午前零時。
地上の光はまだ消え切らない。
歓楽街が近いということもあるだろう。七月も下旬の熱気がいっそうのものとして吹き付けてくる。
今宵も変わらぬ人々の営みを眼下に、新島猛は宙を征く。大小さまざまなビルの屋上を跳躍で繋ぎ、目的地へと。
鋭すぎるほどのまなざしは視界内の全てを映す。何か一つに注視することなく、映る世界をそのようなひとつのものとして受け取るのだ。
そして容易く異変を見つけ出す。
右方、薬屋の看板の陰に潜む者。手元の微かな光は通信機の類、単純に携帯電話か。
看板の位置は地上20メートルである。それを横向きに支える支柱に好んでしがみつく人間は珍しいだろう。<魔人>だ。
猛は長身を虚空へと俊敏に、優美に舞わせる。
目を見開く暇もあらばこそ、黒刃一閃、突きにも近い一撃で<魔人>の喉は掻き切られていた。
まだ死んではいない。取り付いたまま空いた手で顔面を捕らえ、低い声で囁く。
「喋るな。暴れるな。死にたくなければな」
黒い刃を消し、がくがくと頷く少年から手の機械を奪い取る。
随分と古い携帯電話だった。通話中である。
『おい! どうした! おい!? 何があった!?』
怒声と呼ぶには怯えを帯び、この不安を否定してくれと悲鳴を上げているかのようだった。
「なに、少々ごたついただけだ。そう騒ぐなよ、周りの迷惑だろう」
『誰だ!?』
誰何も、もはや反射でしかない。
猛としてもまともに会話を楽しむつもりはなかった。
「お前らの女王に伝えな。<剣王>新島猛、推して参る。構わん、泡を食って逃げるがいい」
この一月、財団派はただ攻めあぐねていたわけではない。
まずは敵がいかなる傾向を持つのかを探った。結論は、集っているだけの『個』であると出た。誰も彼もが<夜魔>の命に従って現われはするが、それぞれが自侭に戦っていた。少なくとも訓練された連携はとらない。
だというのに苦戦させられたのは、元々その地区を担当していた<双剣>相馬小五郎が地の利を使って遊撃していたこと、そしてなぜか敵側に引き込まれる者が現れたことに原因がある。
ともあれ、個の集合に過ぎないからにはほぼ間違いなく本拠を定めてある。もしも<夜魔>自身が常に動きながら縦横に指示を出そうとしたところであの錬度では反映しきれないであろうし、それ以前の情報の集積すら滞りなくとはゆくまい。事実、こちらの動きへの初期対応と増援のタイミングは遅いと言わざるを得なかった。
加えて、小競り合いの際の配下たちの物言いから浮かび上がってくる<夜魔>の人物像自体も、ゆったりと構えていることを好むように思えた。
となれば次にはその本拠を特定、急襲しなければならない。時間をかけて徐々に削ってゆけば、不利と見た<夜魔>が逃亡する可能性がある。どのような方式でかまでは判らないものの、おそらくは強制的に<魔人>を味方につけるすべを彼女は有している。逃すわけにはいかない。
そうでなくとも、持久戦を行えば自戦力が減り、その分敵戦力が増えるであろうことは想像に難くなかった。根本的な戦力比をひっくり返されては勝てなくなる。
かくして<帝国>の奇襲より一月、今度はこちらが仕掛けることと相成ったのである。
今、わざわざ襲撃予告をしたのは本拠を捨ててくれる分には構わないからだ。おそらくは要塞と化しているであろう、敵に有利でこちらに不利な領域を自ら放棄してくれるならそれに越したことはない。大量の戦力を連れたまま移動などすれば補足するのは容易いし、少数ならば人数で優位を取れる。逃亡阻止の五名はあくまでも要だ。動員できる数はそれに数倍する。少し足止めさえしておいてくれれば自分が追いつける。
もっとも、動きはしないだろう。そうでなくてはわざわざ財団派領域の内部に孤島化した<帝国>など打ち立てる意味がない。最初から強襲、奇襲を受ける事態は織り込み済みのはずだ。ならば予定通りにさせてやる。相手の行動を固めてしまう。
