「ナイフで水袋を裂けば穴が空き、瞬間的に通常より多くの水を使うことができます。しかし、一度それをしてしまった水袋はもう使えません。水袋ならそれでもいいですが、あなたならその意味を理解してますよね。最初に行使したときは奇跡・・・いや子どもを作れない体になったか。もう一度言いますあなたの術力でその術法を使うのは自殺行為です。それでもあなたは命を賭けるのですか」
私は甥であるウィルと同じ年だという少年の言葉を聞いて絶句した。それは兄が死んだ原因を求めてグリューゲルを訪れた時の話だった。
1236年
ハンの廃墟で3つのクヴェルを見つけたというウィルの才能は確かだった。そしてウィルは真相を知りたがっている。私は危険だと思った。タイクーンを輩出したと言ってもディガーは当たり外れのある商売で、アウトローな仕事であることに変わりはない。兄の忘れ形見、子どもが生めないあたしにとっては子ども同然のウィルとかつての仲間であるアレクセイ・ゼルゲンを対峙させるのはまだ早い。才能があっても運や状況に左右されて死んでいったディガーの何と多いことか。
「ならニーナも一緒に行けばいい」
私たちの会話に口を挟まなかった夫のポールの提案は渡りに船だった。
「正直クヴェルが全くないと言われる南大陸でヘンリー義兄さんがあそこで何を見つけてきたのかについては私も興味がある。ハンの廃墟に同行した人たちにもできるなら協力して貰いなさい。それくらいのお金は私も協力しよう」
「ありがとうございますおじさん」
嬉しそうに夫に謝意を告げるウィルに夕食の食材を買ってきて欲しいと外に追い出すと私はポールに詰め寄った。
「どういうつもりだい」
「ニーナ、僕たちは若かった。まあ僕なんかは早々に自分の才能を見切っていたけど、君や君のお兄さんは若い頃から優れたディガーだったね。それでも、先輩のディガーや熟練のヴィジランツから学ぶ事が多かったはずだ。親から教えられるものは確かにあるけど、他者との交わりで得ることも多い。正直僕もウィルを心配していた。ウィルは基本的に善人でこういう業界は良い奴ほど先に死んでいく。でもウィルと一緒に遺跡に潜った人たちは多分生涯の付き合いになる。何となくそんな気がする。その人達を巻き込むのは心苦しいけど」
夫は、ポールは確かにディガーとしてはダメで、この人は私が引っ張ってあげないとダメなんだといつも思っている。だけど本当は私が彼に支えられているのだ。
「生きて帰ってきて欲しいとはいつでも思っている。できれば老衰で死ねれば幸せだ。でも」
場合によってはウィルの為に死のう。それが養い親である自分達の役割だ。
「ただいまー、マーサさんがオマケしてくれたよ」
「なら今日は牛の煮込みだね」
「南大陸か・・・」
「ナルセスさんは南大陸に行ったことがあるんですか?」
「ああ、あの時は・・・そう言えばお前もナイツだったな。ならフォーゲラングの日記にあったヘンリー・ナイツってのはお前の親父さんか何かか」
「そうです! どうしてナルセスさんは父のことを」
「いや、私はフォーゲラングへは知己のある方と一緒に向かっただけなのだが、一緒について来たガキが何故かフォーゲラングの宿帳を見て、あとその時の状況について詳しく聞いていたな。ウィルやニーナ殿はテルムで暮らしているから知っていると思うが現地では放浪王子と呼ばれていたらしいな」
私とウィルは彼の言っていることの意味を理解するまで多少の時間を必要とした。
「ジャン・ユジーヌ。今は領地を与えられて領主をしているらしいが・・・まあ運が良ければ会えるだろう」
ナルセス(呼び捨てでいいと言われた)の案内で、訪れた家は彼の知己であり、かつてフィニー王家の家庭教師をしていたシルマール師は私たちを快く迎えてくれた。
「ジャン君ですか。今ここに来ていますよ」
一度応接間に戻ったシルマール師が連れて来た少年は直接話したことはないものの10年近く前に何度か見た子どもの面影を残していた。
「お久しぶりですナルセスさん。それと、以前何度か感じたアニマですが、テルム出身の方ですか?」
「相変わらずアニマには聡いなお前は。紹介するジャン、ウィリアム・ナイツだ。お前ほどひねていないがそれなりに優秀なディガーだ。ウィル、こいつは性格は捻くれているが長じれば世界最高の術士になる男だ」
「そんな大それた名は要りません。ナ国スイ王陛下からケッセルの地を預かっておりますジャン・ユジーヌと申します。皆様がもしまだ宿を取っていないのでしたら、私の家にご滞在してはいかがでしようか。秘蔵のワインを空けましょう」
「よし、こいつの家でご相伴に預かろう」
