序章)月光草の夜のこと。
暗い夜に月がぽっかり丸く開いた空の下、月光草の花が青白く光る夜のこと。
ワンタは大好物のアメホタルを取りにナマケモノの塔の下にある月光草の花畑へやってきた。
森から続く道端に点々と置かれた淡く緑に光る夜光石は、ちょっぴり方向音痴なワンタがチビやニャミィと一緒に来たときに目印に置いてきたものだ。
「そーっと、そーっと……」
集中すると、口から勝手に言葉が出てしまうのがワンタの癖だ。体を低くして、尻尾を水平に、月光草の剣のように尖った草のてっぺんで、静かに黄色く明滅するアメホタルを前にして、ワンタは茶色い毛でおおわれた手をかざした。
「えいっ!」
ぱっ、とワンタが両手を合わせ、そーっと中を覗きこんでみると、そこにアメホタルはいなかった。
「あーあー……」
捕まえ損ねたアメホタルは、甘い滴でおおわれた発光器官を光らせながら、ワンタの手の届かないほど空の上へと羽ばたいてしまう。
あそこまで高く飛んでしまうと、ワンタにはもう手におえない。
諦めて、別のアメホタルを探すことにするが、きょろきょろ見回してみても、もうアメホタルの黄色く淡い輝きはどこにも見つからなかった。
「しょーがないかー。もう、時期もおしまいだしね」
ぼやいてみるが、それでもワンタの持ってきた木の皮で作った虫かごにはアメホタルが三匹入っている。
石塔の前にある大岩によじ登ると、ワンタは平たいながらもちゃんと肉球のついた手でアメホタルを取り出した。
明滅する発光器官に丸くこびりついた透明な塊をすっぽぬき、そのまま口の中に放り込むと、優しい甘みが口いっぱいに広がった。
用済みになったホタルは生かしたまま放れば、また月光草の花の蜜を集めて飴を作ってくれるだろう。
「んふふ、あまーい」
とろーっと口の中の熱で蜜が蕩ける感触を味わうと、ワンタの顔まで蕩けるような笑顔になってしまう。
本当は、ニャミィやチビも一緒に連れてきたかったけど、ニャミィは今夜は集会だし、チビは夜更かしが出来ないし、アカはそもそも甘いものが大嫌いだ。
残り二つは、明日ニャミィとチビに一つずつあげようかなと思いながら、大岩の上で足をぷらぷらさせて上を向くと、丸くて大きな月の隣にナマケモノの塔のてっぺんが目に入る。
ナマケモノの塔は、月まで届いてしまいそうなくらい、とても高い石の塔。
中には、ナマケモノと呼ばれる白い綿のような糸のような雲のような生き物がぎっしりと詰まっていて、上の方に開いた窓の穴から飛び出てそこから上を白く覆っていた。
しかもそれだけでは飽き足らず、ナマケモノはそこから糸をさらに伸ばして四方の森へと綿の橋をかけている。
まるでハンモックのように、小さな窓から森へと徐々に広がっていく様子は、まるで誰かにお昼寝しにおいでと言っているようで、いつかあのふかふかのナマケモノの上に乗っかってお昼寝するのがワンタの夢だ。
「そういえば、チビとアカはここで生まれたんだったかなー」
窓から上が大きな綿の塊のようになっている塔のてっぺんをぼんやり見ながら、思い出すようにワンタが呟いた。
神様と一緒に暮らしているチビと、自由人のアカはナマケモノの中から生まれてきた。
ワンタはどちらの時もその場にいなかったけど、二人とも神様がナマケモノの塔から帰って来たときに連れてきたのだ。
アカの時は知らないけれど、チビは真っ白なナマケモノの綿に包まれて、気持ちよさそうに神様の腕の中で眠っていた。それが凄く、すごーく気持ちよさそうで、ワンタはとても羨ましがった。
「僕もいつか、あれくらいふっかふかの中で寝てみたいね」
思った瞬間、欠伸が出た。
いつもならもうとっくに寝ている時間だ。アメホタルの為に頑張って起きていたが、そろそろ本気で眠くなってきた。
「そろそろ、帰ろうかな」
しょぼしょぼする目を擦りながら独り言を呟いて、最後にもう一度、夜の月を見上げてみた。
跡から思えば、その時ワンタが月を見上げたのはもしかしたら勘みたいなものだったのかもしれない。
ワンタの視界の先、ナマケモノの塔の上、窓から上に向かってみっしりとはみ出た綿がモコリと動いた……気がした。
「んん?」
確信が持てなくて、じーっと目を凝らしてみると、やっぱりだ。モコモコとぜん動するようにうごめいて、ぐんっ、と白く綿が膨らんだ。
「な、何だあれ!?」
すっかり目の覚めたワンタが耳から尻尾の先まで毛を逆立てていると、小さな綿の膨らみは、中から空気を入れられるように、ぐんっ、ぐんっと段階的に大きくなった。
まるで、何かが綿の塊を中から無理やり押し出しているようだ。
ワンタが目を白黒させる間に綿は大きな繭のようなものになり、熟した果実が重みでしなるみたいにぶらりと窓から垂れ下がる。
あと一押しで千切れてしまいそうな危うさにハラハラしていると、繭の膨張がぴたりと止まった。
ほっと安心した瞬間、
「うわぁ!!」
びっくりしてワンタは慌てて岩を飛び降りて数歩離れた。
高い塔のてっぺんからヒュウと音を立てて落ちてきた繭のようなものはしかし、地面に激突する前にぴたりと止まる。
繭の頭からロープのような白くて太い紐が伸びていて繭の激突を避けたのだ。
雨粒みたいな流線形に伸びた繭は数往復程揺れてから、ブチッという音と共にドサリと地面へ落ちる。後を追うようにして、千切れたロープがしゅるしゅると落ちてきた。
「な、何これ?」
恐る恐る、繭に近づき、手のひらでそっと触れてみる。
平たい肉球に伝わる柔らかな、さらっとしていて弾力のある綿の感触。しかしワンタが何より驚いたのは綿の中から何かが押し返してきたことだ。
弱々しく、今にも消えてしまいそうな力だが、確かに中に何かいる。
少しだけ、両手で綿の間をかき分けて黒豆みたいな鼻の頭を押し込んだ。胸いっぱいに匂いを嗅ぐと、ナマケモノの白い綿とは違う、少し悲しい匂いがした。
「誰か、居るの?」
ワンタが静かに問いかけてみると、中から誰かの声がした。