黄金暦87年 4月某日
いつものようにカウンターで呑んでいた時だった。
隣に、よく見かけるが話したことのないおっさんが座った。
「トランブイ。ロックで」
おっさんは注文すると
こっちみんな!
吹くかとおもった。
……やべ、目があった。
「ビースト君、よくその席で呑んでいるね」
なんで俺の名前知ってんだ。あ、そうかこいつ、医者だ。医者はよく医者とつるんでるからなあ……女医経由で俺の名前聞いててもおかしくないな。
それからしばらくは、お互い静かに呑んでいたが
「ビースト君は巨乳派?それとも貧乳派かな?」
「はっ?えっ?」
前振りもなくいきなりこれだ。口になんか入ってたら吹き出してるところだった。
俺が咄嗟に答えられないでいると、おっさんは構わず語り始めた。
「私はそうだなあ、どちらを美しいと感じるかと言う意味では巨乳派かな。間近で拝んだり触ったり出来ると言うなら、巨乳だよね。もっとも女性の胸と言うのは、どのサイズでもそれぞれに尊いもんだ。たとえば、二次性徴が始まって膨らみかけの、角度で言うと145度ぐらいの曲線と言うのはね、それは美しいもんだよ。神秘的だ。なんというかこう、崇拝の念が沸きあがってくるね。でも女性の好み、という論点では正直バストはどうでもいい。それよりも体臭に敏感で、特に自分の体臭を気にしている潔癖な女性に魅力を感じる。香水は柑橘系。体型は小柄で、寝室まで抱いて運べるぐらいが理想だね。欲を言えば体毛は薄いのがいい」
……これは(精神のほうの)医者を呼ぶべきだろうか。
俺がネタなのかマジなのか判別に苦しんでいると、おっさんは注文した酒をちびりちびりと、けちっぽく呑みはじめた。俺の反応は見ていない。
さすがは(悪い意味で)有名な医者だ。こっちの都合なんてお構いなしだ。
俺は、今夜は早々に切り上げてもう寝ようかと思い始めた。すると
「もう席を立つのかい?ここは私が奢るから、そのかわりに少し話し相手になってくれるかな、ビースト君」
エスパーかこいつ。
俺は悩んだ。正直「イエピー先生あたりと勝手に呑んでろ」と思ったが、『酒を奢ってもらえるときは断らない』のが冒険者だ。
「……じゃあ、木樽40年。いいんだな?あとで別会計とか言い出したらはったおすからな」
俺は、普段はあまり呑まない、というか呑めないような高いのを注文した。乗ってやろうじゃないか。
するとおっさんは、えらい嬉しそうに笑いやがった。
「マスター、47年産のオークをボトルで入れてくれ」
マジかよ。マスターが俺に「書け」と、木の名札とペンとインクをよこした。おい、俺ボトル入れたことなんてねえよ。
「いいよね?私の話を聞くということで」
おっさんのこの嬉しそうな顔!
しまった……タダより高いものはないんだった……。
「それで、ビースト君は巨乳のほうが好きかな」
さっきの質問だ。俺は一瞬、『具合的な』とある巨乳が思い浮かんで、それを頭から振り払った。
景気付けに酒を煽る。すげえ、喉がビリビリしやがる。いつもの安酒とは違う。
「デカすぎるのはどうかと思うが、まあそうだ」
そりゃあ、大きいのと小さいのだったら、大きいほうだよな?
「私も基本は巨乳が好きなんだ」
おっさんはまたけち臭く酒を呑んで、間を置いた。
「じゃあ君が、ある女の子といい感じになったとしよう。むこうもその気で、そうなれば当然、親密なる次のステップに進もうってことになる。ところがその子が裸になったらだね。普段の胸は詰め物で、実際は貧乳を通り越してえぐれていたとする。ついでに、髪の毛のほうも偽物で、スキンヘッドだった。ここでさあどうぞ、って言われて、君だったら行ける?」
わかるかよ!そんな事態なったことねえよ!いやそれ以前だよ!
「すまんおっさん、話の意図がわからん」
俺は話を別の方向に持っていこうとした。
「未経験だとイメージが湧きにくいかな?」
「てめえ!」
あーはいそうですか、おおかた女医が言いふらしたな。
「実はこれ私の実体験なんだ。なかなかここまで極端なことはないよね」
マジか。
「ちなみに私には無理だった」
あー、うん。コメントしづらい。
「相手も済まないと思うんだろうね、無理させてごめんなさい、見たくないもの見せちゃってごめんなさいって、泣いて謝られてねー。ね、こういう時って、どうしたらいいんだろうか?」
だから俺に聞くなよ!わかんねえよ!つうかどんな修羅場だよそれ!