旅立つ前にこの子・・・いやジャン殿から聞きたいこともあったので私たちは提案に乗り、郊外の屋敷に向かった。本来は彼の母の物らしいが、ジャン殿が管理しているらしい。
「ケッセルの悪戯・・・お前のところが作っていたのか」
最近東大陸でも売り出された高級ワインが10本近く並んでいる。
「東大陸でどれだけの値が付いているか知りませんが、高いといってもラウツホルプの白よりは安い価格ですよ。今年の秋から仕込み方法が変わるので今詰めているのが最終ロットですね」
「ほ、本当に私たちこんなにもてなしを受けてもいいの?」
ごく普通の村娘であるコーデリアには何もかも新鮮なのだろう。それほど高級なものでは無いが、雰囲気が高級な飲食店などとは違うのだ。
「あのナルセスさんと付き合える貴重な方達ですからね。きちんともてなさないと。まあ正直言いますと領地の酒場で領民とワイワイやっているのも好きなんですけど。ここでやる場合はある程度の格式が必要でして」
旨い酒というのはどんどん入っていくもので、タイラーは黙々と飲み、コーデリアはウィルに絡み、ナルセスはシルマール師と色々話し込んでいた。
「ちょっと抜け出しませんか」
「こんなおばさんを誘ってかい。あのかわいい侍女に睨まれるよ」
若い頃はよく誘われた物だが、家庭を持って年を取った今、こんなセリフを言われるのは何年ぶりだろうか。
「ウィリアム・ナイツには聞かせられない。あのクヴェルについてです」
今までの陽気というか悪戯好きな口調ではなく、冷徹な音が私の脳裏を揺さぶる。私は頷くと、彼に連れられて別室に連れられた。そこはツール職人の工房に似ていたが、見慣れないものがいくつかある。ジャン殿は水差しに水を注ぎ私に手渡した。いくら水温をある程度調節できるとはいえ、ここまで冷たくするのはかなりのアニマコントロールが必要だ。短い旅の中でも気むずかしいと理解できるナルセスが世界最高の術士という理由が分かる気がする。
「あのクヴェルの性質は第一にアニマの増幅、第二に所持者の意識に入り込み、記憶を読み取り、そして支配します。そして一度手にしてしまうと手放そうとしない点が厄介です」
義姉から兄さんが人が変わったようだと言われた理由。この子の話を聞けば納得が行く。だが疑問が残る。
「どうしてあんたは、いえジャン殿はそんなことを知っているんだい」
「実はあなたたちが今年、南大陸に渡るのを知っていたというのはどうでしょうか? 私はヘンリー・ナイツという人物は知りませんが、アレクセイ・ゼルゲンは知っています。そして彼は今、夜の街を根城にしています。そして対決するときに使った術法のせいであなたは命を落とす」
「どうして私の術の事を」
「ナイフで水袋を裂けば穴が空き、瞬間的に通常より多くの水を使うことができます。しかし、一度それをしてしまった水袋はもう使えません。水袋ならそれでもいいですが、あなたならその意味を理解してますよね。最初に行使したときは奇跡・・・いや子どもを作れない体になったか。もう一度言いますあなたの術力でその術法を使うのは自殺行為です。それでもあなたは命を賭けるのですか」
先ほどの食事の最中に作られた天才術士で善良な為政者というイメージを彼に抱くことはできない。経験の中で培った勘が警鐘を鳴らす。そう彼は私たちでは理解できない何か(みち)だ。
「口で説明するのは難しいですね」
彼が手を伸ばし、私の頭に触れようとする。本能的に逃げようとするが、体が石になったように動かない。
「うがぁ・・・!」
彼のアニマが私の中に侵食してくる。砂漠の荒野を越えてフォーゲラングにたどり着く私たち、砂漠のメガリスで空の棺を発見する私達、コーデリアが、あの子がアレクセイ一味によって嬲られ殺され、ウィルが号泣する。そしてモンスターからウィルを守るために私は・・・。
「大丈夫ですか?」
彼が心配そうに水を差しだした。恐る恐る水を口に含み、乱れたアニマを整える。
「これは未来かい?」
「いえ、限りなく未来に近い予測です。別にコーデリアさんをアレクセイ一味に潜入させる必要はありませんし、あなたが死ぬ必要もありません。いや、正確には戦わないという選択肢もあるのです。確実なのはあなたがあの術を使えば死ぬということ」
「私が死ねば、もうウィルはエッグに振り回される事は無いのかい」
確認したいのはそこだった。やがてタイクーンにもなれるだけの素質を秘めた甥をこんなところで潰すわけにはいかない。だが、ジャン殿は首を横に振った。
「谷底に落としても無駄です。エッグのもっとも厄介な点はため込んだアニマを消費して空間を渡れる点です。あれを倒すためにはクヴェルを術的アプローチで壊すか、強固な殻を物理的な手段で砕くか、あるいはアニマの浸透をほぼ完全に防ぐ鉛の箱に閉じ込めるか。
