プロローグ
それは、僕の腕が治ってから初めてのコンクールだった。
タキシードに身を包み、一歩一歩確かめながら、ステージの中央へと歩みを進める。
……もう二度と、立つことは出来ないと諦めていたステージ。
視界を埋め尽かさんばかりの観客を前に、僕は静かにバイオリンを構えた。
程よい、懐かしい緊張感に、胸が高ぶる。
左手の調子だって悪くない……うん、きっと大丈夫だ。
視界の端には父さんと、その隣に座ってこちらを見つめている志筑さんの姿が映る。
最近交際を始めたばかりの彼女にも、格好悪いところを見せるわけにはいかない。
しかしそこで、僕の頭を僅かな違和感がかすめた。
モヤモヤしたような気持ち悪さに、思わず顔をしかめる。
伴奏が始まった。
その瞬間、観客の視線も、志筑さんの事も、先ほど感じた違和感さえ、すべてが意識の外へと追いやられる。
すべての意識はバイオリンへ、右手の弓に、左手の弦を押さえる指へと向けられる。
奏でる曲は「アヴェ・マリア」。
弓を動かす度に紡がれるその音は、まだまだ理想通りにとはいかないけれど。
それでも懸命に、自分の持てる力のすべてを出し切って、旋律を紡ぎ続ける。
程なくして、演奏は終わった。
心地よい疲労感に、体を駆け抜ける達成感。
久しい感覚に、思わず頬を緩める。
ふと正面へと視線を向けると、会場を割れんばかりの拍手が響いていた。
志筑さんに至っては立ち上がり、目に涙を浮かべながら拍手をしている。
……あぁ、僕は本当にこの場所へ帰ってこれたんだ。
そう実感しながら、退院してから幾度と無く感謝してきた神様に、今一度感謝する。
僕は、以前交通事故にあった。
左腕の自由が利かなくなり、医者からはもう二度とバイオリンを弾くことはできないと宣告された。
絶望に打ちひしがれ、全てがどうでも良くなり、自暴自棄になっていたあの頃。
信じてもらえないかも知れないが、ある日ふと夜中に目が覚めると、何も感じなくなっているはずの左手に感覚が戻っていた。
次の日、精密検査をした医者の驚いた顔は今でも忘れられない。
まるで事故なんか無かったかのように、左腕は以前の健康体に戻っていた。
奇跡か、それこそ魔法でもない限り起こり得ない出来事が、僕の身に起こったのだ。
バイオリンの構えを解いて、ふと会場を見渡した次の瞬間、一陣の風が吹いた気がした。
その瞬間記憶に蘇るのは、消毒液の匂い、そしてとある人影……。
演奏の前に感じた違和感が、確信へと変わって僕の心に影を落とす。
あの子の姿が、見当たらない。
僕は目を凝らして、会場を見渡した。
だがしかし、それでもあの子の姿を見つける事が出来ない。
小さい頃から、僕のコンサートには必ず来てくれて、演奏後には元気一杯に、割れんばかりの拍手を送ってくれたあの子がいない。
「……さやか?」
自分でも理解できない焦燥感に胸を焼かれながら、僕の退院後初めてのコンクールは幕を閉じた。