臭いがするのだ。予定通りにしてやれば、<夜魔>は自分の前に現れる。僅かに漏れ聞いた情報と、あとは勘であるが、猛は<魔人>と成る前からこの勘を信じてきた。
どう言い繕おうとも強引に違いない今回の作戦を実行する気になったのは、だからなのである。
「じゃあな。顔を合わせないことを祈ってろ」
そう言って携帯電話を握り潰す。
「何もしない方がいい。抵抗すればするほど後々不幸になる」
未だ声もない少年に告げ、再び軽やかに跳躍した。
狙いは<夜魔>の首一つ。
夏の風が不意に冷えた。
小さな山に三方を囲まれるようにして、五階建ての古い建物がある。
白かったはずの壁は黴か、それとも別の何かであるのか、ところどころ薄黒く汚れ、それでなくとも経た年月を思わせずにいられぬほどくたびれている。
これは県営の宿舎だ。かつて三方の山が桜の名所であった頃、多くの客に格安で寝床を提供していた。近所に住居もなく、周りでは水田に青い稲が葉を広げている。
しかし山火事で桜が無残な姿となったとき、宿舎も役目を奪われた。泊まる者などもはやあろうはずもない。週に一度の役人による点検を受けながら、やがて取り壊される時を待つだけだった。
けれど今、宿舎には新たな主があった。
<夜魔>率いる<帝国>。担当の役人さえ抱き込んでしまえば、廃棄されたに等しい此処を拠点とすることは容易い。いつまでも保つものではないにせよ、半年や一年ならばどうとでもなる。
その最上階、<夜魔>が自室として設えさせたのは宴会場として使用されていた質素な洋式の広間だった。床に絨毯を敷いてソファとベッドを運び込ませ、今は脇に十名の下僕を従えてソファの方に寝そべっている。
正確には、報告を受けるまで気だるげに寝そべっていた。
「<剣王>が来たの!?」
果たして、財団派最強の襲来を聞かされた<夜魔>は満面の笑みで跳ね起きたのだ。いつもの不機嫌そうな顔などどこへやら、声もはしゃいでいる。
これほど上機嫌な彼女を見たことのある者は、ここにはいなかった。
「私がじかに相手をするわ。うまく……そうね、駐車場にでも連れて来なさい。多少傷つけるのはいいけれど絶対に斃してしまっては駄目よ」
唐突な我侭はいつものことだ。そして下僕たちの追従の笑みもいつものことだ。一月前には憎しみの目で見ていたはずの者も、その中に含まれていた。
しかしかつてと変わらぬまなざしをした少年も一人だけ在った。
「危険です、<夜魔>! <剣王>は住む世界が違うとまで言われるバケモノです。相対するのはあまりにも……」
中肉中背、大半の<魔人>がそうであるように比較的整った容貌が逆に特徴を埋没させてしまっている。もっとも、この主に異を唱えるだけで異質ではあった。
「うるさいわ。私は意見など求めてない」
水を差され、<夜魔>が剣呑な視線とともに右の人差し指を少年に向ける。塗ったとも思えない透明感のある蒼にその爪は色づいていた。
仕種が何を意味するのか知っている少年は身を強張らせ、しかしそれよりも早く、大柄な男が疲れ果てた声をかぶせた。
「そいつの言うとおりだ。お前の勝てるような相手じゃあ、まあ、ないな」
「……負け犬がまだ偉そうに」
蒼爪がそちらへ向いた。
次の瞬間、男が身を折った。
「ぐ、ああ、あああああああああぅぅぅぅぅぅっ、くああああああああああああああああ!!?」
激痛に膝を落とし、床をのたうつ。
その様を、残る下僕たちは恐怖とともに見つめずにいられなかった。
「学習しないのね。馬鹿だわ。死ななきゃ治らないらしいから、仕方ないのかもしれないけれど」
<夜魔>は負かした相手を支配する異能を有している。直接強制することができるわけではないのだが、替わりに苦痛を与えることができるのだ。条件は<夜魔>に危害を加えようとするか、逃げようとするか、そのどちらかで自動的に。あるいは<夜魔>自身の任意でも発動させられる。
