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No.30111の一覧
[0] こわがりピエロ(現代、短編読切、百合、若干下ネタあり)[高島津諦](2011/10/23 19:31)
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[30111] こわがりピエロ(現代、短編読切、百合、若干下ネタあり)
Name: 高島津諦◆c82871ca ID:55cecd4f
Date: 2011/10/23 19:31
pixiv、小説家になろうにも投稿しています。感想等お待ちしています。

※自作の短編集スレの方に統合いたしました。



『こわがりピエロ』



 指がふやけた話をしようと思う。
 遊歩道のベンチに座って川のせせらぎを聞きながら、私はとにかく眠いのだった。何で眠いかと言えば、もちろんあんまり寝ていないからだ。
 午前の日差しをきらりきらりと散らす水面が目に痛くて、瞼を閉じるとそのまま意識がカスピ海ヨーグルトのようにとろけ落ちそうになる。あれって普通のヨーグルトと食感違うよねー、とサークルの飲み会で話したら、精液に似てるよねとか笑顔で返されて私ドン引き。いいえケフィアですどころじゃねーよ。一番疑問なのは、何でタカハシくんは男の子なのに精液の舌触りを知ってるのっつーことだった。女の私ですら知らんのに。意外に男って自分の体液を飲んだりしてるの? ごっくんおよよしてるの? それともやっぱり他人のを飲んじゃう関係なの? タカハシくんがそれならそれで私は構わないんだけどさ、小動物系でお姉様はもちろんお兄様からも人気がありそうだから頷けないこともない。ってタカハシくんの飲ザーはどうでもいいんだよ。眠いとロクなことを考えない。
 どうしようもなく眠い。私はどちらかと言えば寝つきの悪い、眠気の来づらいタイプだが、一旦眠気が来るとそれに抗うのが大変苦手だ。一度起きるとなかなか眠れないし、一度眠るとなかなか起きれない、そんな感じ。二十時間起きて十四時間寝る生活リズムが望ましいんだけど、どの惑星に行けばそういう自転周期なんだろうか。「一日に十回の睡眠ができるようになれ!」「次は二十時間起き続け、二十時間寝続けろ!」と脳内でメッシーナとロギンズが言っているのも眠いせいだ。
 何であんまり寝ていないかと言うと、夜が明けるまで起きていたからだ。昨晩は日課のネット巡回をしていて、午前一時頃に宝の山を発見した。宝っつっても秘宝館的な意味で。要するに凄いツボなオカズが沢山あるサイトを見つけてしまった。そっから夜が白み始めるまでノンストップであった。猿である。モンキッキーである。誤解しないでいただきたいが、私は普段そんなに物凄く性欲が強い方ではない。今までこんなことはなかったわけだし。バイオリズムがたまたまハマってしまったのだろうか。面倒だったレポートを提出できたという解放感もあったと思う。そんなわけで、座椅子の上に何枚かタオルを敷いて四時間近く励んだら指がふやけていた。どうでもいいけど男のアレってふやけるの? 指の細胞が生じょっぱい私の雫をすっかり吸いこんでしまったのだなあと思うと、乙女な私はもうこんな汚れた指誰にも見せられないわ! 隠して生きるしかない! となって、まあ隠すならあと一回くらい良いかなと戦乙女は次の戦場に向かったのだった。これも誤解しないでいただきたいが、私は馬鹿だけれど翌日に朝から授業があるのに朝方までそんなことをするほど馬鹿ではない。私が宝掘りというか真珠磨きというかに熱中していたのは、翌日、つまり今日は、唯一の授業が休講になって他の予定も入っていなかったからだ。昼過ぎどころか夕方まで寝る気満々だった。吉田照美のやる気MANMANならぬ島中有美(しまなかゆうみ)の寝る気MANMANだった。
 朝の光と雀の声に、いい加減満足感と疲労と眠気を感じて手を止めた。火照りの残る身体のいたるところが汗で湿っていたが、もはやシャワーを浴びるのは面倒だった。手と顔を洗って、濡れタオルで特に汁気の多い所を拭って、目覚しもかけず万年床に倒れ込んだ。
 そのまま、朝焼けから夕焼けまで、かわたれ時からたそがれ時まで、黄昏よりも昏きものに会うまで意識が飛ぶ、はずだったのだが。
 携帯が鳴らす電子音で目が覚めた。東窓に引いた遮光カーテンの隙間から白く強い光が差し込んでいた。体感的に、どう考えても丸一日眠ったわけではなく、短時間で叩き起こされたらしかった。私は睡眠時間が長く睡眠欲も強いのに肝心の眠りが浅いらしく、些細なことで目を覚ます。眠りが浅いから長く眠らなければならない、非効率的な体質をしているのかもしれない。
 古い木製ドアが開くような呻き声と共に携帯を手に取れば、デジタル表示は午前八時半を示していた。勘弁してくれよ、と思いつつパカリと開くと、ミチカからのメールだった。
 ミチカは、フルネームを星野路香(ほしのみちか)という。私と同じ学部で同じサークル、六割ぐらいの授業は共通していて、昼食もしばしば共にすれば本やCDの貸し借りもする、要するに友達だ。カナダ辺りとのクォーターだからか、目鼻がぱっちりしていて髪の色が天然の茶色でやたら可愛い。甘えん坊の一人っ子。慌てん坊のサンタクロース、裸ん坊の島中有美、って私はシャツとパンツは着て寝てたよ。どうでもいいが私は断然下穿きのことはパンツと言う派で、ショーツなどというスカした呼び名は肌に合わない。デリケートゾーンに合わない。下着会社勤務でもないのにナチュラルにショーツという男子は信用しないと心に決めている。ミチカはショーツと呼ぶがそれは似合っているのでよし。
 軽く吐き気がするレベルの眠さに耐えつつメールを確認する。内容は、休講のはずの講義が開かれることになったらしい、という物だった。マジすか。まじぽか。英検三級の私としては、必修の英語にはちゃんと出て出席点を稼いでおかないとヤバい。しかもその講義は一限で時間的には既にギリギリである。シャワーを浴びる時間はどう考えてもなかった。体中に染みついた汗その他の体液と匂いと眠気を流し落とす時間はなく、一応下着は替えて制汗剤をぶっかけて服を着てミチカに感謝のメールを送り自転車に飛び乗った。その漕ぎっぷりといったら、魔女の宅急便でトンボがプロペラ自転車で飛ぼうとした時に匹敵する。私の背中にでかいリボンが似合う高山みなみボイスの女の子がいないのが残念だった。ミチカにはリボンが似合うが紺色の服を着てる所はほとんど見たことがない。
 急いだ甲斐があって何とか間に合いそうだった。息が上がって強くなった吐き気を堪え、自転車に二つ鍵をかけて教室へ急ぐ。ガチャリと扉を開けて、焦りすぎて教室を間違えたのだと思った。誰もいなかった。いや、前の方の席に一人だけ座っていた。栗毛の小柄な女子。彼女は振りむいて、ニコっとそれはそれは明るく笑って「ユミちゃん」と声を上げ、私は思い切り顔をしかめたのだった。

 ■

 休講撤回って嘘だったわけね、と隣に座って問えば、ミチカは大して悪びれもせず頷いた。ユミちゃんに会いたくなったから、だってさ。会いたくてって言葉は歌詞に使われすぎだと常々思っているのに、ミチカまでそんなことを言うのか。西野カナかよ。会いたくて会いたくて震えてろよ。会いたいから会えない夜にはあなたを思うほどウーウーしてもいいよ。会えない夜にあなたを思うほど一人で励んでたのが私だよ。っていうか一昨日会ったじゃん。急いで来たら喉乾いたでしょ、と差し出されたアイスコーヒーブラック無糖を呷り、カラカラなのは誰のせいだとぼやけば、んふーと何故か満足そうに笑われた。
 ぶっちゃけた話、こういうことは初めてではない。それはミチカが甘えん坊だからで、悪意はないのだと思う。悪意があって騙した上で、こんなに屈託なく私と接しているなら、ミチカは頭がおかしいのか私の目が曇りまくっているのだろう。後者の可能性は捨てきれないが、そうだとしたらどうしようもないので悪意はないとする。それにしたって、無垢な友人を騙すのはよくないことだという一般常識が彼女にはないのだろうか。会いたいから会おうと普通に言ってくれれば、私はそれを断らないのに。こんなに急いで来なくたって、シャワーを浴びる時間もあったのに。そこまで考えて、わ、と恥ずかしくなった。ミチカは割と鼻が良い方である。一緒に食事に行ったりすると、使われているスパイスをあれこれと言い当てる。一方私は香辛料の味は好きだけれど、嗅ぎ分けたりできない、っていうか名前を知らない。セージと言われても、ああモンスターに出会った時に知識判定ができるクラスねとかそんな感じである。私はともかくミチカはそんな優秀な鼻の持ち主なので、だから、つまり、気付かれてるのではないか、と……私の醸し出す物に……。頑張れ! 頑張れ八の段の名を持つ制汗剤! 限界があるけど! あ、ほら、全力で自転車をこいで汗をかいたせいだって言い訳できないかな。それだって十二分に恥ずかしいけど、とりあえず健康的ではあるだろう。スポーツ少女って感じだろう。はじける汗の香り! あれ、あんまり魅力的じゃないぞ、プリキュアっていうより幽白の爆拳様って感じだぞ。あれにはなりたくないなあ、蔵馬のことはいたぶりたいけど。
