注意書き
不快にさせる表現、展開が出てくる 可能性 があります。
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一話 前篇 ストーカーが風邪をひくと、対象者は肉まんを半分だけ食べられる
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「電話にすべきか。直接誘うべきか。とにかくそこが問題だ」
自室のベッドにうつ伏せに寝っ転がり、壁掛け時計を睨み始めてから、すでに一時間と三十分が経とうとし。長針と短針は九時三十分を表している。
ウムムとうなる。今度は仰向けになり、ぎょろりと目をむいてみる。事態は好転せず、進展せず。
九時三十一分
時間だけが我関せずと進む。このままでは電話をかけるにしても非常識な時間となってしまう。
しかしここは慎重にならざるを得ない。この告白はこれまでの学生生活の集大成。将来の自分を左右するだろう。
勇気がないというわけではない、と思う。
背を押してほしいだけなのだ、たぶん。
そうだとひらめき、一階廊下の電話機が乗っている棚から連絡網を取ってくる。
うつ伏せになり、ずらずらと樹形図のように並ぶ名前をながめ、相談相手の候補として数人をピックアップ。
梅原正吉
小学校からの親友である。長い付き合いだし、馬が合うと言うか。とにかく仲が良い。どの位仲が良いかというと、お宝本を共有し合うほどである。それはつまりお互いの性癖を把握しているということで、なかなかこういった人物は得がたいのだ。阿吽の呼吸なのだ。信頼おける人物で、面と向かって伝えたことは無いが、親友という言葉を使って人間関係を表せるのはこいつだけだろう。
惜しむらくは、こいつには女性経験が無く、的確なアドバイスはまったくこれっぽちも期待できない。
桜井梨穂子
今度は幼稚園からの幼馴染である。やや天然で頼りないが、裏表がない。純真なやつだ。食欲に意識を向けているだけかもしれないが、この件についてからかうようなことはしないだろう。真摯な答えを期待できる。ぽーっとしているのも、この状況では逆に助かる。うまくごまかしつつ相談できるだろう。
惜しむらくは、この時間帯である。食事を済ませ、満腹感からくる睡魔に身を委ねている可能性が高い。電話なら今日中にせねばならんのだ。
棚町薫
中学一年からの悪友である。男勝りの性格というか、姐御肌。さばさばとした性格で、気持ちの良いやつだ。学校ではよくいじってくるのだが、こちらが本気で悩んでいるということを伝えれば、同じだけ一生懸命になってくれるだろう。おしゃれでセンスが良いのも助かる。その方向に迷った時は、意見を聞こう。
惜しむらくは、本気になりすぎた場合のいきすぎたアフターケアである。おそらく、しつこくその後の経過について根掘り葉掘りは目に見えている。
最後に自分の家の番号を見やる。
美也
我が妹である。まんま肉まんを対価に求めてくるだろうが、その程度で問題が解決するのならば安い物である。血を分けた兄妹ということもあり、抜群の安心感である。何がかはわからないが、ともかく家族の絆は偉大なのだ。力になってくれるだろうという無限の可能性を秘めている。
惜しむらくは、その家族の絆に賭ける期待値の低さである。天文学的であると思われる。なによりはずかしい。
「というか的確な答えが返ってきたらイヤだ」
妹に恋愛について講釈をたれられるのは精神的に苦しい。
そしてロクな相談相手がいない。全滅だ。
再びごろりと仰向けになる。幾度目か。
他に信用に足る人間関係を築けている人物の名前は、残念ながらない。
しかし背に腹はかえられぬ。ここは恥を忍んで親友に判断を仰ぐべきか。いや。
部屋を出て、そろりと階段を下り、電話機の受話器をとる。リビングからは音楽番組がかすかに流れてくる。
ボタンを押し、数回のコールののち通話。
