人は比較でものを見る。
異なる場所にある同じ色が本当に同じに見えるとは限らない。周囲の状況による補正をかけて受け取ってしまう。
だから異なって見えたとしても同じであるのかもしれない。
背丈を比べてみるのも悪くはない。
だからこそ気付けるものもあり、暴いてしまうものもある。
いずれにせよ全てを乗せて世界は回り、一つの終わりは幾つもの始まりを呼ぶ。
「一年です」
果ての見えぬ夜を模したかのような部屋で、ステイシアがそう告げた。
向かいのソファに座るのは三名だ。
穏やかというよりも気弱げな表情の江崎衛。
勝気に笑う姫宮瑞姫。
そして、惑いを隠し切れぬ深崎陣。
戸惑いを見せるのは彼だけではない。その後ろに立つ武島洸、華厳院雅隆の両名も身の置き場に困ったかのような顔である。
最後に、横合いに突っ立っている名和雅年だけはいつもの気力に欠けるまなざしで六名を眺めていた。
「一年以内には<横笛>をほぼ完全に抑え込む必要があります」
瑞々しい小さなくちびるが期限を繰り返す。
「ここ一月以上にわたり、当領域においては対処の必要となる件が激減していました。暴発か様子見か、散発的に刺激を加えてくるくらいだったのですが…………もうそろそろそれも終わるかと推測されます」
やわらかな声、口調ではある。
しかし芯に強いものが入っている。生半な覚悟での割り込みなど許さない。
「戦力が必要です。特に、強い個が」
そのまなざしが陣へと向けられた。
「行けますか?」
「ああ」
それで陣は自分が呼ばれた理由に得心した。
ステイシアが自分に求めた方針は、昨日までは休養だったはずだ。それを覆すならば何か大きな理由がある。流れからすれば大規模な攻勢を事前に察知したというところだろうか。
だからただ頷いた。自分自身はまだ取り戻せていなかったけれども。
「どこまでやれるかは正直分からないが……こんな身でも役に立てるなら」
「ありがとうございます」
ステイシアは詫びない。陣の意気に微笑み、次はその背後の二人だ。
「陣さんはまだ本調子ではありません。ですから洸さんと雅隆さんは補佐をお願いできるでしょうか」
「は、はい……!」
上擦った声で、洸。
当然といえば当然だろう。この部屋に呼ばれること自体が初めてであり、行われているのが神官派全体にとって重要となるのであろう話であり、役割までも求められたのだ。
そして雅隆も、不機嫌そうに眉根を寄せながら頷いた。
「俺が後に呼ばれたのは気に食わんが、病み上がりの面倒くらいは見てやるさ」
「いやいやいやっ! なんかタカ君すげえ偉そうだけど、陣さんには君と僕二人でかかっても勝つの大変だからね!?」
「二人なら勝てるということだ、馬鹿が」
「その台詞もなんでオレが馬鹿呼ばわりされてるのかも意味不明だよタカ君!?」
武島洸は小柄な身体と可愛らしい顔立ちの少年である。少女めいて、とまではいかない。冗談を仕掛けられるとき以外には間違えられるようなことはないし、よく見れば小さいながらも力に満ちて、華奢さとは無縁だ。
<魔人>となった際に背丈を伸ばすことの多い小柄な少年の中にあって、人であった頃の体格のままにしてあるのはそこに負い目を覚えていないからである。この場に呼ばれて緊張はしていても、怯えはない。純朴そうに見えて、実際に純朴ではあるのだが、思いもよらぬ肝の太さがある。
そして華厳院雅隆は洸の好敵手である。友人と評すると機嫌が悪くなるため、ライバルであると周囲は口にすることにしている。仰々しい名を選んだことにも現れているように外連好きの気があり、見せる怒りも演出なのかもしれないが。
ひょろりと高い背、こけた頬に眼光が鋭い。人付き合いは好まず、洸と模擬戦を行っているとき以外は大抵独りである。
二人とも神官派の上位一割に入る実力者だ。五指に入る陣と組んだならば、集団であっても勝てる<魔人>などそうはない。
