右から左へ流れる景色を見ながら、戻らない過去を考えていた。
幼い頃のことだ。
思い出そうとしていたのではない、ただぼんやりと、昔のことを考えていた。
それは大して印象に残っていない本の筋書きを思うような回想で、とりとめもなく散らかる記憶を掻き集めるまでもなく眺めているようなものだった。
汽車の窓からは見渡す限りの麦畑が見える。すずかけの木の林が見える。
抜けるような空の青と、網膜を焼くまっしろな光に、胸の底がふと軽くなる。
炭坑と精錬所の街で生まれ育った僕は、この街のことを写真越しにしか知らなかった。
炭坑の街に親戚はたくさんいたが、生みの親を早くに亡くした僕が安住できる場所はなかった。
寄宿舎のある学校への入学が決まってからは、親戚には一度も会っていない。
夏期休暇を過ごすための下宿先を探していると、下宿受け入れの広告の中で、1枚の写真が目に付いた。
すずかけの木からこぼれる木漏れ日の写真だった。
手に取ると手放せない魅力があって、自分でも不思議なほど、その写真に心惹かれていた。
街に出回る雑誌の写真とは違い、その写真には熱があった。眩しそうに目を細める、写真の主の姿が目に浮かぶようだった。
ふと気が付くと、僕は夢中で下宿希望の手紙に切手を貼っていた。
部屋主は著名な写真家らしいが、若いのか老けているのか、想像もつかない。
すずかけの木と麦畑の広がる景色は、彼とやりとりした手紙に入っていた写真で見た。
彼は他にも、その村から見える空の様子や、街で人々が笑いさざめく姿を何枚か同封して、手紙を交換するたびに送ってくれた。
乗客は、気づけば僕一人になっていた。
汽車は無人の駅に滑り込む。
ホームに下りると、正午を目前とした日差しが網膜の裏をちかちか刺した。
改札をくぐって、僕は足を止める。
息を吸うと、ほの甘い太陽と小麦の匂いが胸を満たした。
手紙に記された地図を辿って歩いてゆくと、小さな村の東に出た。
活気溢れる市場を抜けて、糸杉の茂る森を目指す。市場に集う人々は皆、日に焼けて健やかな足をしていた。
賑やかで明るい人々の間を、僕は縫うようにすり抜けてゆく。
肉屋の厨房から流れ出る香ばしい鶏肉の匂いに、腹が恨めし気な音を立てていた。
僕はただひたすらに、地図に記された森に向かってゆく。
糸杉の森は静かだった。
市場の喧噪が急に遠ざかり、まるで異国に放り出されたようだ。
鬱蒼と茂る木々が光を遮り、視界は薄闇に呑まれる。
ひいやりと湿った風が腕を撫で、木漏れ日が僕の顔を横切っていった。
部屋主がやさしい視線で切り取った光だ。下宿を募る時に添えずにはおられなかった、眩しくて清潔な光だった。
ふいに、大きな音がした。
何かが軋み、壊れる音だ。叩き付けられ砕ける音だった。
遠くから響く音に一瞬足がすくみ、それから、何が起きたのかと早足になる。
十歩も歩かないうちに、鬱蒼とした森は突如として開いて、僕は日だまりの草原に出た。
そこには地図に記してある通り、黒い石造りの小さな家があった。煙突と飾り窓の美しい、隠れ家のような家だった。
そして、その前には広々と風の抜ける広場がある。
そこで、一人の男が豪快に木製の机をたたき割っていた。
ためらいのない、胸のすくような手つきで、彼はかつて机だった木材を粉々にしてゆく。
何も身に着けていない上半身に、光のような汗がしたたり、木漏れ日のつくる不規則な影が、引き締まりつややかに張った背中を撫でていた。
粉々になった木っ端が彼のジーンズに飛び散る。
彼はそれを払おうともせず、思い切りよく木材を粉砕してゆく。
そのあまりのすがすがしさに、僕はしばし呆然と彼を見つめていた。
彼はやがて満足したように汗をぬぐい、息をついた。視線を上げたところでちょうど僕の姿を認め、彼はざっくりと片手を上げた。
「いらっしゃい」