どれほどの痛みであるのかは、目の前の<双剣>相馬小五郎が示している。一度受ければ二度と逆らおうとは思わなくなるほどのものなのだが。
「小五郎さんっ……」
少年は小さく呟いた。自分をかばうためにわざとあんなことを言ったのは理解していた。それでも<夜魔>へ更に言い募らないわけにはいかなかった。
「……そもそも<剣王>は<妖刀>が勝負したがっていたはずです。彼はそれくらいしか希望を口にしていないし、あなたも承諾したはず。その約束を破るのは危険すぎます、彼まで敵に回すつもりですか!?」
<妖刀>は恐れられている。異形の風体、異様な言動、そして底知れない強さ。相馬小五郎も元々は<妖刀>が下したのだ。そしてその後で、半死半生のところを<夜魔>が奴隷としたのである。
不文律と言うまでもない。決して触れてはならぬと誰もが本能で悟っていた。
「<闘争牙城>での彼は知っているでしょう? たった二試合で誰も挑めなくなったあの……」
「黙りなさい」
さすがに立て続けに責めを負わせる趣味まではなかったか、胸に湧き立つ高揚にこれ以上水を差したくなかったのか、<夜魔>はただ溜息をついた。
「そんなことは承知してるの。それでも私はこのチャンスを逃さない」
しかし双眸に揺らめいたのは狂的な光だ。
<夜魔>はこのときを待っていた。数を有し、敵を取り込んでは増やしてゆくことのできる<帝国>に対して採れる最上の手は、少数精鋭で主の首をとることである。必ず来るはずと期待していた。
「彼は強い。元騎士派白兵方筆頭、現財団派最強。彼なら私を守ってくれる。雑魚どもとは違う。見た目だって充分、特別に恋人にしてあげていい。私に落ちない男なんていない。そうでしょう?」
「はい、<夜魔>」
即座に唱和する。<夜魔>が己が美貌に執着しているのは皆、重々理解している。遅れればそれだけで罰を下されかねない。
彼らは決して、十把一絡げの<魔人>ではない。配下とするだけの実力はあるとして、下僕とされたのだ。その彼らが怯え、従わざるをえない。
結局は、何を言っても通じることはない。少なくとも支配下に置いた男の言うことなど彼女の心に響かない。
「しかし<夜魔>! せめて屋内の罠を利用すべき……」
「うるさいと言ったでしょう? まだ言わせるつもり?」
それでも縋りつかんとした少年は振り払われる。
躊躇もなく、路傍の石のように視界からも外されて、彼女は既に部屋を出ようとしている。
伸ばした手は当然のように届かない。
下僕たちは動けなかった。
名高い<剣王>を敵とし、<夜魔>も事実上手を出すなと言った。行っているのは一般人をこの宿舎へ近づけないようにするための監視くらいのものだ。
動けない、動かなくてよいという現状に心底安堵した。
下僕たちにとって<剣王>は救いの手である。痛みによって無理やり裏切らせられた元財団派の<魔人>のみならず、<闘争牙城>で集められた者たちにとっても同じことだ。敵となっていたことを責められるかもしれないが、少なくともまともに話が通じることは期待できる。
だから待ち望んでいた。<夜魔>が斃され、解放されることを願っていた。
そして、来た。
低い月の中に人の影。跳躍を繰り返し、駐車場に降り立った。
二十歳ほどか。二十名以上に囲まれていながら、にやりと笑ってみせた。
その瞬間、えもいわれぬ悪寒が走った。
しなやかに鍛え上げられた長身。それは<魔人>には珍しいものではない。<魔人>のほとんどは少年であり、好き好んで貧相な体格などにはしないものだ。
黒ではないがそれに近い色合いの装いは、物々しいブーツ以外は何の意匠も凝らされていないありふれた代物。強いて言うならば夜に人の目から紛れるにはよさそうである。
異様なのは纏う空気そのものだ。
暴力に親しんでいる。論外だ。
幾度もの死線を潜り抜けて来た。まるで足りない。
それは、殺し合いを行うことを当然とする存在だった。
