<横笛>の襲撃より三日、神官派本拠である<伝承神殿>の熱気は未だ覚めない。
奇襲に対し誰一人として犠牲を出さずに退けた、奇跡のような出来事は皆の心を躍らせたままだ。
立役者と言える<猟兵>を新たな英雄として賞賛する声は止まず、一丸となって成し遂げた連帯感と達成感に熱狂していた。
だがその声も熱も、ステイシアの私室には届かない。
果てのない暗闇に落ちてゆきそうな空間は冷たく、死にも似た静寂を保っていた。
ソファにはステイシア、巨木のように立って向かい合うのは相変わらず気力に欠けたまなざしの名和雅年である。
普段であれば少女の口元には微笑が浮かび、やわらかな言葉、あるいは悪戯な言葉を紡いでいたことだろう。
しかし今、ステイシアは氷像のように凍てついて、ようやくの声も色のない無機質なものだった。
「勝ち過ぎました」
「……勝ち過ぎた?」
<無価値>の言葉に目を丸くし、<栗鼠>は鸚鵡返しに呟いていた。
元々、一旦日本を出るとの<無価値>の宣言に意表を突かれていたせいもある。
駅ビル一階のパン屋の前、行き交う人の数は多いが話し声や靴音による雑音はなお多い。あるいはそのような、名にし負う異能でも持っているのだろうか、そう思ってしまうほどに、二人の声も無価値なものとして紛れる。
会ったのは偶然ではあるまい。こちらの居場所を把握されていたに違いない。
話などしたくもなかったものの、腹立たしいことに<無価値>の言うことは役に立つ。その利点を嫌悪感で潰すわけにはいかなかった。
「ええ、そうです。先だっての戦いにおいて神官派は勝ち過ぎました。いかに底力を持っているにせよ、不意打ちを受けたはずなのに犠牲者ゼロは怪しい。まるでピンチを自作自演したかのようです」
「実際、間違いなくそうじゃん。なんでかみんな認めないけどさ」
本当に、そのことについて<栗鼠>は理不尽しか感じない。<竪琴>だけならば分かるが、こちら側の<魔人>すら精々半信半疑の疑い寄りなのだ。
「何故かと問われれば、凄いには違いないですがそんなものですよ。明確な犯罪者なのに顔さえよければ擁護する人がいる、というのがヒトの性でしてね。擁護すべき者と非難すべき者を分かりやすく対比させられると飛びついてしまう。人間はあなたが思っているより遥かに馬鹿ですし、そんなことはあり得ないと思っているようなら、あなたも自覚なく似たようなことをしているかもしれませんね」
そう告げる<無価値>の、人を蕩かす爽やかな笑顔が最高の皮肉である。
「とはいえ、先ほども言った通り今回は勝ち過ぎました。そのことによって、今までのような曖昧な憶測に留まる領域を越えて、ある程度はっきりした論拠を作ってしまった。センセーショナルな事件の興奮が消え、頭が冷えれば気付いてしまう人も増えてゆくでしょう。こういうのはじわじわと効いて来る毒のようなものなのです」
目の前、今だけを見てはいけませんよ。そう挟んで更に語る。
「おそらく次はありません。処刑人がまた凄惨な殺しを行えば、誤魔化せる限度を超えてしまう。今回のことと合わせれば、『まったく止められない』のだという認識に至り、止められないならそもそも今回の理由付けがおかしい。となればもう違和感を認めざるを得なくなる。止められないのではなく、そうさせているのだとね。<竪琴>以外の目は覚め、<竪琴>にも亀裂が入る。そうしたら楽しいことになりますよ」
「むしろここまでしなきゃいけないのがびっくりだわ」
<栗鼠>は鼻を鳴らした。
不愉快だ。要は敵にさえそれだけの信用があるということである。全ての者に悪意を持つ<栗鼠>であるが、自分よりも価値のある女にこそ最大の敵意を抱く。
そのことを当然知っていながら気付かぬように、<無価値>は人好きのする笑顔で朗らかに、ぽんぽんと手を軽く打ち合わせた。
「神官派が採るであろう手段は何種類か考えられます。まずは<呑み込むもの>自体を出さない。そして、出すが今までのようなことはさせない。これについては、どちらにせよこちらにとって非常にありがたい展開です」
「そうね」
それはつまり、人質などの卑劣な手が使えるようになるということだ。
そういった手段は通用してこそ意味がある。まったく躊躇せずにこちらを殺しに来られては、労力を費やして自分の荷物を増やしているだけになってしまう。
