――――残り三時間
夜空を翔ぶ。
建物の屋上を跳ね、あるいは越えて<連星>は行く。
昼から続いていた<夜魔>の部屋の門番を、先ほどようやく解任されたところだ。
茫洋としていた瞳には光が戻り、自身ですら現金なものだと思う。それでも心の内に湧き立つもののあることを否定したくはなかった。
駅を三つ分、東へ。八キロメートルほどだろうか。許可なく<夜魔>から離れることのできる、ほぼ限度だ。
地上の光は、宝石と見るには少し近すぎる。人の営み、息吹を感じ取ってしまう。繁華街には酔っ払い、自転車で駆け抜けるのは部活か塾で遅くなった高校生だろうか。頭を突き合わせてゲームに興じている者もあれば、小さな子供の手を引く母親もいる。
<連星>が降り立ったのは十階建てのマンションの傍だった。道路から玄関へ、蔦の絡みつくアーチが通路を形作る、その入り口に目的の姿を見出した。
十代後半の少女。高校二年生ということだから一つ下になることを<連星>は知っている。
こちらに気付いた少女の顔がほころんだ。
「時間通りですね!」
風呂上がりなのであろう、肩までの髪はしっとりと濡れて、薄く朱の散る頬にも幾筋か張り付いている。
容姿は十人並み、お世辞になら可愛いと言える程度。だが。
「ついさっきまで動けなくて。急いで来たよ」
「それにしては息も切れてませんね」
後ろに手を回したまま朗らかに笑う彼女を、<連星>は掛け値なく可愛いと思った。
出会いは六日前。絡まれていたところを助けたという、<魔人>になるまでは、実在しないこともないだろう程度にしか認識していなかった状況。三人いたが重傷を負わせない程度に軽く撫でて追い払った。
「体力には自信があるんだ」
とぼけた返しは意図的なものだ。彼女には名前すら教えていない。万が一にも巻き込んではならないと、そう思ったからだ。<竪琴>と戦争状態にあるからというだけでなく、そもそも<夜魔>に気付かれたならまず生かしておいてはくれまい。
彼女の方も何か危険であることだけは承知しているのだろう。問うて来たのは最初の一度だけ。あとはこうして互いに名を知らぬまま毎夜会っている。
本当は、こうしていること自体が間違いなのだ。巻き込まぬようにというなら、あの場だけの関わりであるべきだった。
しかし、お礼をさせてくださいと、目を輝かせる彼女に逆らえなかった。一度だけならと流された。
それが二日、三日と続いて今夜まで至る。
「あの……」
背後から少女が取り出す、小さな透明の袋。シンプルな青いリボンでラッピングされたそれにはクッキーが十個ほど入っていた。
「焼いてみたんです。初めてだったからあんまり見栄えとかよくないけど、その…………よかったら」
早口、それから口篭り、最後は囁くような声で。
上目遣いに内心を照れに波打たせながら、<連星>は受け取った。
「早速貰うよ」
リボンを解き、一つ口に放り込む。
見た目も手作りとして並、味も並、何もかもが普通の代物だ。
だが。
「美味い」
嘘ではない。美味しいと、そう感じた。
気を遣われていると思ったか、少女の顔に喜びたくて喜びきれない複雑な色が浮いた。
「なら自分でも食べてみるといい」
「いえ、充分味見してますから!」
ひょいと差し出せば、両手を振って拒否するものの、強引に口元まで持って行き、せめて手で受け取ろうとするのまで押し切って食べさせる。
少女の顔が茹で上がった。
「……やっぱり普通です普通!」
「そうだね。普通だ。普通で、美味しい」
<連星>は笑った。心の澱が溶けて消えてゆくようだった。
少女が自分に対して好意を抱いているのは察している。そうでなければ怪しい男と毎夜会おうとしたりはしない。それが恋心に達しているのか否かまでは確証が持てないが。
「結局普通なんじゃないですかー!」
少女は取り立てて美しくはない。容姿をある程度己で決められる同性の<魔人>たちの誰にも敵わないだろう。<夜魔>と比べようものなら、まさに足元にも及ばない。
しかし<連星>にとって少女は煌いて見えた。
笑い、はにかみ、膨れ、そんな他愛のない表情が掛け替えのないものに思える。
「それより聞いてくださいよ、今日学校で……」
照れ隠しと強引に話題を変える様も可愛らしい。頬の朱が抜けていないのに。
<連星>は財団派に所属する<魔人>だった。あだ名がついているのは伊達ではなく、財団派でなら少しは知られた存在だった。
己を鍛えることに一番の喜びを見出していたものの、色恋にも疎いわけではなかった。<魔人>になる前には何人か付き合った相手もいた。
だが、今のこの少女とのやり取りは習得した技術ではない。すべて本音だ。
<夜魔>の支配下に置かれて以来、心を瓶に閉じ込めてきた。小五郎のように己を保ち続けることはできずに屈し、だからといって媚びることもできなかった。
