――――残り十三時間
自室と定めた部屋で、<夜魔>は書き物に没頭していた。
カーテンを閉めれば電灯の明かりも頼りなく、しかし薄暗い中でも<魔人>の瞳には不足ない。背筋を伸ばし、品よく腰掛けた姿は一個の手本のようで、真剣なまなざしと時折憂えげに漏れる吐息が艶やかに薫る。
用いているのは備えつけのメモ帳とペン、それから持って来させたルーズリーフである。
するすると流れ記されてゆく文字は、達筆と呼ぶには万人に読みやすく、麗しい相貌が思わせるよりも力強い。若さのある佳い手だと、書の心得ある者ならば思わずにいられないだろう。
作成されてゆくのは編成表だ。試しはメモ帳に、吟味してからルーズリーフに。
先ほど最初の下僕が来た。重要な話があるというから一応耳を傾けてみれば、財団派にはまだ多くの戦力が残っていて危険だと、分かり切ったことを今更言う。
呆れながら追い返した。まさかその程度のことすら認識できていないと侮られていたとは、思い返す都度腹立たしい。
だが、不意に違和感に見舞われたのだ。力尽くで無様に引きずられてゆく誠の姿には今更溜飲が下がることすらなかったものの、その必死に我知れず歯車の狂いを感じ取った。
分かっている、大丈夫だと彼には言い放った。いつもの返しだった。しかし、本当に大丈夫なのか、なぜ問題ないと自分は言うのか。
何でもできた。誰にも負けられない。触れさせない。だから問題などあってはならない。
そう煮えていた頭が、少しだけ冷えた。
軍隊はなぜ強いのか。肉体と技術と知識を鍛え、武装し、戦術を練っては一個の群体として機能するからだ。
数は力というが無軌道な個は各個撃破されるだけである。怪物じみた圧倒的な力を有しているのでもない限りはだが。
こんな当たり前のことにどうして気付かずにいたのだろう。
狭窄した視野が欲しい結論を前提として論理を展開していたことまでにはまだ思い当たらない。
それでも<夜魔>は素直に組み立て始めていた。
まずは財団派出身の下僕たちからの情報収集。改めて小五郎も呼んだ。彼がまだ寝首をかくことを諦めていないのは承知している。しかし結果的に嘘は見抜けるため問題はない。他の者から聞いた話とも矛盾しなかった。
やはり最初に挙げられるのは昨日も聞いた名、<三剣使い>。少女が身を変えた剣を、その名の通りに三振り使うという。
「……剣化<魔人>」
呟きが漏れる。以前から呼び名だけは聞き知ってはいるのだ。しかし一度たりとも目の当たりにしたことはなく、それこそまともに耳に入って来たのは<三剣使い>がそれを扱うという噂のみである。
この剣化<魔人>についての知識を、<夜魔>は先ほど小五郎から聞き出した。
あまりよく知っているわけではないが、と渋い顔ながらも語った内容は信じがたいものだった。
本当に<魔人>が剣になるという。
いかなる手段でか、縦横無尽の機動力を与えるという疾風式。
使い手の一撃に計り知れない重さを与えるという大地式。
投射や領域攻撃を増幅する火炎式。
戦う力のすべてをほぼ均等に補助する水妙式。
このうち、<三剣使い>と契約しているのは疾風式、大地式、火炎式。それも、上位に属するという。
彼女たちを切り替えながら<三剣使い>は幾つもの事件を解決してきたのだ。
その強さのほどは疑う余地もないだろう。具体的なことは知らないとはいえ、彼らが中心となって関わったという『氷河事件』、<赤蜘蛛>討伐の二つの噂は<闘争牙城>にまで届いていたくらいなのだ。
そして今、<三剣使い>を取り込もうという考えは<夜魔>の中から消え去っていた。
小五郎は言った。剣化<魔人>との契約は、互いに命を懸けられるほどの絆の下に成ると。
紅いくちびるを噛み締める。字が乱れる。
湧き上がるのは箍を爆ぜ飛ばさんとする瞋恚と、腐れ落ちそうな妬心。
