カビくさい部屋に隠れ、いや、追いつめられてから十数分が過ぎていた。
エリオはストラーダを握りしめ、己の足の怪我を確認する。
単純戦闘ならまだしも、トップスピードを保ったまま走り回れる状態ではない。
「キャロ……」
無意識の呟きが焦燥をさらに高める。
キャロは敵の手中にある。その居場所はわかっているのだ。キャロは目の前の部屋の中。距離にして十数メートル。
しかし、ドアの前には複数の魔道師達。今のエリオがのこのこと出て行けば、間違いなくデバイスの集中砲火を浴びるだろう。
応援がやって来る気配はまだない、この状況でキャロを救うに間に合うのは自分だけだとエリオは認識している。
それは不幸な偶然だった。
キャロとエリオとは全く関係ない部署による密輸団摘発。
ところが、当局の予想よりも密輸団の戦力は大きかった。密輸団の一部が包囲を強行突破、追跡を受けながらも取り壊し予定だったはずの廃ビルの中へ逃げ込んだのだ。
その逃走に巻き込まれたのが休暇中だったキャロだ。結果として奇襲を受けた形になった彼女は囚われ、人質としてビル内に連れ込まれている。
それを追ったエリオは手痛い反撃を受け、逆に追いつめられている状況だ。さらに、その際の戦闘でエリオは足に怪我を負っている。
そしてこのビルはただの廃ビルではない。どうやら、密輸団が元々自分たちの緊急避難用に準備していたものらしい。その証拠に、各所に備え付けられた迎撃装置がエリオの行動を規制しているのだ。
加えて、要所に張られたジャミングによって外部とのデバイス通信、並びに念話が疎外されている。
「……すまんな、坊主」
背後からの声に、エリオは振り向いた。
「大丈夫ですか?」
「なんとか……。お嬢ちゃんのことはスマン」
「キャロは必ず助けますよ」
「ああ、もちろんだ」
そこで苦しそうに横たわっているのは、どうみてもただのおっちゃんである。しかしエリオは知っている。
他の人には、彼がフリードに見えているのだと。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
それは、一週間ほど前の朝のことだった。
「キャロ、朝だよ」
朝の目覚めはエリオのほうが若干早い。そのため、エリオがキャロを起こすのが日課になっている。
今朝もその一環であり、もはや習慣にもなっているエリオの行動に逡巡はない。
「キャロ、起きな……」
言いかけたエリオの言葉が止まる。不審と驚愕の視線が、本来そこにあり得ないモノに固定されている。
キャロの被った薄手の毛布。キャロのいる部分が膨れている。それはいい。しかし、その横にはもう一つ大きな膨らみが。
ちょうど一人分。人間一人分。
フェイトさん? とエリオは思う。
いや、この膨らみは妙に太い。フェイトの体格とは一致しない。どう見ても、大人の男一人分はあるように見えるのだ。
ぐご……ぐごごご
野太い鼾までが聞こえてきた。どう考えても女性ではない。
いや、野太い鼾の女性もいるにはいるのだが、エリオにとって女性とはまだまだ神聖にして侵されざる神秘。野太い鼾の女性などエリオの認識には存在しえないのだ。
意を決したエリオは、そっと毛布をめくった。
そこには、すだれ禿の小太りなおっちゃんがいた。袖無しのランニングシャツと短パン姿だ。
「……誰?」
エリオは首を傾げる。見たことのない男の人だ。六課の中で見たことが無いどころか、記憶に全くない。
いや、考えている場合じゃないだろう。キャロのベッドの中に見知らぬおっちゃんがいるのだ。これは途轍もなく拙い状況ではないのか。
とりあえず、エリオはストラーダを構えた。
その先端でおっちゃんの頭を軽く叩いてみる。
「起きてください」
キャロを驚かせないように、あくまでも静かな声。
鼾が止まった。
「もしもし。起きてください」
「んあ?」
目を開くおっちゃん。何事かと辺りをきょろきょろと見回すと、
「なんでぇ。夢じゃねえのか」
「もしもし?」
「ん? あー、えーと、なんだっけ」
おっちゃんは考えるように首を傾げ、そして言った。
