熱の残滓がアスファルトから立ち上る。
九月。まだ汗の滲む気候でありながら、日が落ちるのは確実に早くなっている。
その夕闇に、浚うのだ。
人の目、機械のレンズの届かぬ場所、瞬間に、背後から人ならざる速度で確保する。
これは少なくとも烈火にとって難しい所業ではない。問題はその後だ。
唐突に加えられる加速度ゆえに脳に血が行かなくなるのか、あるいはただの恐怖からか、失神してしまう標的は少なからずいる。そういうときは楽だ。ガムテープで口を塞いで、手足を縛って、あとは目立たぬ場所で時間まで見張っていれば大抵それで終わってくれる。
しかし意識を保っていられた場合は難儀する。標的は必ず暴れるため、押さえ込まなければならないのだが、加減が難しい。
膂力の制御が苦手なわけではないが、死に物狂いで己の限界を超えて抵抗する力に対抗するとなると、それだけで人間の脆い骨格が軋む。少し間違えると二、三本は砕ける。
意識を刈り取りたくとも、気絶と死が紙一重だ。初めてのときに、失神させるつもりで安易に腹を殴ったら、内臓が丸ごと破裂でもしたのか血を吐いてそのまま死んでしまった。
以来、細心の注意をもって扱っている。
結局は、声さえ出せぬようにしてしまえばただの人間がどれほど暴れようと<魔人>をどうこうすることなどできはしない。そのことに気付いてから楽になった。
そして今回も暴れ疲れたところを縛り上げ、窓の外を見やって大きく息を吐いた。すっかり日も暮れ、瞬く星が満天に輝いている。
身を潜めているのは近くにあった中学校の体育倉庫だ。南京錠は引き千切った。
情報屋との交渉は難航した。当然というべきか、自分が既に<竪琴>に追い詰められていることは筒抜けで、関わること自体を拒否された。しかしそれを逆手にとって<竪琴>に存在を洗いざらい話すと迫り、今回を最後として情報を脅し取った。
既に取引の信義を失った状態で得た情報にどれほどの信頼性があるものか、あるいはどこかに罠が仕掛けられているか分かったものではなかったが、後がない烈火としてはもう実行するしかなかった。
標的は政財界に大きな影響力を持つ老人の孫娘。まだ小学生である。諦めたのか、今は横たわったままじっとしている。
もちろん俊介はいない。用事があると言えば、それだけで拍子抜けするほどあっさりと離れてくれた。ただ、心配そうではあったが。
今のところはうまく進んでいる。地獄へ行くか煉獄へ行くか、いずれ変わらぬ道行きだが、うまく進んではいる。
「……別に殺す気とかはまったくない」
声をかける。
応えは背の震えだけ。
「素直に言うことを聞いていれば安全だ」
確証はないが、そう続ける。
<スィトリ>がこの国に食い込むために少女をどう使うにせよ、長く影響を及ぼしたいなら無闇に傷つけるはずはない。
語りかけながらも、こんなものは気休めにもならないことは理解していた。突然訪れた理不尽な運命を呪うほかにできることなどあるまい。
いつもならばこんなことはしなかった。標的はただの商品だった。
そのはずが今日はそう思えない。
こうも幼いのは初めてだからだろうか。今までは成人か、十代であっても後半だった。
静寂を乱す、鼻を啜る音。無論、少女のものだ。
烈火の心も乱れる。染み付こうとしてくるのを必死に振り払う。
『今度さあ、沖縄行こうぜ!』
仲間の幻聴が聞こえる。
『いいな、約束通りならしばらく遊んでられるし』
『仕事したくねー。めんどくせー。無限に金湧いてこねーかな』
『インフレ待ったなし』
『え、なんで?』
『何でってお前、供給が多すぎたら価値が落ちるの当たり前じゃん』
『めんどくせーめんどくせー話はいいんだよ。大事なのは今夜の金。手に入れたお金で青い海へ!』
『そういや沖縄って<竪琴>がほとんどいないってマジ?』
『遠いしなー。頻繁に行き来するのは<魔人>でもしんどいわー』
軽快に言葉を交わし、笑い合い、時間が来たら商品を届けに行く。
金を受け取ったら遊び、尽きれば次の仕事を探す。
充実していた。
余計なことなど、何も考えずに済んだ。
商品は商品であり、疑問を抱く余地はなかった。
烈火は奥歯を食いしばった。窓から覗く星明かりが圧し掛かってくる。息の詰まる重みを分け合える相手はもういない。
この少女はどうなるのだろう。今まで売って来た人間はどうなったのだろう。
無意識に喉が鳴った。顔と指先が冷たい。
思い知った。
自分たちは目を逸らして来ただけだったのだ。仲間だけを見て、笑い声で掻き消して、自分を快で満たして。
今も、見る先を夜空にすることはできる。
しかし少女の身じろぎの、悲哀の、音が、声が、耳朶を打ち、容赦なく侵食してくる。聞きたくもないのに聞こえてしまう。
必死に纏おうとしている鎧がそれよりも早く剥ぎ取られ、剥き出しの心を刃が突き刺してくる。
