「すまん!すまなんだ綾波!」
118万7362回振りに登校した私を待っていたのは、地面に頭を擦り付ける鈴原トウジの姿だった。
教室に入るなり裏庭に連れ出されたから、私のことを殴る気になったのかと思ったのだけれど。
「…なに?」
「この前シェルター抜け出して、迷惑かけただろ。そのことを謝りたくてさ」
これ、この通り。と隣りに立つ相田ケンスケが頭を下げた。さらにその隣りの碇君は、名状し難い表情。苦笑いと、のちに知る。
シャムシェルの時に味を占めたという相田ケンスケは、だからラミエルの時もシェルターから出てきたらしい。やはり、鈴原トウジをそそのかして。
そのことを教えてくれた葛城一尉は「さんざん脅しといたから、もう出て来ないでしょ」と肩を竦めて見せた。
「ホンマに申し訳のう思っとんのや」
やから。と立ち上がった鈴原トウジが、右の頬を突き出してくる。左頬の痣は、打撲傷の痕だろうか。
「わしのことを、どついてくれ」
「…?」
「殴って欲しいって、言ってるんだよ」
碇君が通訳してくれたけれど、それでも意味が解からない。
「…なぜ?」
「後生や!せやないとわしの気ぃが済まんのや!」
たしかに迷惑はこうむった。しかし、だからと云って殴ってどうなるというのだろう?
「こーゆー恥ずかしいヤツなんだよ。ま、それで丸く収まるんなら、殴ったら?」
碇君は、あの名状し難い表情のまま頬を掻いている。
どうしていいか、判らない。
「あんたたちっ!こんなところに綾波さん連れ出して、なにしようっていうの!」
振り返ると、昇降口に洞木ヒカリ。
「あちゃ~」
瞬く間にここまで駆け込んできた洞木ヒカリが、私とみんなとの間に割って入った。その背中がなんだか私を見てくれているようで、嬉しい。
「ことと次第によっては、ただでは済まさないんだから!」
「…おはよう、洞木さん」
朝、顔を合わせたら挨拶。ヒトの基本だと、葛城一尉は言う。
「おはよう綾波さん…って、大丈夫なの?」
振り返った洞木ヒカリは、吊り上げていた眉を、たちまち落とした。
…
……
「えぇー!?」
碇君と相田ケンスケから事情を聞いた洞木ヒカリが、叫んだ。
「それで綾波さん、また怪我したの?」
「…少し、尺骨を痛めたわ」
そう? と洞木ヒカリは訝しげ。
「でも、そういうことなら叩くべきよ、綾波さん。こいつらったら避難のたびに姿をくらませて、綾波さんが叩かないならわたしが叩いてるわ」
「…そう?あなたがそう言うなら」
鈴原トウジのほうへ向き直って、右手を振り上げる。
「待った~」
なぜ、逃げ出したの?
「綾波さん、…ギプスで叩くのはやりすぎよ」
「…そう? よく判らない」
「綾波は、トウジを殴りたいわけじゃないよね? それに、右手をまた痛めちゃうかもしれないし」
「…そう? そうかもしれない」
右手を下ろすと、胸をなでおろしながら鈴原トウジが戻ってくる。
「綾波、手加減ぬきで頼むで」
「…判ったわ」
両脚を肩幅と同じ間隔で開き、ひねるように左脚を下げた。
腰ダメに引いた左手を握り込む。親指は人差し指の第二関節を押さえて、小指とで挟み込むように意識する。拳撃の威力は握力に比例するから、力いっぱい握り込んだ。
大事なのは打面と前腕の角度。直角でないと、打ったこちらが関節を痛めてしまう。
エヴァンゲリオンのパイロットである以上、格闘訓練は必須だ。綾波レイは身体を動かすことにそれほど意欲を見せてなかったようだから、その点については私に一日の長があった。
…手加減、抜き。
踏みしめた左脚の反動で、右脚を振り上げる。右膝で蹴り上げるつもりで。
そのまま振り下ろす右脚と同期させて、左手を突き上げた。
狙うのは鈴原トウジの右頬、こぶし一つぶん左。
右足が地面を捉えた瞬間に、左こぶしを時計回りにひねる。
みしっ
失敗した。と気付いた時には、右第七肋骨の接合面がずれていた。カウンターウェイトとして振り回した右腕の、ギプスの重さを失念して胴体をひねりすぎたのだ。
私の左こぶしを右頬に受けた鈴原トウジが、背中から倒れ込む。私の質量と筋力でそこまでの威力がでるはずがないので、バランスを崩したのだろう。