ここは女性の意見を取り入れるべきだろう。
『はい棚町です』
よかった、薫だ。口元に手をあて、声をひそめる。
「ぼくだ。実はちょっと相談があってな」
『なに? というか声小っさ』
「おまえは大きいからバランス取れてる。そんなことより薫、ぼくは――」
口を開きかけたまま、固まる。どうしよう。勢いで相談してみたものの、正直告白する事実を知られたくない。
「――易き道を行くべきか、難き道を行くべきか」
なんだかテンパッて意味不明なことを言ってしまった気がするが、状況が状況ということもあり、よくわからん。こっちはかれこれ二時間ほど前から心臓は高鳴りっぱなしなのだ。
素っ頓狂な声の後。 『いやちょっとよくわかんないけど、楽な方がいいんじゃない?』
なるほど、簡潔に自分の考えをまとめるその手腕には恐れ入る。ぼくに残された時間を考慮してのことだろう。以心伝心というやつだ。頼りになるやつ。
『それと、こないだあんたから借りたCD、気に入ったわ。別のアルバムあったら貸してくんない? うん? あれ、ちょっと、もしもーし』
ありがとう、薫。汗でじっとりとした受話器をそっと下ろす。ぎゃーぎゃー聞こえるが気のせいだ。気にしてはいられない。
善は急げ、さっそく彼女のダイヤルをプッシュしようとし。いやまて、少しおなかの具合が悪い。先にトイレを済ませることにする。腹痛のあまり噛んでしまっては元も子もない。
「……ふう」
結局トイレに行った意味は無かったが、精神的な余裕は出てきた。ついでに歯磨きも済ませた。不備は無い。再び受話器を上げる。美也と両親はまだテレビに釘付けだ。
それとなく聞くことに成功した彼女の家の番号を半分まで押し、いや待てよとポケットからカンペを取り出し、チェック
推古に推古を重ねた洗練された文章。すばらしい。
ご両親が出てきた場合のセリフもばっちりだ。
グビリと大きく喉を鳴らし、今!
「あ、もしもし」
奇跡だ、彼女が出てくれた。想いが通じ合っているかのようで。勇気を振り絞る。
カンペのことは頭から完全に抜け落ちていた。なんて誘ったのかも覚えていない。
酷く噛んだ。
しかしそれでも彼女は笑って了承してくれたことは覚えている。
あっという間。
受話器を置き。一息つき、ふと喉がカラカラなことに気がついた。一階のキッチンに向かい、コップになみなみと水を注ぎ、一気に干してしまう。当然腰に手を当てる。
徐々に感覚が戻ってきた。
うまい、ンますぎる。ただの水道水がまるで、雪どけ水のようだ。よくわからんが、そうなのだ。涙が出そうだ。
喉を通った十二月の水は冷たく。先程までのたぎった心理状態をほどよく冷ます。とうとうぼくはやってのけたのだ。
「だが今は、この心地よい達成感に身を委ねるのも悪くない……」
物憂げに溜め息をつくと、視界の端に人影が。顔を向けてみれば、ピンクのパジャマ姿の美也。ショートカットの髪をいじったまま固まっている。
相変わらず貧相な体つきだ。
そんなどうでもいいこと考えながら、視線を外す。喉はまだ乾いている。二杯目を飲もうと蛇口に手を伸ばし、ハッとしてもう一度美也に振り返った。二度見である。まさかとは思うが、先程の恥ずかしいセリフを聞かれてしまったのではないだろうか。いやまさか。そんなまさか――
再びがっちりと視線を交わした後、美也は黙って階段を上って行った。ドアのしまる音が聞こえる。時間が時間だ。就寝するのだろう。
よかった、聞かれていなかったようだ。きっとそうだ。そのようだ。
そう決めつけて、吹き抜けの階段を上がり、ぼくも自室に戻る。ベッドに入り、毛布にくるまる。
グフフの含み笑いがこらえきれない。まだ心臓がバクバクする。
というより、明日も学校だ。顔を合わせるのが恥ずかしい。いやどう接すればいいのだ。昨日はありがとう? なんてガッついているようでみっともないような気がする。かといって、まったくその話題に触れないのも、どうだろう。冗談だと思われてはたまったものではないぞ。