ステイシアは視線を更に移した。
「瑞姫さん」
「はいよ」
姫宮瑞姫は気楽に頭の後ろで両手を組んでにこりと笑う。これからすぐに出張る可能性を考えてか活動性を重視した装いをしてはいるが、それでも愛らしく着飾ることを疎かにしてはいない。
「あたしは何をすればいいのかな」
瑞姫は基本的に何でもできる。その容姿と明るさを生かして情報を集めてくるのも得意であるし、戦闘もこなせる。特に後者については、クラウンアームズを所有していないため突出した戦闘能力にこそ至らないが、見た目に反する圧倒的な身体能力や潜在出力、幾つもの武道の心得が作り出す強さは洸や雅隆を上回りかねないほどなのだ。
「瑞姫さんには本領を発揮していただなくてはなりません」
「いいよ。無制限なのは四十九……今は八か、その中であたしだけの特権だもんね。逆に訊くけど、構わないの?」
静謐なステイシアに対し、瑞姫はあっけらかんとしたものだ。
「なるべく知られたくはなかったんだよね? まさに諸刃の剣だ。自分で言うのもなんだけど、もし最悪の事態になったら止められるの?」
ステイシアへの言葉のように聞こえながら実際に向ける相手は異なる。恐れもなく挑戦的に、雅年へと流し目をくれた。
しかし返答は淡々としたものだった。
「おそらくだが問題はない。もしも君が二人いて、手を携えて来たとしても処理できる」
「うは。言うなあ」
瑞姫は機嫌よさげにけらけら笑う。強く『女の子』を感じさせる容姿容貌にそぐわぬ、むしろ豪放な笑い声だ。しかし裏表をまったく感じさせない響きは違和感よりも好感を抱かせる。
ステイシアも迷いは見せなかった。
「ここがカードの切りどきでしょう。人選はお任せしますが、報告はお願いします」
「うん、実はもうとっくに何人か目星はつけてあるんだ。みんないい奴だよ」
「それは頼もしいです」
にこりと頷き、次は衛だ。
「衛さんはご自分の判断で全体のフォローをお願いします」
「分かったよ。もしも手に余るようだったなら、そのときまた報告すればいいかな」
衛は小さく静かに笑う。
その様は今交わした言葉の中身の強さにそぐわない。
洸も雅隆も、陣でさえも、違和感を覚えずにいられなかった。
江崎衛は弱くはない。だが際立って強いという印象もない。やり合えば勝てると三人ともが認識していた。
しかし上位であるはずの数十名を差し置いて、遥か以前から神官派の幹部として扱われている。
無論、この部屋に呼ばれる<魔人>は戦闘能力だけで決められているわけではない。戦力としての価値も含めた上で、どれだけの問題に対処できる能力があるかが重要となる。
赤穂裕徳は単独での解決能力なら神官派どころか<竪琴>でも最高と言われていたし、瑞姫も要としてよく動いているのを見かける。だが、この気弱に笑う少年が活躍したという話を聞いたことがない。
知らない何かはあるのだろう。無意味に贔屓されているとは考えづらい。
だから三人とも何も言わなかった。
そして、ステイシアが個別に声をかけたのはそこまでだった。
「いつ仕掛けてくるか正確には分かりません。二週間以内ではないかとは予測できています」
可憐な面立ちに愁いを帯びた表情、願うように、祈るように組み合わされた両手は大切なものをその中に抱いているかに見えた。
自然と居ずまいが正される。それだけの、侵すべからざる神聖がそこにはあった。
綺麗なステイシア、可愛いステイシア、優しいステイシア。その細い肩に背負うのは、神官派三百六十余名だけではない。
「万難を排し、備えてください。どうか、誰も失われぬよう」
しばしして、部屋には二つの姿だけが残る。
ステイシアはようやく雅年の方を向いた。
「なぜ一年なのか、ですか?」
解散してなお残った意図を、問われずとも読み、確認する。
<横笛>との争いはなるべく早く終わらせるに越したことはない、というのは以前からの方針ではあるのだが、唐突に一年と期限を切るからには理由があるのだ。