雑多な敵意ではない。幼稚な殺意ではない。質量すら感じさせるほどの、練り上げられて刃にまで昇華された殺気である。
文明の発達によって薄れつつあるとはいえ、雄性は外敵を打ち倒すが役割である。眠っていた本能が叫ぶ。<剣王>という雷名など要らない。相対すれば、分かってしまう。
格が違う。次元が違う。階梯が違う。
住む世界が、違う。
初めて見える者はどうしようもない畏怖に震え、知っていた者は再確認する。
しかし<夜魔>には分からなかったようだ。
「よく来たわね、<剣王>。歓迎するわ」
悠々と、高慢に、そう声をかける。
気を張ってはいる。強いとくらいならば認識できているのだろうが、それよりも欲求を抑えきれないでいるようだった。
「早速だけれど、私と勝負なさい。あなたが負けたなら、私の奴隷になるの」
「一対一か?」
「……そうよ」
それでも豺狼の笑みにさすがに気圧されたか、少しだけ言いよどむ。
猛はゆらりと右手だけで肩に担ぐように剣を構えた。背丈の七割ほどある諸刃は夜に紛れて黒い。
「いいだろう」
駆け引きなど知ったことかとばかりの返答に惑いはない。
約束はこれで成された。拍子抜けしながらも望みの一歩を叶え、しかし<夜魔>の声は喜びを表すことができない。
「あなたが勝ったときのことは聞かないの?」
「無意味だ」
猛が軽くアスファルトを蹴った。
「あえてお前に望むものはない。この剣で奪い取るだけだからな」
あくまでも軽く、だったはずだ。
皆の視線を振り切り、その身は既に<夜魔>の目前にあった。
<夜魔>の下僕たちは八割が白兵戦を得意とし、残る二割は砲撃戦闘に長けている。逆に言えば機動力を武器とする者はいないということになるが、それは速度に不慣れであることを意味するわけではない。彼らの多くは<闘争牙城>の参加者であり、残りは元財団派の<魔人>だ。敵として速度を恃みとする<魔人>とやり合ったことならばある。
しかし、遠目であるにもかかわらず追えなかったのだ。先代白兵方筆頭は現疾駆方筆頭と互角の速度を誇り、その分野における強さに至っては上回る。その事実を知っている者は元財団派の中にも<双剣>しかいなかった。そして<双剣>はまだ屋内で苦痛に呻いている。
気づけたときには勝負は決まっていたかに思えた。
金属と金属とが打ち合わされるような甲高い音が響いた。
ようやく目に映ったのは、袈裟に振り下ろされた黒刃が逸らされた様と、それを成したのであろう、蒼い爪だった。
長い。右の人差し指から小指までの四本がいつの間にか1メートルほどまで伸びていた。
そればかりではなく、<夜魔>の立ち位置も移動していた。猛の一撃は速い以上に重い。彼女の細身でまともに受けられるはずもない。爪は左腕で支えながら添えただけ。斬撃をしのいだ要は左へ半歩身をずらしたことにある。
猛は留まらない。即座に三閃を加える。いずれも<剣王>の名に恥じぬ剛撃だ。
しかし夏の風の乗るかのように<夜魔>は踊るようにステップを踏み、蒼爪で僅かに横から力を加えて三つともを逸らしてのけた。
これはまぐれではないと言いたげに美しい顔に蠱惑的な笑みを乗せ、スカートを翻して距離をとる。後方への跳躍であるがため鈍いはずだというのに、またたきひとつの間に位置を入れ替えたかのような仕業だった。
蒼爪が縮む。無論、これは自前のものとは異なる。クラウンアームズ『ヘカーテネイル』だ。
「私が何者かなんて重々承知でしょうけれど、自己紹介がまだだったわね。私は<夜魔>と呼ばれているわ。以後、永くお見知りおきを」
<夜魔>は両手でスカートの裾を摘まんで持ち上げた。片足を引き、残る膝を軽く曲げて優雅に一礼。
戦いの最中に堂の入った挨拶である。
「俺も名乗った方がいいのかね? 礼儀作法なんて堅苦しいものは御免こうむりたいんだが」
あからさまな隙だが、猛が踏み込むことはなかった。黒刃を再び右手で肩に担いだまま、とぼけたことを言う。
