<魔人>の戦格は二十三種を基本とする。
基本中の基本となるランク二が一種、傾向付け程度のランク一が四種、能力の方向性を比較的大きく異ならせ始めるランク三が四種。以上九種を下位戦格とする。
ランク四は十二種、いずれも特殊能力を有する。ランク五は存在せず、最高位のランク六は二種。以上十四種が上位戦格と呼ばれる。
しかし、これだけではないのだ。魔神によっては独自の戦格を与えることも可能なのである。
<吟遊>のハシュメールは<魔人>の作成において他の魔神の追随を許さない。ランク三と下位でありながら特殊能力を有する<ライトニング>、特定条件下において絶大な能力を発揮する<ヒーロー>、初のランク五であり力と防御能力に長ける<ガーディアン>、本来よりも扱えるクラウンアームズが多い<サウザンドアームズ>、高位となる<アームズマスター>。その他諸々、計二十を下らぬ戦格をハシュメールのみが与えられる。
その中でも最も特異なのが<ブレイドメイデン>シリーズだ。女性の<魔人>のみに与えられる戦格であり、本人の定めたパートナーの手の中で武器へと化身することができる。
武器としての破壊力、緩衝領域の展開、生命の共有など、与える能力は多岐にわたり、複数のクラウンアームズで身を固めるのと変わらない恩恵をもたらす。
替わりに制約も強い。パートナーはクラウンアームズを有していてはならず、また強い絆を結んだ相手でなければならない。前者はともかく、後者は一朝一夕には成らないのだ。命を捨てられる必要まではないが、命を賭けることのできる関係であることを求められる。口先だけではなく、思い込みでもなく、本当に心の底から想い合っていて初めて契約は成る。
「ほう、噂に聞いたことはあったが……剣化<魔人>か。まさかこんなところで見られるとはな。待った甲斐があるってもんだ」
<闇鴉>が感嘆の声を上げる。皮肉の響きはない。純粋な称賛だ。
「随分、余裕だな」
修介は改めて剣を両手で構え直した。
分かる。らしきものすら体育の剣道でくらいしか知らなかったはずなのに、どう扱えばいいのかが既に身体に染みついているのが自覚できる。藍佳の徒手の業が価値をそのままに剣の業へと変換され、修介と共有されているのだ。
「<金星結社>ってのはそんなことでいいのか?」
「足元をすくわれる、か。組織としては、ま、よくはないわな。だが、そうだな……」
<闇鴉>は薄い笑みを口の端に引っかけ、両手を胸の前に掲げた。
「たとえば俺が不用意に情報を漏らしたとしよう。そしてそれが原因で<金星結社>が崩壊する。我の強い奴らだ、きっと相争い殺し合う。阿鼻叫喚だ。<処刑官>なぞは死刑だ死刑だと俺をなじることだろう。そうしたならば、俺はこう言うしかない」
笑みが大きくなる。雄々しく、覇気に溢れて。
「『素晴らしい』」
「……あんたは……」
修介の背筋にじとりと汗が浮く。
<闇鴉>が、人の姿をしているだけの怪物に見えた。どうあっても相容れない、異質な存在に映った。
「仲間すら餌に過ぎないのか!?」
「立場上そうそう味わえんという意味では、最上の珍味かもしれんな」
<闇鴉>の両手が金色の光に包まれる。使えないに違いないと修介が判断していた、すべてを貫き、抉るクラウンアームズだ。
息を詰まらせる修介の様子に<闇鴉>は肩を揺らした。
「何が起こるのか楽しみだったのは本当だがな、別に甘く見てるわけじゃあない。俺がこの『タナトスクロウ』を使わなかった理由を勘違いしていたな? 仕方のないところだとは思うが」
虚空に記される残光は、眩い昼の中でなお眩しい。空間すら削られているように錯覚されてならない。
「面白いものを見せてくれた褒美に教えてやろう。格下に喧嘩を売る方法だ。一言で言うなら、斃されるべき敵役になればいい」