こちらの行動を読める神官派にはそれでも通じにくいところはあるだろうが、人の悪意こそ最強であると信じる<栗鼠>はそれを困難とは捉えない。
「それは確かに楽しそう。あいつら心は脆そうだしね」
「ええ、僕にとってもひとつ、いいことが分かりましたしね」
「あっそ」
<無価値>は実に愉しそうに笑う。<栗鼠>はそれが気に入らない。こんな愉しみは自分だけのものであるべきだ。いや、共有したいときもあるが、少なくともこの男では大切な宝物を奪われているようにしか思えなくなってしまうのである。
「<神官>ステイシア。聖女とされる彼女の本性は一体何であるのか、今までは判らなかった。さすがに直接顔を合わせるわけにいきませんからね、又聞きばかりでは外面しか見えてこない。しかしこれで推測程度はできた」
<無価値>の声も表情も、どこまでも優しい。容易く壊れてしまうものを、慈しむように。
「彼女は本当に優しいのでしょう。大して役にも立たないのだから二、三十人ほど死なせておけばいいものを、全員守りたいがためにズルを駆使して生き残らせてしまった。必死だったのでしょうねえ。分かっていながらそうしてしまったのか、気付かなかったのか、いずれにせよとうとう判断を誤った。素晴らしい。彼女は今、悔いることすらかなわない。なぜならば失われるはずだった命を救ったのだから、悔いることは救った命に対する冒涜となる」
是非その顔をこの目で見たかったものです、<無価値>は心底残念そうに呟き、途切れることなく続ける。
「そして、本当に優しいからこそこれほど苦労させられているのです。同僚を見ていてしみじみ思いましたね、人を最後の最後に動かすのは真心です。人間はあなたが思うよりも馬鹿ですが、あなたが侮るよりも賢い。優しさが演技ではないと無意識に覚ってしまうから、疑う心を否定するのでしょうね。僕がどれほど技術を駆使してみたところで、行き着く果てで本物には及ばない」
そう締めくくり、手にしたスーツケースを引いた。
もう行くということなのだろう。二度と戻って来るなと念じつつ、<栗鼠>は嘲るような笑みを浮かべた。
「最後に言い残しとくこととか伝えとくことはある?」
遺言を求めるように問うてみたのだが、<無価値>には通じない。
「そうですねえ……魔女派の殺戮人形ですけど、うまくすればあと少しで始末できるようになりますよ。手は打っておきました」
「ふぅん」
魔女派最強もこの男にかかればどうにかできてしまう相手であるらしい。気のない返事になったのは、禁じ得ぬ戦慄を隠そうとしたせいだ。
<無価値>は口先だけで人を動かし、そう旨くいっているようには見えないにもかかわらず、気がつけば<竪琴>を少しずつ追い込んでいる。
たとえば自分ならばどうするだろうか。遮るものすべてを薙ぎ払うあの殺戮人形を、どうすれば屠れるだろう。
答えの出る前に<無価値>は困ったような笑顔で片手を振った。
「いや、あくまでもうまくいけばですからね? あんまり期待されても困りますよ? そしてあと一つ」
「何?」
「神官派が採るであろう手段ですけどね、実際には多分……」
「雅年さん、あなたには<竪琴>を離脱していただきます。そして<竪琴>はあなたを敵であると宣言します」
感情の含まれぬ硬質な表情と声で、ステイシアはそう告げた。
対する雅年も気力に乏しいまなざしとともに応えた。
「それで、僕は形式上独自に殺して回るのか」
創り上げるシナリオはこうだ。<竪琴>の温いやり方を見限った<呑み込むもの>はこれを離反、<竪琴>もまた凄惨に過ぎる<呑み込むもの>をこれ以上御しきれぬと判断、排除を宣言する。以降、名和雅年は個人の独善で害悪を葬り続ける。
それは疑惑が確信されてしまう前にすべての悪を押しつける蜥蜴の尻尾切りであり、同時に攻勢に転じる手でもある。
これ以上は手元に置いたところで飼い殺しにしかできない。しかし手放してしまえば、神官派は虐殺を認めないという態度を示せるとともに、<横笛>にとっては脅威が存続する。それどころか束縛がなくなった分、より大きなものとなる。
無論のこと、神官派が失う益は絶大なものとなるが、それはこのままでも変わらない。
ただし、一つだけ問題がある。
「敵と認定する以上、<竪琴>はあなたに攻撃を仕掛けなければなりません」
ステイシアは未だ氷像のようだった。