<夜魔>はころころと声を立てて笑った。
「結構よ。別に、名乗ってもらうことが奴隷化の条件だなんていうわけではないもの。でも用心深いのね。悪くないわ」
そして自らの従僕たちが呆けたようにこちらを見つめているのを軽く見回し、笑みに毒を含んだ。
「私にこんな真似ができるなんて思ってなかった? そうよね、見せていなかったから、そうでしょうね。だってあなたたち、それなりなだけで結局は弱いんだもの。必要もないのに見せないわ」
少年たちは時期や場所の違いこそあれ、<夜魔>自身と戦い、敗れた者たちだ。勝負の内容はほぼ一方的だった。そもそも<夜魔>は勝てる相手しか選んで来なかったのだ。
次々と犠牲者が出ているにもかかわらず勝負を受けてしまったのは、その美貌と魅惑の肢体につられたということもあるが、明らかに自分の得意の型に持ち込んで押し潰すやり方は注意すればなんとか攻略できそうに思えたことが大きい。そんな手段をとる彼女の純粋な実力自体は低いと誤解したのである。
しかし考えてみたならば不思議はない。いくら自分に有利な相手ばかり選んでいたとしても、果たして一度も逆襲を許さずに済ますことが、力量の低い者にできるだろうか。
「私は幼い頃から色々な習い事を仕込まれたわ。その中には武道の類もあるの」
音もなく、再び蒼爪が伸びる。
「運動は得意だったの。私より足の速い子なんていなかったし、男の子の喧嘩だって馬鹿らしかったわ? あんなの簡単に、どうとでもできるでしょうに」
「なるほど」
相槌とともに今一度猛が肉薄する。同時に、まったく劣らぬ俊敏さでもって<夜魔>が横へのステップを踏む。
それでも距離は詰まる。身も凍るような閃きを、彼女は舞うようにして避けてゆく。
「返し技だとか色々習ったけれど、もう覚えてはいないわ。でも、避けるのだけはあの頃も、そして今でもとても自信があるのよ」
言葉通り、避けるだけだ。避けきれないときに蒼爪を添えるだけである。
傍から見れば他愛なく映るが、尋常な胆力でも仕業でもない。いかに<魔人>が理不尽を行うとはいえ、いかに『ヘカーテネイル』の力があるとはいえ、相手は<剣王>なのである。
だというのに彼女は優雅に在った。まるで、そう在らねばならないと自身に課しているかのように。
だが、不意に美しい面立ちが歪んだ。
「だって……先生たちがいやらしい手つきで私に触れようとするんですもの」
その瞬間に現れた過去への嫌悪は、負の情念は、彼女の体捌きを縛るほどだった。
かわし損ねた一撃が上腕をかすめ、赤い血が流れる。傷は即座に塞がり、赤も消えたものの、替わりに歪みだけは笑みに残った。
「私に触れていいのは、私が許したときだけ。これを破る男は死ねばいい。あなたも同じよ。今は決闘中だから特別。避け切れないくらいには強いし、仕方がないわ」
<魔人>の力の程は人であった頃の力量に相関する。彼女は間違いなく強かったのだろう。しかしそれ以上に、この滲む嫌悪が予知じみた察知能力を与え、そこから続くすべてを後押ししているのだ。
恋人にしてあげてもいい、との言葉は当人にとっては嘘ではない。特別に、優先的に触れることを許してやってもいいと思っているのである。
一方的な攻と一方的な防が千日手めいて続く。
甲高い音を立てながら、時折皆の視界から消えながら、優雅を崩さぬままに、焦れているのは<夜魔>の方だった。
この速さ、この体捌きは、伏せておいた札ではある。しかしあくまでも余技なのだ。<夜魔>の真価は中距離から遠距離でなければ発揮できない。
しかし殺し間を生成するための最初の一撃を撃たせてくれない。この距離このタイミング、と定めた瞬間に間合いを潰される。思考を読まれているのではないかと疑念が湧くほどだった。
さすがは見込んだ男、とできるなら喜びたいところだが、最終的に下せないでは意味がない。
じりじりと背に寒気が這い寄って来る。