寝がえりをうち、これは詮無きこと思考を切り替える。早く寝よう、この大切な時期に風邪なんてもってのほか。体調管理はしっかりしよう。
しかしそんな理性とは裏腹に、本能は彼女とのイブのデートにあれこれと思いをはせた。
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硬質なベルが鳴り響く、人間の三大欲求を害されるのは非常に不快で、音源であるアナログ目覚まし時計を手さぐりでバシバシと叩く。
だが現代の利器は人間を社会の歯車にはめ込む為、スヌーズ機能とやらが組み込まれており、しぶとく起床を迫る。
意識が徐々に浮かび上がり、昨日の出来事が浮き彫りになる。毛布をはねのけ、ベッドの上ですっくと立ち上がる。
すごい、うれしい。夢のようだ、昨日の出来事は。
思わず、脳裏に電話をかけるシーンから再生すると。
「にぃにー早くしないと学校遅れちゃうよー」
美也の奴め、今行こうと思っていたのに。余韻が台無しである。だが許す。この幸福を誰かにもおすそ分けしてあげたいほど、今は頭の中がハッピーで詰まっているのだ。
手早く制服に着替え、リビングへと向かうと、すでに両親は仕事に出かけたようで美也が一人で朝食を取っていた。
「おはよう、美也」
「おはよう、ってにぃにどうしたのその顔」
若干引いた口調からすると、なにかついているのだろうかと頭を巡らせ、合点がいった。目の下をさすり、やはりかと答える。
「クマ、できてるか? まあ昨日はなかなか寝付けなかったからな」
「ううん全然。いつも通り、ばっちり快眠したみたいだけど。それより、ニヤニヤしちゃって、ちょっと不気味だよ」
言ってくれる。単に頭の中のハッピーが顔ににじみ出ているにすぎないのだ、今の表情はたぶん。
しかし許す。許そうではないか。この心に溢れる暖かな感情は、他の負を飲み込む。
「そうか? いつもと同じだろ? 別に何も変わらないすばらしい朝じゃないか」 とテーブルに着く。腹がへっては戦はできぬ。さあ一日の活力を蓄えよう。
さて、今日の朝食のおかずは半分ほどかじられたプリプリのソーセージ一本と一切れのふわふわ卵焼き、我が家こだわりの合わせみそを使った具のないお味噌汁が半分ほどである。わあおー。
「少ないよ! あまりにもあんまりだよ、もういっそソーセージに関してはひと思いに食べつくせよ!」
「みゃーじゃないよ」 小さな口で咀嚼して答えた。
「他に誰がいるんだよ! お母さんはぼくにこんなに辛辣じゃないよ、もちろんお父さんもそうだよ!」
今日はデートに誘った女の子と顔を合わせなければならないのだ、これはかなりのエネルギーを必要とするだろう。よって今日の朝食は何としても食べなければならないのだ。
見ればまだ美也の小皿にはおかずが残っている。奪われたなら、奪い返すまでだ。
お箸を構え、ひょいとぼくの皿へと移しかえようとし、美也はそれを防ぐべく手で払いのける。それが当然の権利のように。
「にぃにがすぐに起きてこないからだよ」
にししと笑って言った。だがバカめ! こっちは囮、本命である左手で小皿ごと引き寄せる。
「悪いな美也」 今日のぼくは一味違うのだ。特別なのだ。絶対に譲らないのだ。
「だが今は、この心地よい達成感に身を委ねるのも悪くない……」
いただきまーす、とあんぐりと開けた口にソーセージを運んだところで、眼だけを向ける。美也はあさっての方向を向き、お茶をすすっている。
ばかな……そんな。この鼻孔をくすぐる香ばしい匂いとおさらばしなければならないなんて。
「食べなさい。美也は育ちざかりなんだから、いっぱい食べないといけないね」
小皿を返す。
「だが今は、この」
箸ではさんでいたソーセージも返す。