「ねえ」
 いや好きだよ蔵馬、リアルタイムの頃はイチャイチャしたかったよ、むしろいたぶられたかったよ、蔵馬も冨樫も悪くないよ、私が歪んでしまっただけさ……。
「ねえったら」
「いたっ」
 頬をつつかれて、意識を懐かしくも若干イタい思い出から現在の隣の友達に強制的に向けさせられた。つかマジで痛いんですけどミチカさん。私は胸にも尻にも肉がない代わりに腹にも足にも肉がなくて、ほっぺたもそうだから、ミチカの細い指でそんなに強くつつかれると歯にぶつかって普通に痛い。爪を伸ばしていないのが不幸中の幸いだけどさあ。
「何?」
 頬をさすりつつ尋ねれば、ミチカは不満げに口をとがらせていた。いいですね美少女の拗ね顔。ミチカは冨樫ヒロインで言ったら何かな、てんで性悪キューピッドとか言ったら怒るか、っていうか知らないだろうな。
「この間貸したCD、どうだった?」
 期待混じりに訊かれる。四日ほど前に、ミチカが熱量と共に渡してくれたアルバムだった。私は聴いたことのないアーティストの物で、ミチカが聴いている所も見たことがなかった。
「ああ、あれ。よかった。凄いよかった。ドツボ。多分集める」
「よかったー。ユミちゃんが絶対好きそうだと思ったから買ったんだよ」
 え、と声が漏れる。私の好みくらいは把握しててもおかしくないけれど、それじゃあまるで私に聴かせるためだけに買ったみたいじゃないか。アルバム一枚、私たちにはあまり安い買い物ではない。このアーティスト好きそうだよ、なんて教えてくれるだけでいいはずだし、今まではそうしてきた。
「あ、でも、プレゼントしないよ? ユミちゃんの心に刺した物を記念に持っときたいんだもん」
 刺さったって言えば、その言葉も私に刺さった感覚がするよ。何でそんなことがしたいんだって聞きたくて、でもあからさまに聞いてはいけない、感覚で理解すべきことのような気がして、「えー私のために買ったならちょうだいよー」なんてチャラけながら、考えるな感じろなんて難しいっすよリー先生とぼやく。私にはクンフーが足りないわ。十年早いんだよ! アラサーになれば色々分かるものだろうか。分かる気がしない。
 会話が一段落し、ミチカが窓の外に目をやる。
「ねえ、どっか行こうよ」
「ん……そうだね」
 確かに、次の授業までここでおしゃべりというのはあまりやりたくない。
「私としちゃあ、さっさと自分の部屋に行って寝なおしたいんだけど」
 あくびをこらえもせず言えば、
「それは私も付いてっていいってこと?」
「いやいやいやいや!」
 冗談じゃない。私の城は迂闊に人が入ると死ぬ。恥ずかしさで私が死ぬし空気中の得体のしれない埃で入った人も死んでそして誰もいなくなる。インディアン嘘つかない。あそこで暮らす私は不浄の王ではあるまいか。
「分かってるよー、ユミちゃんの部屋凄いもんね」
 クスクスと笑う彼女は、そんな魔境に突入して生還した稀有な人間である。一応、ミチカが来る前には掃除したんだけれどね。それでも凄かったそうだよ。今の惨状なんてとても見せられないな。
「えーと、じゃあ、学食でも行く?」
 言った後に自分でも楽しくなさそーと思う場所に誘うと、ミチカは軽く伸びをするように腕を机の上に伸ばし、指を広げた。
「私は、川に行きたいなあ」
「川?」
 私たちのキャンパスの近くには川が流れている。近隣の学校の校歌や地元アーティストの歌にも出てくる、マイナーメジャーな川だ。
「お天気いいし、日向ぼっこしようよ」
 ね、と自分の手の甲から私に視線を移し、さらりと細い髪を揺らされると、私は抗えないのであった。眠いのが悪い。眠いと不機嫌になるタイプの人もいるらしいけれど、私は眠いととにかく眠くて、揉め事や討論なんかごめんで諾々と流されるままになるのである。
「OK」
 頷くと、ミチカは嬉しそうに立ち上がり私の腕を掴む。慌ててコーヒーを飲み干し、私も立ち上がった。
 それから自転車を並んで漕いで川辺に向かい、遊歩道を歩いて適当なベンチに腰かけ、ああ、やっと冒頭に繋がった。
 昨日は雨だったせいで増水している川が、ざあああ、と流れていく。ざあ、のzはどこから来てどこへ消えるのか。ずっと聞いてるとzが見当たらずあああああって感じなのに、一度意識を逸らしてまた聞き始めるとざああって頭にzがついて聞こえるのが不思議なのだ。私の言ってる意味分かりますかね。私も自分が何言ってるんだかよく分からないよ。これって前にミチカが言ってた疑問である。
 私の優秀ではない嗅覚にも緑の匂いが感じられる。これから本格的な夏に向けてどんどん濃くなっていくだろう。私はあの草いきれがあまり得意ではない。植物にマウストゥマウスされてるようで若干気持ちが悪い。ミチカは確か嫌いじゃないと言っていたっけ。一緒にキャンプに行きたいね、とかも言っていて、私は眠くなかったけれどそれに頷いたのだった。あれはサークル室にいる時だったから、サークルの皆と行こうという意味だったのか。それとも二人きりだったから、二人で行こうという意味だったのか。確かめられなかった。女二人でキャンプってどうなの。男二人は全然ありだよ。男女ペアは、まあアウトドア派のカップルなのねって感じだ。女二人ってなんかニッチじゃない? エッチじゃないよニッチだよ。女二人で焼肉みたいな感じじゃない? 男三女三くらいがメジャーなキャンプだろうし、私たちのサークルはそれを可能にする環境である。でも、メジャーだからそれが何だって気もする。どっちに行きたいかだろ、問題は。何せ私はニッチもニッチな女ですからね。少女病、と聞いてサンホラっぽいアレが浮かぶ時点で十分ニッチだけど、私はそれより先に桐原小鳥が浮かびますからね。
 キラキラと透明な光を振りまく太陽に照らされ、それを乱反射する川面に目と耳を向けて、少し水と草の匂いのするそよ風に栗色の髪を揺らして、ちょっとささくれ立ってチクチクするベンチにゆったり座って、ミチカは満足した猫のように目を細めて微笑んでいる。私は皆とキャンプに行くより、そんなミチカと二人でキャンプに行きたい。別にキャンプじゃなくてもいい。海でもいい。映画館でもいい。どっちかの家でもいい。焼肉でもいい。川でもいいからここでもいい。これらの若干爽やか甘酸っぱい場所の羅列の後に繋げるのは勇気がいるが、なんならケバい装飾のホテルだっていい。私は友達としてミチカが好きで、そういう意味でもミチカが好きだった。道にそむく恋ってやつ? 道ってのが何なのか知らんけど。道教か? 老子は何十年も母親の腹の中にいて生まれてきた時には老人だったそうだが、それに比べりゃ女同士で恋愛することくらい何でもないだろと言ってやりたい。でも世間的には違うのかな、いきなり爺な子供が生まれる方が、子供ができないよりマシなのかな。ふざけろ。などとこんな開き直ったようなことを考えてみる物の、実際の所全然開き直れていない。怖い。異常視する人が圧倒的多数である事実の前に、自分の気持ちを押し潰してしまった方が良いのかとも思う。ぶっちゃけた話、ミチカに会うまでは私だって異常視する方だった。同級生のホモっぽい奴とかレズっぽい奴とかを噂したことが何度もある。そういうのは何だか気持ち悪いと思っていて、もうそれは現代日本の普通の人の多くは本当に直感的に気持ち悪いと思ってしまうもので、どうしようもないんだと我が事として知っている。今いる友達の中の何人か、たとえばサークルなんかはそういうことには寛容で、タカハシくんも精液の飲み心地とか言えちゃったりする空気がある。でもそんなのはごくわずかな世界だけだ。だから多分私は、ネットでそれ系のサイトを漁って自分の指をふやけさせていた方がいい。いいけど、いい悪いで恋愛するなんて今時少数派だ。結婚する時にはいい悪いを少なからず考えるものだけれど、私みたいな小娘の時期からそれをしなきゃならないなんて嫌だ。ポルナレフは正しいことの白の中にいたがったが、私はむしろ漆黒の殺意を持ちたい。持ちたい、が、それを向ける相手が社会全般ってことになるとどう考えてもその蛮勇は勇気ではなくノミと同類ってわけで、ってジョジョネタ三回目は流石にしつこいか。爽やか百合小説にジョジョネタは三つまで、ジェイル・ハウス・ロックの記憶も三つまで、おいこれで四つ目だよ縁起悪いじゃねーか! はいこれで五つ目。こんな風に私は自分の気持ちについて考えるとグルグルと堂々巡りをして、疲れて適当な思考に逃げるのが常だった。シリアスとか向いてないんだよ。小学校の読書感想文題材に『目黒のさんま』を選んだ私だよ。