絶対に許してはならない。存在させてはならない。
薄れようとしていた靄が、また濃くなってゆく。
しかし頭を振って振り払った。
「……だめ。これはあいつの策略」
<夜魔>も感づいてはいる。何かにつけて逆らう小五郎がなぜ契約の条件まで口にしたのか、推測できないほどはもう呆けていない。
本当に忌々しい。あれだけ散々痛めつけられておきながらまだ屈しないのだ。こちらの隙を虎視眈々と狙っている。
しかし、だからこそ甲斐がある。捻じ伏せることにも意味があろうというものだ。
そう思ったときだった。
ドアをノックする音がした。落ち着いて二度、少ししてからまた二度。
「入りなさい」
そちらを向き、許しを与える。
鍵はかけていない。<魔人>の力をもってすればドアごと破ることは容易いし、下僕たちが自分に害をもたらすことはかなわない。
「失礼します」
姿を見せたのは<闘争牙城>で下して下僕とした一人だ。逆らう様子の欠片も見せず、今に至る。
何かにつけて自分を賞賛していた気もするが、木霊のように朧にしか残っていない。力量のほどはしっかりと記憶しているが。
「午前の巡回ですが、怪しい者は誰も見つかりませんでした」
この地域を奪取して以来、当然だが見張りや巡回は行わせている。
しかしこれも効率化する必要があるだろう。今までは途切れないようにとだけ厳命していただけで、呪縛されている以上はそれを果たしはしているだろうが、中身はどうなっていることやら。
「そう。午後も気を抜かずに行いなさい」
もう飽きるほどに繰り返されてきた流れだ。
報告があり、聞いて命を下す。何のこともない、ごく普通の、いつものやりとり。
だが不意に口を突いて出ようとした言葉があった。
ありがとう、ご苦労様。
気まぐれだろうか。この自分にそんなことが。
惑った。惑いながらも声となろうとして。
視界を気持ちの悪い幻がよぎった。怖気が足元から這い上がっては総身を侵してゆく。
「……早く失せなさい!」
こみ上げた悪心を吐き出すように叫んでいた。
下僕は悲鳴を上げて駆け去った。
突き破られて砕けたドアが無残な音とともに廊下に転がった。
――――残り十時間
ふとした騒がしさに少女は部屋から顔を出した。
窓のない、無機質な、しかし妙に明るい廊下を少年たちが駆けてゆく。
光は人工のものだ。地下に太陽の光は届かない。
此処は<横笛>が集合場所として利用するホテルの一つである。特殊な場所ではない。旅行客もごく当たり前に泊まる、地下にあることだけが珍しいホテルだ。あとは、金さえ払えば密かに誰にでもベッドを提供するホテルである点も、普通とは言えないかもしれないが。
<横笛>は定まった拠点を持たない。必ず普通の人間の多い場所を仮の宿とする。
これは創始者である<奏者>鏡俊介の定めた方針によるものだ。決して一箇所には留まらず、一般人を潜在的な人質とすることで<竪琴>に攻撃を控えさせる。
このやり方は有効にはたらいていた。
仕掛けてこようとしたことこそあるものの、そのような場合でも今のところ不発に終わらせることができている。
替わりに数は集められず、全体の統制も取りづらいという難点も生じているが、そこは強さを絶対の基準として形成された階層構造と、小さな集団を掌握する上位者を更なる上位者が統括する機構をもって処理。ほんの一月前までなら、その上でなお二十以上もの派閥に分かれていたものだが、現在は六つにまで統合された。
「どうかした?」
少女は見知った赤い頭がちょうど駆けて来るのを見つけて部屋に引きずり込んだ。さすがに廊下で話したくはない。
ぱたん、とドアの閉まる音を背に、目を白黒させている少年に今一度問う。
「なんだか急いでるみたいだけどさ、なんかあったの?」