「……いまさら……」
罪の意識に苛まれるなど何の冗談か。
これは改心などではない。悔悟などではない。裁きの、破滅の時が近づきつつあることを察した己の浅ましい自己弁護だ。本当はやりたくはなかったのだと自らに言い聞かせる材料を作りたがっているのだ。
それを理解しても、退けない。もう突き進むしかない。
時間がゆっくりと過ぎてゆく。
もう約束の時刻が近いかと何度も腕時計を確認して、まだ三十分しか経っていない。
そんな中、足音を聞きつけた。
見回りか、それとも生徒でも残っていたのか。
少女の顔に手を当て、耳元で囁く。
「音を立てたら殺す」
押し殺した声は慣れたものだ。少女の体が強張るのを覚りながら耳を澄ます。
足音は真っ直ぐに近づいて来ていた。このまま入って来られるようなことになったら、騒がれる前に少女を連れて逃げるしかない。息を潜めて窺い、そして予想外の事態に言葉を失う破目になった。
二度の、規則正しいノックの音。
『烈火? 入るよ』
俊介の声だった。
どうして居場所が分かったのか。それよりどうしてやって来たのか。最初から分かった上で泳がされていたのか。あれほどあっさりと承諾したことをもっと危険に思うべきだったのか。
どう返事をすればいい。どの選択が正解になるのだろうか。
混乱は烈火に次の行動を禁じた。
もっとも、そもそも時間すらまともに与えられなかった。
俊介は、『入るよ』と言ったのだ。
扉も開けず、何も壊さず、この体育倉庫が幻影であるかのように摺り抜けて、鏡俊介は既に目の前にいた。
全身に氷水を浴びせられたようだった。もはや逃げることも不可能だ。容易く追いつかれて一撃で殺される。
「これは……!」
それでも何か弁明をしようとようやく声だけは出せたが、続く言葉は何もない。
俊介は告げた。
「これが駅前で誰かとの話に出てた子かな」
少女の顔を覗き込み、優しく笑った。
「ちょっと可哀想な気はするけどね、優しいご主人様に買ってもらえるといいね」
そこは無機質な部屋だった。
淡く茶色がかった白い壁と天井が作り出すのは四メートル立方の空間。光は天井そのものが降らせている。
家具と呼べるものは黒檀の机とそれに対応する椅子が正面に一脚ずつあるのみで、来客は立ち尽くす破目になる。
もっとも、不思議なことにこの部屋の主であるはずのオーチェもまた机の脇に佇んでいた。本来そこに座るべき存在が別にいるかのように、控えているのだ。
この部屋は財団派にとって、剣豪派の<無尽城砦>、騎士派の<空中庭園>に相当する、<薄暮離宮>の最奥だ。この外側には無機質な通路と、左右に数多の部屋が連なっているが、使われているのはこの部屋だけである。確かに、各地に<魔人>が散らばっているのだから此処にはオーチェだけがいればいいのだろうが、それにしてもあまりに侘しい。
しかし此処へ来たときには、光次郎はそのようなことはすぐに忘れる。
虚空より即座に抜刀できる心構えで、気を漲らせておかなくてはならない。
原因はオーチェである。
戦う術を磨く者には己の間合いがある。これより内へ侵入すれば如何様にも撃墜する、斬って捨てるという支配領域だ。敵手の間合いの侵略こそは戦いの要の一つとなる。
オーチェの領域を感じる。物理的な圧を錯覚するほどに強く、そしてこの部屋の隅々にまで届いている。これを柳に風と受け流せる域にまで、光次郎はまだ至っていない。
常在戦場とは言うものの、これほどまでに強烈であるのは異常だ。姿勢よく凛と立つオーチェは今も臨戦状態にある。
もちろん、敵は光次郎ではない。此処にはいない何物かを想定し、常に敵としてあるのだろう。この、財団派領域内において最も安全であるはずの場所で不可解な話ではあるが。
そして、どうしても思わずにいられない。もしも自分が奇襲をしたならば、果たして勝てるのか否か。
「さて、何を訊きたい?」
伝言を受け取ったオーチェは怜悧な眼差し、声でそう問うて来た。
光次郎はそこに感情を読み取れない。まるで理知の結晶、機械的にすら思う。
「鏡俊介って男についての知りうるすべてを」
一切の遠慮をしなかった。あのときのライラックの反応は、標的について分かっていて当然であると言わんばかりだった。オーチェは相当な知識を持っているはずだ。
果たして、返って来たのは予想を肯定する言葉だった。
「すべて、か。何から話したものだろうかな」
「時系列順でいいだろ」
「ふむ」
オーチェは頷き、朗々と語り始めた。
「奴が<魔人>になったのはおよそ四年前、今のシステムが確立したばかりの頃だ。現在も生存している中であれより古いのは……おそらく世界中を探しても十名もいない。とはいえ、その頃にはまだ<竪琴>は存在していなかったし、奴も特に何もしていなかった。まともに認識することになったのは二年半前……と言えば何に絡んでの話か分かるか?」