独特に掠れた、麦畑に注ぐ眩しい日差しによく似合う声だった。
そばかすと薄い唇、細い眉に気さくな笑み、やんちゃな少年がうっすら影を帯びたまま大人になったような、不思議な風貌だった。
カラスの濡れ羽のような黒髪の下から、深い鳶色の瞳がこちらを見返している。
これといった特徴もない、しかし、一度見たら忘れられない印象的な顔立ちだった。
強いて言うならまなざしが違うのだ。僕の表面や外見ではなくて、僕を突き抜けた遙か遠くの景色を見渡すような視線だった。
心の底まで見透かされているような気がしたし、彼は僕なぞ見てはいないと言う気もした。
「はじめまして、お世話になります」
「堅いこと言うなよ、好きでやってんだから」
彼は無造作に手についた木っ端をジーンズで拭い、大きな手をこちらに差し出した。
「昼飯にしよう」
彼は僕の手から鞄を取り上げ、自分の肩に気軽に担いだ。
粉砕した木っ端をそのままに、彼は僕に背中を見せて、ずんずん石造りの家に向かって歩いていった。
慌てて後を追った時、僕は初めて、彼の背にうっすらと広がる傷跡を認めた。
日に焼けているせいでほとんど目立たないが、右肩から左の腰にかけて伸びる、大きな火傷の跡だった。
彼の噂は、炭坑の街で耳にしている。
世界に名の知れた写真家の息子で、何年か前に親と家とを火事で失った。
本名を知る人は少なく、どんな人からも写真家さん、と呼ばれている。
まだあどけない顔つきだった彼は、燃え上がる家に、両親の葬式で泣き崩れる親戚に、そっとカメラを向けたらしい。
涙一つこぼさず、ただただシャッターを押していたという。
そしてその写真によって、彼は世界的な賞を総舐めにした。
今は森の奥深くにこもり、街の様子や森の景色を撮っては雑誌に載せ、収入を得ている。
実際はそんなことをしなくても食べていけるほどの財産があるとも聞いた。
「あそこでは人が死んだんだよ」
彼のことを教えてくれた老婆は言った。
炭坑の街の写真館の、ひっつめ髪が印象的な老婆だった。
彼女は早熟の天才について、憧れを込めるように熱っぽく、
そして時折、ひどく押し込めたような口調を織り交ぜ、僕に事細かに教えてくれた。
旅行許可証をもらうための身分証明写真を撮ってもらいに行った時だ。
彼女の口調には、優秀な同業者へのありがちな悪意ではない、眩しいものを目にした時の戸惑いや、眩しいものに焦がれる、戸惑いを突き破る熱があった。
「理由は誰も知らない。あやつと共に暮らしていた若造が、まさにあの森で命を落とした。
それでもあやつは、今もあそこで暮らしている」
光を調節し、目をしばたかせながら老婆は言った。
「目を剥くような好条件での売却持ちかけもあった。
あやつにもっと良い邸宅を用意して、後ろ盾になろうとする企業もごまんとあった。
それでもあやつは、頑なにあの家から離れようとしない」
シャッターが下り、フラッシュが光る。
網膜の裏に濃い残像が残って、それは何やら大切な人を傷つけてしまった時の後悔のように、なかなか消えずに目の端にあった。
「あやつは死に憑かれておる」
僕は婆さんの話を聞くのがひどくおっくうだった。
会ったことのない人の噂話なぞ聞いても意味が無い気がしたし、
それを聞いて、夏の間の生活の何かが変わるとはとうてい思えなかった。
僕はその時何かを言った気がするし、何も言わなかったような気もする。
「お前が下宿するのは、そういう家だ」
試すわけでも焚きつけるわけでもない、ごく静かな声で彼女は言った。
そしてそれ以降、彼女から彼の話を聞くことはなかった。
彼は僕の鞄を無造作に玄関に放り投げ、まっすぐ家の奥に向かった。
通されたのは、白い壁と大きな窓の印象的なリビングだった。
彼はキッチンで鍋の中身を温め直しはじめ、僕に座っているようあごをしゃくった。
「僕も手伝います」
