――――残り十五時間
日の光に眩まされ、空が白く映る。
手をひさしにと遮れば青が現れ、広がってゆくのが分かった。
建物の屋上というものは放置されて汚れていることも少なくないが、このビジネスホテルのものは足を踏み入れて不快ではない。
午前九時でありながら既に暑さを含んだ風が抜けてゆく。遮ろうとしてはためくのはシーツだ。この屋上は元より洗濯物を干すために使われていたのだろう。訪れたそのときより、フェンスから向かいのフェンスへと幾本ものロープが渡されていたのだ。
一通りの作業を済ませ、横山誠は小さく息をついた。
以前からこういった雑用は誠の役割だ。当然のように洗濯などという面倒なことは嫌いな少年たちに押し付けられているという部分はあるが、他に誰もいない頃から<夜魔>の世話はしていたので、その対象が増えただけと言えなくはない。
<夜魔>の下僕となった少年たちにも派閥と序列は形成されている。<闘争牙城>出身であるのか、財団派に所属していたのか。どの程度の力量であるのか、<夜魔>にどれほど近いのか。
誠は無所属最下位とでも呼ぶべきなのだろう。しかし自身はさして気にしていない。<夜魔>は<帝国>内での私刑を禁止しているため、物理的に侵害を受けることはないからだ。もちろん精神的な嫌がらせはあるものの、<夜魔>第一である誠にとってはただの雑音と変わらない。
どこからか飛んで来た小鳥が二羽、フェンスに止まった。この建物に誰がいて何が行われているのかなど知らず、かつてからのように、これからもそうであると疑わぬように。誠はそう見た。
この時間は独りの時間だ。誰も手伝うことはない。
今朝も手伝いはいない。だが、人影はもうひとつあった。
「これが俺の思いだ」
洗濯物を干しながら語り続けた言葉をそう締めくくり、誠は彼を振り返る。
壁に背を預けて腕を組んだ巨躯、相馬小五郎は苦く笑った。
「正直なことだなあ」
「みんなを助けたい、なんて言ってみたところで嘘なのはバレバレだろ?」
誠が案じるのは<夜魔>のことだけだ。他の面々などどうでも構わない。
「あんたは逆に、みんなを助けたい。でも利害自体は一致してるはずだ。<夜魔>にもうこんなことは止めさせることができれば俺の望みもあんたの望みも叶う」
対等の口調。
<魔人>であるからあまり当てになるものではないが、見た目からすれば小五郎は誠よりも幾つか年上だろう。力量も天と地ほどの隔たりだ。しかし、誠は気にしない。
「……確かにな」
少し時間があったが小五郎は首肯した。いつもながらのややゆっくりとした喋り方。何を考えているのか読みづらい。
「だが具体的にどうする? 止める手があるのか、この呪縛された身体で?」
「それは……」
これまで予感と勢いだけで進めた誠だったが、ここで答えに窮する。あの苦痛を与えられたが最後、耐えるだけで精一杯になってしまうのだ。逆らえない。逆らわないままで<夜魔>を心変わりさせる必要がある。ただの説得なら今まで何度も行ってきた。何か新たな要素がなければ聞く耳を持ってはくれないだろう。
「……こんなことをしていれば破滅する。それを理解させる材料があれば……」
<夜魔>は奥に秘めた激情に突き動かされつつも、決して理性的な判断ができないわけではない。<剣王>に追い詰められた際、<妖刀>の指示を受け入れたように、自分を抑えることはできるのだ。明確な証拠を示すことができたなら翻意させることも不可能ではない。
しかし誠にあるのはどこまでも予感だけなのである。胸をこれほどに焼き、凍てつかせているというのに、冴えた案は何も浮かばない。凡庸を通り越して愚鈍でですらある己に吐き気を覚える。
その様子をしばし見下ろし、小五郎は溜息とともに告げた。
「破滅するほどの危険なら、今も変わらずにある。財団派を舐めてるんじゃあないか? まさか俺と<剣王>がいなくなったらあとは雑魚だとでも?」
「それは……」
「あいつを、それから一応俺もだが……倒したのはあくまでも<妖刀>だ。<夜魔>じゃあない」
その言葉は誠の背に怖気を走らせた。
確かに小五郎の言うとおりである。<剣王>の実力は<夜魔>を明らかに大きく上回り、小五郎にしても<妖刀>に敗れた後でまともに回復する暇もなく<夜魔>と戦わされたのだ。
「俺も武術家の端くれだ。不公平だろうが勝敗は勝敗。もしもと口にするのは業腹だが、万全だったなら<夜魔>に負ける気はない。そして俺とそれほど変わらない腕の持ち主なら財団派にまだ五、六人いて、<妖刀>はもういない。つまり……」
「……危機を脱してなんてない……!?」
愕然とした。<剣王>という<竪琴>屈指の強敵を葬ったことで、安全を得たつもりでいた自分に気付く。
小五郎は更に続けた。
「精々あと一月だ。それだけあればオーチェは完全に準備を整えるだろうなあ。総力戦はそのときだ」
「それは間違いないのか?」
「確実かと訊かれても困る。俺も財団派を離れて結構経つからな、知らない何かができてるかもしれん」
やはり感情は読めない。小五郎は疲れを吐くような息とともに空を仰いだ。
