その青年は人生を謳歌していた。
青年は容姿に恵まれていた。背丈もあり、爽やかに整った容貌は異性を惹きつけた。運動はそれなり。得意というつもりでこそなかったが苦手でもない。ただし、高校に入るまで剣道の道場に通っていた人間にとってのそれなり、である。
青年は厳しい両親の次男として生まれ育った。高校を卒業するまでは束縛に次ぐ束縛だったが、甲斐あって、日本人であれば大抵は知っている大学に危なげなく合格した。もちろん、元々学業は優秀だった。
青年は人生を謳歌していた。
親元を離れての一人暮らし、自由を満喫していた。不利益さえ覚悟すれば、いつ寝ても起きてもいい。一日中遊び呆けていてもいいのだ。
もっとも、思い切り遊んではいても成績を捨てるほどではなかった。学生同士で協力し合えば何とかなるものは多い。要領よく立ち回ればどうとでもなるものは多い。
青年は充実した毎日を送っていた。たくさんの友人たちと遊んだ。房総半島最南端まで初日の出を見に行った。海外旅行にも行った。スキー場で危うく遭難しかけたこともあった。
眉をひそめられたりもしたが、青年のような者をこそ若者のあるべき姿だと言ってくれた人もいた。自由に動けるときに様々な経験をして、ときには愚かな行為もやらかして、そして社会に出るべきなのだと。
青年は人生を謳歌していた。入れ替わり立ち替わり、常に異性が傍にいるほどに。
二十歳までは謳歌していられた。二十歳の誕生日に、奈落が待ち受けていた。
恋人ですらない、一時の自分を飾るアクセサリーとして捕まえてあった一夜の相手が妊娠したのだ。
青年は初心を忘れていた。充実した生活を送り、毎日が楽しすぎて、その型に固まってしまっていた。女を口説くことなど遊びの一環に過ぎないと、遊びなのだからいい加減で構わないのだと、いつしか勘違いしていたのだ。あくまでも相手は自分と同じ、ひとりの人間であるというのに。
だから不幸などではない、不運などではない。極めて妥当な結末である。
青年の両親は厳格だった。親元を離れてからの青年の行動については大まかにしか把握していなかったため、不愉快ではあってもそれも経験とそれまでは大目に見ていたのだ。厳しく育てた自覚があったからそこまで酷くはならないだろうと信じてもいた。しかし詳細を知った今、堕ろせばいいとへらへら笑う己が次男を殴り倒し、責任を取ることを命じた。そして一切の援助をしないと宣言した。
青年は大学を辞めて働かざるを得なかった。既に友人たちの自分を見る目が変化していることは察していた。変わらぬ関係を続けてゆけるわけもなかった。
散々遊んだ上での大学中退である。専門性のある技能や知識など碌に持ち合わせていない。仕事に貴賎はないとは言うものの、青年自身にとっては自分に相応しい仕事、相応しくない仕事というものがあった。無論、相応しくない仕事に従事することになった。
どうしてこんなことになったのか。こんなはずではなかったのに。憤りが常に心の内に渦巻いた。
皮肉なことに妻となった女性はこの状況を内心喜んでいた。子を授かったことは彼女にも予想外だったのだが、単純に青年のことが好きだったのだ。青年が不満を抱いていることは理解していた。それでも子が産まれればかすがいになってくれると信じていた。浅薄と評するべきか否か。自分の血を継ぐか弱き存在が心を溶かすことは、一般的には決して稀な事態ではなかったのだろうが。
娘が生まれても青年は変わらなかった。むしろ、自分の幸せを潰した元凶が形になったことでいっそうの憎しみを募らせた。
抱いてやって欲しいと言われて拒絶した。無理矢理に抱かされて、床に投げつけたくなる衝動を堪えるので精一杯だった。
愛することなどできなかった。青年はあくまでも身勝手だった。高校までの優等生、ある種の人間から見たときの素晴らしい若者は、もはやだたの屑へと堕ちていた。
二年経って両親が死んだ。交通事故だった。葬式はほとんど兄に任せ、息子として一応は泣いてみせた。胸の内ではいい気味だとすら思っていた。