だから妙に声のトーンを落としてぼくの声真似をするのをやめなさい。
「うむうむ、素直でよろしい。昨日のことはすっかり忘れちゃったよ」
遠慮のかけらも見せずに卵焼きをぱくつく妹を横目に、歯型のついたソーセージを一口。
自然と視線は冷蔵庫に注がれる。
「みゃーのまんま肉まんだからね」
「半分でいい!」
「だーめ」
箸を置き、目頭を揉む。
……許そう。よくよく考えれば、朝に食べすぎるのは良くない。もしも学校でおなかが痛くなったりすれば……考えただけでぞっとする。
くそう。
「じゃあ、ぼくはもう行くからな」
「ええっ、ちょっと待って、一緒に行こうよ~」
「いやだよ、今日は急ぐんだ」
ふごふごと頬ばった口を必死に動かして反論しているようだが、美也。欲張りすぎた自分を呪うのだな。
顔を洗い、歯磨きを済ませ、いってきます。
ドアを開け、空を仰ぐ。雲ひとつない空。快晴である。冷たい空気は澄んでおり、吸い込めば凛とさわやかだ。
んぁあ、まるで世界がぼくを祝福しているかのよう。
昨夜の電話を思い出し、顔がほころぶのを自制する。道行く人々に元気にあいさつしてもいいほど気分が良いが、やめておこう。最近、不審者が多いらしい。生徒を執拗に付け回す怪しい人物を見たという目撃情報もある。
噂では斜度20はあると言われるほどの校門前の坂道もこころなしか楽だ、かろやかに歩みを進める。と、背後から声が投げかけられた。
「よ! 大将。ごきげんだねぇ。なんか、いいことでもあったのか」
このべらんめえ口調で威勢よく話しかけてくる短髪の男。梅原正吉である。寿司屋のせがれで将来有望である。ぼくはイカが好きだ。
「いや~出てる?」 幸せオ―ラ出ちゃってる~? と尻上がり口調で言おうとして、それがひどく残酷なことに気がついた。開きかけた口を閉じる。
梅原、まさかおまえの親友が女の子とクリスマスデートの約束を取りつけたなんて知ったら……
きっと正気ではいられないだろう。
なかなか言葉を発しないぼくを怪訝な顔で見つめ返すさまは、そう。まるで子羊のようだった。親友としていずれは伝えるべきだろうが、今はまだ早いだろう。耐性のない彼には些か刺激が強すぎる。
ぼくは何てことはないさと、物憂げに言った。
「そんなことより、ほら。遅刻するし、急ごうぜ、な。梅原、おまえにもいつかいいことあるって」
「いやいや、おれにはわかるぞ」 ずずいと顔を近づけ、耳元で囁くように言った。 「上等なお宝本でも見つけたんだろう」
「悪いな、ぼくはもうお宝本は卒業したんだ」
そう、ぼくにはもう必要ない。そればかりか、それを楽しむと言うことは彼女に対して不誠実だろう。まだ付き合っているわけではないが、ぼくのプライドがそうさせるのだ。
「どしたの大将、なんか変」
もう、同じ目線でものを語ることはないのかもしれない。お腹周りの肉付やストッキングの魅力について一晩中語り合ったあの日が走馬灯のように脳裏に描かれた。
そう思うとぼくの心に罪悪感が頭をもたげる。
梅原。もしも困ったことがあったら、遠慮せず言ってくれ。全力で応援するよ、恋愛経験者としてね。
「行こうぜ梅原。我らが学び舎に」
気味悪がる親友の肩を無理矢理に組み、登校を急ぐ。人生って素晴らしい。
入学当初から欠かすことのない習慣。ゲタ箱チェック。胸をなでおろす。よかった、いつも通りラブレターは入っていなかった。今日という日に受け取っていたら、その子には辛い思いをさせるだろう。
きっとその子は一生懸命、何日も前から文章を考えていたに違いない。下書きし、清書し。それでも納得いかなくて書き直しているうちに手紙が足りなくなり、新たに買いに走ったりもしたのだろう。
わかる、よくわかるよ。ぼくもお誘いの電話の文章を考えるのに苦心したんだ。でもその経験は決して無駄にはならないはずさ。だからごめん。そして――
がんばれ。見知らぬ女の子。
「……大将、なんか気持ち悪いぜ」