 ミチカには、私が彼女をどう思っているか伝えていない。少なくとも真剣には。何より拒絶されるのが怖い。多分絶対に拒絶される。そうしたら、恋愛対象としての好きだけじゃなく、友達としての好きまで捨てなきゃならなくなる。そんなのおかしいだろ、一部のイオンエンジンが駄目になったからって残りをニコイチにするなりして頑張れよ日本人なんだから! しかしプライベートな人間関係というのはなかなかそうは行かないことも知っている。告白はいつだって安全地帯から踏み出す行為だ。だからこそ貴いが、ヘラヘラしてるだけの私にその勇気はない。友達、いいじゃん。何人でかはともかく、一緒にキャンプ行けるじゃん。嘘ついてまで会おうとしてもらえるじゃん。ミチカをミチカその人だから好きになったんだっていうなら、私が想いを伝えるかどうかなんてミチカの魅力には関係ないただのエゴだし、ミチカが私を恋愛的な意味で好いてくれてなくたって元々私はそんなミチカを好きになったわけで、そのすぐ側にいられれば私の目的は果たされる。それに、もし、もしもの話、都合の良すぎる妄想だが、ミチカが私の気持ちを受け入れてくれるなんて、そんなあり得ないことを考えたとして。私が持ってるこの気持ちは、人類の多くが許さないこの気持ちは、冗談半分に抱いてるにしても重すぎて、とてもミチカにまで背負わせようとは思わない。だって、好きなんだもん。好きなんだけど、だって。
 もわもわした脳から繋がるしばしばした眼球でミチカの様子を窺うと、可愛い服の肩口を小さな黒い点が歩いていた。虫。蟻。
「わっ!」
 思わず声を上げてしまう。
「どしたのっ?」
 ミチカが大きな目を丸くしてこっちを向いた。ミチカの肩を怖々指さして、
「あ、あり」
 と言うと、ミチカは「なぁんだ」と笑ってそれをつまんで(払ったのではない、つまんだのだ!)、足元に下ろした。ミチカは女の子女の子した見た目に依らず、そういうことが平気でできる。トンボも蝶もバッタも捕まえられる。多分カミキリムシもダンゴムシも触れる。逆に男だか女だか分からない外見の私は、そりゃあもう虫が苦手だ。幼い頃、家族に虫の拡大写真が載っている図鑑をしこたま見せられたのが尾を引いているのだと思う。この少し北の方にある街に来て二番目によかったのは、家に出る不快害虫が酷く少ないということだ。私の家は確かに汚いが、生ゴミの類は溜めこまないようにしているのもそれ対策だ。一番よかったことは何って、そりゃミチカに会えたことだよ言わせんなバカ。
「ユミちゃんは本当に怖がりだねえ」
「都会派なの。今日とか靴下七色だし」
「黒一色じゃない……ワンポイントくらい付けようよ」
「いいの」
「男の子にモテないよ? 男の子がいたら虫退治してくれるし」
「ミチカがいるからいいよ」
 頑張った! 今私頑張った! ドヤ顔にならない、軽めだけどどこか真面目さを感じさせる微笑で言ってやった! 正直練習しました!
「んー、私もユミちゃんがいてくれればいいけど」
 え?
「でもやっぱり恋人は欲しいなー」
 お前全然私じゃよくないじゃん!
「……ミチカならその気になればすぐ見つかるよ」
 ずきりとしたものを飲み込んで、何とか自然に言う。大丈夫、こんな痛みは何回だって飲み込んできたから慣れてる。でも、いつまで経っても痛みは減らない。ミチカにこんな風に冗談めかして好意を伝えるのだって初めてじゃない。冗談めかしているから、いつだってちゃんとそれは冗談として取られて、その度に私は青い硝子片を飲む。痛いなら言わなきゃいいんだけどさ。そもそも想いを伝えないって決めてるんだから、言うべきじゃないんだけどさ。
「どうかなー、難しいなあ」
「片っ端から断ってるからじゃないか……」
「だって、なんか違うっていうか。好きになれそうな気がしないんだもん」
 ミチカに彼氏がいないのは皆が不思議がるが、それは挑んだ男どもが片っ端から撃墜されているからだ。ハートのエースミチカ嬢。だから私がしょっちゅう遊べるわけである。とりあえずで交際相手を見つけない、好きになった人しか好きにならない潔癖さを好ましいと思う。私がその相手になることはないとしても。
「ミチカの好きになれそうな人ってどんな人よ」
 聞いておきたかった。今まで何度か意識には浮かび、しかし口にしなかった質問だった。きっとミチカなりの明確な基準があると思っていた。
「……それは。えーっと。うーんと」
 ところが随分迷った様子を見せる。迷ってるというか、言い淀んでいるような。しばらくもごもごしてから、やっと口を開く。
「はっきりした理想があるわけじゃないんだけど。ピン、と来る人で……あと一緒にいて気持ちよくて……」
「アバウトだし。一緒にいて楽しい奴なんていくらでもいそうじゃない」
「……いないの」
 ぽつっと、半紙に一滴落とされた墨汁のように言われて、私は言葉に詰まる。じわり、広がる。
「そ、そっか。じゃあ、あー、仕方ないね」
 そのまま二人、何も言えない空気になる。後悔が渦巻いていた。どうしてこんなことを聞いたんだろう。別に、私がミチカの好みのタイプになってやろうってわけじゃなかった。ただ、前もって聞いてれば、実際にそういう人をミチカが見つけた時、何ていうか、諦めやすいような気がした。ああ、この人ならミチカが言った通りの人だから仕方ないんだな、って。そう考えたのは、悪いことだろうか。敗北主義者ではあるかもしれない。シュクセイ! セイサイ! ソウカツ! アカの手先のオフェラ豚! だから私はしゃぶったことなんかねえっつの。よし少し気分がマシになってきた。下ネタ考えれば元気になるのは何の反射行動ですか。パブロフのバター犬ですか。
 平常心(眠いけど)になってきていたので、次のミチカからの逆ネジにも動揺をそれほど見せずに済んだ。
「ユミちゃんは、どういう人がタイプなの?」
「っと、んー……私は、そういうのはよく分かんないや。タイプなし。ポケモンになれない感じ」
「……そうなんだ」
 ミチカの様子から、何を考えてるのかがよく分からなかった。私の方を見ず少し俯いて、カリカリ、とスカートの腿の辺りを引っ掻いている。少しだけ残念そうな、ほっとしているような、そんな風にも見えるけど、私がはぐらかす答えをしたのだから当たり前かもしれない。でも私は変なことを言った気はしない。ベストかは分からんけどベターだろ。「それは、あなたです」なんて、カリオストロの城ラストの銭型警部かって。胡散臭いウェブ広告にもありそうだな。もしかしたらベストは、適当に好感を持てる男の特徴を並べたてることだったかもしれない。ミチカと私がそういう関係になるなんて夢想を諦めて現実に生きるには、それが一番いいのだから。言えなかったけど。
 ミチカの口が重くなってしまったので、私は眠い脳をフル回転させて脳直で適当なことを喋りまくる。そんな目の前の遊歩道を犬を連れたおばさんが歩いていく。柴犬の血が濃い雑種。口を回しながら、ミチカを犬にたとえたら何かな、なんて考えてみるが、犬に詳しくないので無理だった。クォーターってことは雑種なのかもしれないけれど、私には血統書付きにしか思えない。チラチラと横目でミチカを見ても、その整った容姿はまるで手間暇かけて洗練された物のようだ。スタイルもいいし。腰が細いのは私と一緒だが、胸のでかさが違うよ胸が。揉みたいなー、と不意に思って自分でも驚いた。男子か。もしくはオッサンか。私の性欲はものすごく強くはないけどちょっとは強いかもしれない。強そうで強くない少し強い性欲。類似品の方はぶっかけおかず性欲、っておい洒落にならん卑猥さになったぞこれ命名者狙ってたんじゃないの。メーカーの桃屋の方は桃尻のことでS&Bはセックス&ビッチだろう。サフィズム&ビアンだったら業が深い。眠いと本当にろくなことを考えない。好きになった相手がたまたま同性だっただけ、なんて言葉が同性愛をマイルドにする言い訳としてよく使われるが、女性特有の体の部位を欲している私にはこの言い訳は使えなそうだ。使う気もないけど。私はミチカが女の子だから好きになったのだ。
「ん、ずっといると結構暑いね」
 ミチカがこっちを見た。もう明るいキラキラした瞳になっていた。その目に私は脳内のくだらない思考を読みとられやしまいかと焦ったり……はしない。慣れてますよ、伊達に日ごろからくだらないことばかり考えていないですよ。それでも万が一テレパスに読みとられた時のために、定期的に(お前が私の思考を読んでいるのは分かってるぞ)と考えることを欠かさないから完璧である。
「お日様さんさんだからね。さんさんさんさわやか三組だからね」
「やだ懐かしー。あれに出てた子たちって、今何してるんだろう?」
「あれ出身の役者って聞かないし、普通の人じゃないかな……貴重な小学生時代の時間を撮影のために割かれて、そして将来には繋がらなかったんだよ……搾取されるだけだったのさ……」
「なんでそんな不幸劇場みたいになってるの!?」
「私、NHK教育にはいい思い出がないんだよね……」
「いきなりトラウマっぽいこと言い出さないでよ! どうせユミちゃんのことだから、仮病で学校サボって、何もやる気がせず、けれど微妙に焦燥感を感じながら家でダラダラ見てたとかそんなとこでしょ」