さらに一年して妻が失踪した。書置きには、もう耐えられないとだけあった。邪魔者も連れて行けよと悪態をつき、捜索願は出さなかった。
娘は保育所へも幼稚園へもやらず、住んでいるアパートから一歩も出歩かせなかった。死なせて責任を問われるのは嫌だったので食べ物と飲み物だけはやった。
妻がいなくなった分、自由は増えた。また一夜の相手を求めた。部屋に帰ってくると娘が隅で怯えた目をしているのが鬱陶しかった。
そしてまた一年。
飲み明かした帰り、アパート近くの公園に警察と野次馬が集まっていた。
あの暗い部屋にいるはずの娘が、扼殺死体としてそこで発見されたのだった。
酔いなどどこかへ飛んでいった。その瞬間、青年の思考が塗り替えられていた。
情景は茫洋としている。
二月後、青年は夜を彷徨っていた。
名も姿も捨て、<魔人>となって仇を捜し求めていた。
犯人はまだ捕まらない。当初はニュースで連日報道されていた事件もすっかり薄れ、次の事件に主役を取って代わられていた。真相へ辿り着くことはもうないのではないかと思えた。
しかし力を得てみれば、裏側を知ってみれば、世界はそれまでと違う様相を見せていた。
警察が犯人に迫れないのも当然だったのだ。犯人は<魔人>の助けを借りている。そうであるならば、気づかれぬうちに殺すことも、人の目、監視機器を逃れて遠くに移動することも不思議はない。<魔人>は理不尽を行うのだ。
青年は情報を集めた。そして居場所を突き止めた。
月が綺麗だった。さぞ血に映えるだろうと、暗い諧謔が脳裏をよぎるほどに、曖昧な景色の中でこれだけが鮮烈だ。
しかし邪魔するものがあったのである。
『人にはくぐるべきではない門があります』
そいつはそう言った。
白い長剣を右手に、光そのものを集めたような盾を左手に、立ち塞がっていた。
見た目だけならば八つほどは年下、といったところだろう。ちょうど高等学校に通っている頃である。
しかし落ち着いた眼差しは歳など忘れさせるほどのものだった。
『彼はあくまでも人間です。捕らえるのは警察に、裁くのは司法に任せるべきなんです。そのための準備はこちらで既に進んでいます』
「そんなおためごかしで止められると思うかァ!!」
青年は咆えた。
「奴は俺がこの手で裁く!」
戦鎚から撃ち出したのは紫電だ。それは無軌道に空間を暴れ、それでも最後には少年に吸い込まれる。
もっとも、通じはしなかった。輝く盾が的確に受け止め、紫電は虚空に散った。
『この門をくぐらせるわけにはいきません。一度踏み越えてしまえば、あなたは二度と後戻りできなくなる』
彼を冷静と評するのは間違いなのだろう。理不尽を咀嚼した苦みと憂いとを堪え、落ち着いた口調で語っているだけなのだ。
残念ながら目を血走らせた青年にそこまでの観察はできなかった。戦鎚を構え、雷を纏わせて、この邪魔者をどうやって排除してくれようかと熱い息を吐く。
「消えろ! 死ねよクソガキがァッ!!」
踏み込み、渾身の一撃を見舞う。
<魔人>となって間もない青年は、これがどれほどのものまでも破壊できるのかを知らない。
洗練されていない替わりに見境なく力の詰め込まれた一撃は、打撃の瞬間に凝集された破壊を周囲にばら撒く。20メートル四方の建造物は衝撃だけで瓦礫と化すだろう。
だが、少年がそうはさせなかった。まともに振り下ろされるよりも早く、盾でもって戦鎚の動きを止め、そこから流したのだ。攻撃というものは最大の威力を発揮する位置や瞬間がある。その二つを外させ、かつ盾型のクラウンアームズが発生させている強力な緩衝能力によって周辺被害を出さない程度にまで押さえ込んだのである。
恐るべき所業なのだが青年に理解できるはずもなく、もう一度戦鎚を叩き付けんとする。
「止められるなら止めてみろ、雑魚がッ!」
『いいえ』
少年は轟撃を捌きながら静かに告げた。
『あなたを止めるのは俺じゃありませんよ』