「……意味が分からない」
修介は唸る。口にした通り、理解が及ばない。敵役になるとはどういうことだろうか。そしてそれが、なぜ格下に戦いを仕掛ける手段になるのだろうか。
<闇鴉>は悠々と構えを取り、解説を続けた。
「主役はお前らだ。お前独りじゃあ不足だったが、誂えたような小娘が加わったからな。ああ、期待以上に立派なヒーローとヒロインぶりだった。擦れ違い、和解し、強敵を相手に力を合わせる。さすがに理想的なとまではいかないが、現実だということを考慮すれば出来過ぎなほどだ。そして俺はお前たちに斃される役として、こちらから手を出したとしても存在を許されるのさ。実に茶番だが、やってみるとこれが案外難しくも楽しいもんでな」
「……それだけじゃないな?」
ゆっくりと、修介の頭にこの機構のつくりが染み込んで来た。
<闇鴉>が言うように、冗談のような手段だと思う。しかし元々、この<闘争牙城>の規則そのものが茶番じみている。一対一の『決闘』、上を見ることを止めた者へ与えられる死、いずれも<天睨>のイシュの嗜好に従って作られた規則だ。ならば、その好みに合わせることで制約を抜けられてもおかしくない。
そしてそうだとするならば、おそらく斃されるべき敵役というものを最後まで演じる必要はない。最終的に負けなければならないのでは抜け道の意味がないからだ。
「その通りだ。ようやく頭が回り始めたか? 敵役がすべきなのは、主役を最上の状態へ持っていくまでだ。結局は力及ばず死ぬってぇのも立派な結末さ。つまり……」
「今までは手抜き、これからは本気。そういうことか」
<闇鴉>が金色の手袋を使わなかったのは、加減を少し間違えるだけで殺してしまいかねないから。
修介と藍佳が度々見せていた大きな隙を見逃していたのは、単純に興味があったという理由以外にも、途中で殺してしまっては役割が果たされないため。
思えばこの三日間の手合わせでも、<闇鴉>がまともに攻撃を仕掛けるときは手袋を外していた。あれは己自身の危険を遠ざける意味もあったのかもしれない。
<闇鴉>へも、この閉鎖世界へも、怒りが湧き上がって来る。
恐ろしい形相を、自分はしていたはずだ。なのに当の<闇鴉>はどこ吹く風。
「本気、か。出させてみろ、弟子よ」
けれん味ある抑揚もそのままに、にやにやと笑っている。
思えば不思議はない。人が憎み合い、殺し合う姿を素晴らしいと言う男にとって、敵意や悪意など心地好いものでしかないのだ。すべては快のため。すべてが愉悦のため。
今なら理屈だけではなく感性でも分かる。絶対に、こんな男を野放しにしてはならない。
修介は<竪琴>が好きなわけではない。そう在ることに不満こそないが、そもそもそれ以上の選択肢が存在しなかったがための消極的な選択でしかなかった。平和を守ると気炎を吐くのをどこか冷めた目で見ていた。
「藍佳……」
幼馴染へと呼びかける。明確な言語としての返答はないが、応えは感じられた。
それは修介を肯定していた。どんな思いも全力で叶えてあげる、と。
荒れかけていた心に真っ当な力が戻って来る。
「<闇鴉>、俺はあんたが怖い」
少し、血迷った。
考えてみれば、ただ藍佳を守るだけならどこかで隠遁生活でも送っていればいいのだ。<魔人>であればなんとかなる。危険が迫ったなら逃げればいい。そうしてずっとやってゆけるかもしれない。
そんな風に血迷った。
しかし<闇鴉>は、社会そのものを密やかに破壊するだろう。もちろん、逃げる先もすべてだ。
こんな<魔人>がいるのだ。何もかもを台無しにしてしまう、本当にただ壊すだけの。
許してはならない。誰だって大事なものを壊されたくなどない。
