肉を焼く音がする。
肉の焼ける匂いがする。
ざわめき。享楽に耽る声と痛々しい悲鳴。奏でられる音色に耳を貸す者などない。
誘うが如くに炎は踊り、跳ねる脂が付着してゆく。
明かりはあるのに薄暗い。ひたすらに肉を貪る人の群れは、あるいはこれも退廃なのか。
どうしてこのようなことになったのだろう。
「安い割りに美味いですね、ここ」
「だろ? ジャンクっちゃあジャンクに違いないが俺は結構好きだね」
筆頭騎士と<王者>が和気藹々と肉を焼いては口に運んでゆく。
黄昏時、とある焼肉屋の食べ放題コース。
本当に、どうしてこんなことになっているのだろう。徹は思わずにいられなかった。
<帝国>樹立宣言からほどなくして起こった三つの騒動があった。
仮に<竪琴>を為政者であるとするならば、それらは反乱として位置づけられるだろう。<竪琴>のやり方はおかしい、と立ち上がったわけである。
騎士派の対応としては基本に忠実に、それぞれに対し二戦隊を向かわせて片付けようとしたのだが、それでは戦力を出しすぎるとしてバックアップに合計三戦隊だけを配し、圭が向かったのだ。
具体的にどのようにはたらきかけたのかについては、徹も知らない。しかし三週間で三つともを説き伏せ、そして更にもうひとつ事件が起こり、それを解決してから帰ってきたということになる。
『ほぼ予想はついていましたが、先の三つはすべて<無価値>の煽動によるものです。乗せられたという意識すらなく動かされていた印象でした』
圭はそう言った。
<無価値>。
その名は今や<竪琴>の大敵だ。大なり小なり、あらゆるところに彼の名がちらついてくる。
『それに加えてやはり内通者……この場合は間諜と呼んだ方が正しいですか。確実にいますね。あんな十人程度の集団にこちらの情報が行き渡り過ぎている』
まさか騎士派に限って、と反射的に返し、そうでもないかと思い直した。この二ヶ月だけでも九名加わっている。入り込めない理由はない。
ともあれそこから示される方針は二つ。内部をよく洗うことと、<王者>によって散々に傷ついた騎士派の名誉を回復すること。それさえ成し遂げられればあとは問題ない。苦汁を舐め続けた一ヶ月は騎士たちから甘さを取り去った。そして<騎士姫>エリシエルと筆頭騎士四辻圭、二つの求心力が揃った以上はひとつの群体として機能できる。
間諜の洗い出しは一輝と聡司が担当することになった。新島猛が敗れた件についても調べてみると一輝は言っていた。
二人とエリシエルに<宮中庭園>は任せ、徹は圭とともに<王者>に会いに行った。思い立ったが吉日、という理由ではない。
『ちょうどよかった。今日の夕方に約束とってあるんですよ』
筆頭騎士が頼もしすぎたのだ。あの会合での決定を聞くより早く、自分自身で<王者>と<横笛>の関係に違和感があることに気づいていたらしい。
そのときは、さすがはケイ、と感心したものだったのだが。
「あ、こっちのたれなんかもいけますよ」
「知ってる知ってる、ちぃと取ってくれ」
なるほど、確かに<王者>と会談している。周囲の騒音のおかげで、こちらの話している内容が余人に気づかれることはないだろう。
しかし徹にとって、この光景は何かが間違っていた。
もっと静かな、気力のせめぎ合いであるべきだった。笑顔の裏に刃を隠し、動揺をポーカーフェイスの後ろに押し込める空間であるべきだった。
「よく来るんですか、ここ?」
「ときどきだな。安くて美味い飯探してふらふらしてることの方が多い」
それがどうだ、これではまるでイベントの小さな打ち上げだ。
徹は尋ねずにいられなかった。
「もしかして最初から知り合いだったりするのか、君らは」
「いえ、初対面ですよ」
「辛気臭い顔で茶だけ飲んでるのは詰まらんだろ」
徹の思いを洞察した上で、二人はこともなげにそう答えた。その間も手は止まらない。生の肉を鉄板に広げ、あるいは裏返してゆく。
「大事なのは詰まった中身だ。形式なんか高貴な誰かに任せとけ」
「中身というか、一番大事なものが肉にしか見えないんだがね?」
思わず口をついて出た皮肉は、<王者>への敵意を拭い切れないからだろうか。
