駅前の古いビル。
四階建ての草臥れたそれは、老夫婦が経営する小さなビジネスホテルだ。一年のうち決まった時期だけはイベントのおかげで賑わい、それ以外は片手で数える程度しか客がいない。
宿舎を捨てざるを得なかった<夜魔>が逃げ込んだのはそんな場所だった。
老夫婦は殺害、四名だけいた宿泊客はさんざん脅してから追い出し、<帝国>は身を潜めた。
それから一週間経つ。問題はまだ起こっていないが、さほど長い期間は保たない。老人にも離れた場所に子供くらいはいようし、厳重に口止めはしたものの客から警察まで話が行くことも充分にありえる。捜索願など出されては面倒だから客は生かしたのだが、誤りだったかもしれない。ともあれ可能な限り早く新たな拠点を見繕う必要があった。
<夜魔>が陣取ったのは当然のように最上階の一室だ。汚くこそないもののやはり古いツインルームで、腰掛けた簡素なベッドも到底満足できるような代物ではない。ベッドメイキングもやらせてはいるが、何分素人である。美しくはならない。ベッドの片方を運び出して少し広くしてみても貧相なのは変わらない。
人であった頃の煌びやかな自室を思い出し、いつもの小説を閉じて溜息をついたそのときだった。
ドアの向こうで、無言ながらも動揺が走るのを感じ取った。乱れた足音がしたのだ。
宿舎のときのように同じ部屋に侍らせてはいないが、ドア前になら歩哨として二人を立たせてあった。彼らのものだろう。
敵襲かと思うも自ら否定する。さすがに静か過ぎる。
そして更なる推測も必要なかった。ドアを文字通りに斬り開き、枯れ木のような姿が立っていたのだ。
「わざわざ風通しをよくしてくれたのに悪いのだけど、部屋を変えないといけなくなったみたい」
ゆらゆらと歩み入って来る<妖刀>にちくりと皮肉。
無論、効かない。
「お、れ……はここ、でぇぉぉおい、とま、よう」
相も変わらず理解に少しの時間を要する不自由な喋り方で、謡う骸骨のようにかたかた笑う。
「そう、行くの」
少しだけ、胸に刺すものはあった。
本当ならば<妖刀>は早期に離脱してもおかしくはなかった。あくまでも<横笛>の一員として来たはずであり、奴隷たちのように異能で縛られているわけでもないのだ。
と言えど、予想はついていた。<剣王>と戦うには自分の傍にいるのが最も早そうだったからなのだろう。そして倒してしまったから、今別れを告げているのだ。
「この際だから以前から思っていたことを確かめたいのだけど」
おそらく二度と会わない可能性が高い。<妖刀>が次に向かうとすれば神官派か剣豪派、そのどちらかになる。どちらも逃がしはすまい。妥当に考えれば剣豪派だろうか。
「あなたと<王者>、戦ったらどちらが勝つのかしら?」
「はぁち……にぃ」
返答が八、二であることに気づくのに、やはり少しかかった。
「はぁちで、お、れが、かぁつ」
何もかもが読みづらい<妖刀>の内心を推し量るのも無駄に思えたが、八割勝てると口にする調子に気負いはなさそうではあった。客観的に判断した結果なのだろう。
しかし続きがあった。
「や、つがぁ……ぜんりょ、く、ださん……ならだ、がなあ……」
「ぜんりょ下さん? ……ああ、全力を出さないなら、ね」
なるほどと思う。相手の得意分野で勝つという<王者>の戦い方は、本気だが全力ではない、全力だが本気ではない、そう言わざるを得ない。
と、<妖刀>が肩を揺らした。
「やつ、は、に、にぃを……じゅう、ど、ともとる、がなあ」
「二割の勝率を十回ともとる? 算数から勉強した方がいいのではないの」
十回とも勝てるなら、それは勝率二割とは言わない。
ひ、ひ、ひ、と笑い声であろう息が漏れる。
「ぜんりょくをぅ、ださずと、もよい、うちは……ひひ、まけぬのよ」
<王者>の戦い方は自らに制限をかけている。それでなお勝つことに意義がある。
自分を負かせるかもしれないと思った相手にはその制限を取り払う。縛りをかけたままで負けては挑戦者への侮辱になるからだ。
逆に言えば、相手の得意分野で戦っているということはそれで負けるとは思っていないということになるのだ。不利に思えても、結果として必ず勝つ。
それが<妖刀>の道理に合わない台詞の唐繰りである。
