かつて少年が一人、欧州の片隅で天涯孤独になった。
原因を求めるならば、両親の愚かしさに因ると言うほかないだろう。<災>が現れ始めて間もない時期のことだ。日本でも猛威を振るってはいたが、それでも結果的にはましな方であったものを、己の帰属する場所を貶めることが知性の証であるという思春期じみた妄念を継続していた彼らは、不確かな情報に踊らされてわざわざ国外へ脱出したのだ。
死に至る過程は何の変哲もなく、ただ<災>が目の前に現れ、逃げ遅れただけである。助けようとしてくれた者はほとんどいなかった。しかし、迂闊な異邦人よりは家族を守りたいと思うことを責められはすまい。
かくして孤独となった少年はまだ大使館を頼るという知恵もなく、そして最も近くに居合わせた人間が悪かった。<災>という災害のような存在のある中でも、その混沌とした状況をこそ利用して同じ人間を敵とするような者はやはりいる。人はいがみ合うことをやめないのだ。
少年は銃とナイフの扱い、人の殺し方を教わった。<災>の殺し方はない。国軍の最寄りの部隊が駆けつけるまで、ありったけの人数でありったけの火力を叩き込むか、あるいは逃げるかしかない。その頃でも、魔神が気紛れに潰してくれることはあったが。
ともあれ少年は殺しの術を身につけた。
そして、所属する集団を崩壊させた。
二十名余りの皆は、善人ではない。しかし優しい母親のような女はいた。厳しい父親のような男もいた。女にだらしないお調子者や無口な老人がいた。善人ではないが、まったくの悪人でもない。それは人間だった。生臭く、様々なものを抱えた人間だった。血こそ繋がらないが、親愛なる新たな家族だった。
だから壊した。
誰もが仮面を被っていることを、十を幾つも越えぬ少年は自覚なく洞察していた。それが必要なものであることも理解していた。剥げばどうなるかも予測はできていた。
ゆえにこそ、素顔を露わに殺し合う姿は美しかろうと思ったのだ。
少年は歪められていない。少年に不幸はない。少年は、発揮する機会を持たなかっただけで元からそうであったのだ。
少しずつ背を押してゆく。最初は老人の消し切れぬ劣情、次いでは男の失った娘への悔悟と政府への憤怒。醜くも美しい素顔を晒させてゆく。
銃を用いることもあった。刺されもした。そもそも誰もが少年よりも熟練した戦闘技術を有していた。
それでも生き残った。少年は人間の脆さとしぶとさを洞察し、経験によって誰よりも確かなものとしていたのだ。相貌を歪めて殺し合う皆の最後の生き残り、自分を拾った軍隊上がりの男の喉笛を掻き切り、血の海の中で独り歓喜に震えた。
『素晴らしい』と呟いた思いは一切の偽りなく、少年は自らの好みを自覚した。
理解できる人間など皆無に近いだろう。それはヒトという種を断絶へと至らしめる嗜好だ。しかし同時に、ただの多様性の一つでしかない。少年は紛れもなく人間であるのだ。
時は過ぎ、少年はやがて青年となる。殺しの腕はかつての仲間を凌駕し、周囲では常に人が争い合っていた。
その上で二年前に<魔人>となったことは大した問題ではない。
<ギルド>に所属して復讐代行業を営んでみたなら次から次へと依頼が来たのは嬉しい限りだ。
<金星結社>に勧誘されて幹部ともなったが、そのときに思ったのは組織に属すると敵に不和をもたらすか味方を破滅させるかのどちらかに偏ってしまってよろしくないということだった。やはり自由がいい。
とはいえ申し出を受けてしまった以上は不義理も美しくない。
<闇鴉>は今日も争いを、己の思う美しさを求めつつ、気侭に二足の草鞋を履きこなしている。本質は<金星結社>の方に近いため、<ギルド>を表、<金星結社>を本来の顔として。
行う破壊は、本当に密やかに始まる。
最初は一件の殺人事件。そこから連鎖を始める。