「江崎君も何かあると気づいてはいたようだが」
雅年の表情も姿勢も、最初からまったく変わらない。彫像のようにただ立っている。
「説明されなかった限りは少なくともあの場で聞くべきことではないと推測したのかもしれない」
「……衛さんらしい。こんな<私>を信用してくれているんですね」
ステイシアが過去に思いを馳せる。自ら知る情景ではないが、他者から聞いた知識としてあるものだ。
それも僅かの間のこと。現実に戻るまで一呼吸もない。
「主ハシュメールは第四世代<魔人>作成技術の開発に成功しました」
事実を告げるだけの硬質な声。常にやわらかな、どこか悲しげにさえ響くことのあるステイシアには珍しい。
そして、今まで微動だにしなかった雅年が僅かに左の眉を上げた。
「なるほど。それが問題になるということは、大黒先生の推測が的中したのか。説明されてみれば当然と納得できる内容ではあったが」
「魔神学の第一人者、大黒一郎氏ですね。雅年さんの、大学院時代の指導教員でしたか」
魔神自身すら理解し切ってはいない魔神という存在、世界との関わり方、それを切り口として世界を読み解こうとする学問を魔神学と称する。
学問なのかといぶかしむ者もあるが、情報を集め、検証し、体系化してゆくことで成り立つ、れっきとした科学である。在り様としては民俗学が近いだろうか。
「まさにその予測通りです。第四世代は構成する力の桁を落とすことで、十八歳未満に限って<魔人>化の成功率を跳ね上げています。他には、第三世代が苦手とする、武器の創造が得意だとか。少なくとも主は最終的な<魔人>の総数を大きく増やすつもりはないでしょうが……一時的には倍加する可能性すらあります」
<魔人>の第一世代とは、事実上<魔王騎士>を指す。
第二世代は試行錯誤の段階だ。誰一人として生き残っていない。
そして戦格を導入した第三世代は多様性と、可能性だけならば<魔王騎士>にも届きうる力、ようやく一割から二割に達した<魔人>化成功率を誇る。
性能だけを追求するならば第三世代は既に<魔人>の極点にある。これ以上は望めない。
だが、魔神はそもそも<魔人>の戦闘能力を高めること自体には興味がない。究極が最初に完成してしまっているのだ。だから考えるのは安全性である。成功率が上がるなら、強さなど秤にかけるまでもない。
正しいには違いないだろう。命あって初めて、すべては為せる。いかに力を落とそうと人間以上ではあるのだから、望みを叶えるために生きてゆくのは人だった頃よりも楽ではあるだろう。
しかし力を是とする<横笛>の下へ放り出されたならば、待っているのは煉獄である。
無論のこと、力の差は第三世代の間にも大きく存在してはいる。しかしあくまでも同じ土俵に立ってはいるのだ。差は、人として持ち合わせていた、あるいは鍛え上げて来た能力に因る。
しかし第四世代は違う。不当に一段低い場所に置かれていると感じずにはいられまい。
「……<竪琴>であれば問題ない、とは言いません。力の弱い存在を虐げる構造は、どんな人々、どんな場所においても生じます。けれどまだ、見つけ次第対応することはできる」
「いつまでも保つものでもないだろう。今度はその第四世代が弱さを武器に問題を起こす可能性は高い」
雅年は淡々と、往々にして見られる現象を突きつける。
力を持たぬということは善良さを意味しない。むしろ強かに生き抜くために多少の悪に手を染める者が少なからず存在する。
しかしそれならばまだましだろう。守られることに胡坐をかく者がある。弱い立場を利用しようとする者がある。人の権利が声高に唱えられてゆくにつれ、世界各地で噴出した問題だ。
そこへ怒りを覚えることは決して傲慢とは呼べまい。
もちろん、自分をしかと持ち、上手く生きてゆける者もあるだろう。それでも人は楽な方に流されがちな生き物である。