そのまま勢いで2回転ほど転がって、焼却炉に後頭部をぶつけた。
「…え!? …あっ!鈴原、大丈夫!?」
洞木ヒカリが駆け寄った先で、鈴原トウジが右手の親指を立てて見せる。
「 …なっ ナイスパンチや、綾波」
「…そう。よかったわね」
「鈴原っ、鈴原!?」
白目をむいた鈴原トウジに呼びかける洞木ヒカリの声を、どこからともなく聞こえてきたエンジン音と続くタイヤのスリップ音が掻き消した。
***
教室の扉を開けると、廊下に並べられた椅子に葛城一尉が座っていた。その隣りに碇君。2人を取り囲むように鈴原トウジと相田ケンスケ。鈴原トウジは右頬に大判の判創膏、頭には包帯を巻いている。少し離れた位置に座る洞木ヒカリは何を見つめているのか、私には気付いてないよう。
「あら、レイ」
こちらを見止めた葛城一尉は、一拍置いて表情を曇らせた。
「…おはようございます。葛城一尉」
「レイ。あなた、保護者はどうしたの?」
進路相談。私にとっても、綾波レイにとっても意味のない行事。それは保護者も同様だろう。
「…伝えていません」
伝えてないって、アンタ。と葛城一尉。しかし、言葉が続けられることはなかった。なにやら考え込んで、唸っている。
「…つぎ、碇君。先生が呼んでる」
「あっうん…」
腰を浮かせた碇君はしかし、葛城一尉のほうを覗って中腰のまま。
「…それじゃ、さよなら」
****
「どしたの? レイ。遠慮しないで食べなさい」
「作ったの、僕なんですけどね…」
なぜ私がここに座っているのか、理解に苦しむ。
いつも通り、栄養補助食品と栄養調整食品による栄養摂取を行なおうとしていた矢先だった。唐突に来訪した葛城一尉は、聞きしに勝るわねぇ。となにやら1人で納得して、そのまま私を拉致したのだ。
コンフォート17マンション、11-A-2号室のダイニング。目前のテーブルには、碇君のお手製だという料理が並んでいた。ごはんとみそ汁、ハンバーグステーキ、根野菜のソテーに葉野菜のサラダ。それらの知識は綾波レイの記憶の受け売り。
エヴァンゲリオンだった私は、ヒトの摂る食事という概念になじみがない。必要なのは解かるが、非効率的で手間ばかりかかる。
「…」
「ダメよ!好き嫌いしちゃあ!」
テーブルの対角線上から身を乗り出してきた葛城一尉が、私の頭を掴んで揺さぶった。私の頬をつねったときと、目つきが一緒。
視界の隅で、碇君が苦笑いしている。
仕方なく箸に手を伸ばすと、満足げに座りなおした葛城一尉が、2本目の飲料缶を開けた。
エヴァンゲリオンだった私に、利き腕という概念はない。左手に取った箸で、ハンバーグステーキを一口大に切り分ける。
綾波レイは動物性蛋白質を忌避していたが、それは私には関係ないことだ。
口に含み、咀嚼する。
「綾波!?」
途端に押し寄せた情報の洪水に、思わず口を押さえた。
「大丈夫? 無理して食べなくても…」
味蕾を励起させる様々な刺激。甘味、辛味、旨味、何に由来するか判らない雑味までが渾然一体となって、自身がハンバーグステーキという料理であることを主張している。
その必要性を理解できなかった私は、そもそもエヴァンゲリオンには味覚そのものが無いことを失念していた。ヒトの舌にかなりの神経組織が集中していることの意味に、気付かなかった。
生きるために食べることが必須のヒトにとって、味覚がどれほど重要か、圧倒的な情報量が教えてくれる。
いや、しかし。綾波レイの記憶にも、私自身の経験にも、今までの栄養摂取がこれほどの情報量だった憶えはない。栄養調整食品以外の、調理された食品を口にした記憶はあるのに。
咀嚼を繰り返すとその度に自らの唾液の味まで加わって、さらに情報量が増えてゆく。過剰だった刺激が、柔らかくなっていく。
「愉しいでしょ? こうして他のヒトと食事すんの」
愉しい? 栄養摂取が? …いや、私がどう表現していいか知らなかっただけで、この行為を喜ばしいと歓迎している。愉しい、と云うことなのだろう。