「<夜魔>も薄々感じてはいるだろうなあ。説得が成功するかどうかはお前の熱意と腕次第だ。うまくいったら……まあ、財団派出身は俺がまとめられると思うが」
「……そうか」
誠は口を引き結ぶ。
期待を裏切られた思いだ。一応乗ってはくれたが、もっと積極的に関わってくれると予測していた。だが目の前の<双剣>は生気に欠けて、まるで。
「……あんた、死にたがってるみたいだ」
思わず口を突いて出た言葉に、意外にも小五郎は目を丸くして、それから初めて色彩の混じる表情を見せた。
苦笑である。
「こんな状況だからな」
分かるとまでは言わないが想像することはできた。この心身ともに頑強な男にも限界はあるのだ。
それ以上は何も口にせずに踵を返す。
太陽が少しばかり移動し、日差しが身を貫く。その熱さがすべての潤いを干上がらせてゆく。
扉の閉まる音。
それから小五郎は呟いた。
「一月……」
<夜魔>が誠の言を容れることはおそらくあるまいが、聞けば意識には残るだろう。
それだけの猶予があれば、少なくとも二週間は動かず準備に費やしてしまう。あるいはこちらから強襲でも仕掛けるならそうとは限らないだろうが、そうするためには情報がどうしようもなく足りない。ふらふらと迷い出るに等しい。それが分からない<夜魔>ではない。
そして実際に<竪琴>が動き出すまでには、二週どころかあと五日もあるまい。
状況打開のため、小五郎は今まで<夜魔>をよく観察してきた。どのような状況でいかな判断を下すのか。物事をどう受け取るのか。
結論としては、常にあと一歩足りない、という評価になる。
頭はいいのだろう。けれど心が不安定で視界を狭め、思考力を十全に発揮し切れていない。そしてそれ以前の問題がある。
認識が甘い。荒事に関して経験不足なのだ。それはほとんどの<魔人>に言えることである。元がただの少年少女であるならば、どうしても一歩足りていなくて普通である。
しかし経験を積めばその壁は崩せる。<夜魔>ならば素質からすればきっと越えることはできるのだろう。
だから余計に、潰さなくてはならない。
「……本当に、殺し合いなんかするもんじゃあないなあ」
日本は平和だったはずだ。小五郎にしても<災>が大量に発生していた頃はごく幼く、まともな記憶は残っていない。
そんな国に育って、なぜこんな物騒なことに揃って首を突っ込んでいるのか。殺し合わなければ望んだものは得られない、本当にそうだろうか。もっとどうとでもできるのではなかろうか。人であった頃から荒事に親しんでいた自分が思うのもおかしいのかもしれないが。
「死にたがっている、か……」
精神が磨耗しているのが自覚できる。情動が薄い。太陽が切れかけの電灯のようだ。
昨日にもまた随分と業を重ねてしまった。<紅蓮旅団>は判断を間違えただけで彼女らに罪はあるまいに、この手にかけた。
罪悪感は押し殺してさえ心を削り落としてゆく。
加えて、それとは別にどうにも欠けてしまった。
なくなったものは、<剣王>新島猛だ。
財団派に招き入れると聞かされたときのことを覚えている。見えたときのことを覚えている。手合わせしたときのことを覚えている。
二番手に甘んじることとなった思いを、覚えている。
妬む心が皆無であったわけではない。ただ、武に生きる者として、非はより弱い自分にあるのだと理解していた。超えるべき男がもういないことには悔しさしか覚えない。
敗れこそしたが<剣王>は<妖刀>に劣るわけではない。
二つ名はそのものが欺瞞だ。新島猛が最も得意とするのは正面から相手を下すことではなく結果的に勝利条件を満たすこと。もしも<夜魔>ではなく<妖刀>を葬り去るのが目的であったなら、何度でも退きながら数日かけてでも勝利をもぎ取っただろう。
<夜魔>を斃すために急いたのはオーチェの焦りによるのか、あるいは別の理由があるのか。多くの局面を平行に把握しながら戦略を立てるその胸の内を推し量ることはできないが。
「……死にたがりか」
思わず繰り返される言葉。何度目か、笑みはただただ苦みを湛えたものにしかならない。
小説であれドラマであれ漫画であれ、創作物にある程度触れているならばよく聞くだろう。死を望むのは逃避に他ならない、生きて償う方が遥かに苦しい道だ、と。
使われすぎて陳腐になってしまった感はあるが、これはまさにその通りだ。もしこの一連の問題が解決したとして、財団派に帰った自分はどんな顔をすればいいのか。罪なき者を殺めたと口にするとき、目を伏せずにいることはできそうにない。
要は恥ずかしいのだ。死という罰を受けることで失態の贖いとし、終わってしまうことで心を苛む羞恥から逃れたいのだ。
だがそうと自覚してしまえば反抗したくなる。格好悪い、逃げたくはないと意地が湧いてくる。それはささやかに頭をもたげ、それから大きく羽ばたいた。
「死にたがってると言われて頷いちゃあ、いかんよなあ」
最初は身体の芯に灯った熱はやがて指先にまで至り、苦みの消えた口元から炎のような吐息が漏れた。
相馬小五郎は強靭である。喘ぎ、歩みを緩めることはあっても、打ちひしがれて止めはしないのだ。