藍佳を守りたい。どんな状況でも守れるくらい強い自分でありたい。その思いはそのままに、もうひとつの理由が加わる。
「だからあんたを斃す。未来を守る。前より<竪琴>が分かった気がする。少しだけ好きになったよ」
「それは何よりだ」
<闇鴉>は腹が立つほど朗らかに頷き、そのままの顔で告げた。
「さあ、殺し合おうぜえ」
翔ける。
天剣『藍佳』を右手に、空を踏んで。
剣乙女五種の中でも疾風式のみが有する能力だ。自在にとまではいかずとも大気を足場とし、虚空を行く。風の流れもまた味方、僅かなりとも背を押してくれる。
今や修介の全方位攻撃は周囲の建造物を必要とせず、滑らかさをも手にしていた。
跳躍から天を蹴って頭上で左右に揺さぶり、斬撃を加える。
無論、<闇鴉>はその程度のことで攻略できるような相手ではなかった。小さな一歩で的確に避け、あるいは金色の手袋が剣閃を逸らしてゆく。
得物の不利などまったく存在しないかのようだった。薄い笑みを引っかけたまま、愉快げにある。
いや、実際に不利などではないのだ、と修介は思う。長さで勝るこちらに対して、あちらは数で勝る。破壊能力も、どちらが上なのか分かったものではない。ただの人間が素手で刃物を相手にするのとは根本が異なる。
「どうした、俺を斃すんじゃあなかったのか? いつまで手品で遊んでるつもりだ」
「手品かどうか自分の身体で確かめてみろ!」
<闇鴉>の挑発に咆哮を返し、修介は敵へと向かい螺旋に翔ける。
自分にとっての天地が常に移ろい続けるこの疾駆は、突然得たならば<魔人>であろうとも大抵の者は意識を眩ませられ、自滅してしまうだろう。しかし常に周囲を捉え続けることを得意とする修介にとっては、さすがに難度が高い、という領域に留まる。
今や剣を上下左右に囚われる必要はない。担いだ刃を一直線に振り下ろせば、この瞬間ならそれが<闇鴉>にとっては斜め切り上げとなる。
あらゆる剣閃の中で、それは屈指に対応しづらい軌道を描く。受けるにも武器というものは手にあるものであるからには遠く、かわすにも地面を蹴らなければならない以上は上体よりも斬撃に近い脚が最後まで残ってしまう。であるにもかかわらず、修介はただ振り下ろすという最速の行動でその斬撃を放てるのだ。
だが、敵は音に聞こえた<金星結社>が幹部、<闇鴉>。斬らせてはくれなかった。
インバネスコートの姿が黒の羽根を撒きつつ、剣閃に逆らわずにふわりと浮かぶ。回避に選んだ方向は、上。
好機。知らず、修介のまなざしが鋭く細められる。もう半回転してから的確に地を踏み、身を翻しながら行き過ぎた距離を取り戻すべく跳躍する。
修介の感覚は一旦背を向けても<闇鴉>の存在を喪失してはいなかった。脇構えの形で宙空の影を捉える。
いかに<魔人>といえど、足場がなくては動きが限られる。その一方で修介は大気を踏むことができるのだ。
声はない。何もかもを斬撃に乗せる。
瞬閃。薄蒼の燐光を残し、刃が裂いた。
身代わりのような、黒の羽根だけを。
目を見開く暇もあらばこそ。
羽根を踏み、更に上へと跳躍していた<闇鴉>は、立て続けに幾枚もの羽根を足場として修介の横に移動していた。
蹴撃が背に叩き込まれる。苦し紛れに振り回した刃は金色の手袋、『タナトスクロウ』によって容易く弾かれる。
しかし修介も、息を詰まらせながらも墜落を着地に変えてみせた。『藍佳』の展開している緩衝領域が衝撃を大きく殺してくれたおかげだ。
息が、乱れた。
己が見通しの甘さに臍を噛む。
空中で動けるのは自分だけではなかったのだ。しかも、<闇鴉>は羽根を踏まなければならないはずだというのにこちらよりも滑らかな機動を行っていた。
「ま、仮にも渾名に鴉と入ってるわけだ。三次元機動が苦手じゃあ、格好がつかんだろうがよ」