「生半な戦力では<呑み込むもの>を仕留めることなど出来ない、それは誰もが分かっていることです。<横笛>よりも優先順位は低い、それも通るでしょう。けれど茶番であると思われてはならない。そして……」
「返り討ちにして<竪琴>の戦力を減らすわけにもいかないのか」
「はい。そこに付け込まれては意味がありませんから。もちろん、あなたの抑止力としての価値を落としてもなりません」
勝ってはいけない、負けるのは論外。逃げるのもまた同様だ。つまりはまともに戦闘に持ち込まれてはいけないということである。<竪琴>の目をかいくぐって標的を屠り、悠々と去らなければならない。神官派との繋がりを疑われかねないため<夢現世界・廃滅王宮>も使えない。
「何とかすると言いたいところだが、さすがに実現は難しいだろう。やれと言うならやるが」
気力にこそ乏しいが、雅年の双眸には冷徹な理が宿っていた。それをステイシアは知っている。不可能と言わなかった以上、結局は成し遂げるのだろう。
出会ったときからそうだった。頼もしくあり、それ以上に不安を誘う。
向き合う二対の視線はほんの2メートルの距離に過ぎない。立ち上がり、足を進めて手を伸ばせば触れられるだろう。なのに、どうしてか届かないと思えてしまう。幻であるかのように感じてしまう。
ステイシアは、それでも氷像の如くに。
「指示のための連絡役は向かわせます。<隠密>殿がいいでしょう。本業ですし、手透きのようですし、何よりあなたを敵視してはいない。私の顔を立てて何も言いませんが、元々エリシエルさんはあなたのことを危険と見ているようですし、オーチェさんも有効に使えるうちは黙認しているだけで、ことによると本気で排除にかかる可能性もあります。今はそれどころではないのが僥倖ですけれど」
「発表はいつになる?」
「すぐにでも。早ければ早いほどいいでしょう。あなたも早急に遠くへ移動してください。領域内にいられると、討伐チームを組まなくてはいけなくなってしまいます」
<横笛>の襲撃を完全に凌いだ今こそ、神官派にとっては戦力が充実し、動くべきときだ。今、標的に対して勝てるだけの戦力を当てられないのであれば、この先もないということになってしまう。だから神官派領域から退去しなければならないのだ。
「それから」
ステイシアは平坦に、まだも告げる。
「そうなれば当然ですが、春菜さんに会うことは罷りなりません」
この一言のためにすべてを抑えていた。
この一言を恐れ、だからこそ吐き出してしまいたい。
しかし。
「分かった」
それだけだった。頷いて、あっさりと背を向けた。
ステイシアのくちびるが震えた。被っていた氷の仮面に罅が入った。
「待ってください!」
ロングコートの姿は振り向かない。足を止めただけで次の言葉を待つ。
その背に悲痛なまでの声が降り注いだ。
「構わないのですか!? あなたは彼女のために信念を曲げてまで<魔人>となり、手を汚したはずです! なのに……なのに! どうして日曜を潰すんだって、いつも文句を言ってたじゃないですか……」
「構わない。問題ないというから会っていただけだ。会わない方がいいのならそれでいい」
今度こそ半身を振り返らせ、しかしそこにあるのはいつも通りの名和雅年だった。気力に欠けて、そのくせ質量すら思わせる意思を潜ませて。
「僕は約束通り仕事を果たすだけだ。ステイシア、連絡は出来る限り早く寄越せ」
その瞳は、こちらを向いてはいても、見てはいない。望みに呑まれることなく、遮るものすべてを排除しながら願いへと突き進んでゆく。自ら言う通りの外道なのだ。
本当に、初めて会ったときから変わらない。
変わって欲しかった。『本物』ではないのだ、いくらでも変わってゆけるはずだったのに。
変わらぬことを決意していたわけではなく、あまりにも意思の質量が大きすぎるのだ。ステイシアの細い両腕はまるで無力だった。
狂おしく、それでも手を伸ばしかけた。腰は浮いてしまった。だが、結局は為せない。
神官派の統括にして<竪琴>の筆頭、この立場がステイシアにそれ以上の言葉を、行動を許さなかった。
再び歩き出したその背へと、搾り出せたのは一つだけ。
「どうか……ご無事で……」
伏せた瞳、長い睫が震える。
ロングコートの姿が消え、息を詰まらせ、血を吐く響きであと一度だけ。
「……どうか」