一本道ではない。自分のところで憎しみを断ち切る者がいようとも、それ以上に幾重にも分枝して繋がってゆく。
人々は<闇鴉>によって憎悪を暴かれ、不思議とその憎しみを預けてしまう。
<闇鴉>は己が連鎖の原因であると明かさないこと以外は、決して騙さない。美しい憎しみによる復讐の手助けを、心から提案する。
最後の最後に人を動かすのは真心である。人は<闇鴉>の偽りない真心に応じるのだ。
三件目、四件目、くらいならばまだなんとかなる。しかし精々がそこまでだ。それ以上になれば爆発的に増え始め、やがて<闇鴉>を必要としなくなる。
そうなればもう、元凶を葬っても<竪琴>には止められない。警察の、前代未聞の大仕事である。
だから<竪琴>にとって、<闇鴉>は可能な限り早く葬り去らなければならない存在だ。大きく事態が進んでしまったなら、その時点で敗北に等しいのだ。
絶対に、逃すわけにはいかないのである。
青年の姿、一つ。
二十代半ばと思しき容貌は見目好いものではない代わりに悪くもない。背丈も、日本人男性としては長身に分類されはするが珍しいわけでもない。平凡な容姿とはよく観察すれば没個性ではないものの、気に留められなければ結局平凡の一言で済まされてしまうものだ。
むしろコートの方が目立つかもしれない。この季節には暑そうだというだけではなく、右袖だけ異様に大きく広がった、奇妙な仕立てになっているのである。
とは言え、<闇鴉>も似たような出で立ちであるからには、その力を量る以上の興味は引かなかったが。
半径五十メートルほどの灰色世界では、既に紛い物の建造物の大半が瓦礫となっていた。
突然の闖入者があろうが景色が変わろうが、何の動揺も見せずに<闇鴉>は即応したのだ。
流れるように放たれた飛斬を、闖入者は巨大な籠手を嵌めた右腕で真横から打ち払い、砕かれた斬の余波が左右の建物を崩壊せしめた。それでいて本人にはかすり傷のひとつもない。
連続で斬を飛ばすも同じこと、淡々と潰され、壊れるのは物ばかり。人の息吹は皆無であった。その事実から、<闇鴉>はこの灰色世界では社会の目を気にする必要はないのだということを読み取った。
闖入者もただ身を守るばかりではない。飛斬の合間を縫い、不可視の巨大な拳が虚空を翔けて迫り来る。
それは音の速さにも届かない。打ち据える範囲こそ大きいが、かわすのにさしたる苦労は要らない。
その上で、<闇鴉>は飛斬をもって迎え撃った。相手の正体は既に予想がついている。折角なのだからここはぶつけ合わせるのも面白かろうと思ったのだ。
果たして、飛斬は飛拳を断ち割った。収束度の差が如実に表れた。しかし分かたれた力は破壊の礫となって周囲を均してゆく。己が身に降り注いだものもあるが、<闇鴉>はインバネスコート『ニュクスヴェール』の裾を払い、叩き落した。
一方で飛斬はまたも呆気なく打ち砕かれる。標的にも傷はない。
だがこれからが本番だ。
跳躍した<闇鴉>の身に燐光が纏わりつく。飛斬を放つ際、収束し切れなかった力の欠片だ。それを捕らえ、次なる飛斬に上乗せする。
戦格の片割れである<ストライカー>の有する異能である。威力が際限なく上昇するわけでこそないが、確実に底上げされる。
羽根を踏み、軽く跳び回りながら、縦に横に斜めに、二連三連休みなく。弧を描いて襲いかかる一撃もあれば、並べて後ろへ隠すようにした五連撃もある。そのいずれをも巨大な籠手が破砕してゆく。
無駄であろうと承知はしていた。ロングコートの青年は、噂に違わぬ防御能力を有していた。
次いで<闇鴉>は左右の斬を合わせる。連撃ではなく、斬中に更なる斬を重ねた一撃である。
飛斬は有効射程内において、人の扱う物質であれば断てぬ物はない。散らされてすら分厚いコンクリートを寸断する。広がる光景の半分がその証左だ。
そして、重ねられた斬はその比ではない。
