「綾波さん、意外と呑み込みいいのね」
「…そう?」
通常エヴァンゲリオンは、肉体の使い方を人柱になったヒトから奪って憶える。
私の場合は、あのヒトが手取り足取り教えてくれた。だからかもしれない。料理の動作が身に馴染むのは。
ガギエルと戦ってから65万0138回経った今日、ようやく洞木ヒカリにピンク色したポテトサラダの作り方を教えてもらえるのだ。
それじゃあ今度の日曜日にしましょう。と言われた時、その根拠が解からなくて悲しかった。待ち遠しいという感覚を知った。
いまだによく解からないのが、ヒトが使う週という時間の概念だ。
日は解かる。この惑星の自転周期だから。年も解かる。この惑星の公転周期だから。月も、解からないでもない。この惑星唯一の衛星の、公転周期だから。
でも、週は解からない。いったい何に基づいているのだろう?
ラップフィルムをはがして、3個目のじゃがいもの皮をむく。指の下で滑るような感覚が、なんだか愉しい。
「って、綾波さん!指先が真っ赤になってるじゃない!熱くないの!?」
私を流しまで押しやった洞木ヒカリが、指先を流水にさらす。
「…問題ないわ」
「嘘おっしゃい!ああもう、火ぶくれできちゃってる」
いい? このまま冷やしてるのよ。と言い置いて、洞木ヒカリがキッチンをあとにした。
この程度の熱さなど、無視すればいいことなのに。
「指先、どう?」
救急箱を抱えて戻ってきた洞木ヒカリが、蛇口を止めて私の指先を観察した。
「痛くない?」
指先の熱傷に薬を塗りながら、そう訊ねてくる。
「…どうして?」
「なぁに?」
小首をかしげながら、しかし洞木ヒカリは治療の手を止めない。
「…洞木さんがしているようにしたわ。なのに、なぜ怒るの?」
私の顔をしばし見つめていた洞木ヒカリが、唐突に笑い出した。
「…?」
なぜ洞木ヒカリは、笑っているのに目尻に涙を浮かべているのだろう。
「ごめん…な…さい…」
なぜ謝罪するのか判らないし、涙の理由も、どうして笑うのかも解からない。
…
ある意味、ノゾミより難物ねぇ。と肺の中身をすべて吐き出すように嘆息した洞木ヒカリが、眉尻下げて微笑んだ。
「一所懸命なのはいいことだけどね、綾波さん。あなたと私では年季が違うの」
ほら。と指先を見せてくれる。
「指先の皮が、綾波さんと比べて厚いでしょ? それに綾波さん色白で、肌も弱そうだし」
洞木ヒカリの指先と、自分の指先を見比べた。赤くなって火ぶくれができた私の指先と、何の支障もなさそうな洞木ヒカリの指先。
私がジャガイモを1個むく間に、3個の皮をむくその指先。
そうして覚えたのが、羨ましいという感情だということを、のちに知る。
「…熱くても、かまわないわ。気にしなければいいもの」
それは、この指先の脆弱さへの反発だっただろう。
拗ねる。という言葉を、のちに知った。
「ダ・メ・よ!綾波さん大事な身なんだから、身体を大切にしなくちゃ」
「…大事な?」
思い出したように、洞木ヒカリが私の指先の治療を再開する。
「綾波さん、パイロットでしょ。身体、大切なんじゃないの?」
確かに、洞木ヒカリの言うとおりだと思う。
痛みを無視するために、いま私の指先は感覚が鈍い。無用の負傷が、任務の妨げになる可能性を否定し切れなかった。
「…そうかもしれない」
「…そうなの!だから、お体、大切にしてね」
絆創膏を取り出し、指先の一本一本に巻きつけてくれる。
「…ええ」
はい、おしまい。と洞木ヒカリが剥離紙を丸めて捨てた。
「…ありがとう、洞木さん」
「どういたしまして」
****
火傷が治るまで、料理のお勉強はおあずけ。と宣告されて、帰路についた。
「ごめんなさいね?」
ジャンプスーツにエプロンをかけた女のヒトが、大きなダンボール箱を2個抱えたまま、笑顔で。
「…いえ」
エレベーターが11階へ到着。乗った時の遣り取りから推測して、開のボタンを押した。
「ありがとう」
「…どういたしまして」
女のヒトに続いて、エレベーターを降りる。
「あ~、それリビングね。ワレモノだから!」
見れば、11-A-3号室のドアが開いていて、目前を歩く女のヒトと同じ服装をした女のヒトたちが中で立ち働いていた。
「荷物、これで最終で~す」
「おっけ~!それじゃあ、開梱作業に移って~」
「「「「は~い!」」」」
カードキーを通して、11-A-2号室のドアを開けたときだった。
「ああ、レイ。ちょうど良かったわ」
11-A-3号室のドアから、赤木博士が現れたのは。
「…赤木博士?」
白衣を着ていない赤木博士を見たのは、初めてだった。
それに、このところ消えることの無かった目の下の隈が、今は薄い。
「隣りの部屋に、引っ越してくることにしたの。これなら貴女を引き取っても、好きなだけミサトのところに居られるでしょう?」
まあそれはともかく。と言葉を続けた赤木博士が、昼まで休みが取れるはずだったのに呼び出しが入ったのよ。と苦笑い。
「それで申し訳ないけれど、業者の作業が終わったら確認のサインだけ頼める?」
「…はい」
それじゃあよろしくね。と足早にエレベーターホールへ向かった赤木博士が、歩きながら振り返った。
「貴女も、身の回りのものを纏めておきなさい」
「…はい」
その日に行なわれたという非常召集に私は呼ばれなかったから、サインをすることに問題はなかった。
イスラフェルへの対策のために葛城一尉も赤木博士も帰ってこなかったから、まとめた身の回りのものをどうすればよいのか、判らなかったけれど。
つづく