果てのない夜空を思わせる部屋に数多の情報が飛び交う。
その全てを独りで処理しながら、ステイシアはほんの少しだけ想った。
今回、雅年は<夜魔>以下六十余名の情報を一切有していない。むしろ<夜魔>に関してはいかなる存在であるかの情報を蒐集する鍵となってもらわなければならない。
「……雅年さんですから不明な相手は逆に得意なくらいなのでしょうけれど……」
呟く。
問題ないはずだと結論づけながら、案じてしまう。
そんな風にほんの少しだけ想って、切り替えた。
日が変わると同時に始まった<紅蓮狼>一派による神官派への襲撃は苛烈を極めている。
敵が行っていること自体は単純、普通の人間にちょっかいをかけてこちらを引っ張り出すというそれだけのものだ。ただしこれを数十箇所もで同時に行われると対応に苦慮する。理念上、無視するという選択肢を採れないからだ。
神官派の大半は<魔人>として最低限かそれよりはましかといった力量に留まる。士気も決して高くはない。彼らで受け止め、向こうの動きを見ながら戦力を補充して維持、決戦戦力を投入して片付ける。こちらから誘ったとはいえ危険は本物、綱渡りである。それでも<竪琴>のためにやり遂げなくてはならないのだ。
そのためにステイシアは十の報告を同時に受け、二十の指示を同時に下す。
不可能であるはずのことを為すのは可憐なくちびるではない。鈴を転がすような音声だけが闇から響き、それぞれの相手に伝えているのだ。
だから全てを処理し続けながら余計な言葉も呟ける。
「やらせない。三六八と皆を侮るな」
矛盾である。独断で、神官派の一握りにしか伝えることなくこの手を採り、危険に晒しながら、護りたいのもまた彼らなのだ。
響きは無限へ融けてゆく。
あるいは、ハシュメールならばそれを耳にしたやもしれないが。
「俺さ、モテたかったんだよ」
少年が語る。
「細かいとこは訊くな。とにかくモテたかった。それで<魔人>になった。思い返したら怖いよな、なんでそんなことのために八割以上死ぬようなことやってんだか」
往々にして衝動は道理では止まらないものだ。ましてや損得勘定でなど。むしろ無謀を美化してしまいさえする。
「でもまあ、無事<魔人>にはなれた。けど何なんだよ、肝心の女がいねえよ。男女比十九対一ってマジかよ!? ってかほんとに十九対一で済むのかよ、モテる前にそもそも碌に見かけねえよ!」
少年は語る。誰も聞いてはいないのに。
人の耳はある。だが誰もが己のことに精一杯で、聞こえないのだ。
「だから<闘争牙城>はチャンスだと思った。腕にはちょっと自信あったからな。<夜魔>を彼女にできると思った。結果はごらんの有様だけどな」
それでも少年は語る。震える声で、自分という存在が確かに此処にいたのだと、灰色の夜に刻み込もうとするかのように。
少年たちは駅前の広い道路に面した建物の陰に隠れている。息を潜め、とはいかない。何やらぶつぶつと呟いている者もあれば深呼吸を繰り返す息遣いもある。
待っている。
協力して処刑人を斃せと<夜魔>は言った。
戦力の逐次投入は愚策と、少年たちのほとんどは判断した。
本当は逃げ出したいのだ。隠れて、災厄が過ぎ去るのを待ちたいのだ。
しかし<夜魔>の命に逆らえば死にたくなるほどの苦痛に見舞われ、災厄は自分たちを全滅させるまで留まると推測される。やるしかなかった。
待ち伏せにならぬ待ち伏せ。誰もが平常ではいられない。手練れの<魔人>であるのなら、少し注意すれば音に気付いてしまうはずだ。
声がする。神経質に壁を叩く者もある。舌打ちを止められない者も、病じみて不規則な息を漏らす者も。
そこに、更に一つ加わった。
こつり、こつり、と靴の音。ゆっくりと、一拍たりとも揺らぐことなく。
雑多な音が静まった。この灰色の景色、既に死んでいたかのような世界が今更のように凍りついた。
訪れた静寂の中、靴音だけが変わらず耳朶を叩く。時を刻む音に似て無情に、淡々と、万物へ公平に訪れる。
死が、いる。すぐそこにいる。
耐え切れず最初に飛び出したのは誰だったろうか。けたたましい声、悲痛な叫びを上げて襲いかかる。
処刑人の歩みは止まらない。替わりに虚空が揺らいだ。
振り下ろされた刃を左の前腕に沿わせて流し、右の巨拳が胸の中央をいとも容易く貫いた。
足元の影に潜んだ一人を影ごと踏み殺し、歩みは止まらない。何事もなかったかのように処刑人は行く。
「砲撃ッ!!」