左腕の盾が、腹立たしいほど精確に戦鎚を抑えてゆく。右手の剣は一度も振るわれない。
「死ねッ! 死ねッ!! 死ねよオラッ!!!」
迸る激情のままに叩きつけるも、効かない。大人に殴りかかる幼い子供のようだった。
それでも青年は戦鎚を振り続けた。それを何分も、何十分も続けた。
「奴を! 俺に! 潰させろッ!!」
自分がどんな動きをしているのかも分からなかった。ただ振り、ただ叫ぶのだ。
「あいつがどんな悪いことをした!? なぜ死ななければならなかった!?」
悲痛に響くその言葉にも少年は応えなかった。痛ましそうに眉根を寄せつつ、防ぎ続ける。
その光景もぼやけ、いつしか青年の手は止まっていた。
自分が泣いていること、これにも気づけなかった。
「みんな忘れてしまう……あの子が生きた証が消えてしまう……だから俺が!」
これは夢だ。かつての光景だ。
第三者的な位置から見えていた青年、自分の視点となり、言ったはずの言葉、聞いたはずの言葉が自動的に交わされる。
そして意識が覚醒してゆくにつれ、自分の台詞が聞こえなくなってゆく。
『あなたを止めるのは俺じゃなくて、あなた自身です』
『分かっているんでしょう? あなたは決して、犯人を殺したいわけじゃない』
『何もしない自分が許せないから、せめて仇を討とうとした』
『けれどそれは、くぐるべきではない門です』
『償いなら、やり方は他にもあります。たとえば……』
『俺たちと一緒に平和を守りませんか?』
『あなたが大きな間違いを犯してきたなら、それは過ちという貴重な経験をしてきたということです』
『俺たちは結局、十代のガキに過ぎません。あなたの視点は大きな糧になる』
『どうか、一緒に来てくれませんか?』
そう言って、少年は自分に手を差し伸べた。
そして自分はその手をとった。言葉遣いも変え、年齢どおりの『大人』を演じることにしたのだ。
<剣王>敗死の報は<竪琴>も<横笛>も路地裏の一匹狼も、日本中の<魔人>という<魔人>を震撼させた。
ただの強力な<魔人>ではないのだ。世界最大規模となる<竪琴>においてさえ押しも押されもせぬ最強クラス、敵からは恐怖、味方からは畏怖とともに語られた真正の強者が敗れたことは、極めて大きな動揺をもたらした。
そして何より衝撃を受けたのは、財団派ではなく騎士派だった。半年前に移籍したとは言っても、今いるうちの七割がその強さを近くで見ていたのだ。誤報なのではないかと一度ならず疑わずにいられなかった。
「……彼に勝ちうる<魔人>なんて日本に何人もいない……と思っていたんだが……」
<空中庭園>の最奥、エリシエルも住まう騎士派本部の玄関で報告を聞いた徹も、かすれた声で呟いた。
「誰にやられたのか知っているか?」
「昨夜<帝国>を強襲して、それで返り討ちになったとか……」
報告を持ってきたのは目をかけている少年だ。猛のことを直接知っているわけではないからか、驚愕よりも周囲の落ち込みに対する戸惑いの方が大きそうだった。
「<妖刀>とかいうそうですよ。正体不明の、なんでか<帝国>にいる奴らしいです」
「<妖刀>、か……」
<闘争牙城>のトップクラスであり<横笛>に加わったうちの一人、とだけ知っていた。
ともあれ、財団派のみならず<竪琴>全体としても非常にまずい事態になったと言える。
<竪琴>という名の持つ抑止力がまたひとつ衰えた。<横笛>ならまだしも、新興の数十人規模だった<帝国>にやられた事実が拍車をかける。
実際には現在も<竪琴>こそが日本で最も強大な<魔人>集団であるに違いないだろうが、そう考えられなくなる<魔人>は多いはずだ。勝ち馬に乗りたい日和見が動いてしまう。財団派の泥沼が<竪琴>全体に広がるおそれも現実味を帯びてきた。
「……大丈夫なんでしょうか?」
少年が不安そうに見上げてくる。
大丈夫、とは本当は言えないのだろう。<王者>には勝てず、<剣王>も敗れた。これから状況がどう転がってゆくのか、徹自身にも不安がある。しかしそれを表に出すわけにはいかなかった。