こちらも地に降り立った<闇鴉>がひらひらと手を振る。人を食ったような調子は揺るがない。自分はまだ敵たりえていないのだと修介は思い知った。
柄をきつく握り締め、それから程良い強さに戻す。湧き上がりかけた怯懦は即座に消えてなくなった。
とはいえ次の手まで浮かんだわけではない。何らかの手段によって虚を突かなければ<闇鴉>には通じないだろう。
小さく息を吐いた瞬間だった。
金色の手袋が霞んだ。
彼我の距離はおよそ二十メートル。<闇鴉>自身が動いていない以上は間合いの外、そう反射的に判断しかけ、総毛立った。
自分の腕は一度、遠間から切り落とされたはずだ。
判る。不可視の何かが迫りつつある。かわすには始動が遅すぎる。間に合わない。
しかし動揺する意思を外れ、既に身体が動かされていた。『藍佳』が滑らかに虚空を一閃、一拍遅れて何か鋭いものが全身を浅く切り裂いた。
派手に血飛沫が舞いはしたものの、微傷だ。
藍佳がステイシアから伝えられた知識のひとつ、伝承に曰くアンドラスは魂も凍るほど鋭利な剣を持つという。今のものは、その斬撃を飛ばしたとでもいったところだろうか。傷自体は浅いといえ散らされてなお緩衝領域を突破したのだ、直撃したならどれほどだったことか。
「藍佳……?」
奇襲に反応したのは修介ではなく藍佳である。言葉としては聞こえないが、やっぱり修ちゃんはあたしがいないとだめなんだから、そう言われているようだった。
強く反発した台詞であるはずだ。だが、この期に及んでは小さな笑みしか浮かばなかった。
「ああ、そうだな」
「ふむ」
そして<闇鴉>も小さく声を上げた。
「美しいなあ」
感じ入るような称賛なのに、今となってはこれほど不吉な言葉もない。
インバネスコートがゆらりと揺れた。右足を軽く引いて半身となり、指を緩く曲げた手は右を大きく引いている。
「その手は離すんじゃあないぜ。絶対にな」
「言われなくたって!」
足元から蒼い光が修介の全身を這い上がる。それはどこか、これは自分のものだと少女が抱きつく様に似て。
心身ともに漲り、それでも修介の眉間には深い皺が刻まれている。
足を止めては敵わない。空中戦でもおそらくは及ばない。距離を開ければあの斬撃が来る。こちらも風を使えると藍佳が教えてはくれるが、元々遠距離攻撃は二人とも苦手なのだから、競り合えば負ける。いずれも同じ土俵では勝てないのだ。
となれば、上手く噛み合わせて隙を突くしかない。
『隙なんてものはいくらでも出て来る』
脳裏に響いた言葉は、皮肉にも目の前にいる斃すべき相手、<闇鴉>から聞いたものだ。
『例えば右の拳打を真っ当に放ったとしよう。そのときには必ず右脇が空くわけで、そいつは隙に違いない。突き難いってだけでな。お前の場合、攻撃に意識が行き過ぎて攻め放題なんだが……まあ、<魔人>なんだし、むしろそれでいいだろ。変に防御なんて考えたらお前の長所が死ぬ』
そんなことを言っていた。だからこそ藍佳の業を力と速度で突破する気になれたのだ。
果たして、<闇鴉>にも隙は生まれるのだろう。だが突かせてくれるのだろうか。駆け引きで上を行くことなど可能なのだろうか。
突破口があるとするならば、おそらくは一つ。
限界を越えること。凌駕解放。
修介は踏み出す。ここから先は理屈を捏ね回しても無駄だ。
怖くはない。藍佳がいる。
「おおおおおおおおおおおおおおッ!!」
咆哮。尾を引き、響き渡る。
駆ける。
心当たりがあった。凌駕解放を、自分は一度成し遂げているかもしれない。藍佳との闘いの終盤、あれを再現する。
跳ぶ。跳ね回る。
黒の羽根に邪魔をされて周囲の建造物を足場にすることはできないものの、替わりに大気を踏んで<闇鴉>の周囲を三次元的に駆け巡る。全力の上に全力を重ね、修介は蒼い旋風となる。