距離は近い。相手の口元で囁くように。相手の警戒心を動揺で鈍らせる手管だ。少女は自分が魅力的に映ることを知っている。
もっとも、この少年にはそんな仕掛けなど必要ないのだが、もう癖になっているのだ。
「前々からの情報が正しかったことが判ったんだよ。処刑人が神官派領域を出た」
「処刑人……ああ、あれ」
何を言っているのかはこれだけでも理解できる。
つい二週間ほど前のことだ。<呑み込むもの>が動くという情報がもたらされた。その源は<竪琴>神官派に潜り込ませていた間諜だ。あくまでも、かもしれないという話ではあったのだが。
罠だろうと少女は判断している。神官派の切り札の動向が漏れるなど間抜けにも程があるからだ。ほぼ間違いなく<横笛>を釣り出そうとしているのだろう。
「正直あれは……」
「分かってる」
少年が小さく笑う。見た目通りの年齢であれば精々十六、七、しかし総勢八十名程度の最小派閥とはいえ、現在の<横笛>を構成する六のうちの一の代表を務める。得られた情報を額面通りに受け取るだけの愚昧ではなかった。
「誘いなのは間違いない。ただ、処刑人が神官派領域を出たこと自体は確認できてる。今これを掴んでるのはオレたちだけだ。賭けるだけの価値はある」
「神官派を陥とすつもり? 本拠への侵入方法も分からないのに?」
賭けるという言葉から目的を読み取って、少女は眉を顰めた。
しかし返って来たのは牙を剥くように獰猛な表情だった。
「たとえ陥とせなくとも大打撃を与えられれば充分だ。太平洋側から日本海側まで、八十人による西からの一斉侵攻にどこまで対応してくるかは判らんが、勝算はある。その戦果でもってオレは<横笛>の頂点を狙う」
今の<横笛>の骨格を形作るのは力だ。六つまで減ってもまだ各派閥は鍔迫り合いを続けているし、同じ派閥内でも下克上は当たり前、もう諦めてしまった者こそちらほら見えるものの、大半は野心を胸に秘めている。
そしてこの少年は他の五派と<奏者>鏡俊介を凌ぎ、<無価値>を排除して己こそが覇者となることを夢見ている。
自身で口にしているように、本当に神官派に大きな被害を与えることができたならその夢に向かっての大きな一歩となるだろう。剣豪派と神官派には大いに煮え湯を飲まされ続けているのだから。
「もういいだろ。急ぐんだ」
「分かった。もう止めないけど」
「けど?」
「頑張ってね」
やわらかな微笑みとともに少女は少年を解放する。
色より野望である少年は小さく手を振っただけでさっさと出て行った。
開いたドアがまた閉まる。駆けてゆく足音の、残響が薄れてゆく中で少女の笑みは邪に歪む。
「またも見事に<無価値>の言うとおり、か。いやまったくヤんなるね」
少年の目論見は少しばかり甘い。神官派の最大戦力が処刑人であるのは事実だが、それだけの単純なつくりではない。こちらを読み切った対応をしてくるとともに、構成員の力量が両極端なのである。
大半が<魔人>としての最低限かそれよりは少しだけましか、といったところであるかわりに上位を占める十数名に限ればいっそ<竪琴>六派のうちでも有能揃いとも言われるほどだ。
もっともその真価は未だよく見えない。どこまでのものなのかが判らない。少年が仕掛けようとしている襲撃は、そこを明らかにしてくれると期待できる。
どちらが勝つのかは少女にも予測できない。少年は少年で、<横笛>の幹部であるのは伊達ではないのだ。
魔女派と真っ向から戦い続けてきた<紅蓮狼>の名は<竪琴>にも轟いている。
「もし死んだら、あることないこと言いふらしてやろ」
少女はベッドに戻ると大きく伸びをして、そのまま寝転がった。
騎士派に上月茜の名で潜り込んでいた娘である。
本名は捨てた。<魔人>としての名も、作りはしたがすぐに名乗ることをやめた。今は二つ名をこそ己として認識している。
<栗鼠>>。
そう、少女は呼ばれる。