しかし<王者>は鷹揚にそれを流した。
「まあいい。そんなに不満なら話も始めるか。何でも言ってみな。俺は嘘はつかん。面白くなりそうならノーコメントにはするかもしれねえけどよ」
「ふむ」
圭に視線をやれば、こちらも箸は置かないままではあるが何やら思案しているようではあった。徹は元から圭に任せるつもりでいる。そうしておけば大抵何とかなると、経験上知っているのだ。
そして圭は単刀直入に尋ねた。
「<横笛>とはどの程度の協力を?」
「ひとつだけだ」
返す<王者>も簡潔に答えた。
「招待状を奴らの言う日に送った。最近挑戦者が減ってたからな、ちょうどいいアイデアでもあった」
そしてやはり緊張感もなく肉を頬張る。
圭が困ったように笑った。
「こっちの都合は考えてくれなかったんですか?」
「挑戦されちゃあ、応えんわけにもいかん。小さな協力という事実と奴らの嘘を、俺という存在が打ち破れるかどうかってな」
「なっ!?」
思わず声を上げたのは徹だった。
つまり<横笛>は、おそらくは<無価値>なのであろうが、到底仲間になどできるはずのない<王者>を攻略すべく奇策を弄したのだ。小さな既成事実を元に噂をばら撒いて外堀を埋めることで、少なくとも名を得ようとしたのである。
「むざむざと罠に嵌められたのか、君は!?」
「いんや。見事に嵌められたのはお前らだよ」
またも至極あっさりと、<王者>は否定する。
字面だけなら負け惜しみにも思えるが、<王者>の醸す絶対的なまでの自信は徹の思いを容易く砕く。
縋るように圭を見たなら、筆頭騎士もまた頷いた。
「そうでしょうね。空いた時間に<闘争牙城>に行ってみたんですが、彼らは全員笑い飛ばした。何の疑いも持っていなかった。<王者>は誰にも従わないと確信していた。だから俺はおかしいと思ってこの会談を申し出たんです。印象ですが、<無価値>の策というのは決して一つ一つが緻密に構成されてるわけじゃない。きっと十のうち九は失敗して、それなのになぜか大局で見れば五分五分であったはずの状況が六分四分に推移している。そして押し込んでゆく。今回の件で言うならば、もし<王者>を取り込めれば奇跡、最低でも騎士派は混乱する。混乱すれば財団派への援護が遅れる。援護が遅れたなら、その間に出来ることがある。先の騒動三つとの合わせ技でしょう」
「……君が言うなら信じるが」
徹は不満を堪え、無理矢理納得する。信じるものの三つめこそは筆頭騎士四辻圭なのだ。
加えて、元々ここへは圭のみで来るはずだったのが、一人では心配だと徹が無理についてきたこともあってあまり強くは出られなかった。
<王者>が鼻を鳴らした。
「それで、どうして欲しい? <横笛>の戯言信じてるアホはいねえだろうなとか、別にそろそろ声明出しても構わんぜ」
<王者>はどこまでも王者の風格だ。
先ほど圭は、もし<王者>を取り込めれば奇跡と口にしたが、本来ならば逆だったろう。信じていたとしても疑心は湧くものだ。そして疑心は疑心を呼び、大きくなってゆくものだ。やがては覆るのが当然であり、だというのに<王者>はそれを起こさせない。どれほどの熱狂を受けているというのだろうか。
「そうですね、お願いできますか? あまり大きくはたらきかけても逆効果になりそうですし、その程度がちょうどいいかと」
「分かった」
「それから……」
圭はまだ続けた。
「騎士たちの力試しとして、あなたに挑戦させてもらおうかと思います」
「ほう」
「ケイっ!?」
<王者>は面白げに笑ったものだが、徹にとっては予想外だった。
「挑めば挑むほど負けるだけだぞ!? これ以上傷を広げてどうするんだ!?」
一輝も徹自身も既に敗れている。聡司にしても、自分で言っていた通り勝てはしないだろう。敵うとするならば圭か、あるいはもしかするとエリシエルか、その二人しかいない。
だが、さすがにそれはならない。最後の二人まで負けてしまえば騎士派の抑止力は完全に失われてしまう。
だからといって勝てるはずもない者を向かわせるのも無意味だと徹は考えたのだ。
「いえ、そもそも傷になるように立ち回っているのがいけないんですよ」