「上手く収められるのか?」
成功率が大幅に上昇すること、それだけを切り出せば喜ばしいことに思えるが、間違いなく害も呼ぶ。
魔神は人に力を与えて<魔人>とするとき、必ず意思を問う。次の瞬間に死んでしまう者であるのなら極限まで遅滞した時の中に連れ込んででも尋ねるのだ。そしてその過程で、五人に一人も成功せず、失敗すれば死ぬということも告げる。
少なくとも第三世代までの<魔人>は十中八、九は命を落とすという認識の下で成ることを選択している。未来への願いであれ現在からの逃避であれ、その確率に命を賭けるだけの価値を持つのだ。
その価値が、下がる。
特定の個人を抜き出せば変わらぬこともあるだろうが、俯瞰すれば安易に選んでしまう者が多く見られるはずだ。
軽い選択が重い未来をもたらしたなら、どれだけが受け止められるだろうか。
「……分かりません」
ステイシアは悄然と肩を落とした。今まで神官派をうまくまとめて来た魅力と手腕をもってしても限度がある。
他の者の前では決して見せない姿。<聖女>はあくまでも、儚くも強く美しい幻想でなければならない。
「内側にいればまだ慰撫はかなうと思いますが……いえ、ともあれそれは現在の問題を乗り切ってから考えましょう。主は既にかなりの数の第四世代を創り出しています。あと一年で彼らが第三世代の中に入ってくるのは確実なのですから」
「それが期限の理由か」
雅年が呟くように漏らし、ステイシアが頷く。
「はい。一年間は閉鎖世界に隔離していただくよう、なんとか説得は成功しました。彼らが力の扱いを覚える期間と場所を兼ねて学園という形をとっています。主の得意分野ですので、閉じ込められているという感覚も薄く、ほとんどの方が楽しく一年を過ごせるのではないかと。ただ、そのために事実全てを伝えられることもないでしょう」
一応は人を超えた力を得て、そしてこちらに出てきたならば自分たち以上の存在が蠢いていることを知る破目になる。
偽ってはいないが起こるであろう勘違いを訂正しもしない。まるで冒涜である。決して綺麗なものではないにせよ、何らかの望みのために<魔人>となった少年少女の思いを汚しているとも言える。
けれどこうするしかないのだ。時間と手が足りない。
しかし雅年はステイシアの悲痛へ冷ややかな感想を述べた。
「望みのために、わざわざ人ではないものになったんだ。どんな結果に終わろうが自業自得だと思うが」
「そんな残酷は放っておいてもやって来ます。だから優しくていいと思うのです。精一杯まで、赦されていいと思うのです」
透明に、ふわりと微笑む。
「掴めるものは一握りの灰だとしても、ほとんどが指の隙間をこぼれ落ちるのだとしても、手を開かなければ何も掬えはしませんから」
まさに言葉通り何かを受け止めるように、胸の前で両手をやわらかに差し出す。
ほのかに灯ったのは白い光、そしてそれはすぐに硬質な球体と化した。表面は透明だ。中を覗ける。
球体の中に、更なる灰色の球体が浮いていた。灰色の陸が見える。灰色の海が見える。地球を模しているのだと分かる。
宝珠<夢現世界・廃滅王宮>。
「……およそ二週間でこれを完成させます。採ろうとしているのは悪手、十を取り戻すために二十、三十を捨てるに等しい一手となるでしょう。しかしこの十は放っておけば百の害にもなりかねない」
精一杯掬い取りたいと言ったそのくちびるから告げられるのは凄惨な予定。
「依頼です、雅年さん。<帝国>を殲滅していただけますか?」
「分かった」
諾の応えは短く素っ気なく、確かに成された。
ステイシアはもう一度、微笑んだ。
来るべき残酷の結果は他の誰でもない、二人のものだ。
「こんな灰色の世界だから、私は白のような灰色で、あなたは黒のような灰色で。ああ、でも――――」
まるで独り言のように呟く。
――――本当はあなたと同じ色だったなら。