視界が回る。世界の中で己を捉え切れる限界へと行かんとする。幾枚か羽根の遮ることがあるが、その程度であれば『藍佳』の緩衝領域が貫かれることはない。
<闇鴉>は動かない。ここへ来た初日のように、静かに待ち構えている。
どこから仕掛ければ死角を突けるのか、修介は考えなかった。ただ最高の瞬間に解き放つことだけを思った。
鼓動が強くなる。己の内の力が増してゆくのが判る。今度こそは手の内に掴んでいた。
踏んだ地面は<闇鴉>の背面、十メートル。得られた速度は通常の五倍。
身体の全てを斬撃とするかのようにして、旋風は今、流星と化した。並みの<魔人>であればこの一太刀でまとめて数人を両断する。
対して、<闇鴉>も淀みなく動いた。左向きに振り向きつつ、万物を切り裂き貫く金色の手刀で迎撃する。
交錯は刹那にも満たない。
二人の刃はそれぞれ相手を捉えて、行き違う。
<闇鴉>に外傷は見えない。しかしインバネスコートの下の左肩を砕いた手応えが修介にはあった。
しかしそれを噛み締めていられる余裕はなかった。
早かったのは紙一重で<闇鴉>。そのせいで修介は十全な威を発揮できなかったのだ。
「……く、がはっ……!?」
腹部の左半分をごっそりと持ってゆかれ、無様に転がる。
『藍佳』から悲痛な気配。そして柄から生命力とでも呼ぶべき何かが流れ込んで来て、失われた肉体を復元してくれる。自分だけだったならばそのまま死に至っていたかもしれない。
それでも苦痛まですぐさま消え去ってくれるわけではなかった。跳ね起きたものの、足元はふらついた。
絶望感に力を奪われる。僅かに開いた唇が震えた。
だが、奥歯を強く噛み締めた。口角を吊り上げ、笑みの形を作ってみせる。
打つ手がなくなったくらいではまだ、崩れ落ちるわけにいかない。
「凌駕解放すら通じないなんてな」
「いいや、違うな」
対して、<闇鴉>はやれやれとばかりに小さく頭を振った。
そして続く言葉は、修介にとってまったくの予想外のものだった。
「お前が今やったのは『チャージ』だ。突撃であり充填でもある。概念的な能力でな、高速機動によって『速さ』を蓄え、一気に解き放つって代物だ」
今もまだ<闇鴉>は師の顔を見せる。その理由を修介はもう理解できる。この男にとって、敵であること、殺し合うことは他のすべての人間関係と矛盾せず成り立つからだ。
「訊いたことはなかったが、お前の戦格の片割れ、察するに<ナイト>だろう。その異能だ。まあ、<ナイト>による強化項目の傾向上、使う奴は滅多にいないんだが……さすがに自分の戦格のを把握してないのはまずいな。今更だが、まさかそこまで<魔人>の知識が欠けてるとは思わなかった」
<ナイト>はランク四のひとつである。大きく強化されるのは主に膂力で、速さは最も強化率の低い項目となる。だというのにその異能である『チャージ』は速さを要するのだ。
そのあたりのことも、もちろん修介は知らない。返す言葉もなかった。
「お前、座学を下らんと思ってないか? 詰まらん訓練こそ重要だ。もしも俺から逃れることができたら一から知識を鍛え直した方がいい」
「……っ」
反射的に否定しかけて、すんでのところで堪える。
何を否と言えたものか。羞恥に身を震わせる。『藍佳』から伝わって来る、労わるような気配がまた痛い。
<魔人>となってから、必死に生きて来たつもりだった。だが、どれほどの空回りをしていたのだろうか。
藍佳を守りたいと願いながら、藍佳を傷つけることでしか前へ進めなかった。力を求めはしても独りよがりだった。
『藍佳』を『抜刀』したときに伝わって来たステイシアの様子。成さねばならないこと、負わねばならない責任を抱えたままで、それでも案じてくれていた。