比ではなくとも、なお結果は変わらない。見えざる厚みのない刃を正確に見切り、肩幅の分だけ左へ寄りながら巨大な籠手が横から潰すのだ。壊れた飛斬は百の刃となって球状に標的を覆い尽くすが、ロングコートの裾を払えば纏わりつくことさえ許されず、跡形もなく消え去った。
かくして、一帯は瓦礫の山となったのである。
<闇鴉>は地に降り立ち、構えを崩さぬまま飄然と声をかけた。
「ああ、そうか。あの小娘が持ち込んだ役目は、俺を<闘争牙城>から押し出すことか。で、外ではお前さんが待っていたというわけだ、<呑み込むもの>。逢ってみたかったぜえ?」
「彼女の行動と移動が早過ぎて、あやうく遅れるところだったが」
<竪琴>の処刑人、名和雅年も飄々と返し、言い飽きた文句のように続けた。
「ここは独立閉鎖空間とでも言うべきものだ。現実を鋳型にしているから形は残っているが、生きているものは僕と君だけだ。僕を殺さない限り、君はここから出られない。諦めてもらえるとお互いに面倒がなくて助かる」
「なんとも情れない口上だ。俺たち<金星結社>はお前さんに敬意を表して<海神>の称号は空けてあるくらいだってのに」
「僕の知ったことじゃない」
「ま、違いねえな」
<闇鴉>は口の端に笑みを引っかけ、再び仕掛けた。
語るべきことなど何もない。気侭に軽口を叩く程度でいい。
不和を撒くことは好むが、それはあくまでも本音を見つけて軽く押し、よろめかせることによって成すものだ。<無価値>のように大がかりな梃子を使ってでも転がしてみせるというのは心躍らない。諍いは欺瞞ではなく魂の叫びに因るべきだと<闇鴉>は考えている。
目の前の男は重い。狡知を尽くした言葉を踏み潰しながら歩むだろう。足元を掬うべく引かれた敷物など、そのまま千切れるだけだ。千切られるのですらあるまい。そのことを<闇鴉>は天性の洞察力で見抜いてのけた。
そもそもその目的地が分からぬ限り、心に触れようとするのは無粋であるし、おそらくは無意味だ。美意識に合わない。
愛憎のない殺し合いはさして好きではないとはいうものの、嫌いなわけでもない。それはそれで別の楽しみ方もできるのだ。
インバネスコートを大きく広げれば無数の羽根が舞い上がり、灰色世界を黒が侵食する。それはまさしく『夜の帳』。満たす羽根の一枚一枚は非力でも、集えば敵のあらゆる行動を阻害する。
偽りの世界に重ねた更なる偽りの夜を引き連れ、<闇鴉>はするりと迫る。両手を覆う金色の手袋は穿孔の貫手と指突、斬撃の手刀を純粋に強化する。当然、虚空を飛ばすよりも直に貫き断ち切る方が遥かに強い。
そして雅年も動いた。素手の左が前、巨大な籠手は脇に引き絞って。背負う空が大きく揺らめく。景色がどうしようもないほどに歪む。
激突に先んじて襲いかかったのは羽根の群れだ。それはロングコートの姿を包みこもうとして、触れる前に虚空を歪める波濤に呑み込まれた。押し潰され、消し去られる。
<闇鴉>は僅かに右手へと進路をずらす。背側へと回ろうというのだ。そうすればあの右の巨拳は使い難い。
それは本当に僅かな変化に過ぎなかったはずだ。だというのに、作ったはずの差は即座に修正されていた。見切られたのだ。
距離がなくなる。
<闇鴉>の右の手刀は急所である首筋を狙い、しかし即座に雅年の左手に捕らえられる。捻りながら引き込もうとするのは、それでも<闇鴉>の予定の内ではあった。
使うのは手首から先だけ。己を捕らえる敵の左手をほんの僅かな動きで切り落とす。生身の部位としては常軌を逸した強度だったが、<闇鴉>の斬はそれにも勝った。
けれども、予定の内であったのは雅年も同じだった。引き込み崩せるならばそれでよし、もしこの左手を破壊するならば、そのことによって得られた僅かな時間を使うだけ。
右の踏み込みによって体を替え、巨拳を繰り出す。遮ろうとした手刀、左腕ごと粉砕、緩衝領域を突っ切って左胸を大きく陥没させた。
