしまっているのは、そのような文字で書かれた本ばかりだ。
その中でひとつ、日本語で題名が書かれた本を見つけたので、俺は手に持った本を戻し、しゃがみこんでその本を拾った。
「『イスラムの琴』? 音楽の本かな」
皮で表紙が包まれ、題名は後付けしたように黄色い刺繍で刻まれていた。落ちている本は、どれも年季が入っていて、古い本から立ち込めるにおいは、どこか懐かしさを感じさせるものだった。
ページを適当に開いてみる。
……? 題名は日本語であるのに、中に刻まれた言葉は全て英語である。残念ながら、俺は英語を読めない。それでも適当にぺらぺらとページを捲っていく。挿絵も無いため、内容の一切が理解できない。
できない―――のだが、
「な、なんだ、よ。これ……」
なぜか、手が嫌に震える。
ページを捲る手は止まらない。止められない。読めないはずなのに、文字の一字一字を丁寧に読み、脳に情報を刻んでいく。
時。地下。越。大群。化物。化物。化物。化物。隙間。宇宙。外。内。
最後のページ。それをゆっくりと捲る。
最後のページ。その裏側。そこには、この本、唯一の挿絵が描かれていた。
目だ。
こちらを唯見つめる目。目蓋という隙間から覗かれる目。化物の目。宇宙という隙間から覗く化物の目。
目は赤かった。淵も中も、血のように赤かった。
遠くで鐘の音が響く。
午後五時を知らせる音だ。顔を上げた。正面には窓があり、入ってきた門が見える。
映っているのはそれだけではない。
人の姿が映っている。
俺ではない。
赤かった。その女性は赤かった。目も赤い。頬を伝う涙も赤い。口も赤い。それはルージュじゃなくて血だった。ドレスも真っ赤っか。俺の後ろに、僅かに開いた扉の奥から、俺を見ていた。
目をそらす。
ガラスには隙間が映りこんでいた。
本棚の隙間には目があるような気がする。
本と本の間には目があるような気がする。
外にも隙間はある。
空を飛ぶ鴉の大群。そこには目があるような気がする。
目をそらす。
自分を見た。服の隙間には、俺を見る目があるような気がする。
「あ、あああぁあ」
床を見る。隙間には目があるような気がする。
時計を見る。長針と短針の間に目があるような気がする。
ガラスを見る。俺の顔には目が二つあった。
でも、それは俺の目ではない。
その目は真っ赤っか。血よりも深い赤。
扉の向こうは別世界だ。
扉の向こうにいる女性の死体は別世界だ。
扉の向こうにいる女性の死体の顔の隙間から覗く目は別世界だ。
扉の向こうにいる女性の死体の顔の隙間から覗く目に映る視界は別世界だ。
扉の向こうにいる女性の死体の顔の隙間から覗く目に映る視界に映る俺は別世界だ。
扉の向こうにいる女性の死体の顔の隙間から覗く目に映る視界に映る俺の目に映った世界は別世界だ。
おれはだれだ?
〆