イタリアはローマ、時は深夜。石畳の道路の上を幼い少女は駆ける。
彼女は追われていた。ただひたすら自己の生存のために逃げていた。
背後からは複数の追っ手の足音が聞こえてくる。
その音が一瞬止まる。彼らは足を止めると、十字を切り、右手を前に突き出す。
「っ!」
考える間もなく、反射的に左へ跳ぶ。
彼女が直前まで居た場所に白い光弾が高速で襲い掛かる。さらに追っ手は光弾を生むと、彼女に向けて次々と放つ。
少女は道路沿いのアパートの壁を蹴り、上空へと逃げる。そして、民家の屋根に降りると、逃走を再開した。
彼女は内心で舌打ちをする。
そもそも追っ手の狙いは明らかだ。自分を追い詰め、どこかに誘導しようとしている。
追っ手は大人数でこちらを追っているくせに、決して接近戦を挑まない。チームを組み、光弾を打つことに徹している。
本来彼女の方が戦闘においては強者なのだ。あのような光弾など一つ二つ当たっても大きなダメージにはならない。
しかし、長時間追われ続け、疲労している今となっては避ける以外の選択肢は見つからない。
彼らはそこまで見通して、光弾で進路を妨げ、進む方向を誘導し、どこかに追い詰めようとしているのだ。
そしてその末路は……
そこまで想像した所で、彼女はその考えを振り払うように首を振った。
追っ手の側は半ば作戦の成功を確信していた。
長期間の追尾による疲労、光弾による誘導、そして。
「目標はコロッセオに入った、繰り返す、目標はコロッセオに入った!」
「よし、総員準備!」
彼らはコロッセオの中央部に追い詰められた彼女を囲むようにしてコロッセオの外縁部に立つ。
そして十字を切り、叫ぶ。
「「「「「封陣、発動!!」」」」」
コロッセオの地面にあらかじめ刻まれていた線をなぞり白い六芒星が浮かび上がる。
そして、その六芒星は強烈な光を放った。
外からコロッセオの様子を見る者が居れば、まるで太いレーザー光がコロッセオから直上に放たれたように見えたかもしれない。
光が収まった後、コロッセオの中心にあった彼女の姿はなくなってしまっていた。
「やったか!?」
「いや、アレを見てみろ」
青年の声にこたえる太い声。
声の主が指差した先には、一本の尻尾が残されていた。
その色は禍々しい黒。
この夜の闇の中でもはっきりとわかるほど、すべての光を吸い込んでしまいそうな黒。
「尻尾きり、と言う奴ですね。逃げられてしまいましたか」
「そのようだな。ここまで追い詰めたと言うのに、残念なことだ」
口々に悔しげな声を上げる彼らに向かい、背の高い、凛然とした少女が声をかける。
どうやら彼女が追っ手のリーダーのようだ。
「それでもアレが消耗しているのは確実です。休む暇はありません。逃亡先を早く見つけましょう」
そう言って、彼女はのこっていた尻尾に向けて光弾を放つ。
何かがこげるような音と匂いを残して尻尾は跡形もなく消えた。
教室の中には、チョークの音、そして黒板の内容をノートに写すシャープペンシルの音。
「……という訳で。ジャンヌダルクは魔女として火あぶりにされてしまったんだな」
9月の教室には残暑のせいかどことなく気だるさが見える。
教師は既に黒板に書き終え、内容の説明に移っていた。大半の生徒も写し終わっており、真面目に聞くものも居れば、夢の世界に行ってしまったものもいる。
しかし、一人の生徒だけがシャーペンを必死に動かしていた。
左手で不器用にシャーペンを操る。そして消しゴムを取ろうとするも、焦ったのか左手で払ってしまい、机の右側に落ちる。
彼はそれを身体をひねり、左手で取る。そえてもう一度ノートに向き直る。
彼の右腕はノートを支えることなく、だらりと垂れ下がっていた。
少年、水上誠が交通事故にあったのは今年の5月、彼が17才の誕生日を目前に控えた日のことである。
状況はありがちだ。横断歩道を自転車で渡っていた誠を左折しようとしたトラックがまきこんだ。それだけのことだ。
ただ、ありがちと言っても、誠にとっては地獄に落とされたようなものだった。
事故の後、病院で目を覚ました誠は医者から自分の容態について告げられる。
いわく、一番最初にトラックと接触し、ひかれてしまった右腕がひどい状態にある。
右腕の中で骨が折れ皮を突き破って外にあふれ、一方で細かい破片に砕けた骨は神経をずたずたに傷つけた。
長期間のリハビリを経ても元の通りに動かせるかどうかは分からない、と。
「俺はやきゅうやっているんですけど。復帰、できませんか」
「――難しいだろうね」
若い男性の医師は痛ましげに目を細めながらそう言った。
それからの数日間はまるで夢の中に居るような心持だった。
確かに右腕は動かない。甲子園を目指そうとチームメイトと誓い合った野球ももう無理だろう。
にも関わらず、どうしても現実味が感じられない。
もしかしたらまたふとした拍子に動くようになるのではないか。
きっとそのうち元に戻るはず。
しかし、そんな夢想もあっさりと破られる。
ある日、誠の病室を一人の女性が尋ねてきた。
年のころは30代ぐらいか。濃いメイクをしているが、それでもやつれた様子を隠しきれていない。
彼女は涙ながらにこう語った。
「私は今回の事故を起こしてしまった○○の妻でございます」
誠の夢の世界は一瞬でひび割れた。
「この度はまことに申し訳ありませんでした。どのような償いでもいたします、ですからどうか――」
「じゃあ、この部屋から出て行ってください」
誠の口からは自分の思っていた以上に厳しい声が出た。
心の片隅で訴えるものがある。彼女のやつれた様子を見てみろ。彼女だって苦しんでいるはず、これ以上傷つけてどうする。
しかし、誠の心の大部分を占めたのは怒りだった。
どうして俺がこんな目に。
俺はしっかりと交通ルールを守っていたのに、悪いことなんてしていないのに。
何故俺はベッドに寝ていて、右腕が動いていないのに、目の前の女は五体無事でいる。
どうして。どうして!