「…………」
 概ね図星だった。
「悪いのユミちゃんじゃない! NHK教育悪くないじゃない! ほら、NHK本社の方角に向かって頭を下げて一生受信料を払いますって五回宣誓しなきゃ」
「さわやか三組disがそんなに重い罪だとは知らなかったな!」
 しばらく馬鹿みたいに笑った。こういう時間を手放すことは、絶対にできないと思う。
 おもむろに、目尻をぬぐったミチカが立ちあがった。
「冷たい物買ってくるね」
「あ、よろしく」
「何がいい?」
「何でもいいよ」
 小銭を手渡す。ミチカは何でもいいと言われると大体変な物を買ってくる。それが分かっていて私は何でもいいと言った。
「じゃあちょっと待ってて」
 手を振って、数十メートル離れた自販機へと歩いていく。取り残されて、私はベンチの背もたれにべたーっと背中を預けた。
「ああー」
 胸の奥から声が漏れる。ミチカといるのは楽しいなあ! でもなんかちょっとだけ疲れるなあ! この疲れがミチカに気付かれてないといいんだけれど。脳内の不埒な考えも気付かれてないといいんだけれど。
 ミチカは私を振り回す。今日の嘘メールもそうだけど、普段から割とそうだ。悪戯好きだし、気分が落ち込むと夜遅く電話を掛けてきたりするし、一緒に映画を見に行く時は大体彼女の好みでドバーッグシャーッてのに決まるし、人目のある所でもじゃれてきたりするし、他にも色々。それでも、私はミチカが好きだ。誰かの嫌な所を見つけて、それでもその人全体を好きでいる時、本当に好きなのだなあと思う。私はミチカに対してそれだ。
 大体、私だってミチカとの付き合いにおいて偉そうなことは言えない。それなりに好き、という程度の相手に対しては下心なく付き合える。でも、本当に好きになってしまうと駄目だ。好きな相手にこそ誠実に付き合いたいのに、どうしても私は下心を持って応対してしまう。買ってくる飲み物は何でもいいと言ったのだって、変な物を買ってきてもらって、わーマズイとか騒いで、ミチカにも飲ませて、そんで返してもらって、間接キスとかしたいという計算をしたからだ。下心の固まりである。下心もシモ心も満載だよ。どうせ私はヨゴレ系だよ。芸人で言えば森三中だよ(その内の誰かというのも重大な問題だが敢えて言及しない)。できればミラクルひかるになりたかったよ。
 人を好きになるというのは素晴らしいことだと思うが、それは決して正義ではない。いや、好きになる、という気持ちだけなら、人間のあらゆる感情が正しいのと同じくらいの意味で正義なのかもしれないけど、それによって引き起こされる行動は正義じゃないことも多いのは周知の事実だ。私だって自分の気持ちに素直になれば正義を行えるって感じになりたかったが(力が正義じゃない、私が正義よ!)、どうやらそうじゃないらしくって、めんどくせー話だ。
 川の向こうにはマンションが立ってて、そのずっと向こうには山が見える。日本は山だらけだけど、アメリカとかなら地平線が見えるんだろうか。「地球が丸くなかったら、地平線も水平線もないのかな」とミチカが言ったことがある。それから「終わりが見えないのって、なんだかちょっと怖いね」って続けた。私は正直よく分からず、「まあ人間は宇宙にも果てを考えつくから大丈夫なんじゃないの」みたいなことを答えたのだった。ミチカは虫とかスプラッタ映画が平気な癖に、そういう抽象的な物を怖がる所があった。そして怖がるのに、そんなことばっかり考えるのだ。きっと、甘えん坊なのも、孤独、というぼんやりした物が怖くて仕方なく、でもそこから意識を逸らせないからなのだと思う。苦手な物はホイホイ頭からすっ飛ばしてアホなことばっかり考えられる私とは大違いだ。奔放というかワガママに振る舞うのだってもしかしたら、周りの人が自分から去っていくのが怖くて、でも考えずにはいられなくて、わざと呆れられて距離を置かれるようにせずにはいられないのかもしれない。嫌われるより嫌わせる方がマシ、みたいな? 愛されるより愛したいマジで、みたいな? 百パー勝手な想像だけど。ミチカは別に嫌われてるってわけじゃないし。とにかくミチカは私の怖がる物を怖がらず、私の怖がらない物を怖がるので、怖がらせないようにしてやりたいのだ。できれば私が側にいることで。でもそれは絶対無理だから、私がいなくなっても色んな物を怖がらないように。そうしてあげることだけは正しいと言えると思う。なんて、『香菜、頭をよくしてあげよう』のパクリだけどさ。
 つらつらと考えていると、ミチカが帰ってきた。左手にはポカリの缶、右手にはお汁粉の缶が握られていた。神の左手悪魔の右手だった。当然のように私に悪魔の方が差し出された。ミチカのだったら悪魔の手でも猿の腕でもレイニーデビルの腕でも握るけどね。
「ありがと」
 受け取った汁粉はちゃんと冷たいものだったので、実際はそれほど地雷でもなかったかもしれない。小豆を撹拌するためよく振る。こういう時私は大体バーテンダーっぽくシェイクする。私がアホなせいじゃないって。プロの仕草にはそれなりの合理性があると信じてるからだって。毎度のことながらミチカが軽く笑ってくれた。
 パキン、ときっぱりした音を立ててプルタブを引きあける。私はこの音が好きだ。ハサミをシャキンと鳴らす音と同じくらい好き。そういやドラえもんにあったな、音を聞かせることで迷いを切るハサミの秘密道具。ストーリーを忘れちゃったけど、確かあの話の中では迷いを断ち切るのはいいこととして描かれていた。もし悪い結果になったならどうなるんだろう。お汁粉を口に含む。冷えてなお濃い甘味はやはり地雷ではない。そんなに喉乾いてたわけじゃないし。今度はミチカと和風の甘味処に行こうか。
「痛っ」
 悲鳴が聞こえて、隣に目をやる。ミチカが眉を寄せて、左手に缶を持ち、右手を宙に浮かべていた。
「切っちゃった」
 その伸ばされた右手の人差指から、赤い液体が滲む。滲みはすぐに雫にまで膨らむ。ミチカが指を軽く振ると、飛沫が散った。ささやかな血飛沫。ミチカの服につかなかったかと慌てて見てみたが、幸いついていなかった。
「何やってんだか」
 私は、やれやれ、といった風で言う。
「やだー、痕にならないかなあ」
「ちょっと切ったくらいで大げさだよ」
 呆れるのと慰めるのをハーフ&ハーフでブレンドした口調で返して、バッグの中を探った。私は痛み止めやら風邪薬やら胃薬やら綿棒やらカフェイン剤やらが入ったちっちゃい薬ポーチを持ち歩いていて、その中には絆創膏も入っている。小さな怪我をした時にさっと絆創膏を差し出せる系女子って私の中でかなりポイント高いんですが皆様はどうですか。高校生までならキャラ物絆創膏もありだろうが、今の私は普通の肌色絆創膏である。新型のプクーッと膨れるタイプは興味があるが高いので買っていない。ともあれそれを取り出すためにポーチを見つけて、開いて、漁って、
「ありゃ」
「ん?」
「悪いミチカ、絆創膏補充するの忘れてた」
「えー」
 ミチカが困ったような声を上げる。あんたも自分で薬ポーチ持てよ、ミチカならキャラ物絆創膏も許されるよ。ミチカから絆創膏もらいたいよ。
「ま、それくらいなら舐めてハンカチで縛っておけば治るって」
 絆創膏を渡せない代わりに、ハンカチを貸したいと思った。ミチカのハンカチを血で汚したくない。でも、お互いにハンカチ持ってるのにわざわざそうやって貸すのって、そこまでいっちゃうとさ、やりすぎっていうか、ちょっと気持ち悪いじゃん。だから私はしない。ただ、ミチカがハンカチを忘れてきていないかなあと思うだけだ。だが、ミチカは無造作に缶ジュースを置くと無事な方の手でハンカチを取り出した。指先に当てて、キュっと絞るようにすると、赤い雫が薄緑の生地に滲んだ。当然切ったのは動脈ではないから、これは黒い血なのだろう。でも私には十分綺麗な色に見える。もっと深い所の血は、どんなにか鮮やかな色をしているのだろうか。なんつって、この程度の少量出血なら平気だが、ちょっと多めになるとそれにもビビってしまう私なので、ハァハァミチカちゃんの頸動脈噛み千切りたいようハァハァなんて思ったりはしない。ただ、きっと綺麗なんだろうなあと思うだけだ。思うだけ、思うだけ、私は大体全部思うだけだ。
 傷口をぬぐったミチカが、不意に笑った。さわやか3組で笑っていた時とは違う、ニヤって感じの。いつもの悪戯を考えた時のような。そして、その笑顔で私に指先を近づけてきた。そういう笑顔に私はいつも不安になって、そして少しだけ楽しみになる。
「何?」
「ユミちゃんやってちょうだい、自分じゃしづらいもの」
「ああ。オッケ、キツかったら言ってよ」
 確かに自分の指にハンカチを結ぶのは少しやりづらい。借りられる手があるなら、借りた方がいい。そう思ってミチカのハンカチを巻きつけようとして、
「違う違う」
「あ?」
 ミチカが伸ばした指を振る。また、少しずつ血が滲んでいた。
「舐めないと治らないんでしょ?」
 く、と1cm、明確に私の唇に向けて指が近付けられる。
「そこは自分でしづらくないだろ!」