それは本来であれば胸板を完全に貫くはずの一撃だった。だが<闇鴉>は雅年の左手首を切り落とした時点で即座に後ろへ跳び、そのおかげで完全に潰されることまでは防いだのである。
雅年にしてみれば逃げられた、<闇鴉>にとっては間に合わなかった、そんな攻防だった。
己とは比べものにならないと量った神野修介の見立ては、それでもなお、まるで足りていない。全力の<闇鴉>は少年の予想を遥かに越えて強い。
「やるもんだ」
距離を取り、左を再生した<闇鴉>は口の端に笑みを引っかける。
直前に連想していたのは同僚の一人である<烈震>だ。左右の違いこそあれ、片腕に嵌めた巨大な籠手で破滅的な一撃を繰り出す様はよく似て映った。
だから拳撃が強大であることは予測していた。外れたのは鋭さ、滑らかさだ。この身に届くのが早すぎる。いつ体を替えたのかすら分からなかった。
単純な威力だけならば怪力を誇る<烈震>の方が僅かに上だろう。しかも面状の衝撃を伴うせいで完全にはかわしにくい。
だが、もしも<烈震>が<呑み込むもの>の相手をしたならば、確実に敗北する。
防御能力が段違いだ。クラウンアームズばかりではない。先ほどの右手、<烈震>にならば捕らえさせはしなかった。首の半分か、せめて左腕一本はもぎ取った。
そしてもうひとつ。
「お前さんの能力は、空間制御ってとこか? 厄介だねえ」
揺らめく虚空が羽根を呑み込み、潰してしまったことを<闇鴉>は忘れていない。
ロングコートの姿は、今度こそ右腕を盾のように前に構え、腰を落としていた。籠手の向こうから無感動な双眸がこちらを観察している。答えもまた、平坦だった。
「特にそういうわけでもない」
「そうかい」
<闇鴉>は気にしない。あくまでも殺し合いに色を添えるだけの軽口である。この味気ない灰色の世界ではとみに欲しくもなろうというものだ。
「それじゃ、まあ、次へ行こうじゃあないか」
またもふわりと、無造作に。無論、そう見えるだけだ。彼我の間合いを量りつつ侵略する。
拳を握る。それでも行われるのは打撃ではない。金色の輝きが尖鋭な像を形作る。
顔面へと流麗に突き入れられた拳撃は、巨大な籠手の絶妙な動きによって遮られた。
それでいいのだ。籠手そのものは貫けなくとも、纏わりつく黄金が放たれてその左右を回折する。当然、この輝きは標的を断ち割るものである。
雅年の眉間が割れ、鮮血が鼻筋を伝った。
しかしそれだけだ。冷徹なまなざしは毫も揺るがない。
やはり生身すら強靭に過ぎると<闇鴉>は砕けた拳を瞬時に復元しながら密やかに笑う。雅年はただ防いだだけではなく、激突の瞬間に籠手をこちらへ僅かに打ち出すことによって打撃を兼ねたのだ。
素晴らしい。歓喜に震える。戦いとは痛みでなくてはならない。剥き出しにした憎悪が己すらも傷つけるように、苦悶しなければならない。
その間にも黄金は止まらない。上下左右、拳も手刀も交えながら流水の如く滑らかに連撃を加える。
そして、そのいずれもが阻まれるのだ。のみならず、甲で受ける瞬間に回し打ち、侵蝕しようとする黄金を吹き散らす。いつしか周囲の虚空がまた揺らめき、呑み込んでゆく。
ならば、と<闇鴉>は金色の輝きを増した。霧散しようとする力を拾って更に身に纏わせる、飛斬のときと似た能力だ。しかしこちらはもう一方の戦格である<グラップラー>の異能である。
揺らめく空ごと切り裂いて黄金が走る。それはついに雅年の身まで届き始めた。
血煙。裂傷が生じては即座に閉じてゆく。
<闇鴉>も無事に済んでいるわけではない。一撃ごとに自身も壊れてゆく。
双方ともに表情は変わらない。<闇鴉>は笑みを引っかけたまま、雅年は平坦に口を引き結んだまま、ぶつけ合う。