「ああ、そうだ、エリオ。エリオだ」
「前に会ったことありましたっけ」
「ない」
即答され、エリオはストラーダを構え直す。
「じゃあ、どうして僕の名前を知っているんですか。それから、どうしてキャロのベッドにいるんですか」
「ああ、まず坊主の名前に関しては、夢で見た」
「夢?」
「そう、夢。夢の中でここ……えーと、機動六課か、ここの紹介をされたんだよ。なんか鳥みたいなトカゲみたいな妙な奴に」
「フリードのことですか」
「あ、そんな名前だっけかな」
「何があったかは知りませんが、ベッドの中から早く出てください」
「そう言われてもな。俺をベッドに誘ったのはこのお嬢ちゃんだしな」
「はい?」
「だって、俺、フリードだからな」
「はい?」
「お前さん、俺がどう見えてる?」
「中年男性にしか見えません」
「うん。そうか。でも、フリードなんだよ、これが」
訳がわからない。
おっちゃんの言うことは全くわからない。
「とにかく、ベッドから出てください」
「まあ、そこまで言うんなら別に良いけど」
「あれ、エリオ君?」
二人のやりとりの間に、キャロが目を覚ましていた。
「おはよう。今日も起こしに来てくれたの?」
「え、あ、うん。そうだよ」
「何してるの?」
「何って」
「どうして、フリードにストラーダを突きつけてるの?」
「ええ?」
「フリードが可哀想」
「えっと、キャロ? フリードって」
「エリオ君、さっきからストラーダ突きつけてるじゃない」
目を白黒させながら、エリオはキャロとおっちゃんを見比べる。
どう見ても、フリードじゃない。それどころか龍でもない。
ただの人間の男、中年男だ。
「だから言ってるだろ。俺はフリードだって。ほら、さっさとその……ストラーダ? それを下ろせ。お嬢ちゃんに嫌われるぞ」
「エリオ君!」
「キャロ、今の言葉聞こえてないの?」
「言葉って、エリオ君はフリードの言葉わからないじゃない」
「キャロ、ごめん。一つだけはっきりさせて欲しいんだ」
真面目なエリオの言葉に、キャロは怒り顔を当惑させる。
どうやら、エリオに悪意がないとは認めたらしい。
それでも、訳がわからないという表情だけは変わらない。
だから、エリオは即座に質問した。
「ここにいるのは誰」
ストラーダを一旦収め、開いた片手でおっちゃんを示す。指を指すような真似はせず、手のひらで指している。
キャロは、あからさまに妙な表情。
「誰って、フリードだよ?」
「ここに、いるのが?」
「うん」
「いつもと同じ?」
「うん」
「大きくなったりしてない?」
「ううん。いつもと一緒だよ」
おっちゃんが笑った。
「な、諦めろ坊主。多分お前だけだ、俺の姿がナイスミドル風に見えてるのは」
エリオは無言で立ち上がる。
「なんで、そんなことがわかるんですか」
「だってな、昨日の夜この辺りうろついてたら、みんな俺のことフリードって呼ぶんだぜ?」
「……どうして」
「さあ。俺に言われても困る。俺からしてみれば、気付いたらこうなってたんだ」
まあ仲良くやろうや、そう言っておっちゃんはエリオの肩に手を回すと、豪快に笑った。
「フリード、今日はエリオ君によく懐くね」
嬉しそうなキャロの言葉に、エリオはひきつった笑いで返すしかない。
その笑いは午前中いっぱい、エリオの顔に貼り付いたままだった。
なのは、フェイト、シグナム、ヴィータ、スバルにティアナ。そして六課部隊長八神はやて。その内の誰一人として、フリードをフリード以外のモノとしては認識しないのだ。つまり、おっちゃんが見えていないのだ。
それだけではない。
おっちゃんは飛べない。ブラストフレアも出せない。エリオにしてみれば当たり前である。おっちゃんがそんなことしたら恐い。多分夢見る。勿論悪夢。
だが、他のメンバーには違う。他のメンバーにとってはおっちゃんではなくフリードなのだ。
「キャロ。どうやらフリードの調子が悪いみたいだな」
「はい。なんだか疲れているみたいです」
「あまり無理はさせるなよ。気を配るのも召喚士の立派な仕事だからな。なんなら、シャマルに見せてみるか?」