「問題ないとまでは言えないが、<竪琴>にはまだ余力がある。大丈夫だ」
完全に否定してしまっては強がりに映る。だからそう答えた。
少年は果たして意図に気づいたのか否か。愛嬌のある笑顔で頷いた。
「そうですね。暗い顔してたらまた姫に怒られる」
「目に浮かぶようだな」
「じゃあ俺、行きます。ぐずぐずしてられない」
軽く手を振って、少年が背を向けた。
徹は仮にも年長者で、かつ砲撃方筆頭である。他の者なら礼の一つもするところ、相変わらずの不遜な少年だった。
それが許されるのは愛嬌ある顔立ちや人柄にも理由があるが、何より砲撃方として極めて高い素質に恵まれたことが大きい。
ただの人間であったときには活かされることのなかった潜在出力、砲撃能力の源となるそれを<魔人>として最高の規模で彼は有している。そこから更に高位のクラウンアームズによって増幅された一撃は壮絶の一言だ。徹の術などほとんどが十把一絡げに小技として飲み込まれてしまうだろう。
その一方で、それ以外の能力に関しては騎士派として最低限のものを有しているに過ぎない。一芸特化は騎士派には珍しく、そぐわないと陰口を叩く者もあるのだが、有無を言わせぬ威力はその陰口をも叩き潰すのだ。
無論、やり合って徹が負けることはない。火力だけで勝てるほど砲撃方筆頭の名は安くない。
しかし成長すれば分からない。彼の伸び代がどの程度残されているのかは分からないが、もしかすると一年後、二年後の騎士派最強を担うのはあの少年であるのかもしれないのだ。だから特別に目をかけている。
「……なにはともあれ、ここに突っ立っていても仕方ないか」
呟き、胸に湧いていた暗澹たる不快を振り払って玄関から奥へと歩み出す。
まずはエリシエルに会って意向を尋ねておき、それから一輝や聡司とも話をせねばなるまいと考えたそのとき、また呼び止められた。
「徹さん!」
先の少年ではない。有力な白兵方の一人だ。名は確か瀬尾大地と言っただろうか。
振り返り、何事かと問う前に、絶叫が響き渡った。
「聡司さんを止めてください! 仇をとりに行くって暴れてるんです!!」
剣を握る手には冷たい怒りを、ゆっくりと踏み出す足には焼けつく憤りを。
市中聡司の歩みを誰も止められないでいた。
支離滅裂に喚いてでもいたなら総がかりで押さえ込もうともしただろうが、寄らば斬るとばかりに剣呑な眼光を放つ双眸は悪い意味で冷静だった。己が障害となる存在を排除する算段を機械的に行っている。
接近戦で白兵方筆頭を止められる白兵方はいない。かつ、聡司は一度高速機動を始めれば上位の疾駆方に匹敵、下手をすれば上回る。疾駆方も砲撃方も止められない。
事実、既に軽率だった三十名近くが聡司に退けられている。
殺してでも、何人殺されてでも、とまで覚悟を決めたならあるいは可能だったろうが、まさかそんなわけにはいかない。
必要なのは総合的な実力だ。だから今は止められる誰かを呼びに走らせ、残りは遠巻きにしている。
しかし聡司は容赦なく、この<空中庭園>の出口へと歩を進めていた。
焦燥が高まってゆく。やはり無理をしてでも、と誰かが呟き、自棄になるなと誰かが止める。
転移地点となる四阿まであと30メートル。その気になれば一瞬、一歩で辿り着けるだろう。
しかしそこで四阿が光に包まれた。外界よりの転移の印だ。
光が消えたとき、騎士たちは息を呑んだ。
聡司までもが足を止め、目を丸くした。
よく知った姿だ。
年の頃は十七、八。中肉中背よりはやや大柄。
異様に酷薄そうな凶貌をしながら、浮かぶのはむしろ穏やかな笑顔。
そこへ、目の前の光景を見てか戸惑いが加わる。
「何かトラブルかな」
声もまた穏やかだ。偽りではなく、面構えよりも表情と声の方が本質なのだと騎士派の皆が知っている。
「エリスに報告することはあるんだけど、その前にこの状況を説明してもらった方がいいみたいだ。いいかな、聡司?」
この日このとき、一月を不在としていた筆頭騎士四辻圭が<空中庭園>に帰還したのだ。