「なんでもするっていうなら右腕治してください。俺の右腕返してください」
「私は……」
顔を蒼白にした女性にさらに言葉をたたきつける。
「俺を苦しめるだけなら来るな。出てけ!」
女性はゆっくりドアまで後ずさると、病室の外へまろび出た。
誠は廊下を走る音が小さくなっていくのを胸の痛みを感じながら聞いていた。
体中が熱い。喉はからからで、脳はオーバーヒート。
やってやったという気分もあるが、あんな言い方をしなくても、という自己嫌悪もある。
そんな中、花瓶の水を入れ替えに外に出ていた母親が病室に戻ってきた。
今の方はどうしたの、という母親の質問に、誠はなんでもないよと小さく首を振った。
そして誠のリハビリの日々が始まった。
右腕以外は軽傷で、退院は早かったが、これを幸いといってよいものか。
学校に行けばどうしても野球部の仲間達と会わなければならない。
もちろん、彼らは気のいい連中で何度も病院へ見舞いに来てくれた。
けれど、それは誠に野球ができないという現実を見せ、苦しみを与えるだけだった。
時期も悪かったのかもしれない。ちょうど退院した時期には夏の甲子園に向けた地方大会が始まろうとしていた。
誠は応援しなければと思いつつ、仲間達が野球をしている姿を見たくなかった。
どうして自分だけが。そう彼らを呪ってしまいそうだったから。
結局リハビリを理由に応援から逃げた。野球部は準決勝で敗退した。
事故の日から4ヶ月が経つも、いまだに右腕が以前のように戻る気配はなかった。
そして9月も終わりに近付いたある日。
誠は、病院からの帰途についていた。バスを降り、家へと歩く。
普段ならば母親に送り迎えしてもらっているのだが、その日は両親に外せない用事があり、一人で往復した。
9月も末、夜の訪れは早い。
夜闇の中、誠は一人自分の考えの中に沈んでいった。
自分はいったいいつまでリハビリを続けなければいけないのだろう。
別に生活するだけならば、今のままでも何とかなる。左手だけで日常生活の雑事を片付けることにも慣れてきた。
それでも自分がリハビリを続けているのは、ひとえに野球の為だ。
小さい頃野球の好きな父親に連れられ、プロ野球の試合をよく見に行った。
小学生の頃からずっと夢はプロ野球選手。小学校・中学校と、ずっと野球を続けてきた。
幸いにも自分にはセンスがあったらしい。
マウンドではエース、打席では俊足巧打の選手として活躍してきた。
高校も公立ながら野球部の強い名門校に入学できた。
1年目から期待され、夏大会の時点で背番号10をもらった。
……ずっと順調に来ていたのだ。それなのに、どうしてこんなことに。
いっその事、野球が嫌いになれればよかったのに。そうしたら、すっぱりと諦めもついた。
けれど、小さい頃からの夢だったのだ。今更諦めるなんてできやしなかった。
考えに沈みこんでいるうちに、いつの間にか家の近くまで来ていた。
そして、家の裏手にある小さな公園の横を通ると、ベンチに座る人影を見つけた。
浮浪者にしてはかなり影が小さい。
もしかして子ども?
疑問に思った誠はその人影に恐る恐る近付いていく。
容貌を確認した瞬間、思わず息を呑んだ。
小柄な少女だ。身長は140cmぐらいか。
月明かりに照らされた黒髪は美しく、肌はまるで白磁のように美しい。
服装はいわゆるゴシックというもので、黒い生地のドレスのようなワンピースに細かい飾りと白いフリルがついている。
顔はつぶらな瞳に、すらりとした鼻、薄い唇。
全体的に愛らしい雰囲気のはずなのに、何故か淫靡な印象を受ける。
彼女は誠を見ると、くふっと笑い、見ぃつけたと呟いた。
笑顔を浮かべると、さらに淫靡な印象が増す。幼いがゆえにひどくインモラルな感を受ける。
「……えと、君、お父さんかお母さんは?」
「おらぬ。それより妾はそなたに用がある」
「俺に?」
そう驚く誠に、妙に時代がかった言い回しの少女は笑みを深くする。
「実は妾は悪魔じゃ。のう、妾と契約せぬか?」
「いや、悪魔って言われても……」
確かに眼前の少女の美しさは悪魔的かもしれない。
しかし、それでも誠は幼い少女が自分をからかおうとしているようにしか思えなかった。
「ふむ、ならば証拠を見せよう」
そう言うと、少女はすっとワンピースをたくしあげる。
下着を着けていない股間が露わになる。
――誠は驚愕した。一言も上げられぬまま、その場所を凝視してしまう。
なぜなら、そこには何もなかったから。
男のものがないとか、そういう次元ではない。男女共にあるはずの性器がそこにはなかった。
毛も生えておらず、つるりとした丘がそこにあるだけ。
ひどく歪、しかしそれゆえに美しい。そんな姿がそこにはあった。
思わず、絶句した誠の姿にくつくつ笑う少女はワンピースを下ろした。
「もう一度言うぞ。妾と契約せぬか?」