「勝手がわからないだろう」
ごく親しい者に向けるような、気取らない口調に閉口する。
本当に自分はこの人と初対面なのだろうか。
思わず自分の過去を振り向いて探さずにはおれないほど、
彼の振るまいには遠慮とか、躊躇いというものが感じられない。
振り返った過去は曖昧で霧の中に漂うように、散漫に散らばっては形を成しかけて、また同じように消えてゆく。
「写真家さん、なんですよね」
野菜に熱の通る音、黒胡椒の香ばしい匂い、コンロにこぼれた何かが小さく爆ぜる音。
そんなものの向こうから、彼は無造作に視線を上げる。
不思議そうに見返され、僕ははじかれたように目を逸らした。
「なんていうか、体格が良くて格好良いから、つい」
「写真なんて似合わないだろう」
口の端を器用に片方だけ吊り上げて、彼は笑う。
「写真館に来た人に、『それで、写真家さんは』なんて言われるのもしょっちゅうさ」
「写真館があるんですか」
「時々人が来る」
彼はあっという間に料理を用意して、たくさんの皿を並べてくれた。
色鮮やかな野菜のサラダ、コンソメの匂いが立ち上る澄みきったスープ、やさしい小麦色の焼き立てパン。
いただきます、と手を合わせると、彼は眩しいものを見たように笑った。
「あの机はいらなくなった机ですか」
「納屋から出てきたんだ。あんなに大きな机、どうしようもないから」
澄み切ったスープは薫り高く、豊饒な風味と熱を残して消えてゆく。
人に譲るだとか、木材だけ再利用するだとかの思いつきのない、いらないものは壊して土に還す思い切りの良さに、
喉に小骨の掛かったような違和感があった。
生かすことも残すことも考えず、跡形もなく消してしまう潔さ。触れてはいけないものに近づいた気がした。
「あとで、写真撮ってやんなきゃな」
ふと、彼はこちらを見て呟いた。
窓際に置いた、古びた旧式のカメラを見つめて彼は頷く。
結構です、と言い掛けて、僕は言葉を飲み込んだ。
「気にしないで、らくにしてれば良いから」
彼はそう言うと、お腹を空かせた子どものようにサラダをかきこんだ。
二十歳を過ぎた外見とはひどくアンバランスな、あどけない動作だった。
初対面の他人と対峙しているとは思えぬその姿を見ていると、自分が何を言いたかったのか、
突然わからなくなってきてしまう。
僕はスープの最後をすすって言った。
「お仕事のルーティンとか、ありますか。音を立てない方が良い時間とか」
「遠慮も気兼ねもいらない」
やさしい、こだわりのない物言いだった。
彼は行儀悪く食卓に肘をついて、指をくるくる回して見せる。
「飯はできるだけ、顔をつきあわせて食べよう。それ以外は好きにしてくれて良い」
あっけにとられて、僕は彼を見返すしかなかった。
僕は彼の言葉を、まるで異国の言葉を聞くように聞いていたのだ。
それは見知らぬ土地にたった一人で突き出されたような、迷子になった子どものような戸惑いにも似ていた。
意思の疎通を図ろうと目をこらしても、ただ親しげな双眸がこちらを見返している。
親のいない僕はずっと、他人の家で暮らしてきた。
首を縮め、物音を立てないように生きてきたのだ。遠慮も気兼ねも染みついていた。
空になったスープ皿を取り上げ、彼はさらにスープを注いでくれる。
その動作の自然さがこそばゆく、どうして良いのかまるでわからない。
何か言おうとして顔をあげても、目が合う前に視線を逸らしてしまう。
これからここで、僕はどうやって暮らしてゆけば良いんだろう。
ことんと手元に置かれたスープ皿を見て、その湯気に顔をひたして、僕はぼんやり考えた。
遠慮も気兼ねもしてはならないとすれば、彼の意に沿うにはいったい、どうやって。
「おかわりも我慢しないこと」
彼が口の端を吊り上げ笑う。
吸い込まれるように、吊られるように、僕も小さく笑った。