日々削れてゆく感情、広がってゆく諦念。定められたことだけを実行する機械のようにいた。周囲も似たようなものだ。媚びるか無気力に堕ちるか、いずれにせよ<夜魔>への憎悪や隔意はあるが。
絡まれる少女を見かけたのは見回りの最中だった。そのとき、<連星>は己がまだ<竪琴>であることに気付いた。
当たり前のように少女を助け、そのまま立ち去ろうとした。
『あの!』
背中にかけられた声に足を止め、引かれた袖に抗うすべを持たなかった。
『ありがとうございました!』
見上げてくる少女の懸命な顔を、初めて見るというのにひどく懐かしいものに感じた。
それは瓶の蓋を開け、乾き切った心に染み透る雨粒の如くとめどなく降り注いだ。
だからだろう、二度と会わぬ方がいいはずなのに押し切られてしまったのは。
この少女の前でだけ、<連星>は人間に戻れる。
少女の話は続く。熱い吐息で、寄せた身の薄い生地越しに伝わる体温とともに。
仲のいい友人のこと、嫌いな教師のこと、試験が多すぎること、とりとめもなく。
そして楽しい時間はまたたく間に過ぎ、別れの時が来る。
「明日も……会えますよね……?」
不安の中に甘える響き。
こんな関係が長く続くはずもないと少女は察し、<連星>は理解している。
それでも迷わず頷いてやった。
「ああ」
「絶対ですよ?」
「絶対にだ」
そう、今夜も約束がなされたのだ。
――――残すは四十七分
横山誠は屋上で星を見上げる。
不意に掴めそうに思えて、理不尽を行う<魔人>にとってもその輝きはあまりに遠い。瞬きも意地悪く、遥か彼方にいる。
涸れた井戸の底から世界を見上げているように、今の誠には感じられた。
同じ世界にいることすらできない。声は聞こえるのに、切り取られた空はそこにあるのに、届かない。
顔を覗かせる誰も、引き上げてはくれない。この頼りない手足で這い登らなければならない。
できるわけがないと理性が嘆息する。誠の<魔人>としての力はまさに最低限、ここには自分よりも遥かに強い者しかいない。
最弱が何らかの切欠を経て最強へ。そんな奇跡を、都合のいい夢を見るほど心は落ちぶれていない。
ならば僅かずつでも積み上げるしかない。<帝国>のほとんどは置かれた状況のせいで停滞してしまっている。理屈の上ではいつの日か凌駕できてもいいはずだ。
が。
「……下らない!」
吐き捨てる。
比べるべき相手がそんな腑抜けであっていいわけがない。<夜魔>を守るのであれば、その敵よりも強くならなければ。
彼らは研鑽しているはずだ。きっと自分が死に物狂いで一を積み上げている間に五や十を積み上げてゆくのだ。
であるならばやはり諦めるのか。
それもできない。
<夜魔>。
彼女のことを思うと、見捨てられないと思ってしまうのだ。まるで親とはぐれた子供が泣いているようだと、そんな風に、自分如きが、まさにお笑い種だが。
まだ閉ざされていない。見つけられていない道が残されている。たった一つだけの希望を握り締め、誠は天を睨んだ。
――――あと二十九分
二振りの剣を両手に顕現させる。
刃渡りは肘から指先程度。右は白刃『上顎牙』、左は黄刃『下顎牙』。
二つ揃って『ヴリトラファング』、相馬小五郎の有するクラウンアームズだ。
その二振りを繰る。
小さなビジネスホテルではあるが、三階のエレベーター前は一階のロビーに次いで広い。鍛錬には誂え向きだ。
とはいえ激しく動けば壊してしまいかねないため、できることは限られる。
ゆっくりと、本当にゆっくりと刃が空を分ける。用いられている力は動かすのに必要な最低限。武を志す者は不要な力を嫌い、削ぎ落とすものだが、小五郎は何よりもこれを重視する必要があった。
細かな芸はない。基本の動きをひたすらになぞってゆく。双剣を同時には刃として使わない。右を剣として、左を盾として。左を剣として、右を盾として。足払いからの突き下ろし、あるいは鈍器として叩きつける。
通りすがりにちらりと見る者はいても、誰も注意を払わない。意義を見出せないのだ。小五郎の動きはどこまでも地味だった。
鍛錬は淡々と続く。泥沼のような現状と不確か過ぎる未来にも今は苦悩しない。
それが相馬小五郎の強さの欠片であるのだ。
――――あと
時計が
――――十三分
音を刻み
――――九分
針が
――――五分
時を刻む。
あと――――
頁をめくる。
――――五十五
もう幾度読み返したのだろうか。
不快であるのに、恐ろしいものを見たくなる。
<夜魔>は慣れ切って、頁をめくる。
――――二十七
不快であるのに、すべての流れを知っているのに、結末を渇望せずにいられない。
憧れているのだと、認めない。
――――十一
もう、最も恐ろしいところに差し掛かる。
――――五
進めたくない。
――――四
けれど止まらない。
――――三
一行、一行、文字が。
――――二
迫ってゆく。
迫って――――
――――世界が灰色になった。