静謐だった。純化された破壊と殺しがただ行き交う。<闇鴉>は透明な感性によって、雅年は冷ややかな意思によって、破滅を敵へと叩き込む。
この相手に限っては、心を動かす必要などまったくない。動かないと互いに判るのだ。僅かずつ命を削り、削り、ひたすらに殺し合う。
<闇鴉>の業は<魔人>として決して超絶の域になどない。紛うことなき熟練ではあるが、その程度のものだ。しかし、少年であった頃からより巧みな者たちを屠って来た。
<闇鴉>は幾つもの矛盾をそのままに並立させる。嗜好とは別物として、殺すこと、死に対して純粋である。だから自由だ。どう殺してもいい、どう死んでもいい。囚われぬ意識は日常と殺し合いを切り替える必要すらなく、相手を屠る知恵も何の苦なしに湧き出してくる。そして知恵は編み上げられて知識となる。水が高きより低きへ流れるように、すべては自然なことだった。
この場においても、黄金光の回折による斬撃は、こういうことも可能であろうと行っただけのものだ。即座に対応されてしまったものの、それすら愉快だった。
あの反応の速さは、知っているのだ。少なくとも考えたことがあるのだろう。己の業を打ち砕くものの正体を<闇鴉>は洞察していた。
砕き合う。確実にあるはずの苦悶も見せず、殺し合う。
無粋なものなど何もない。己と敵とが在り、ただそれだけで成り立つ。美しいものすら、この場には要らない。
それでも均衡はいつか崩れ去る。
大きく動きを変えたのは雅年だ。身を沈め、まるで自らの右手を潜るようにして踏み込むとともに左の掌底を突き上げた。
<闇鴉>が咄嗟に放った双手刀はどちらも籠手に食い止められる。しかし掌底もまた、標的を捕らえ損ねていた。右の拳撃より遅く、余計な軌道を描いた分更に遅くなっていたからだ。
羽根に乗り、見事に後退した<闇鴉>は十メートルほどの距離を置いて悠々と着地する。
「さて」
そこで呟き、懐から黄昏色の小さな球体をひょいと取り出した。
大きな隙である。しかし雅年は動かない。突くべき隙とは動作ではなく意識に生まれるものだ。
誘いを兼ねてはいたのだが乗ってはくれなかったことで、<闇鴉>は小さく肩をすくめた。
「ここまでだな。役立つ日が来るとは思わなかったが」
そして砕く。
音もなく、灰色世界に皹が入った。<夢現世界・廃滅王宮>がまたたく間に崩壊してゆく。景色がぼろぼろと剥がれ落ち、現れるのは薄暗い路地と眩い青空。現実だ。
「こいつはリュクセルフォンからの支給品でな、閉じ込められたものを解放する。ま、らしいわな」
<闇鴉>自身は違うものの、<金星結社>の構成員はほぼ全てが<反逆>のリュクセルフォンによって<魔人>となった者である。だから手助けをしてくれることがある。この宝珠はそのひとつである。
<魔人>では逃れられない<夢現世界・廃滅王宮>も、魔神の力によってならば抜けられる。
今までの戦いと周囲への被害を思えば、現実へと還ってしまえば<呑み込むもの>は事実上、戦闘継続が不可能だ。人気がないとはいえ、まともに戦えばどれほどの建物が壊れることか。ましてや今はまだ昼である。人も大勢死ぬ。隠し切れない。
「今から本拠まで帰るのは正直めんどくせえし、正直お前さんと最後まで殺り合いたかったんだが……ま、こいつも仕事でね」
少しばかり憂鬱そうに<闇鴉>は呟き、軽く後ろへと跳んだ。
<ブレイドメイデン>のことや<夢現世界・廃滅王宮>、<呑み込むもの>の力の程など、持ち帰るべき情報が山ほどできてしまったのが残念だった。
「おさらばだ、まだ逢おうぜ<呑み込むもの>」
それは<闇鴉>が初めて洩らした、誘いではない本物の隙だった。
雅年は左半身に居り、右腕を脇で引き絞っている。盾のように前へと出された左腕、肘から先が何かを引くかのように不意に小さく寄せられた。
「いいや、もう二度と会わないとも」
その声は、目の前でした。