自分はなぜあんなにも頑なだったのだろう。もっといいやり方があったはずだ。神官派の皆、未熟同士でも高め合えはしたはずだ。相談できる相手もいたはずだ。恐ろしくとも、処刑人に教えを請うことができたはずだ。
望みが純粋であれば、そうできたはずなのだ。
「……俺の望みは嫉妬で歪んでたのか」
「そのあたりのことは知らんがね、いいんじゃないか。言ったろ、強さなんざ血反吐吐きながら身につけるもんだ。無様は明日への糧さ」
<闇鴉>は揶揄しているわけではない。嗜好さえ除けば本当にいい兄貴分だった。
分からない。理解の及ばぬ怪物であり、道を示し背を押してくれる仮初めの師であり、斃すべき敵であり、もう自分の中で何もかもが分かち難い。
今も恐ろしい。絶対に放置してはならないと思う。それでも、どうしても嫌いだと思うことはできなかった。
「こんな俺でも付いて来てくれるか、藍佳?」
『藍佳』から返って来るのは全肯定の意思だ。善悪なんかどうでもいい、修ちゃんの望むことがあたしの望み、と。
修介は穏やかに笑った。
自分に足りないものは藍佳が補ってくれる、守ってくれる。そして藍佳に足りないものは補おう、守ろう。
「俺たちは中途半端で弱いけどな、<闇鴉>」
構え直す。敬服すべき男にして唾棄すべき害悪である敵を、透き通った気持ちで真っ直ぐに見詰める。
気後れなど、あるわけがない。
「それでも勝つ。勝って、今度こそなりたい自分を間違えない」
未来がある。
それがいかに険しかろうと、たとえ月のない夜だったとしても、この手にはぬくもりがある。藍佳がいる。
勝ちたい。心から思う。
守りたい。心から想う。
彼我の位置と建物を把握する。
加速を始めれば、口から自然と言葉の群れがこぼれ始めていた。
そして唱和するように、『藍佳』も剣身を震わせて明瞭な言葉を発した。
「“それはただひとつの光を追い続けるもの”」
『“それはただひとつの光を追い続けるもの”』
神野修介の力は何か。
自覚しているのは、余程のことがない限りは的確に標的を捉え続ける能力。
「“それは狂おしいまでに求め続けるもの”」
『“それは狂おしいまでに求め続けるもの”』
しかし果たしてそれだけだったろうか。
駆けるとき、何を思ったろうか。
「“それはただ、先駆けとなるためだけに”」
『“それはただ、先駆けとなるためだけに”』
食らいつく。
速く、もっと速く。この身が削がれようと、顎ひとつとなってでも食らいつく。
「“喰らうは太陽、導くは神々の黄昏”」
『“喰らうは太陰、導くは神々の黄昏”』
駆け廻る。
まだ遅い。ならばもっと速く。もっともっと速く。
「“見よ、陽の消えゆくを”」
『“見よ、月の消えゆくを”』
この身が足らぬと言うならば、空を縮めればよい。そう、“擦り抜ける”ようにして。
捉えるのだ。捕らえるのだ。
絶対に逃してはならない。すべてを懸けて。
伝承は、北欧へ。
「<日蝕>」
『<月蝕>』
修介の身が掻き消えると同時に、身体三つ分先へ現れる。
次は五つ分先、その次は一つ分、更に次は右へ逸れた後で進行方向を逆さまにして湧き出す。
既に切り返しなど行っていない。修介はただひたすらに真っ直ぐ行くのみ、それでいながら羽根の内側に限定された空間を縦横無尽に駆け巡っていた。
無論のこと速度は落ちない。もはや、幾十もの神野修介が同時に存在し、無軌道に暴れ回っているかのように映る。
スコルとハティは北欧神話において太陽と月を呑み込み、神々の黄昏の先触れとなる狼だ。その時が来るまで決して諦めずに追い続ける。
もはや修介を<魔人>の速度で振り切ることは叶わない。足りぬ分は空を削り、曲げてでも喰らいつく。
連続性が失われた機動は純粋な異能としての予知でもなければ読み切れず、<闇鴉>をして反応速度が全てとならしめた。