「まあ私の妻のことなんだけどね」
「ブフォッ!!」
絶対わざとだ。こいつはわざと俺を吹かせようとしてる。
「これね、家内と撮った写真」
おっさんはそう言って、嬉しそうに手帳から写真を取り出した。医者の手帳ってすげえでけえな。そんなにみっしりスケジュール入ってるのか。
にこにこしながら、おっさんは俺に見えるように写真を置いた。
「すごくいい笑顔だろう?お気に入りなんだ。これ私ね。あー、若いなー」
俺は、コメントできなかった。
写ってるおっさんは、たしかに若い。この頃からおっさん顔ではあるが、たぶん、今より10歳は若い。
一緒に写っているのが奥さんなんだろうけど……
俺には、老婆にしか見えなかった。
それに、シロウトの俺でもわかる。老婆に見えるけど、実際の年齢はたぶん、「老人」って年齢じゃねえ。
病気か、呪いかはわからないが、なんか大変な事情があるんだろ。
写真の中の若いおっさんは幸せそうだった。
幸せなのか?
俺にはわからねえ。おっさんのさっきの話が本当だとすると、この奥さんが、その……おっぱい詐称の人なんだよな?
――実際は貧乳を通り越してえぐれていたとする。ついでに、髪の毛のほうも偽物で、スキンヘッドだった。ここでさあどうぞ、って言われて、君だったら行ける?――
無理だ。俺にはそんな度胸ありっこない。
まてよ、おっさんも無理だったって言ってなかったか。
「……おっさん、聞いていいか」
にこにこと写真を眺め入っているおっさんに俺は聞いた。おっさんは嬉しそうに頷いた。
「あれは23年前」
「ちっとまってくれ」
23年前?今おっさん何歳だ。
「本当は48歳だけどめんどうだから28歳。もうじき29歳」
やっぱり
医者は
息をするように
嘘をつく
な。
俺の表情に気がついたのか、おっさんは「これから話すのは全部じ・つ・わ」とウインクした。キメエ!
「私は研修医だった。研修が最終段階に入って、私は師匠に当たる先生といっしょに、ターミナルケアに入った」
ターミナルケア。聞いたことがなかったが、俺はある意味、知って後悔した。
もうじき死ぬとわかっている患者や老人の、死に面した苦しみやストレスを緩和する医療。治すための医療ではなく、せめて最期は苦しまずにいけるように、「死を手助けする」医療。
もう、この先の話に、嫌な予感しかしなかった。
なのにおっさんは、嬉しそうに話しやがる。
「私はそこでシレーヌと出会った。あ、シレーヌってうちのの名前ね」
なんか強そうな名前の奥さんだな。
「そう?んー、確かに、魂は強いよ、うちのは」
奥さんを誉められたと思ったのか、おっさんはさらに嬉しそうに笑った。
「ターミナルケアはね、病人は思ったほど多くないんだ。患者の多くは、一人暮らしで孤死の心配のある老人なんだ」
孤死。またあんま知りたくなかったような専門用語の知識が増えちまった。
――私は、たまたまシレーヌと一緒に定期訪問する班に入った。
シレーヌは医者でも看護婦でもない、ただの入院患者だった。
知っているかな、病気によってはね、医師か看護婦と一緒じゃなければ外出できない、そういう人がいるんだ。
シレーヌはそうだった。だから、医者が訪問看護に行くとき、そこに同行することで、貴重な外出が出来るんだ。少ない医者で多くの患者を「回して」いくための工夫だよ。
シレーヌは老人の話を聞くのが上手くてね。回ると、どの家でもなかなかシレーヌを手放そうとしなくて、同行の私たちは、老人がごねるのをなだめるのが仕事だった。
私のターミナルケア研修は、2週間で終わる予定だった。あした研修が終わるという夜、私はシレーヌからラブレターをもらった。
かわいいラブレターでね、四葉のクローバーが入ってた。でも、患者からラブレターをもらっても、私は研修医だからね。
正直こまって、師匠に相談したんだ。
そうしたら師匠に「返事は絶対に出しなさい」って、きつく念を押されてね。絶対になかったことにしてはいけない、答えを出しなさいって。
師匠はターミナルケアが専門だった。それに師匠なりの哲学でね、ターミナルケアには「恋愛」がとても重要だと言うんだ。
「死」という、目の前に広がる膨大な孤独に立ち向かわなければならないとき、人が最後に頼るのは、医者でもなく、薬でもない。家族や、愛する人だ。
でも、患者の多くは、既に家族がいない。どうするか。
そこで師匠は、患者の老人に「恋愛しなさい」って教えるんだ。