「自分の指をしゃぶるなんて赤ちゃんみたいだし……」
「他人にしゃぶらせるよりマシだ!」
 自分の頬が赤くなってることには気付いていた。それがミチカを喜ばせることも。ミチカが喜ぶってことを、私がどう感じるかも。
「他人に舐めてもらった方が傷の治りが綺麗なんだってよ。別の遺伝子を取り込むことで再生が活性化されるんだって」
「流石に騙されないわ!」
「いーじゃない騙されてよ。どうしてもダメ?」
 私の唇の前で、指が揺れる。きっと他のどんな動物よりも繊細に動くように進化した器官が、くねくねと踊る。それを見て、見せつけられて、何でミチカがこんなこと言い出したのか分からないけど、薄茶色の目に笑みが込められて、私は、そう、だから、つまり、酷く眠くて、眠いと、人と揉める気がなくなってしまって、
「んぁ……」
「ふふ」
 薄く開いた隙間の中に、白い物がゆっくり入ってきた。それは入り口で止まらず、舐められる、という目的を達するために、もっと奥へ進む。ミチカの指が、静かに私の舌に触れた。
「!」
 触れられた瞬間、ピクリと舌が跳ねた。当然ミチカにそれは伝わっただろう。さっきまで冷やし汁粉の甘さだけを感じていた舌が、ミチカの味を感じている。ミチカの、血の味。少ししょっぱくて、鉄の風味が口の中に広がる。美味しくはない。だが、嫌でもない。
「もうちょい舐めてもらいやすい感じの口にしてくれないかなあ?」
 そんなことを言われてもよく分からない。歯と歯の間を開けるようにしてみる。
「ふぁっ!?」
 思わず声が漏れた。ミチカの指は傷がついた人差し指だけじゃなく何故か中指も入れられていて、それで舌を挟まれた。
「んんっ」
 反射的に舌を動かすと、唾液のぬめりのおかげで容易にミチカの指から解放される。
「あー逃げた」
「いえうぉ!」
 逃げるよ、と言おうとしたが、二本も指を突っ込まれてしかもそれを噛まないようにしていては意味が通らなかった。
「何言ってるか分かりませーん」
 ミチカはニヤニヤしている。私はもっと何か言ってやりたかったけど、どうせ伝わらないし、無理に舌を動かすと、短く切っているとはいえミチカの爪が舌に引っかかって痛いと分かったので止めた。もちろん、万全に話す方法はある。ミチカの無遠慮な指を吐き出せばいいだけだ。でも、私はそれをしなかった。別にそうしなくたっていいような、むしろそうしたら駄目のような、いや、違う、私はそうしたくなかった。
「ユミちゃん、ちゃんと舐めてちょうだい」
 ミチカのお願いがぼんやりした頭に染みる、沁みる。お願い? 命令? どっちでもいいや、私は眠いから拒否しない。そう、こんなことをされてるのは舐めるためで。ミチカが指を怪我したからで。私が絆創膏を持ってなかったのが悪かったからで。
「……思ったより、くすぐったくはないね」
 ミチカの指を舐める。舌を絡める。血の味がする。自分の唾液が邪魔でミチカの指の肌触りがよく分からなくてイライラする。口の中だけで水音がする。ミチカのピアノを弾いてそうで弾いていない指。二本の指の周りに丁寧に舌を回す。さっき逃げたはずの指の間にずるりと舌を割り込ませる。私の視線はぼんやりと指から繋がるミチカの手に向かっていて、でもうまく焦点を結んでいない。手の甲にうっすらと青い静脈が透けて見える。ここを流れている液体と同じ物が、私の舌の上に薄く広がっている。だから何なのかな、何でもないのかな。
「あー、治りそう治りそう」
 嬉しそうな声。ミチカの顔を見る。やっぱり笑っている。どんな意味の笑いなのかよく分からない。少なくとも言葉通り、傷が綺麗に治りそうで笑っているのではないと思う。
「んふ」
 ミチカの指が動かされる。舌の表面を軽く引っ掻かれると味蕾がゾリゾリ言う。歯の表面を撫でられるのは何も感じない。舌の下の恐ろしく柔らかい部分に指を潜り込まされてゾクゾクした。天井を細く触られるのが一番くすぐったい。軽く引かれて抜かれるのかと思ったら勢いよく入れられて反射的に口内が固くなる。それを解すようにまた指が踊り、私は、口の中が勝手に動く物にどれくらい不慣れなのかという感覚に溺れていた。
「赤ちゃんみたいだね、ユミちゃん」
 いつの間にかミチカの舌を舐めるだけじゃなく吸うようにしていたことに、指摘されて気付いた。口の中の音は派手になっていてもしかしたら外まで漏れていたかもしれない。気付いて恥ずかしくなった。恥と共に、さっきからの行為にエロティックな空気が含まれていることに思い至った。思い至った、なんて分かってなかったみたいに言うのも私のずるさで、最初っから知ってたよ。ただ頭を麻痺させていただけ。指チュパなんて直接的な言葉だって私の語彙の中にある。だから躊躇ったし、だから断れなかった。だって、だってさ、こんなこときっと二度とできない。ミチカの体に舌を触れさせるなんて。
 今私って白昼堂々ミチカとエロいことしてる。何でこんなことできてるんだろう。ミチカが言い出したからなのは分かるけど、どうしてミチカはこんなことさせてるの? ただの悪戯心? 私をからかってる? もちろんそうだよ、それ以外ないじゃん。
 ミチカの指は口の中でしなやかに動き続け、私の舌は必死にそれを追う。感覚のある所は全て性感帯と言えるんだから、全身どこに触れたって達させることができる、なんてのはどっかの小説で見たんだったか。残念ながら私は舌でミチカの指を達させるほどのテクニックを持っていないし、ミチカも指で私の口を達させるテクニックも意思も持っていないだろうから私たちはただそれを続けた。別にミチカの指だからって、口の中で感じたりはしないよ。ただ、認めよう、体は熱くなっていた。
「ユミちゃんさあ」
 多分、このミチカの言い方と、表情は。少し、意地悪な気分になっている時だ。
「朝、えろっちいことしてきたでしょ」
 言葉と共に舌をギュッと押されて、私は全身を抑えつけられたみたいに動けなくなる。バレてた!
「ん、噛まなかったね、えらいえらい」
 ただでさえ火照っていた顔が羞恥で分かりやすく赤くなっていくのが分かる。何か言って誤魔化すべき、でも、今の私はミチカの指を舐めてなきゃいけない。何も言えない。
「あーやっぱそうなんだー。何で分かったか不思議? どうして今日はこんな気だるげなのかなっていうのと、あとやっぱり匂いだよね」
 やはりシャワーを浴びてくるべきで、けれどそんなことしたら授業に間に合わなかったし、まあ授業は嘘だったけど、その時の私はミチカを信じていたから、ああ、もう、ミチカが悪いんじゃないか。なのになんでこんなこと言われてるんだろう。なんでおとなしく、ミチカの目を見つめながら口の中をまさぐられてるんだろう。
「ユミちゃんえろーい。もう、こんなフェロモン振りまいてちゃ駄目だよ襲われちゃうよ」
「んんん……」
 そりゃ私たちの年齢で私たちくらいの親しさともなれば、それなりに下ネタな話もしたことはある。私の性格が性格だし。でもミチカからこんな直接的に私のことを言われたことはなかった。これって何されてるの? なじられてる? なぶられてる? 言葉責め? 多分、恥ずかしさとみっともなさで目がうるんでいたのだろう。ミチカがちょっと慌てた顔になった。
「あーそんな顔しないで、ごめんね。冗談だから。別に、そういうのしてもいいと思うし。ね?」
 まるで幼子をあやすようにそう言われる。頭を撫でる代わりに舌を撫でられた。私はその程度で一気に安心してしまう。本気で軽蔑はされていなかった。よかった。ありがとう、と傷口を舐める。ミチカが舌先をくすぐって言葉をつなげる。
「ユミちゃん、好きなタイプがよく分かんないとか嘘でしょう?」
 問いかけ。それに答える術を私は持たない。いや、首を縦に振ったり横に振ったりすることはできる。でも、それすらも求められていないということが分かった。
「本当はもう好きな人いるんでしょう」
 心臓が一瞬止まって、猛烈に動き出した。今度は問いかけではなく確認だった。いるよ。その人はとても可愛い人だよ。その人は今私の口に指を差し込んでるよ。その人は絶対私の気持ちに気付いたりなんかしないと思ってたけど、こんなこと言っているよ。ねえ、この確認は、もう、気付いているの? 頭の中はドラム式洗濯機のように思考が暴れて、しかし私は口を塞がれていて喋れない。指が突っ込まれていることで喋れないということが、凄くもどかしいはずで、本当は、どうしようもなく心地よかった。私は何も言わなくていい。面白い言葉も綺麗な言葉も求められていない。ただひたすらに受け身でいいという安心感。普段しゃべってばかりの私は、この感覚を知らなかった。
「ユミちゃんが好きな人は――」
 あ、ああ、言うの、それを言ってしまうのミチカ、それは誰も知るべきじゃないことなんだ、でも私はそれを止められない。止めなくて、いい。
「――誰か、分からないけれど」
 呆けた、と思う。思考に心電図があったとしたら、ピーッと音がして水平線だけが流れていた。やっぱり気付いてなかった?