「ださ、せてはみ、せようが……そ、そ、なれば、どうな、るかは……わからんなあ」
「どうして戦わなかったの?」
それが不思議だった。
<妖刀>は己を極限まで高めたいのだと聞いた。死も敗北も、それ自体を恐れはしないはずなのに、<闘争牙城>最強であるとされる<王者>に挑まなかった理由が分からない。
「あれは」
そのときの<妖刀>に、<夜魔>は不思議な響きを耳にした。
「おれにたおされてよい、おとこではない」
斬ることを語るときほどではないが比較的滑らかに喋ったのだ。
そしてまた笑う。
「こんなざつねんがあるからおれは、未だ斬撃に至らんのだ」
<夜魔>には理解できない。言っていることも、笑った理由も、何もかも。
<妖刀>はいつかのように告げた。
「わから、んか。おんな、にゃ、わ、からん」
男は嫌いだと<夜魔>は公言している。男女を推測するのも馬鹿らしい見た目ではあるが、女には分からん、との発言からすれば<妖刀>はおそらく男だ。しかしどうにも、男であることに対する嫌悪は湧かなかった。
気分を切り替える。所詮は戯言だ。疑問には思っていても、答えを知ったところで何かの足しになるわけではない。
「まあ、いいわ。とにかく、もう出て行くのよね。正直あなたという戦力を失うのは惜しいけど……」
不気味で何を考えているかも分からない<妖刀>だが、実力だけは凄まじい。
もしいなければ<帝国>はここまでやって来られなかっただろう。<夜魔>もそれは素直に認められた。
「……というより、よくここまで付いてきてくれたものね。私は<横笛>を裏切ったのに。一応は感謝しておくわ」
「うら、ぎり……」
何を言われているのか分からないと言わんばかりに、<妖刀>の首が、人体構造として不安になるまで傾いた。
もしかすると、離反したことにすら気づいていなかったのかもしれない。
ありえない話ではないだろう。権勢だの抗争だの裏切りだの、<妖刀>には心底下らない事柄でしかないのだろうから。
「いいわ、気にしないで。とにかく……」
言いかけたときだった。
「ああ」
<妖刀>の首が元に戻った。
「おまえ、ぅうらぎったつ、つも、りでい、たのか」
冷水を浴びせられた。
思わず立ち上がっていた。憤怒か恐怖か、手が震える。
「何を知っているの!?」
「なに、もしらん。しらんが……べりある」
<無価値>。
あの爽やかな、男も女も軽々に心を開いてしまう、しかし<夜魔>にとっては不快極まりない男。
男というだけでも嫌悪の対象だが、それ以前に本能的な忌まわしさを覚えてならない。
「あ、れが、おまえご、ごときにぃ……たばかれ、れぇる、おとこかよ」
「私のしてきたことは全部あいつの予定通りだとでもいうの!?」
あり得ると思ってしまった。その程度のことならやってのけると理性は判断していた。今ではなく、ずっと前からだ。
だが信じたくないのだ。自分も踊らされていただけなどとは。
「しらん」
無情にも<妖刀>はそう答える。興味自体はやはりないのである。
死体めいた風貌、枯れ木めいた佇まいで、ゆらゆら揺れる。
「ではな」
来たときと同様、去るときも唐突だった。挨拶をしただけでも上等な部類なのだろうが。
消える背を<夜魔>は声もなく見送る。
取り残された感があった。言葉を交わすことすら稀にしかなかったが、<妖刀>は唯一対等の相手だった。
下僕たちの中で独りになった。そう思った。
真夏の暑苦しい、不快な空気が異様に冷たい。
のろのろとベッドに腰を下ろす。壊れたドアの向こうにあるのは<双剣>相馬小五郎の姿だ。<妖刀>が去った今、下僕の中で最も腕が立つ、それも抜きん出ているのが彼だ。歩哨役もだからこそ命じた。
「……その目は何?」
小五郎がこちらを見る目はひどく沈んだものだった。まるで憐れんでいるかのように。
<夜魔>に最もよく逆らうのも小五郎だ。あの耐え難いはずの苦痛を最も浴びているのが小五郎だ。だというのに怯えたところはなく、そんな目をしているのだ。
「ふざけないで!」
青い爪を向ける。
苦悶の声が廊下に響き渡る。
「私は<夜魔>! <帝国>の主なのよ!?」
応える者はない。
勘気に触れぬよう、誰も姿を見せない。もう一人いたはずの歩哨さえいない。
<帝国>の玉座はあまりにも寒々しかった。