老いらくの恋とはいうけれどね、老人が恋愛することに、周囲も、老人自身も、抵抗がある。その心を開かせて、死に向かう最後の道を歩くのは、あなた一人じゃないんだと気付かせること。これがターミナルケアなんだとね。
そんな師匠だから、私も言われたよ。
「医者と患者と言う考えは捨てなさい。一人の男として、彼女を好きかそうでないか、その答えを出しなさい。どうしても無理だと言うなら断ってもいいし、同情して表向きOKするというなら、それもいい」
参ったよ。私はその時、本心では、断る口実を師匠に求めていたんだ。自分の責任でシレーヌを傷つけるのが恐くて仕方がなかった。何より私は恋愛経験値が少なかったからね。童貞だったし。
俺は吹いた。
「ビースト君はいま22?それとも23かな?心配しなくていいよ、私は25まで童貞だった」
そういっておっさんは手で「2」「5」とジェスチャアをした。
「おっさんまさか、脱童貞したのって」
「結婚してからだよ」
マジか。
じゃあさっき言ってた「私には無理だった」って……
――結局私は、シレーヌを傷つけるプレッシャーに負けてしまってね。
NOと言えなかったんだな。それに、シレーヌの病気を知ってたからね。当時の診断は、もってあと2年だった。
同情したんだ。師匠は医者の立場を捨てて考えろと言ったが、無理だった。医者としてシレーヌを助けなければと思った。
それから私たちは付き合い始めた。私がターミナルケアに来る日は、先生先生と(そのころのシレーヌは私を先生と呼んでいた)ずっと私の後をついてきた。
シレーヌは私に編物をいろいろ作ってはプレゼントしてくれた。セーターとか、帽子とかね。
オフの日は公園に行ったりもした。
そうすることで、一人の患者の助けになればいいと思ってね。
まあしかし、研修医はとても忙しくてね。実験、レポート、師匠の論文の手伝いと、自分の博士論文。正直寝る間もなかった。
私は自分自身のことで疲れ果ててしまって、シレーヌまで余力が回らなかった。
あの夜も私は、師匠の論文を手伝うため、一人で徹夜していた。師匠の手伝いだから、その日はターミナルケアの研究室にいたんだ。
深夜のちょうど今ごろだよ。ノックされて、誰かと思ったらシレーヌだった。びっくりしたね、規則を破る子じゃなかったし、まさか私に会うためだけに来たとは思わなくてね。なにか事件でもあったのかと思ったよ。
シレーヌは夜食を持ってきたと言ってね、クッキーを差し入れてくれた。私は知ってたが、ご両親がその日の見舞いに持ってきたものだった。でも私は、この忙しいときに面倒ごとを増やされてうんざりとした気持でいっぱいでね。シレーヌが邪魔だった。患者だから手荒くは扱えないぶん厄介なやつが来たと、そんな風に思っていたんだ。
顔に出ていたんだろうね、シレーヌは「とても疲れているようだから、少し眠って」と言った。休みたいのはやまやまだが、こっちは仕事が溜まってて徹夜しているわけだからね。
はやく帰ってくれないかなあと思って、もう無視することに決めたんだ。椅子に戻って、背を向けてね。
なんだか背後でもぞもぞ音がするなと思っていたら、いきなりシレーヌが私の頭をね、後ろから抱いたんだ。「こうすると疲れが取れる」って。
それで私はついに「ふざけるな」って、怒鳴ってしまってね。振り返ったら、シレーヌは寝巻きを全部脱いで、裸で立ってた。下着もだよ。全裸。私のほうがパニックになった。
シレーヌの体のことは分かっていたつもりだけれど、憶測と視覚で確認するのとでは、全然違う。悲鳴をあげそうになった。
女性の体以前に、人の体として、正常な部分がないんだ。私はまず恐怖を感じてしまった。
おなかがね、内臓の重みを支えていられなくて下垂しているんだよ。胸に至っては、心臓が動いているのが、皮膚の上下でね、見えるんだ。自立して歩ける筋肉が残っているだけでも奇跡だと思うよ。
シレーヌはね、私の師匠が「なるべく服を通さず、直に心臓の音を聞かせると、人はリラックスしてストレスが緩和される」って言ってたのをやろうとしたんだ。
私はと言うと、完全にテンパっていた。ふざけるな、服を着ろ、こんなことをして問題になったら、私が処分されるじゃないかとね、完全に八つ当たりだ。
仕事を邪魔されたことより、シレーヌの異常な体を受け入れられなかった。
それで、シレーヌを泣かせてしまった。シレーヌは床に座って、ごめんなさいごめんなさいと繰り返してた。
しばらくすると私も冷静になって、まずシレーヌに服を着せた。その間もシレーヌはずっと謝っていた。