独りでは成しえなかっただろう。本当はまだ、凌駕解放に至るには足りない。しかし修介と藍佳はまさに比翼の鳥となり、飛翔してのけたのだ。
修介は今、<闇鴉>の目の前にいた。『藍佳』の切先を、身体全てで押し込まんとする。
それでも金色の手袋は反応してのけた。修介の右肩が抉られる。
しかし今度こそ、早かったのは修介だった。インバネスコートは前を開かれている。その隙間を通り、刃は<闇鴉>の胸の中央を貫いた。
「おおおおおおおっ!」
止まらない。空を縮めては<闇鴉>ごと位置を跳躍しながら一直線に疾駆する。
建物が行き過ぎる。立札が視界の後ろへ吹き飛んでゆく。
止まらない。まだだ、まだ止まれない。
そして、景色が変わった。
左右をビルの無機質な壁に挟まれた暗い路地裏。どこまでも吹き抜けた空だけは穢れを知らぬように青い。<闘争牙城>を脱したのだ。
地面へと斜めに縫い留めることで突進を止めたのは、凌駕解放を維持できなくなりつつなったのと、これ以上は社会の目に触れてしまうことの両方の理由からだった。
幸いにも人の姿はない。鋭いまなざしで至近距離から睨めつけ、荒い息をつく。
「これで……終わりだ!」
熱い。全身が燃え出しそうだ。喉がひりつく。
しかし気を抜くわけにはいかないのだ。
「……なんとも、やるもんだ。この焼けつくような痛みは久しぶりだなあ」
<闇鴉>は口の端に笑みを引っかけた。この期に及んでも声は飄々としていた。
苦しげではあるのだ。だというのに、なぜか捉え切れない。
「まあいい、最後の授業だ。戦いにおいて、<魔人>とただの人間の間にある絶対的な違いは何だと思う?」
何を言い出したのかと戸惑った。しかし<闇鴉>は頓着しない。回答すら待たなかった。
「破壊力か、スピードか。確かに人間とは一線を画する。だが否だ。それはあくまでも相対的なものに過ぎない。技能のある兵士が兵器を持ち出せば、ある程度までは埋められる。勝てるかどうかは相手次第だろうがな」
何かを教えようとしてくれているのであろうことは分かる。
けれど最終的に何を意味することになるのかは読めなかった。
「分からんか? 答えは戦闘継続能力だ。闘志だとかそんな問題じゃあない。人間は脆い。肉体が千切れるどころか筋や腱を深く切られるだけでもう、機能を十全には果たせなくなる。出血は体力を奪い、酷ければ意識を朦朧とさせる」
刃を伝い、<闇鴉>の血が流れ落ちる端から薄ぼんやりと消えてゆく。
引き抜けば、おそらくは一気に噴出するのだろう。
「だが<魔人>は違う。機能を失うのは、それこそ傷を受けたそのときだけだ。命さえ尽きていなければいくらでも復元できる」
不安が湧いた。直感が、何かを間違えていると喚き出す。
『藍佳』も震えた。その勘は修介よりも鋭敏である。
「以前も言ったように、お前は下手に守りへ意識を割くより喰らいつけ。死ぬ前に殺れ。そいつは<魔人>の特性を活かした、真っ当な戦術だ」
飄然と、<闇鴉>。まなざしも悠然と、気負いなく語り続ける。
間違いなく、おかしい。修介はようやく違和感を確かなものとした。
台詞は遺言代わりの教えを与えるかのようだが、いくらなんでも喋り過ぎてはいまいか。これは死にゆく者の様子ではありえない。
「……本当に、人間は脆い。だから先に大きな負傷を与えた方が圧倒的に有利で、逆にたった一刺しで逆転もできる。けれども、だ」
刃は胸の中央を貫いている。心臓も半ば断ち割っているだろう。
だが、そう、そもそもこれは致命傷なのだろうか。
人間であれば生きていられるわけがない。しかし<魔人>は<闇鴉>の言うように負傷の意味が人間とは根本的に異なる。
そこまで思考を至らせて、修介はこの語りの真意に理解が及んだ。