「初めての大規模な反<竪琴>組織の発生か」
光次郎自身は<魔人>となってからまだ二年も経っていないが、話には聞いていた。<竪琴>に対抗するために絶海の孤島に集結した<魔人>の群れがあり、<剣王>新島猛によって滅ぼされたと。
「選民思想に冒されてたとか言ってたが……」
「厳密に言うなら、そう評するのは不適当だな。なぜなら奴らはそもそも人間を人間として認識していなかった。大前提の領域で、犬猫の同類だとしか思っていなかったのだ」
「<横笛>や<魔竜>みたいにか?」
光次郎はきつく眉根を寄せた。言葉の意味自体は分かるが、なぜわざわざそんな言い回しにしたのか、少し違和感がある。
オーチェはかぶりを振った。
「いいや。たとえ悪党であろうと、文字通りの意味で人を人と思わないのは難しい。普通の人間を食いものにするのは、利益もあるだろうがそれとともに己の優位に酔いたいからだ。考えてもみるがいい。犬よりも早く計算問題が解けたからといって、いい気分になれるか? 内心では同列に扱っているからこそ優劣に意味が出る」
「分かるような分からんような」
「感覚的にしっくりこないのはお前が真っ当な感性の持ち主だからだ。言ったように、人を人と思わないのは難しい。そうだな、実例を出せば分かるかもしれん」
オーチェの怜悧な眼差しは変わらない。憤るでもなく、嫌悪するでもなく、淡々と告げる。そうであるのは、あるいは口にする内容がおぞましいからだろうか。
「奴らの中に、ペットには服を着せるべきかどうかで大真面目にいがみ合った二人がいた。ここで言うペットとは人間のことだ。その二人は虚栄心を満たしたいわけでも嗜虐心に流されたわけでもなく、本心から『ペット』のためによかれと思って争っていたわけだ」
「……碌でもねえな」
光次郎は今度こそオーチェの言っていることを正確に捉えることができた。
「つまりアレか、そいつらにとっての<竪琴>は、クジラやイルカを守るためなら人殺しも辞さない狂人集団なわけだ」
「言い得て妙だな。その通りだろう。奴らと我々の間には妥協点が存在しなかった。奴らにとっての当然の権利は我々にとって許容できる範囲を遥かに逸脱するものであり、我々の行う行為は奴らには心の病に冒された者の凶行にしか映らない。だからああなった」
「なるほどな」
妙だとは思っていたのだ。一箇所に集まってくれたのなら殲滅などしなくとも封じ込めることも可能だったはずなのに、すべての可能性を摘み取ってしまったのは最初から共存できる未来が皆無であったからなのだということである。
しかし当然の疑問が湧く。
「それならどうしてあいつは生きてる? 殲滅したんだろう? 逃したのか?」
「いいや、集結の際に最初から合流させなかった。あれは読めない。底がまったく見えない。あれがいるだけで失敗する可能性の方が高かった。本当に、あれしかいなくとも勝てる保証がまったくなかったのだ」
「そこまでか」
光次郎は唸った。
強さを求める剣豪派は自分たちこそが最強であるという自負も持っている。それでも<剣王>とは、死んだ今でも雷名だった。
同時に、そうだろうとも思えた。訳の分からない力ながらも、自分がほぼ一方的にしてやられたのは事実だ。尋常ではない。
「あいつは何なんだ?」
知りうる全てをと言いはしたが、最も知りたいのはそれだ。
「天才的なフルート奏者だ。十代の前半にして優に世界に届く音楽家だった。武道だの格闘技だのの経験はない。つまり、何となく分かっているだろうが、あれの強さは真っ当に積み上げられたものではない。あれは立場も何もかもがちぐはぐだ。組織の長など到底務まる器ではない。実際、あれの理想と<横笛>の実態は乖離していた。真っ当なのは、ああ、てっきり<竪琴>への対抗で名乗っているのだろうとばかり思っていたあの名が、実は単に奴の好きなものだったという下らん事実くらいだ」
珍しいことだった。
付き合いの長いわけではないが、情動の薄く映るオーチェがあからさまな苛立ちを見せるのは初めてだ。
「あのときはあれが全ての計算を狂わせていたと言っても過言ではなかった。あれがこちらにどれだけの被害を与えたか。あれさえいなければもっと無難に各個撃破してゆけたのだ。一度は神官様まで危険に晒す破目になったのだぞ」
最も怒りの籠もっていたのが『神官様まで危険に晒した』という部分だったことに気付きながらも、光次郎は何も言わなかった。
オーチェの瞳はもう冷静で怜悧な色を取り戻していた。
「ともあれ、お前の望みどおりあれについて我々の知る全てを教えてやろう。長くなるがな」
そして問うて来た。
「まず、お前は<魔王>アズィカムーイヤーナの得意技を知っているか?」