「少し休めば大丈夫だと思います。翼とブラストフレアの調子が悪いだけで、身体の調子が悪い訳じゃないみたいですから」
シグナムが頷くと、フェイトが口を添える。
「そうだね。シグナムの言うとおり。じゃあ、キャロは今日はフリード無しでやってみようか。それだって立派な訓練だよ」
「はいっ」
「いやいや」
エリオの目の前で、おっちゃんはキャロを担ぎ上げると肩車する。
「おっちゃ……フリード?」
エリオが慌ててその横に並んだ。
「大丈夫なの?」
「大丈夫大丈夫。こう見えてもおじさん、ちゃんとフリードだから。飛ぶのは無理でもこれくらいなら」
走り始めるおっちゃん。
エリオが思っていたより早い。確かに、これならキャロが自分の足で走るよりは早いだろう。
でも、これでは娘を肩車して走り回っているお父さんにしか見えない。
ある意味微笑ましいのだが……
「うぉおおおおっ。なんじゃこりゃああああ!!」
おっちゃんは砲撃をかわして走っている。
そして叫ぶ。
「すげっ、魔法すげぇ!!」
いや。凄いのはそれを走って避けているおっちゃんだ。とエリオは言いたいのだけれど、訓練中には人のことに構っている暇はあまりない。
とにかく、キャロの足としておっちゃんが頑張っていることはわかったのだ。
それならば、と、エリオは自分の訓練に意識を集中する。
夕食時までには、エリオはおっちゃんを見直していた。
さすがにフリードの身代わりだけはある。運動能力は常人ではない。もっとも、フリードほどではないし、魔力でブーストしたキャロには及ばないだろうが。
「あー。腹減ったな」
ぼりぼりとお腹を掻きながら食堂に現れる姿は完全なオヤジである。
いったい、今の姿は他の人にはどう見えているのだろう。
「おう、坊主。お前も飯か」
「あ、は、はい」
「ふーん。じゃあどうすっかねぇ。昼間は、弁当だったからなぁ」
昼は訓練の一巻としての野外糧食だった。朝は軽く済ませただけなので、考えてみるとおっちゃんが食堂でちゃんと食事を摂るのは初めてである。
エリオが見ていると、おっちゃんは厨房に繋がるカウンターへと歩いていく。
「豚汁の大とソーセージ炒め、漬け物と中メシ。あと、めざしの丸干しとビールね」
何処の場末のメシ屋だ。と言いたくなる注文だが、厨房からは威勢良く「あいよっ」と聞こえてくる。
そんなメニューもあるらしい。あるのか。
「くーっ、身体動かした後のビールはうめぇなぁ」
「フリード、機嫌良さそうだな。なんか鳴き声が嬉しそうだ」
「はい。ご飯が美味しいって」
「ふーん。キャロにはわかるんだ」
「はい」
ヴィータとキャロ、そしておっちゃんの会話に頭を抱えるエリオ。
「結構メシ美味いな。ここ」
おっちゃんは嬉しそうにビールを飲んでいる。
本当に、他の人にはどう見えているんだろう。
ビール飲んでめざし囓ってソーセージ食べて。豚汁啜ってご飯食べて。どうしてこれがフリードに見えるんだろう。
「坊主」
「はい?」
「あんまり深く考えない方が良いと思うぞ」
「貴方に言われたくないような……」
「まあ呑め」
「僕、未成年ですよ?」
「じゃ食え」
悪い人じゃないんだ。エリオは自分にそう言い聞かせる。
「ところで」
「ん?」
「本物のフリードはどうしてるんでしょうか?」
「だから、俺がフリードだって」
エリオのジト目に、おっちゃんが笑った。
「そんな顔されてもどうしようもない」
「フリードがいなきゃ、キャロが困るんです」
「そう言われてもなぁ……」
ところが。
翌日の訓練で、エリオは唖然とした顔で空を見つめていた。
おっちゃんが飛んでいる。
キャロを肩車したおっちゃんが飛んでいる。
さらに、ブラストフレアを吐くおっちゃん。
なかなかシュールな光景である。
「……凄い……おじさん凄い」
エリオの中で、おっちゃんはおじさんに進化した。
「あれだな、人間やってみるもんだな」
夕飯時、おじさんはそう言いながら笑っていた。
因みに今夜のメニューは、なめこ汁とささみカツ、中メシに野菜炒めにほっけとビール。