最後の授業とはすなわち、自分たちの最後なのだ。
「<魔人>はそうじゃあない。単に喋り難いだけで、俺はまだまだ死なんよ。足りんのだ、まるでな」
困った奴だと言わんばかりの小さな、けれど明確な笑みを<闇鴉>は浮かべた。
焦燥とともに修介は『藍佳』を引き抜き、後方への離脱を試みる。
しかし遅かった。元より<闇鴉>は、いつでも殺せたところを修介が気付くまでわざわざ待っていたくらいなのだ。
右手、金色の手袋が滑らかに動く。『タナトスクロウ』が『藍佳』の腹を手刀で打った。
音はなかった。呆気なく、綺麗に真っ二つになっていた。
「藍佳!!」
伝わって来る藍佳の苦悶。
同時に、足元が崩れ落ちそうなほどの寒気と眩暈に襲われた。
二人の生命は共有されている。それは一方的に『藍佳』が修介の命を補うということではない。修介の命を吸い、剣身はすぐさま元通りに復元されていた。
だが、それで終わりだった。
蹈鞴を踏む。一瞬のことだ。肉体は不足ない。十全に戦える。一歩で最高速度まで加速できるだろう。何時間でも標的を追い続けられるだろう。
だから、震える手は心のもたらしたものだ。
命の灯火が吹き散らされる寸前であることが判る。あと一撃、まともに受けたならば死ぬことが理解できてしまう。修介も藍佳も互いに補い合えるような余裕はもう、ない。
「藍佳……」
かすれた声で呟く。応えはあまりにも弱々しい。
そして、<闇鴉>が動いた。黄金が美しく瞳に焼きついた。
己が何を思ったのか、修介には分からなかった。
恐しさだろうか、悔しさだろうか。諦め、反発、戦意。いずれもあるような気がするし、いずれでもない気もする。
すべてが混然一体となる中、『藍佳』を抱き締めるようにして庇う。意味はないのに、修介の死は藍佳の死でもあるのに、そうすることに疑問は抱かなかった。
奇跡は起こらない。
起こったのは、予定されていたことだけだった。
「よく耐えた」
いつか見たような光景だった。
迫る金色、それは満身創痍の自分たちの命を奪うに違いない破滅の一閃。
しかし輝きはロングコートの背によって遮られる。人物も同一、巨大な籠手を嵌めた拳を繰り出したことも、敵ともども姿が消えたことも変わらない。
静寂とともに残った景色は、薄暗い路地と惚けるほどに青い空。
違っていたのは、声のあったこと。
よく耐えた、と。
神野修介は名和雅年のことが気に食わない。助けてくれたことには感謝しているが、藍佳は自分が守りたかったのにと、今もやはり思ってしまう。
嫉妬であることは理解している。それでも止められないのだ。今後も決して好きにはなれないだろう。
だがその上で、神官派最強の男の言葉はなぜか涙が出そうなほど嬉しかった。
「……修ちゃん?」
人の姿に戻った藍佳が、ぴたりと身体をくっつけたままで顔を覗き込んで来る。
修介は小さく、笑みを乗せながら皮肉げな口調で応えた。
「どうせまたやる気なさそうな顔で帰って来るんだぜ、腹立つよな」
<闇鴉>は強い。自分と藍佳が力を合わせてなお、まるで敵わなかった。それなのに、処刑人が負けるとはまったく思わなかった。
嫌いだからかもしれない。敵は自分自身で倒したいものだ。だからその時まで負けないで欲しい、最強であって欲しいと思ってしまうのだ。
そして、いかに気に食わなかろうと処刑人の強さだけは確信していた。
しかし今はもうそれも置いておいていいだろう。
繋いだままの手を引く。
「……生き残った」
「うん」
「一緒に行こうな」
「うん!」
藍佳は嬉しそうに微笑み、握り返した。
ぬくもりがじんわりと広がる。
明日、何が待っているのかは判らない。それでも大丈夫だと思える。この手を繋いだなら、きっとどんな困難でも越えて行ける気がした。
月の横顔は、まだ見えるはずもない。