「――何も変化無い?」
念に目覚めて一年目の冬の事である。
基本中の基本である『纏』『練』『絶』『凝』をほぼ完璧に習得し、自身の系統が何なのか知る為に水見式を試した処――変化が全く見られない。
これは水の味が変わる変化系なのかと味見した処、一切変わっておらず――当時四歳だったイルは小首を傾げた。
彼女に師は居ない。保護者も居ない。物心付いた頃からオーラを自覚し、独学で鍛え抜いた。
彼女の生まれた環境が弱者である事を一時足りても許さず、少女は一日を生きる為に力を求め、『蟻殺し』という唯一つの目標に向かって一心不乱に万進した。
自身の系統が未だに解らないので、一日一系統ずつ修行をし、『流』を意識的に実行しながら心身共に鍛え、最後は『練』を限界まで持続し、オーラ切れで気絶して寝る。その殺人的なサイクルを一日も欠かさず続ける。
生きる糧を得る為に盗み、自身の生存を害する者を殺し殺して――ある意味、安定した九歳の頃。
ふと思い出したようにイルは水見式を再び取り行った。今ならば明確な判定が出るだろうと、そう思って。
「――え?」
異変はまさにこの時生じた。万全な状態から全オーラを一気に使い果たし、イルは死の淵を彷徨った。
九死に一生を得て目覚めると、彼女の手には強制的に具現化した銀時計が握られていた。
オーラの総量が十万越えで漸く発現した特質系の念能力――イルは思わず絶望した。
確かに、これはこれで破格の念能力だった。意図して出来上がる類の念能力ではない。
だが、この念能力で蟻の護衛団及び王に届くかと問えば間違い無く否だった。
この銀時計は彼女の全ての可能性を犠牲にした上で、限定的な時間操作を可能とする。
銀時計が具現化している最中は、成長性が一切合切剥奪される。意図的に仕舞えないので、成長性を取り戻すには自らの手で破壊するしかない。
ただし、破壊されればこの銀時計は嫌がらせの如く、彼女の時間を二十年分奪って破却させる。
それが彼女がこの忌まわしき念能力を『嘲笑う銀時計(タイムウォッチ)』と名付けた所以でもある。この銀時計は誰よりも彼女自身を嘲笑っていた――。
――都合上、彼女は短い生涯で銀時計を三回破壊している。
一度目は自らの成長性に賭けて、次に再具現化したのはゼノ=ゾルディックと対峙した時であり、この時は念能力の絡繰を見破られて銀時計を破壊されている。
三度目はその成長性に限界が訪れ、最後の望みをこの念能力に託して――能力の限界を超えた歪で自壊する。この場合、全オーラを消耗し尽くした上で、一ヶ月間強制的に『絶』状態に陥る事を初めて知る。
自身の特質系の念能力を検証し終えた上で、王に触れる間も無く、それ以前に護衛団の誰かに殺されるとイルは判断した。
奴等の強靭で理不尽な防御力を貫ける攻撃力が、彼女の生来の念能力では生み出せなかった。
――神憑り的な念能力でなければ遥か格上のキメラアントには対抗出来ず、イルはその才覚の殆どを『嘲笑う銀時計』で使い果たしてしまった。
致命的なまでに容量(メモリ)が足りない。時間が足りない、何もかも足りない、殺傷力が足りない――絶望し、狂乱しながら模索した果ての果て、イルはある結論に至る。
――足りないのならば、他から補えば良い。
彼女の目的を完遂させる夢のようなアイテムが、グリードアイランドにはあった――。
No.029『蟻喰い(3)』
黒い銃身の全長は一メートルほど、無駄を全て省いた無骨なフォルムに望遠鏡が取り付けられたそれは、少女の小さな体には不似合いの兵器だった。
「対物狙撃銃(アンチマテリアルライフル)……!」
それは機関砲弾に分類されるような大口径弾を使用する大型狙撃銃であり、イルが具現化したものが単純にそれならばギバラに限って言えば脅威にはならない。
彼の鋼を凌駕する肉体はそんな銃弾如きでは傷一つ付かない。精々何か当たった程度が関の山だ。
その銃弾の一発一発に膨大な念を籠めたとしても、彼女の系統は特質系、強化系とは最も程遠く、放出系とも相性が悪い。それ故に大した威力は出せない筈だ。
(それなのにその獲物を選んだという事は、何か厄介な仕掛けがあるって事だな……!)
イルは無言で砲身をギバラに向け、頭部に狙いをつける。
いつでも動けるように身構え、ギバラは発射の瞬間を待ち侘びる。
自身の身体能力と動体視力をもってすれば、銃弾如きなど発射された後に回避する事ぐらい容易い芸当であり――音を置き去りにして放たれた銃弾の弾速は予想の十倍上回り、回避の間も無く頭部に着弾する。
銀時計の針は馬鹿みたいな速度で一巡する。
「~~っっ、流石に痛ぇな!」
仰け反りから即座に復帰し、ギバラは歓喜と憤怒を半々に籠めて獰猛に笑う。
(……予想通りか。弾速を限界まで『加速』させた処で、格上の強化系能力者であるギバラの防御を貫けるほどの攻撃力は得られない。だけど――)
この一発で2000以上のオーラを費やして放たれた一撃は、額から少し血が滲む程度の傷に納まる。
これではオーラが尽きるまで撃ち尽くしても致命傷には至らず、此方が先に力尽きるだろう。
(チッ、弾速が異常に速ぇな。防御は楽勝だが、撃たれてからの回避は無理っぽいな)
イルは弾装を外して投げ捨て、スカートのポケットから取り出した弾装を装着させる。
具現化した狙撃銃として考えれば明らかに不要で異質な行為、次から何か仕掛けて来ると判断したギバラは先手を打って疾駆した。
「――!?」
ギバラは一直線に彼女から離れた一軒家に駆け寄り、その壁に自らの拳をめり込ませ――オーラで全体を強化して、建物ごと少女に放り投げた。
(なんて出鱈目な――!?)