「先生が一人で苦しんでいるのをみて、力になりたかった。私はあまり長く生きられないから、せめて残りの命は人の役に立つことをして、生まれてきた価値を見出したかった。先生が研修に来て、一緒に訪問に行ったとき、先生はたった一人でなにかと戦っているように見えた。だから、私が恋人になって、先生を支えたいと思った。とても大それたことのような気がして、ずっと決心がつかなかったけれど、このまま死を待つよりも振られて傷付くほうがいいと思って告白した。OKしてもらえて、すごく嬉しかった。私のようなもうすぐ死ぬ人間でも人を好きになっていいんだって、嬉しかった。でも、私は先生の力になれなかった。むしろ重荷になってしまった。ごめんなさい。こんな病気の体で、ごめんなさい」
見方を変えればなめられていたとも言えるのかもしれないけどね。そのときのショックと言ったらね。
腹が立ったんじゃない。自分がどれだけ奢っていたか、上から見ていたか。見せ付けられたよ。
病気はシレーヌのせいじゃないんだよ?それなのに「病気の体でごめんなさい」って、一番苦しんで、一番恐ろしい思いをしているのはシレーヌ自身なのにだよ。
私は医者になどなってはいけない、そうまで思った。本当に同情するべきでかわいそうなのは私のほうだったとね。
シレーヌはずっと泣いていた。
「私のような病人が、誰かの力になろうなんて、最初から思っちゃいけなかった。ごめんなさい。でも、先生は沢山の人を助ける事が出来るから、先生の力になる事が出来たら、つまらない私の命でも、沢山の人を助けることに、少しでも貢献できると思ったから」
ね?医者失格だろう?病人にそこまで言われるなんてね。私はシレーヌよりもずっと心が病んでいたんだ。その時初めて、いかにシレーヌが強くて立派で美しい、素晴らしい女性だと気がついた。
それでね、こんな素晴らしい人に、そばにいて欲しいと思ったんだ。価値が逆転する瞬間だよ。その瞬間、「彼女と結婚しよう」って決めたんだ。
それからは、物の見方ががらりと変わったよ。
患者はみな「戦士」だった。医者は、その戦いをわずかに手助けできる、それだけの存在だ。
戦いを制して、「英雄」となる患者もいる。でも多くの戦士は、運悪く命を落とす。しかし、戦いからは逃げられない。
だったら、医者は戦いのための剣や鎧となって、最期まで一緒に戦って、戦士がいかに勇敢に戦ったかを伝えるのが役目じゃないかとね。
「それで、シレーヌさんは?」
「すごいだろう、私たちの結婚生活は4年も続いたんだ」
おっさんは、それでも嬉しそうだった。
俺にはわからない。シレーヌさんは死んじまったんだろ?愛してたんだろ?なんでおっさんはこんなに幸せそうなんだ。
「私も君も、必ずいつか死ぬ。それは絶対だ。いつ死ぬかもわからない。明日かもしれないし、明後日かもしれない。だから、生きている間に、幸せになることは何も悪いことじゃない。私は今、シレーヌの見ていた世界が見えるんだ。眠りに入る瞬間、このまま目が醒めないかもしれない、明日が来ないかもしれない、そんな恐怖に囚われて目を閉じる事が出来ない夜と、朝になって目が醒めて今日があることの喜び。生きているということは、ものすごい数のさいころ勝負を、ギリギリで勝ちつづける事なんだ。シレーヌははるか前から、この世界が見えていたんだ。やっと、やっとだよ、私にもわかったのは。20年もかかったよ。生きている事が、生きているだけで、幸せなんだ。私は、幸せなんだ」
そう言うと、おっさんは残りの酒を、それは旨そうに飲み干した。
おっさんがなんで俺に目をつけてこんな話をしたのかはわからない。
「君が医者に対して抱いている不信感を、少しでも変えられたらいいと思ってね」
おっさんはそう言っていた。いや、医者全体はともかく、アンタに対する認識は変わったよ。ただのカドゥケウス好きな変人だと思ってたよ俺。
いいかげん空が白んで来た頃、俺たちは酒場を後にした。
おっさんはフラフラしてんのかスキップしてんのか分からない足取りで歩いていった。こけてなけりゃいいが。
――生きている間に、幸せになることは何も悪いことじゃない。生きている事が、生きているだけで、幸せなんだ。
生きてる間に幸せになれ、か。俺がおっさんみたいに悟れるまでには、相当時間がかかりそうだ。
それでも、今日はちょっと、昨日よりもいい日になるような、そんな気がした。奢ってくれてありがとうな、おっさん。