「呑むか?」
「だからいりませんって」
「そか」
なんで飛べるのか、なんでブラストフレアが吐けるのか。
エリオは聞こうと思ったが、「だってフリードだから」と返されるのはわかり切ったことのような気もする。
周囲の人間は皆、おじさんをフリードだと思っている。実際、フリードの姿に見えているっぽい。
おじさんは飛べる。というか宙に浮いている。
おじさんはブラストフレアが吐ける。
もう、これはフリードで良いんじゃないだろうか。
……いやちょっと待って
エリオは、自分の認識が揺れるのを感じていた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
そして今。
おじさんフリードはエリオの後ろで血を流して横たわっている。
エリオは突入のタイミングを窺っていた。
相手の動きからすると、ここで籠城を続けるとは考えられない。ここへ来た理由は、別の足を確保するためだ。
以前から準備されているとしか見えないビル。ならば、輸送経路か輸送機器の一つや二つはあると思って良いだろう。
このまま応援が現れるのを待っていれば、おそらくは逃げられてしまうだろう。
逃げられてしまえば、人質としてのキャロの価値はそこまでだ。勿論、無事に開放されるとは思えない。
だからこそ、逃げられる前に突入しなければならない。
しかし……
エリオは再び自分の足を見た。
自分の得手は地上での高速機動による突撃、攪乱だ。それがこの足では、ポテンシャルの半分も発揮できないだろう。相手の魔道師からすればいい的だ。
それでも、悩んでいる暇はない。
なんとか砲撃射撃をかいくぐり、キャロを救わねばならない。いや、かいくぐる必要はない。要は、撃たれても動きを止めなければいいのだ。
覚悟はとうに出来ている。キャロを守るのは自分。その決意に揺らぎはない。
「あー、ちょい待ち」
エリオの肩をおじさんが掴む。
「お嬢ちゃんを助けるのは良いが、坊主が犠牲になったら意味ねえぞ」
「……おじさん」
「あんな美人な姉ちゃん泣かす気か」
フェイトのことだ。
エリオはその問いに答えられず、俯くように視線を落とした。
「それにな、お嬢ちゃんを助けるのは守護竜の役目だろ?」
「守護竜って」
「わかってるよ。お嬢ちゃんのガチ守護竜はヴォルテール。だがよ、フリード……いや、俺だって、それくらいの自負はあるんだぜ?」
血を流しながらおじさんは立ち上がり、前に出た。
その向こうに見えるのは一つのドア。キャロがいるのはおそらくその向こう。
「あのドアまでは俺が運んでやる。坊主はそこから突入しろ。それくらいなら、俺の足もなんとか保つだろ」
それならキャロは助けられるかも知れない。接近戦に持ち込めば、そこらの犯罪者などに負けないだけの訓練は積んでいるのだ。
「でも、おじさんは……」
「何度も言わすな、おじさんはフリード、お嬢ちゃんを守る竜だ」
有無を言わせず、おじさんはエリオを肩車する。
「しっかり捕まってろよ」
「はい」
「行くぜっ!」
「はいっ!」
おじさんは走った。
血を流しながら。
おじさんは走る。
魔力弾を避けながら。
避けきれない魔力弾がおじさんを貫く。
おじさんは止まらない。
「エリオっ! 行けッ!」
投げ飛ばすようにエリオを肩からおろすと、おじさんはエリオと密輸団魔道師の間に入る。
「おじさんっ!」
「いいから行けっ!」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
奥の輸送機に連れ込まれようとしていたキャロを救い出し、応援に駆けつけたフェイト達と共に密輸団を一網打尽としたエリオ。
エリオが見たのは、血を流して倒れてはいたが、命に別状のないフリードだった。
「おじさんっ!」
おかしな事を叫んでフリードに駆け寄るエリオを、フェイトたちは不思議そうに眺めていた。
その日から、エリオはフリードの食事の横にビールを一缶置くようになった。
だけどフリードは、ビールには目もくれないのだ。