しかし圭は、気性に似合わぬ凶貌を温和に緩ませた。
「自分たちの方が上だと言わんばかりの態度で試合に臨むから、周囲の<魔人>たちの嫌悪を買うんです。まるでやられ役の権力者みたいですからね。ほら物語によくある、権威を鼻にかけた貴族だとか、あのあたりです」
「馬鹿な! 騎士派はそんなものでは……」
「そうですね」
激昂とともに反駁しようとした徹を窘める声はあくまでも静かだ。<王者>が無言で、愉快げな笑みを更に強めた。
「けれどそう見えるんです。驕りはありませんでしたか、徹さん?」
「む……」
そう言われてしまうと黙るより他になかった。騎士たちの誇りは行過ぎれば容易く傲慢となってしまうことは徹も重々承知しているのだ。
圭は今一度<王者>へと向き直った。
「お願いできますか?」
「活きのいい挑戦者は歓迎だが――――」
<王者>も圭を見つめ返す。
「お前は来ないのか、<門番>?」
久しく用いられることのなかった圭のあだ名を呼ぶとともに、どこまでも見透かすような眼差しがあった。
傍にいる徹の頬にじとりと浮かんだ汗は鉄板の熱さのせいではない。<闘争牙城>での試合の際などとはまったく異なる、息の詰まるような重圧を視線ひとつで放っているのだ。
それを十全に受け止め、気圧された様子など微塵もないまま圭は困ったように笑った。
「挑んでみたい気持ちはあるんですけどね、それよりももっと大事なものが俺にはありますから」
睨み合いとはならなかった。吹き出したのは同時だった。
「惜しいな。ドスの利いた面構えといい、<竪琴>なんかやらせとくには実に惜しい」
「褒め言葉と受け取っておきます」
「よし、メンドくせえ話はこのくらいでいいだろう。肉食おうぜ、肉」
「ですね」
再び和気藹々と食事に戻る二人を、徹は信じられない思いで呆然と眺めていた。
胸の奥がすっきりとしない。如何とも言いがたい気持ちの悪さがあった。
これは一体何なのだろうか。
一つ確実なのは、自分の<王者>への敵愾心がまったく収まっていないということだ。
「……ひとつ訊いてもいいかな?」
「ん、いいぜ」
肉を咀嚼、飲み込み、<王者>が鷹揚に頷く。
その様にさえ苛立つものを感じながら徹は問うた。
「<闘争牙城>では何かを賭けて『決闘』するらしいが、君は何を賭けているんだ?」
「強いて言うなら誇り、自信。ま、自分は強いだとか自分なら勝てるだとかの思いだな。もちろんイシュが徴収するわけじゃない。負けたら自信を砕かれるってだけの当たり前のことだ」
予想できない答えではなかった。
「なぜだ? どうしてそんな無意味なことをする? 君は一体何がしたいんだ?」
挑戦したいという者がいて、<王者>が<闘争牙城>最強であるのなら、その気になれば何でも手に入れられるはずなのだ。少し吹っかければいい。栄光を得たい誰かはその条件を飲むだろう。あまりにも勿体無いことをしていると思わずにはいられなかった。
「君だっていつまでも勝ち続けられるわけじゃないだろう? いつか敗れたとき、君に何が残るんだ?」
「また随分メンドくせえこと言い出したな。男が天辺獲って君臨し続ける理由なんて、そうしたいから以外のことは滅多にないだろ」
<王者>に動揺はない。聞き飽き、答え飽きたと言わんばかりの口調だった。
そしてそれだけだ。これ以上何も告げるべきことなどないということなのだろう。
だから徹も今更ながらに気づいた。自分の問いは、今までに<闘争牙城>の面々が口々に投げかけてきた質問だったのだ。そして彼らはきっと、今や<王者>に心酔している。
それでも徹はまだ問うた。止められなかった。
「敗北を震えながら待つのか?」
明らかな挑発である。<王者>に対する最大級の侮辱であると言っても過言ではあるまい。
しかし<王者>は愉快げに笑うのだ。
「脅かされない王座に何の価値があるんだ」
「なら、いざ負けたならどうする? すべてを失った君はどうするんだ!?」
語気が荒くなる。声が震える。忌まわしいと思う。それでも胸に渦巻く何かの迸るままに口を突いて出ていた。
うろたえて欲しかった。言葉に詰まって欲しかった。せめて、絶対に負けないと豪語してくれたならよかった。