合図は悲鳴にも近かった。遠隔攻撃を得手とする十名のうち此処にいる九が、ビルの陰から、上から、正面から、背後から、縦横上下に力の限り持てる攻撃を撃ち込む。隙間などない、切れ目などない、対応不能の飽和攻撃。
光芒が目を灼く。止められない。意識を放れて九名の肉体は力を放出し続ける。そうしなければならないと本能が悟っている。
しかし光の中で処刑人の歩みは緩むことすらない。隠して織り込まれた細く強い、貫く攻撃のみを的確に弾きながら、あとのものは直撃を受けてなお傷の一つもない。
不意に、地面を大きく蹴り捨てた。ロングコートの姿は消え去り、同時に合図を告げた少年の横にふらりとあった。速さではない。二つの地点を繋げた、比喩ではなく文字通りの縮地だ。
理解の暇などない。いつ動き始め、いつ打ったのかも分からぬ左の裏拳によって少年の頭部は弾け飛んでいた。
鮮血が宙を舞いながら薄れ消える。少年についていた護衛二人は今更のように斬りかかるが、力任せとすら映る右腕の薙ぎ払いによってまとめて胴の上下が泣き別れた。
死した<魔人>は塵も残らない。渦を巻くようにして滅び去った。
まずは五名。ロングコートがまたも灰色の夜に翻る。
歩みはゆるりと、けれど一息たりとも処刑人は止まらない。
ビジネスホテルの屋上から見下ろす視線、二対。
一方は気だるげに額をフェンスへと押し当て、もう一方は少し離れた位置に直立している。
「要は」
フェンスの少年の口の端が釣り上がり、嘲る声が漏れた。
「死にたがってるんだよ、あいつらは。逃げたいけど逃げられない、戦っても敵わない、ならいっそ苦しくないように殺して欲しい。一斉にかかった方が勝率がある? 馬鹿言え、敵戦力も分かんねーのに突撃するアホがあるかよ。まあ、囮にはちょうどいいが」
「生きたがりの<贋金>が言うと妙な説得力があるな」
もう一人、<連星>がぼそりと呟く。離れた立ち位置と同じく声にも隔意が滲んでいた。
<贋金>などという不名誉なあだ名を持つこの少年は、<夜魔>の下僕の中でも最も下劣な男と言っていいだろう。強きに諂い、弱きを見下し、<夜魔>の関心が薄いのをいいことに、街に繰り出しては暴力と恐喝とを繰り返していた。もしも入手手段があったならば違法な薬物の販売にも手を出していたのではなかろうか。
そのくせ<夜魔>に対する態度だけは本当に従順で忠実そうで、その裏と表の様はまさに片面ずつ見せる贋金貨。私闘が禁じられていなければ間違いなく<連星>か小五郎かが手を下していただろう。
もっとも、そうなっていたとしても成功したかどうかは分からない。これでいて<闘争牙城>出身者としてはおそらく一、二を争う力量の持ち主なのだ。
「自分で言うのもなんだが、オレは悪党だ。まさに処刑人に殺されるに最も相応しいんだろーよ。だが嫌だね」
「死にたくないか」
「ああ、死にたくない、死にたくないね」
<贋金>が歯を剥き出して笑う。
「生き延びるためなら何だってする。死んでたまるか。今までもそうしてきた。これからもだ」
凄惨なまでの思いを口調に滲ませ、フェンスを軋ませる。
おそらくは、人だった頃、<魔人>となってから何かはあったのだろう。今更詮索する意味もないが。
<連星>はひとつ大きく息をつき、問うた。
「それで<生きたがり>、処刑人をどう見る? 眺めていたが何も分からなかった、じゃ無策で突撃していた方がましだったってことになる」
二人の視線の先ではロングコートの姿が戦っている、と言っていいのか否か。あまりにも一方的で、虐殺とでも呼ぶ方が適切なのではなかろうか。
一つの動きごとに一人は死んでゆく。逃げられぬと知っていても反射的に背を向けようとする者が幾らかあろうはずなのに、狂乱しながらも処刑人へと向かってゆくのは、なるほど、確かに死にたがっているのかもしれない。
「一回だけ、あいつ瞬間移動しなかったか?」
「したな」
頷く。砲撃担当の指揮役を屠ったときだ。そのせいで残る八名は自分の恐怖の赴くままに乱射し、統制など欠片までも奪われ、既に全滅した。
あれは踏み出した後の過程がまったく見えなかった。まさに空間を渡ったとしか思えない。
「『抜き』はまるで分かんねーが『入り』は大きかった。やるときは多分判る」
『抜き』とは終わり、『入り』とは起こりだ。前兆を察知してその場を大きく飛び退けば少なくとも奇襲は受けないと、そう言っている。