一瞬にして景色がずれ込んだことに<闇鴉>は気付く。空中にいたはずが、地面を踏んでいる。
状況認識は極めて迅速だった。雅年が目の前に来たのではなく、自分こそが空間を転移するかのように引き寄せられたのだと瞬時に把握し、唐突な変化に対して惑わされることもなかった。比肩しうる<魔人>など皆無に近いであろう、常軌を逸した早さだ。
しかし、それだけの時でさえも雅年には充分だったのだ。
<闇鴉>は渦を幻視した。底の知れぬ深淵へと引き摺り込む、暗い暗い渦だ。
反応は許されない。またも左腕ごと胴の中央を、右拳が今度こそ貫通していた。
それでも<闇鴉>は死なない。苦鳴すら上げない。笑うのだ、楽しげに。
「……おいおい。こんなことやっといて、空間制御じゃあないと言うわけか?」
「ああ、特にそういうわけでもない。ただの手品のひとつだ」
「そうかい」
至近距離で視線がぶつかる。互いに揺らぎはない。
本当のことを言っているのならば、と<闇鴉>はひとつだけ得心する。
「お前さん、俺より<魔人>をよく知ってるのか」
「そういうことになる」
こうも断言できるからには、何らかの唐繰りを心得ているということだ。<魔人>について、自分や<軍王>よりも深い知見を有しているということだ。自分の感性と知恵を超える知識である。
ならばこの結果も仕方がない。
<闇鴉>はただ話しているだけではない。逃れようとはしている。
だが動けない。今も幻視する渦に引き摺り込まれ、肉体を壊されてゆくのだ。死に至らないのは生命力を補填してくれるクラウンアームズ『ヒュプノスアミュレット』のお蔭である。それも無尽ではない。
無事な右の手刀を繰り出すもことごとく左手で捌かれる。ある程度の傷を負わせることはできても、どちらが先に死ぬかなど考えるまでもない。
実のところ、先ほどの引き寄せは予想外だったものの、この結末自体はある程度予測できていた。
<呑み込むもの>がなぜ<闘争牙城>へ入らずに外で待っていたのか、理由を考えれば難しいことではない。
激痛が存在の髄までも侵す。これが<呑み込むもの>、此処が終焉の地か。心躍った。
なれば今こそ使わねばなるまい。
<闇鴉>は凌駕解放を一度たりとも使用したことがない。しかしどういったものになるかは以前より推測、確信していた。
今、すべてを注ぎ込む。
「さあ、最後の最後まで殺し合おうぜえ」
戦いは痛みである。殺し、殺されるのだ。
準備は必要ない。自分自身の死という対価がすべてを補って余りある。
死をもって死を与えるのだ。
<闇鴉>の肉体が完全に砕かれる。死した<魔人>は欠片すら残らない。
だが、最後の言葉だけは不吉に響き渡った。
「<殺戮女神>」
溢れ出すのは至上の破滅。
死すら殺してのける『死』の意が雅年を冒そうとする。
だが冒すまでもない。渦が雅年の内へと『死』を呑み込んでゆく。
変化は急速だった。
左の袖からぼとりと腕が落ち、霞となって消え去る。コートの下では果たしてどれほどおぞましい光景が繰り広げられているのか、どす黒い濁った液体が足元に大きく広がってはこれも消えてゆく。
<闇鴉>の透明な精神と死とを対価とした<殺戮女神>。受けて生を保つことのできる<魔人>など、正真正銘片手にも足りない。
「……元より<魔人>は妄執で動く死人のようなものだ。こと、僕は」
さしもの雅年の口許も、動いた。苦痛を押し潰すように、歪に笑ったのだ。
「死人は死んでおくべきだとは僕も思うが……浅ましさついでだ、まだ消えるつもりはないとも」
そうして『死』を干した。
再び口が引き結ばれる。ロングコートの裾を揺らめかせ、ゆっくりと歩き出す。左腕も復元し、今にも次の敵を捉えられる。
やがて取り戻した足取りに、一切の惑いはなかった。
ほどなくして、路地より姿は消える。
望みを果たすか、あるいは朽ちるときまで、名和雅年は倒れない。