「でも、誰か好きな男の人いるんだ。だって、どんな人に声かけられても、馬鹿みたいな話するだけで興味ないみたいだもん。好きな人以外は眼中にないんだよね」
 それは、まあ、後半はその通りで。私はただ一人を除いて恋愛対象外で。でもスタートが大いに間違ってるよミチカ、私はどっかの男なんかを好きなんじゃなくて、君のことが。しかしやっぱり私は、二本の指に甘えた。だって、何を言えばいい? 男に興味はありません? ミチカが好きなんです? そんな、気持ち悪いこと、言えるか。だったら、黙ってる方がいい。ミチカだって、指を抜かないってことは私を黙らせておきたいんだ。そうでしょ?
「私もね。本当は好きな人いるんだよ」
 ああ、そうなんだ。もしかして、とは思っていた。私がどの男にも興味を示さない理由として心に決めた人がいるからって予想するのは、ミチカだって誰も彼も振るのは同じ理由を持ってるせいじゃないかって。そっか。いいことだよ。いいこと、だよ。でも、今はこんなだからわざわざいいことだねって言わなくていいよね。
「一緒にいて凄く居心地がよくて、この人となら幾らでも一緒にいたいって人。その人は今はよく側にいてくれて、とっても嬉しい」
 そんな相手がいるなんて気付かなかったよ、幸せそうじゃない、って思って、けれどミチカの顔は全然そんな風には見えなかった。いつからこんな表情に変わっていた? さっきまで、私をからかって、意地悪そうだけど楽しそうな表情だったのに、どうしてこんな、何かを我慢するような、恐れるような風になっているの?
「でも、私じゃ無理なんだ。この先、その人の一番にはなれない。私には、その資格がない」
 資格。ミチカの事情は全然知らない。でも、人を好きになるのは自由だなんて耳触りのいい言葉が流通している癖に、結ばれるのには確かに資格が必要らしい。たとえばこの国では、一人の人は同時に一人の異性としか結婚してはいけません、みたいな。ミチカ、不倫でもしてるのかな。結婚という形に拘らなければいいのかもしれないけれど、多分まだミチカにとって、そして私にとっても、認められない形で人と惹かれあうのは怖いことだ。ミチカは誰に、あるいは何に認められないのが怖いのだろう。私は、社会に、家族に、友人たちに認められないのが怖いけど、何より、本人に認められないのが怖いよ。
「ねえユミちゃん、私はどうしたらいいんだろうね」
 辛うじての笑顔に答える言葉は浮かばなかった。口と指で繋がっていて、だけど私たちは他には何にも繋がりがなかったのかもしれない。温もりは何よりも雄弁だ、なんて言う人がいるけど、私の口の中の温度はミチカにとって何の助けにもなっていない。でも、何か、何かはできないのか。ミチカの側にいられなくたってミチカの為になりたいっていつも思ってるはずだろ。こんな、うすごおりのような、さみしいけどさみしいって認めたらもっとさみしくなっちゃうから笑ってるみたいなのを放っときたくないわけだろ、島中有美。その為には、そう、凄くこれは私にとって安心するけど、楽だけど、ミチカとエロいことができて嬉しいけど、やっぱり、この指、邪魔だ。
 ミチカの手を掴んで指を抜かせるために、体の横に落としていた自分の腕を動かそうとした時、
「えへ、変なことしちゃった。ごっめーん、ちょっと気持ち悪かった?」
 そんな言葉と共に、あっさりミチカの二指は引き抜かれた。ちゅぽ、とエロティックな音がした。執拗にまぶされこねられた唾液が指に絡み、私の口からつう、と白銀の糸が引かれてすぐに容赦なく切れた。
 ミチカがハンカチで手早く指を拭く。そしてその指先を見て、さっきまでの話なんてなかったかのように、さっきまでの行為だけがあったかのように、悪戯っぽく、小悪魔っぽく笑みをこぼした。
「ふやけちゃったよー。ユミちゃんのよだれに漬かっちゃってどうしよう。これもし薬指にされてたらもう婚約指輪並だよ?」
 私はそんなおどけたセリフが仮面だってもう知ってしまった。あの言葉は、あのさみしさは、何も言えない私相手だから見せられた物で、ちょっとふざけただけみたいな調子は、もう口枷を失った私はさっきのことに触れてはいけないってメッセージだってことは分かって、だけど、知るもんか。そういう曖昧な所に踏み込むのを怖がるのはミチカの担当で、私は虫と流血スプラッタと英語が怖いだけだ。他にも本当は沢山沢山ある怖い物を全部心の中の洗濯カゴに詰め込んで、私は唾のついた口元をぬぐった。
「ミチカ」
 発声練習代わりにその名を呼ぶ。大丈夫、しばらく黙ってたけど掠れてない、舌も強張ってない。
「何?」
 ミチカの何気なさを装った顔を見るまではできた。ちゃんと目を見つめなきゃと思ってたのに、そこまではできなかった。勇気を練り上げる時間もない。唇の辺りに視線を漂わせる。
「あのさ。もし、ミチカにちゃんと好きな人がいるなら」
「あー気にしないで、本当は何でもないことで」
「いるなら!」
 私の言葉を遮るミチカの言葉を更に遮った。カットインにカットイン。スタックには未解決効果が積み上がる。
 私の強い語調にミチカは黙った。私はミチカに指をくわえさせたりしないけど、そのまま聞いてよ。
「ミチカは、その人に……ちゃんと、思ってることを言った方がいいよ。好き、とか。自分だけ見て、とか。分かんないけど、もし妻子持ちと付き合ってて、別れて結婚してほしいなら、それだって言ってやればいい」
 認められない道を進むなんて怖い。だから私はミチカに想いを伝えられない。もしミチカが私の想いに応えてくれたらと想像しても、ミチカにまでそんな重さを背負わせたくないから私の中だけに秘めておくって決めている。だから、どの口でこんなこと言ってんだって話だけど。
「そりゃ、言ったら、断られるかもしんないけど。でも、私は、そっちの方がいいと思う。ずっと言わないで、どうしたら、とか、どうしても駄目だ、とかグルグル考えてグズグズになっちゃうより。どうにかしたらいいんだよ。どうしたって駄目だったって分かった方がいいんだよ」
 私だって、本当は、伝えたいのだ。私の中で膨らんで膨らんで、もうどこもかしこも一杯になっちゃってるようなこれを、吐き出したいのだ。そうじゃなきゃどんどん苦しくなるのだ。好きって気持ちを伝えたいなんて絶対人類共通だ。けれど、やっぱり私にはどうやら勇気がなさそうで、でもミチカにはその勇気を持ってほしかった。行き場のない苦しさから解放されてほしかった。
「そんでさ、駄目だったらさ、泣けばいいじゃん。私付き合うから。何時までだって一緒にいるよ。気の利いたこととか、言えないけど。手とか握るし。そうだ、キャンプ行こうよ。そんで一晩中でも一日中でも泣いてようよ。そんで、えっと、とにかくミチカにはそうしてほしい。あ、いや、ミチカが泣いてる所見たいってわけじゃ絶対ないんだけど、でも、その方がいい、と、思う」
 ミチカの事情も知らずに、無責任なことを言っている。でも、無責任だから言えることだってあるはずだ。なんて言い訳かもしれないが。私が言いたいのは、その時はちゃんとハンカチと絆創膏持ってくよ、貸すんじゃなくて両方あげるよってことで。
 そして私は、あっという間に言うことが尽きた。決意の割に大したことは言えなかった。普段から真面目なこと考えてないと、こういう時に真面目なこと言おうとしても上手くいかない。
 ミチカはちゃんと黙って聞いていてくれた。私が口を閉じても黙っていた。今度はその沈黙が不安になった。勝手なことを言われて怒っているだろうか。呆れているだろうか。のろのろと、ミチカの唇から瞳へと視線を上げる。
 射抜かれた、のだと思う。ミチカは見たこともないほど真剣な目つきで私を見つめていた。怒ってはいないと思う、多分。呆れているのとは程遠い。ひどく直線的な視線で、けれど怖さは感じない。
「あ、あのー?」
 さっきの強い口調はどこへやら、恐る恐る呼びかける。
「ユミちゃん、は」
 ミチカの声は微かに震えていた。その震えのままに続けられたのは、
「やっぱり、全然分かってない、ってことが分かった」
 なんて言葉だった。私はそれを聞いてしゅんとする。私の助言は余計なことだったみたいだ。分かってないのに偉そうなことを言ってしまって、笑ってもらえたらまだよかったのに。
「……ごめん」
 つつかれたオジギソウみたいに私は謝る。でもミチカは、こっちを見る強さを弱めたりしてくれなかった。
「けど、ユミちゃんが、そう言うなら。私は、思ってることを、言おうと思う」
 え、なんで、と思った。いいの? そりゃ、私なりに本気でした助言だったけど、全然分かってなかった言葉だったみたいだし、そんなのに従っちゃっていいの? けれどミチカの視線は、やっぱりどこまでも本気だった。何かすごく大事な物をベットしている時の真剣さ。不安、緊張、躊躇、声の震えはそのせいか、でも何かをベットする時は、その見返りとなる物への期待も、必ず僅かに含まれる。ミチカがそれを得られることを祈った。