そのものへの異論は<連星>にもない。が、気付いたことはもう一つある。
「あれ以来見せないがな」
「隙くらい承知してんだろーよ。最初に見せておきさえすれば、そいつを警戒して余計なところに意識を割いてくれるってとこか? ああやだやだ、もっと雑にやってくれりゃいいのによ」
ぎしりとフェンスが鳴る。表情は<連星>からは見えない。が、フェンスを鳴らしたものは指の強張りだと推測はついた。
振り向かぬままに、今度は<贋金>が問うて来た。
「てめーの方こそ何か見つけられたのかよ?」
「……<魔人>というのは二種類いると俺は思ってる」
「回りくどいのはやめろ」
「どうせもう少し時間はあるだろう。焦りは害にしかならない。フェンスを握り潰して落ちたら格好悪いぞ?」
視線の先で、この瞬間にも一人が消滅した。あと一分ほどで終わりそうではあるが、話を続けられないほどでもない。
鼻を鳴らす<贋金>。
「……二種類な。生きたがりと死にたがりか?」
「実に『らしい』な。だが俺の分け方は別だ。力のレベルが、天井を越えてこちら側に来てるかどうかだよ」
<連星>の双眸は、数時間前に優しく少女を見ていた目とは思えぬほど冷徹に輝く。
「大半の<魔人>の力は生身の人間とは比べ物にならないほど強大だというだけだ。その中にも優劣はあるとしても、ある地点に天井が存在している。その天井の上と下では大きな差が生まれている。あまりこういう言い方はしたくないが……」
「あいつらは雑魚だ。ああ、分かった。何が言いたいのか、嫌んなるほどな。あいつらは脆い。少なくともオレたちにとっては」
それは密度の違いとでも言おうか、あるいは結合強度にでも喩えようか。硬く強い物質を脆く弱い物質に叩きつけたかのような結果がそこには現れる。
<夜魔>が下僕としたのは一人を除いてすべてこちら側に至った<魔人>だ。
「てめーの言う天井の上の奴らは頑丈だ。全力で攻撃したところでそう簡単には死なない。直撃でも一撃では死なない。だから<闘争牙城>で決闘をやって生き残れる。頑丈なんだ。だがそれを、そのはずのものを一撃で殺す奴がいる。<妖刀>のように」
「そして<剣王>>のようにな」
<連星>の声は溜息とともに。
「俺は並みの<魔人>を一撃で殴り殺せる。だが胴体をぶち抜くなんて真似はできない。つまり処刑人にとっての俺たちは」
言葉を切るつもりはなかった。歯の根が合わない。つい先ほどまでは根城だった此処も今となっては書き割りじみ、確かなはずの足元が崩れ落ちそうに思えてならない。
この瞬間に、最後の一人が葬り去られた。そして当たり前のように処刑人がこちらを見たのだ。気付いていたのだろう、最初から。そして逃さない。
「……俺たちにとっての普通の<魔人>かそれ以下ということだ」
結局分かったのは、弱点を云々する以前に到底敵う相手ではないということ。攻略法など思いつかないということ。
だが、絶望を目の前に震えても、侵されてはいなかった。
<贋金>が言う。
「で、最後に訊いとくが、いいのかよ? ここで潔く死んどいた方が<竪琴>のためじゃねーのか?」
振り向きはしない。目を離せば次の瞬間に死んでいるかもしれないからだ。
それは<連星>も同じ、こちらへと歩き出した処刑人に宣言するかのように、震えを止めて顔の前で両の拳を握った。
「これが明日の今頃なら死んでよかった。けど、絶対に会いに行くと約束した子がいるんだ。何を犠牲にしてもまだ死ねない。誇りも何もかも捨ててやる、この約束だけは果たすんだよ」
口元にも笑み。お返しとばかりに煽る。
「お前こそいいのか? <生きたがり>としては念のために命乞いくらいしておいた方がよさそうに思えるけどな」
「馬鹿言え。快楽殺人鬼にだって駄目で元々で靴舐めてみるオレだが、津波に命乞いするほどアホじゃねーぞ」
<贋金>が腕を振った。握られているのは何の変哲もない鉛筆である。しかしフェンスがぱくりと幾つにも断たれてゆっくりと外側に崩れ落ちた。
アスファルトへの激突音が存外に軽い。目の前に開かれた前途は死をもたらすものへと続く道。
「最初で最後の共闘だ、クソ<竪琴>。今回だけは後ろから撃たないでやる」
「ああ、お前をやるのはこの次にしてやるよ。命乞いなんか聞かない」
二人の間に信頼はない。しかし互いの生き延びる意思だけは信用できた。
先に行くのは<連星>だ。<贋金>を追い越し、虚空へと身を躍らせる。
処刑人はもうすぐそこだ。