間接的な支配を為し遂げる『タイラント』。その異能は非常に危険なものだ。
先ほどの、賭けを持ちかけて承諾を受けた行為は、実のところ不要である。本当は同意など要らない。双方に明確な戦闘の意思があればいいだけなのだ。
それでも賭けの形を装うのは、受けたならば気負わせ拒否したならば油断させるためである。余裕ある振る舞いとともに心理面からも重圧を与えることを<夜魔>は疎かにしない。
相手を選び、隠しておいた実力を露わにし、精神的にも優位に立つ。
仕掛けた以上は絶対に勝たなければならない。
この戦いは野望成就のために一度だけ行わなければならないと決めた冒険である。乾坤一擲、勝率は分からない。
やや偏ってはいるものの、<夜魔>には間違いなく武才がある。渇望から来る執念もある。秘められた素質まである。小細工などせずとも<闘争牙城>屈指と呼ばれるに恥じることない力量を有している。
だが、経験が足りていなかった。数ばかりではなく、何よりも質において。
心など読めずとも、視線、足運びから次の意図を読み取ることは、卓越した武を持つ者には不可能ではない。
<剣王>にとって、此処は敵地の只中である。<夜魔>が手出し無用と口にしたからとて、周囲の下僕たちが割り込んでこない保証はない。
<夜魔>が攻撃に移ろうとする瞬間を読んで潰しながら、少年たちをも観察しているのだ。手を出しては来ないのか、従っている理由は何であるのか、心はどちらに向いているのか。
新島猛は視界内の全てを見ている。右腕一本で、黒い刃を繰りながら。
そしてついに結論は出た。
繰り返される黒の影。しかし<夜魔>はステップを踏めなかった。
きょとんとした表情はいっそ無垢に幼く、一拍遅れてやってきた痛みに麗しい顔を歪める。
アスファルトを蹴るはずだった右足が、足首から切断されていた。夜闇に僅か、何かがよぎるのを彼女は見た。
糸、だろうか。それは猛の左手に続いている。
そこまでを確認して、対価に<夜魔>は右腕も肩から失っていた。
「痛い、痛いい痛い痛い痛い痛いぃぃぃっ!!?」
それだけで気を失ってしまいそうだった。
右足と右腕の復元は無意識に等しく、生存本能が全力で離脱を選ぶ。勝たなければならないという思いもすべて忘れ、逃れようとする。
だというのに、爆発的な轟音とともに、先ほどまでに倍加した速度で容易く追いついて来た。
少年たちの戦慄こそが最も正しい答えを示していたのだ。<剣王>は格が違う。<夜魔>の実力も小細工も、確実に捌ける程度のものでしかないのである。
「私を助けなさい!」
<夜魔>の悲鳴は遅きに過ぎた。猛の読み通り、一人を除いては動くことを躊躇した。逆らうことで一時的な苦痛に苛まれるとしても<夜魔>さえ死んでしまえば解放されるのだから当然だ。
そして少年たちが迷いなく助けに来たとしても間に合わなかっただろう。彼らでは今の猛に追いつけない。
騎士派三方武芸脚法一式『疾風迅雷』。要は蹴り出す瞬間に足元で爆発を起こし、本来ではありえぬ初速を得るだけの単純な術理である。不慣れな者が使ったならば体勢を崩して転げる無様をさらす破目にはなるが。
<夜魔>はそれ以上逃れることもかなわない。五体にいつしか糸が絡みついている。
猛が左手で繰るそれは力でもって創った擬似鋼糸、創成法五式『知朱』の産物。鋼の糸よりも強力とはいえ<魔人>相手には脆弱と言わざるを得ないが、猛が繰ったならば強靭な肉体を持たぬ存在は断つも縛るも自在である。
最初から今に至るまで完全に掌の上で踊らされていた<夜魔>に逆転の術はない。一刀のもとに斬って捨てられ、<帝国>は崩壊する。
そのはずだった。
糸が抵抗もなく斬られた。
その斬撃を、猛は奈落へ口を開けた裂け目と見た。
枯れ木のようなものが二人の間に割って入っていた。
それは人の形をしてはいた。それは細い細い月にも似た刀を手にしていた。
それは、ひ、ひ、ひ、と笑った。
襤褸を纏い、<妖刀>がいた。