 ところで、人には固定観念という物があって。それは自然と刷り込まれることがほとんどだけれど、自分で意図的に作り上げることもある。最初は苦手だった人と継続して付き合わなきゃならない時に、「この人は信用できる」と思い込むよう努力して、本当にそう信じてしまうようになる、みたいなこと。逆に、この食べ物は凄く美味しそうだけれど、毒があると言われたから、「これに似た食べ物は危ない」と思い込むようにした、とか。固定観念って言うか、普通の判断基準かもしれないけど、とにかく、本当は手を伸ばしたくない物に触れなきゃならなかったり、抱きしめたい物に近付いちゃいけなかったりする時、人は無理矢理そういう意識を自分に植え付ける。無理に作り上げられた意識は、その分色が濃くて、ただの先入観より視野が狭まる。なんでこんなことを言い出したかというと、私はそういう自分で苦労して作り上げた強靭な固定観念を持ちあわせていて、おかげで次のミチカの言葉は全くの予想外だったのだ。
 ミチカは、一度大きく息を吸って、口を開いた。
「私は、ユミちゃんが、好きです」
 その、明るい色の瞳に目一杯の不安を揺らがせて、でもそのド真ん中を貫く真摯さと一緒に、ギュッと膝の上で手を握り合わせて、小さな背中をピンと伸ばして、全身で真っ直ぐ届けようとしてくれた言葉は、本当に、私の予想からも期待からも大きく外れていた。
 私は、ミチカの一番になりたいけどそれはできないからと、ミチカが私に友達以上の好意を持つなんてことはあり得ないって丈夫な丈夫な固定観念を必死で構築して自分を諦めさせてきた。ミチカに手を握られるたびに、これを誤解しちゃいけないんだって自分に言い聞かせて、やっとドギマギしたりしなくなった。友達同士の普通のことだと素直に思えるようになった。一番都合のいい妄想が、私がミチカを好きだと言って、ミチカが何とか苦労してそれを受け入れてくれるってこと。ミチカから私に、なんてのは、もう、期待もしなかった。バスで席を譲ったおじいさんが超お金持ちで遺産を譲ってくれることを期待しないのと一緒。でも、どうやらそれが、起きた、らしい?
「…………」
 唇をキュッと結んで静止しているミチカに、そうだ何か言わなきゃと気付いて、ええとでも何を言えばいいんだって、そりゃあ私の口は真面目な場面では重くなるけれど、今はくだらない冗談の一つも出てこない。私は、これが本当のことだって思えてなかった。
「え、あ、あぁ、えっと」
 凛々しさすら感じさせるような様子で対峙するミチカに、私は情けなくモゴモゴと意味を持たない音を発するだけで、ああこりゃOSR値的に敗北決定だわって、やっとこ思いついたのがそんなオタギャグで、私はまだ何も言葉を口にできない。
 それはそれはみっともなくうろたえる私を見て、だけどミチカは、私への軽蔑とは全く違うことを考えたらしかった。悲しそうな、いや、絶対に悲しんでいる、後悔と自己嫌悪にまみれた表情になって、
「ごめん……。こんなの、気持ち、悪いよね。私、おかしいよね。分かってるつもりだった、けど、でも……」
「そんなことない!!」
 私の口から、自分でびっくりするくらいの、ほとんど叫ぶみたいな言葉が出た。ミチカは、言葉の意味を理解するよりも単純に音量に驚いたみたいにビクンと大きく体を震わせて、私も投げつけてしまった言葉の処理に戸惑っていた。
「う、いや、えっと、ん、んなこたーない、なんつって」
 慌てて森田一義の真似なんかしてみたけれど、ろくに練習をしたこともないそれは酷い出来で、場を和らげる効果も発揮しなかったはずだ。なのにミチカは、ちょっとだけ目元を緩めた。
「ユミちゃん、優しいね、ありがとう。でも、いいから。もう、それだけでいいから。……うん。やっぱり、言った方が、よかったよ。ユミちゃんの教えてくれた通りだね、言えただけ、よかったよ。ありがとう」
 ミチカは私に向かってありがとうを繰り返して、でもその目はまるで私を映してなくて、緩んだ目元からはそのまま何かが滴って来そうで、私はまたミチカの悪い所を発見する。この子は、テンパると勝手に話を進める。思ってることを伝えて、失敗して、傷ついて、その後誰かと泣いたらいいよ、って私は言ったんだ。なのにこの後誰がミチカの側にいてくれるんだ。一人で泣いてそれでよかったなんて、そんなわけあるか。悪い所を見つけた私はやっと頭が冷えてきて、けれど、今まで通り、そんな所も全部含めて私はミチカが。
「ミチカ」
 ちょっと乱暴な気もしたけど、どこまでも一人になっていきそうな彼女を引っ張り上げるにはそれしかないと思って、ミチカの手首をギュッと握った。
「え、え?」
 戸惑った声がする。でもこれでちゃんと、私を見てくれた。目があった。あー、私は今どんな表情してるのかな、こんな状況練習してこなかったからな、マジさだけ伝わってりゃいいな。それ以外はもう、この爆発しそうな心臓とか、ここに至ってなおしぶとく残る躊躇いとか、どうしようもない照れ臭さとか、そういう情けない部分全部伝わってもいいから、本気だって分かってほしい。ミチカが私にそうしてくれたように。
「私も、ミチカが好きだよ」
 ミチカは虚を突かれたようだった。私にとってミチカの言葉が予想外だったように、ミチカにとってもそうだったのだろうか。まん丸になった目がハムスターみたいだった。
「それって……どんな……」
「異性として……じゃないなこの場合。そう、恋愛の、意味で」
 もうこれだけ言うのにいっぱいいっぱいだったわけだけど、もう少し。ミチカがあんなに勇気を出して言ってくれたなら、私だってもう少し。
「前から、好きだった。可愛い所も、ちょっとワガママな所も、感じやすい所も、寂しがりな所も、全部。本気だよ」
 どうかな、私の言葉は伝わってるかな、ってミチカの様子をうかがって、何だかまだ茫然としてるみたいで、そうかまだ足りないのかと私は自分の尻を蹴る。
「ミチカからそんなこと言ってくれて、凄くびっくりして、それより凄く凄く嬉しい。他の男どもに興味なんてあるわけないよ、ミチカだけが好きなんだから。で、えっと」
 くそ、止まるな私、こんな時何を言えばいいんだ、他に何を言えばミチカに応えられるんだ。さっきみたいにおちゃらけで誤魔化したりしないで。あの場面でタモリの真似って死んだ方がいい。
「私は、女の子を好きになるのは初めてだけど、ミチカが女の子でも気にしないっていうより、女の子だから好きで、だからそういうとこはこれからもミチカであってくれればよくって」
 違う、そういうことじゃない、そういう話は後からゆっくりでいい。今は、ミチカから好きって言われて、私が好きって返して、そういう時だから。
「本当に、好きだから! だから、ミチカ。私の恋人に、なってくれないかな」
 辛うじて掘っくり返して出した問いかけは、思いついた時は「これだ!」って、真剣さがこれ以上なく伝わってくれるって思ったけど、口にしてみて、これを尋ねちゃったらもう逃げ道はなくなってしまうんだと気付いた。焦りすぎた、と思った。私たちの関係に名前を付けるのは、もっとゆっくりでよかったはずだ。私は何でこうなんだろう、と唇を噛みかける。私はおちゃらけたって真面目になったって、ミチカを安心させるなんてできないんじゃないか、なんて落ち込む。ずっと好きだった人に好きって言われて、なのに結果的に落ち込んでるんだから私って案外根暗だったのかもしれない。
 けれど。ミチカは、私のその問いかけに。
「……うん!」
 茫然から、一気に嬉しさ以外に何にも混じり気のない笑顔に変わって頷いて、まるで飛び付くみたいに抱きついてきた。咄嗟に抱きとめることができたのは上出来だろう。二人ともベンチに座って、全身が接触してる。ミチカの体が柔らかくて、いい匂いがして、匂いってそういや私からはあんなそんな匂いがしてるはずでって思いついてまた顔が赤くなる。
「ちょっと信じられない……でも、本当なんだよね? ユミちゃん、こんな冗談言わないもんね?」
 至近距離、私のあるかなしかな胸から見上げてくるミチカに、私は何度も頷く。
「んー!」
 ぐりぐり、と頭を擦りつけられる。喜びを抑えきれないちっちゃい子みたいで、それがミチカっぽかった。喜ばれ、てる? 私はちゃんと、ミチカの気持ちに応えられた? 躊躇いがちにミチカの頭を撫でながら自問しても、自答ができない。
「で、でもミチカ」
 顔が上げられる。その顔に、す、と不安の影がよぎる。え、なんで? ええと、ええと、ああそうか、今「でも」なんて言っちゃったから。
「あ、違う、私がミチカを好きなの、本当。ただ、その……ミチカは私と恋人になって、いいの?」
「……何言ってるの? 私、ユミちゃんのこと好きなんだよ? いいに決まってるじゃない!」
 明快な返答。それは、普通なら、そうなんだけど。私は歯切れが悪い。
「でも、私たち、女同士、だし。多分、色々、大変だし。ミチカは、それでいいって言ってくれるの?」
 ミチカの眉間に皺が寄っていく。これは大体、不機嫌になりかけてる時の顔。
「……ユミちゃんは、恋人、やなの?」
「ち、違うよ! 私はいいってば! 私が恋人になってって言ったんだよ! ただ、ミチカの方は、本当に、色々あっても、重い関係になっても、いいのかって」
「もぉー!」
 ぼすん、と肩の付け根の辺りを叩かれた。不機嫌を通り越して、怒ってる。何でか怒らせちゃったけど、だって心配なんだよ、ミチカは怖がりだから。私と恋人になったら、ミチカが怖がりそうなこと、きっと一杯あるよ。本当に、いいの?