イルは狙撃銃を撃たずに、即座に回避行動を取る。
雷鳴の如き轟音が響き、家屋が倒壊する。少し狙いを外し、少女の小さな体を見失ったギバラは舌打ち一つした。
(あの狙撃銃なら簡単に貫通撃ち出来るのにしなかった。やはり着弾した際に能力の効果が発覚する類で見せたくなかったからか?)
ギバラが今真っ先に見極めなければいけない事は、あの狙撃銃の一撃を受けて良い類の攻撃か、受けてはならない類の攻撃かである。
単純に威力を追求した代物なら幾らでも受けられ、力押しで終わる。
だが、搦め手となるとそうはいかない。筋肉馬鹿(ウヴォーギン)の二の舞など死んでも御免である。
この場の即時離脱を選び――ギバラに未知の衝撃が降り掛かる。
(撃たれた、のか? 何だこの感触は?)
あの超速度の銃弾で撃たれた感触にしては薄く、逆に身体からオーラが湧いてくる。
(――撃った対象を一切傷付けず、オーラを与える能力? んな馬鹿な。ナックルの『天上不知唯我独損(ハコワレ)』みたいな能力で、まだ発動条件を満たしていないのか?)
着弾箇所から少女の現在地を逆算して割り出し、咄嗟に視線を向ける。
距離にして500メートルほど、遙か彼方の屋根の上で、狙撃手となった彼女は不敵に笑う。
(――唯一つ言える事は、何発かは解らんが、あれに当たり続けるのはヤバいって事か……!)
恐らくは使い勝手を悪くする事で効果を倍増させる類の能力とギバラは当たりを付け――瞬時に少女まで接近して踵落としを突き落とす。
踵落としの衝撃が家屋から大地まで伝播し、周辺の建物まで崩壊させる。敏捷さ――その一点だけは少女の方が僅かに上回り、彼女を生存させる鍵となっていた。
「おいイル! 死ぬ前に聞かせろや! テメェは何でキメラアントの討伐を目的とするんだァ!」
「そんなの聞いてどうするのよ? これから何方かが絶対死ぬのにさ……!」
逃げる彼女を追跡し、対物狙撃銃から壊そうとオーバーキルの蹴りを繰り出し、具現化を一瞬だけ解く事で回避され、零距離から銃撃を受ける。
衝撃も無く、またオーラが溢れる。その他の異常はまだ見当たらない。ギバラは殺人的な拳をひたすら繰り出し、少女は暴風の如き一撃を回避しながら隙を窺う。
「ああ、だからこそ知っておきたい! 放置しても会長達が勝手に片付けてくれる蟻を生涯を賭してまで狩りたいなんて生粋の狂人の動機だ。そんな奇特な願い、知らずして殺すなんて勿体無いだろォッ!」
ギバラは倒壊した家屋の破片を強化して蹴り飛ばし、イルはそれに飛び乗り、越えて回避し、次なる拳打を避ける――後方の家に激突した破片は更なる破壊を齎した。
「動機の言語化、ねぇ! そういう貴方はどうなのよ……!」
ギリギリで避けながら、必死な形相に歪んだイルは振り絞るように声を出す。
「――オレはなぁ、奴等が殺したいほど大嫌いなんだよォ! 蟻の分際で人間様喰らって上位種気取りだぁ? 巫山戯るのも大概にしろっつーの!」
一撃一撃に途方も無い怒りを籠め、ギバラは更なる破壊の渦を撒き散らす。
「だからこの手でぶっ殺したい。単純明快だろ?」
「単なる嫌悪感で此処まで鍛え抜いたなんて、大した狂人ね……!」
イルの苦し紛れの言葉にギバラは自信満々に笑う。
「動機の軽さなんて問題じゃねぇ。ようはそれに全てを賭けられるか、否かじゃねぇの?」
二人の間に距離が開き、お互い立ち止まる。
――確かに、ギバラはそれだけの理由で地獄のような鍛錬を積み重ね、蟻に届く次元まで自身を磨き抜いた。
それを共感出来るのは他ならぬ、同じ目的で限界まで鍛え抜いた彼女の他におらず、イルは目の前の男に惜しみ無い賞賛を抱いた。
「今の話し合いで気付いたんだけどさ――どうやら私は奴等の事を結構好ましく思っていたらしいわ」
全くもって腹立たしい事だとイルは晴れ晴れとした表情で呟く。
だからこそ、毒で野垂れ死んだ彼等の結末が許せなかった。遣る瀬無かった。変えてやりたかった――ただそれは彼等の味方をするという意味では無い。
「彼等が『貧者の薔薇』で死ぬなんて絶対に許せなかった。……本当に阿呆らしい。――尊厳ある死を与える為に此処まで身を削るなんて我ながら馬鹿げている」
紡がれる彼女の独白に、ギバラは馬鹿にせず、静聴する。
お互い、無駄だと解っている事に全てを賭ける酔狂な輩だ。世界の誰もが無意味だと蔑もうが、関係無く進める狂信者だ。
目的を同じとしながらその道は交わらずとも――この一期一会の出遭いには感謝したい。
イルとギバラは互いに尊敬しながら全力で殺し合う。
「一度目の人生は気付かない内に御破算されたんだ。二度目くらいは好き勝手生きて、自分の意志で死んでやるさ!」
「テメェとは根本的に相容れないけどさ、共感はするぜ。同じ狂人としてな――!」
互いに譲れないし、決して譲らない。
――『蟻喰い』は一人で良い。