残念ながら一回目は手伝えません。二回目も無理です。ですが三回目、今から約40年後に問題を解決することをお約束します。これを」
差し出された一通の手紙。
「あなたからでもポールさんから構いません。ウィリアム・ナイツに息子が10歳になったら開封しろと渡してください」
「その前に開封したらどうするんだい」
「ニーナさん、この手紙空けたいと思いますか?」
中身は気になるのに開封する気にはなれない。
「一種の暗示です。その時期になったら、彼はあなたたちが渡した手紙の存在を思い出すでしょう。アニマの研究を突き詰めていけば、エッグと同じようなことはできます。もちろん、あなたはこの事を誰にも話せないように暗示を掛けました。万が一エッグに触れられた場合、読み取られる前に死にますし、旦那さんにもウィリアム・ナイツにも話そうと言う気にはなりません」
術やアニマは術不能者を除けば普通のものだ。獣や音の術法の中には、精神に作用するものもあるが恒常的に効果を発揮させることは難しい。これから対峙するエッグは、これ以上の事ができる。ゆっくり、静かに社会に浸透する事ができる。
「それで、あたしはどうしたらいいんだい」
「この指輪を」
差し出された赤い宝石、水と火、獣のアニマを感じる。
「その術を使っても運が良ければ即死を免れます。肌身離さず見に付けておけば、1年くらいは生きる事ができるかもしれません。後はあなたに任せます」
この子はナルセスでもウィルに会うためでもなく、私に会うためにグリューゲルに滞在していたのだ。
「あの子は長く生きられるのかい」
「多分80年以上は。多くのアニマが流れないために、三回目で止めなければならないのです。人間は愚かで殺し合いもしますが、訳の分からない古代の亡霊に踊らされるために生きているわけではないはずですから」
あの実験の失敗で引退せざるを得なかった。だけど研究は続けたことに意味はあった。やはり母親として自分が成すことはウィルの為に死ぬことだ。
1239年
「ウィル、この指輪をお守りとして持っていなさい。そうだね、女用だからコーデリアに渡してもいい。まだ残っているはずだ」
「はい」
指輪を身につけていたおかげでテルムの家に帰る事ができた。だけど、指輪の力を全て使い切る前にこれから様々な困難が待ち受けているであろう甥・・・いや息子達に。
「ポールに預けてあるが、お前に息子ができて、その子が10くらいになったらその手紙を開けな。何が書いてあっても怒るんじゃないよ」
「はい」
「後は・・・今まで生きてくれてありがとう。お前はナイツのいや私達の自慢だよ」
ポールには既に言いたいことは全て言った。後は危ないことはせずに綺麗な嫁さんを貰って・・・無理だね。ナイツは秘密やら不思議やら未知に弱い一族だから。
「ちょっと疲れたよ」
元気でね最愛の旦那と最愛の子。
「母さん!」
さて、先に逝った義姉さんに自慢をしてやろう。私達の息子は人知れず兄さんと世界を救うんだと。
ウィルの次回の登場はウィル対エッグがある1257年でちょいと出ますが出番としては1270年代に入ってからです。ニーナに子どもがいなかったの件については件の術の副作用であるという設定。鋼の錬金術師の師匠の設定に似てますが、女性の場合、アニマへの影響は子宮に来ると考えています。何故なら子どもという異物との接触が出てくる器官だからです。この設定はソフィーやマリーの病気にも関わる事です。本筋的にはあまり重要ではないのですが。
ジャンが秘密をペラペラ話したのはニーナが死ぬ定めだからです。それでもウィルの為に死を受け入れたのは親だからとしか言いようがありません。親子関係はこのシリーズで後何回か出てきます。親は子に何を残すのか。
あとコーデリア生存しました。本筋じゃないからどっちでも良かったのですが、別に彼女が生存してもラベールに軍配が上がる可能性もありますし嫁が二人でも問題無いんですけど、その辺は本当に本筋じゃないので。
ジャンの渡した手紙は、よくファンタジーで使われる強制と契約の概念を含む証文(ギアス・スクロール)の一種で、ナ王家とジャン系ユジーヌ家は1240年代からこれを使用しはじめます。もちろん、触れただけでコントロールするほど強制力のあるものではありませんが、国内や対外での条約などに恐ろしく効果を発揮します。まあ、①同意する②署名するの二つの記述が無い限り問題はないです。
と言うわけで次回から世界規模での歴史改変です。ある意味ここまでがプレリュードでした。