 ミチカは細い眉を立てて、でも私からは離れずに、
「ユミちゃん、本当に私のこと好きなのー?」
「本当、それは本当だよ!」
 慌てて答える。
「でも女同士で恋人になるのは心配?」
「そ、れは、心配なことも、多いけど。でも、ミチカとなら、そうなりたい」
「何で?」
 まるで禅問答みたいだ、なんて頭の隅で思いつつ答える。
「何でって、ミチカだから。好きだから」
「だったらどうして分かんないの! 私も同じなの! ユミちゃんとなら大変でもいい! そんなこともう百回も千回も考えたよ! それくらい好きなの!」
 「うわあ!」だった。私の内心を表すなら、その感嘆詞三文字だった。もっと細かく言えば、驚いたうわあとか、圧倒されたうわあとか、感動したうわあとか、自分が恥ずかしくなったうわあとか、嬉しいうわあとか、気付いたうわあとか、他にも色んな意味のうわあだったんだけど、ひっくるめてうわあだった。
 その、胸の中の「うわあ」を噛みしめて。
「……ごめん」
 ちっとも痛くない拳を受けながら、押し出されるように謝っていた。
「どういう、ごめん?」
「ミチカが私のこと好きって意味、分かってなかったし。ミチカのこともっと怖がりだと、思ってたし。それに」
 それに、本当は。ミチカを心配してるつもりで、本当は。
「私が、女の子と付き合うのが怖かったの、ミチカが怖がってるってことにしようとしてたし」
 ざまぁない。洗濯カゴの中に放り込んだ恐怖のポケットの中には、そのまま洗ったらひどいことになるのが確実なティッシュの塊。私は虫と流血スプラッタと英語と、世間体が怖かった。よくまあこんなビクビクした神経してて、ミチカに想いを告げるよう助言できたもんだ。想いをあからさまにすれば世間からの目に晒される、私はそれをこんなに怖がってるのにミチカに勧めたなんて、所詮他人事だったってことか。私はそうなれないから、ミチカには周りからの視線にも負けない強さを持ってほしかったっていう、迷惑な願望。自覚してた以上に私は駄目な奴だったようだ。
「……じゃあ、許してあげる」
 なのにミチカはかんばせを和らげて、私の短い髪に手を伸ばした。優しく撫でられる。さっきまで私が舐めていた指で、髪の毛を整えられる。寝癖ついてたかな。だったら格好悪いな。内面の格好悪さに比べたら大したことないけど。
 しばらくその行為を続けて、ミチカは撫でつける動きを止めた。私の首の後ろに手を回し、まるでぶら下がるような体勢で私を見上げる。物凄く素直な、穏やかな、そんな表情で、私の胸が鳴る。ドキドキじゃなくて、とくん、とくん、っていう、そんな鼓動。
「ユミちゃん、今度こそよく考えて答えて。私と、付き合ってくれる?」
 言葉通り、よく考える。これまでのミチカとのこと、これからのミチカとのこと。これまでの色んな人とのこと、これからの色んな人とのこと。これまでの自分のこと、これからの自分のこと。私は、確かにこれからを怖がってる。これまでを大切に思っている。冷静にそれを認めて、導き出される一つだけの結論に辿りつこうとした、その時。嫌だ、って叫ぶ自分が私の中に現れた。嫌だ、嫌だよって、駄々をこねるみたいに喚き散らした。その自分の声はどんどん大きくなって、怖がっている部分の私をひっつかまえたと思ったら、ねえ、って今度は静かに語りかけた。ねえ、あなたが大事にしてる物って何なのさ。これからの自分の安定? もし本当にそうなら、楽だったのに、ね。そう皮肉気に言って、叫んでた私はどっかに行った。取り残された私は、何にもかんにも分かんなくなって、とにかく取り残されてるのは寂しいなって思った。寂しいのは嫌だった。寂しくなって、ふっと気付けば、外側の私の首には、体には、温かい物が触れていて、それはそれは温かくて、この熱に触れていられれば一生寂しくないんじゃないかって気がした。その上、何だか私はこの熱の持ち主からも寂しさを取り除いてあげるのに今の所一番いい人材らしくって、それって、凄く素晴らしいことなんじゃあないだろうか。きっと、一生かかって探すのに足るくらい素晴らしいことで、それを私はもう既に見つけている! だったら、そうか、他に大事にする物、ある?
 決断は、すぐに言葉にできた。
「ミチカ、やっぱり私と付き合って、ください。怖いけど、二人でなら幸せになれる気がするから」
 心配のふりした保身とか、庇護欲のつもりの自己陶酔とか、格好つけとか、そういうのなしに、素直に言えた気がした。迷いすぎたからヤだ、なんて言われたら情けないにもほどがあるなー、なんて考えていた。
 ミチカが、きゅうっと目を細めた。
「じゃあもっかい好きって言って」
 それは私にとっては要求ではなく許しだった。好きな人に遠慮なく好きと言っていいって、どうしようもなく喜びだ。もう冗談めかす必要はない。誤解を恐れる必要もない。これまでそういうふうにしか言えなかった分も、今散々迷ってしまった分も、全部込めて、言えって言われたから言うんじゃないよって伝わるように、私は舌を震わせる。
「好き。ミチカ、大好き」
「本気の本気ね?」
「疑ってる?」
「ううん」
 首にまわされた手に少し力がこもる。
「でももう一回だけ」
「好き」
 一応こんなこと言うのに恥ずかしさはあって、でもそれもやっぱり喜びの一部なのだ。
「ありがと……嬉しい。私も、ユミちゃん、好き」
 ふにゃあってしたその笑顔は、ほら、中国茶なんかでポットに入れると解けて開く花のお茶あるじゃん、あれが物凄く上手に広がった時みたいな、そんな感じの笑顔だった。私もきっとふにゃあってして、ちょっとだらしなかったりしないか心配だけど、多分これからこういう表情も沢山ミチカの前では見せるから、気にしないことにした。
「……これで、恋人?」
 その顔のまんま、何だか収まりのつかなそうなミチカ。
「恋人だと思う、けど」
「……何か、区切りが悪いっていうか。ユミちゃんが恋人になってって言って、私が頷いた所で終わればよかったのに。いつの間にか私が誘ったみたいになってるし」
「…………」
 ひとえに私がグダグダしたせいだった。この状況から綺麗に終わらせる方法は、一つしか思い浮かばない。っていうか、この私にしがみついたような体勢でその発言、狙ってやってるよねミチカ。
「じゃあ、目、閉じて」
「ん」
 ほら、すぐ閉じた。ミチカが狙ってるってことは狙われてんのは私か。私だって今ミチカのそこに狙い定めてるんだけどな。狙い定める俺がターゲットかシャアがターゲットか。にしても告白直後にこれって手が早くないかなー、私たちの年なら普通かなー。まあ、いっか、したいもん。凄いドキドキしてるけど、大丈夫、指舐めてた時みたいに頭に霞掛かってない。眠気も去った。私は私として、ちゃんとできる。
「これから、よろしく」
「色んなことしよーね!」
 そうして私は、ミチカのびっくりするくらい柔らかな唇に自分のそれを重ねて、このもたついた想いのやりとりの終了にして恋愛開始の合図にしたのだった。
 っていう、私の指がふやけたとこから始まってミチカの指のふやけがとれないまんまで終わった話だったわけで。なんなら次は、二人で指をふやけさせていった時の話でもしようか?


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