<王者>は、とうの昔に自ら決めた答えを当たり前のものとして口にしただけだった。
「俺を斃した奴の肩を叩いて言ってやるのさ。『今この瞬間からお前が<王者>だ』ってな。そして死ぬのさ。お前の言ったとおり、すべてを失ってな」
「分からない!」
叫ぶ。さすがに他の客が幾人かこちらを見たが、すぐに興味を失ったようだった。
「……分からない」
嘘である。言葉として表すには難しいが、感性が理解できてしまう。
<王者>は頂点にいながら、まだ走り続けている。その精神は孤高にして、保身などなく更なる高みを目指している。
何かとてつもないことを成し遂げてくれる。<王者>は人にそう思わせる。だから打算を吹き飛ばし、あれだけの熱狂を呼ぶのだ。
徹にとって、目を灼くほどの光だった。
「<闘争牙城>にいる奴はほぼ全員腹に一物抱えてる。使いもしない金を貯めてる奴から骨董マニア、刀剣フェチ。欲しいものも色々だ」
<王者>の双眸が徹の奥底までも見透かさんと力を帯びた。
背筋に氷を突き込まれたようだった。
欺瞞を見抜かれている。今までしてきた質問のほとんどが意味のない、自分のために繕っただけのものであることがばれている。そしてその奥の徹自身を覗き込んでいる。
「強くなりたいのも欲望だ。しかも<闘争牙城>ではそれで大抵のものが叶う。だから俺は<闘争牙城>の欲望の頂点に違いないのさ。お前が何を望んでようがそれを否定したりはしない。さすがに恋人になってくれなんて言われたらそれ自体はノーサンキューだがな」
冗談めかした口調さえ圧倒的。
圧倒的なまま、切り込んで来た。
「なんだかよく分からんが、怯えるなよ。試合のときはもっとましな貌してたぜ」
奇声を上げて逃げ出していた。
恐ろしくて仕方がなかった。徹にとって<王者>は強すぎる太陽だった。
現実の夕陽、赤と黄の入り混じった中を一心に駆けた。暑い大気の中で流れるのは冷たい汗ばかり。走って走って、<空中庭園>まで辿り着き、青い顔でへたり込んだ。
圭を置いてきてしまったこと、後でどのような顔をして会えばいいのかも忘れ、四阿の前で荒い息をつく。
<王者>に会いに行ったのは、犯行現場に戻ってくる犯人の心理にも近い。恐れているものなど実は大したことはない、自分は大丈夫なのだと確認したかったのだ。
そしてその行動が誤りであることまでも似ている。
ここならばあの怪物はいない。ここは我が家だ。安寧を約束してくれる空間だ。
どのくらいそうしていたのだろう。見かけた者から報告が行ったのか、一輝が早足にやって来た。
「何かあったのか? 圭はどうした?」
いぶかしげなのは当然だろう。<王者>に会いに行って一人だけ帰って来た、それもさも問題が起きたといわんばかりの有様とあっては。
徹はかぶりを振った。立ち上がり、いつも通りの落ち着き払った顔をする。
「大したことではないよ。個人的にちょっと驚くことがあって先に帰って来ただけだ」
「そうか」
違和感は覚えたようだったが追求しようと思うほどではなかったのだろう、一輝は露骨な戸惑いの表情を浮かべこそしたもののすぐに真顔となった。
「まあいい。とりあえずこちらも片方の進展はあった。つい先ほど分かったんだが、<剣王>を斃したのは<夜魔>やその取り巻きじゃない。どうも<妖刀>とか呼ばれる奴らしい」
「ああ、まあ……」
今度は徹の方が惑うことになった。
一輝が口にしたことは今朝の時点で既に耳にしていた情報だ。今頃になって何を言っているのだろう、そう思ったのだが。
天啓の如くに閃いた。思い出したのだ。スパイ、内通者がいると圭は言っていたではないか。
「分かったのはついさっき、で間違いないな?」
「ああ、財団派と直接コンタクトをとった奴から半時間前に聞いたばかりだが……凄い顔してるな、あんた。何か知ってそうだ」
また妙にいぶかしげな表情になって一輝が言うが、そんなことにかかずらっている場合ではなかった。
今朝、<妖刀>のことを口にしたのは誰であったか。
右手を強く握り込む。己を取り戻せた気がした。
「確証まではないが私に任せてくれ。きっといいようにできる」
腹の底に力が満ちた。