そう思うと、嚥下したその喉越しまで愉しい。
「シンちゃんが、レイのために腕によりをかけたハンバーグよん♪美味しいでしょ?」
「ミサトさん…、冷凍食品ですよ」
のんのん♪と唇の前で人差し指を振った葛城一尉が、3本目の飲料缶を開けた。
「大事なのは過程じゃなくて動機。ココロよコ・コ・ロ♪シンちゃんが、レイのために。ってトコが重要なの。
ヒトはパンのみにて生くるにあらず、そこに篭められた想いも食べてんのよぉん♪」
見下ろす皿の上には、一口分だけ欠けたハンバーグステーキ。碇君が私のために作ってくれた…
ヒトにとって栄養摂取が、それだけに収まらない大切な行為であると実感した今、それを誰かのために作るということの意味も解かるような気がした。
皿ごとハンバーグステーキを持ち上げると、立ち昇る匂いが嗅覚を刺激して口中にその味を再現する。湧き出した唾液を嚥下。…かすかに甘い。
作ったヒトと、ハンバーグステーキと、食べた私。
碇君のほうを向くと、ハンバーグステーキを介して絆が見えるような、そんな気がする。
「…碇君。美味しい。…ありがとう」
「あっ…うん」
なぜ碇君は、どういたしましてと言わないのだろう。
「あらあら♪顔真っ赤にしちゃって。ひょっとして、シンちゃん…?」
「ち、違うよっ!」
「まったまた、テレちゃったりしてさ。よかったじゃな~い、歓んで貰えてぇ♪」
「からかわないでよ、もう!」
うふふふ、すーぐムキになって、からかい甲斐のある奴ぅ。と足を組み替えた葛城一尉が、4本目の飲料缶を開けた。
それが合図だったかのように肩を落とした碇君が、こちらに視線をくれる。
「その、…冷めないうちに食べてよ」
「…ええ」
ハンバーグステーキはもう冷めかけていたが、それでも美味しかった。
悲しかったのは、栄養補助食品と栄養調整食品で栄養摂取を続けていた綾波レイの肉体では胃の容積が不足して、かなり残さざるをえなかったことだ。
後ろ髪を引かれる思い。と言うことを、のちに知った。
****
朝、碇君から弁当を手渡された時に、一緒に食べたいと希望を伝えたら、鈴原トウジと相田ケンスケを加えた4人で屋上に向かうことになった。
どういう経緯か洞木ヒカリも加わって、総勢5人。
人数が増えれば愉しさも増すだろうか? と期待する。
洞木ヒカリに勧められるまま、フェンス際に座る。手にした包みの結び目を解こうとしたときに、非常召集のコール音が鳴った。
スカートのポケットに手を入れようとして、気付く。私じゃない。
見上げる先に、腰を下ろそうとする碇君。鳴っているのは気付いているけれど、自分のものだと認識してない様子。
「…碇君。非常召集」
えっ? と口を開いた碇君は、しかしすぐに気付いてズボンのポケットから携帯電話を取り出した。
「僕だけ…? 綾波は?」
取り出した携帯電話を見せながら、かぶりを振る。
不審に思ったらしい碇君が、発令所へのホットラインを開いた。
「あの… …碇シンジですけど… …はい。 …ええ、 …ええっ! はい、…はい。わかりました」
ホットラインを切った碇君の、表情がさえない。
「使徒じゃないみたい。エヴァじゃないと対処できない事態が起きて、零号機を出すんだって」
そういえば、一度だけ使徒ではない移動物体を制止しに出撃したことがあった。これがそうだろうか?
ラミエルと戦った時の傷が癒えてないから、初号機を出せないことは解かる。しかし、碇君でなければならない理由はあるまい。
昨晩一緒に就寝した葛城一尉が抱きついてきたことで右第八肋骨と第九肋骨の接合面がずれたことは、まだ誰も知らないはずだ。私でもいいだろう。
「…碇君」
立ち上がった私を見る碇君の視線が、微妙に逸れている。
「…私が行くわ」
みしっ。と鳴った音は、碇君の握りしめた携帯電話から。
その視線が見ているのは、右腕のギプスだと気付く。
「僕が行くよ。危険はほとんどないそうだし」
…でも。と踏み出そうとした私を身振りで止めて、碇君が微笑む。
「せっかく作ったんだ。お弁当食べててよ」
携帯電話を仕舞った碇君が、「というわけでゴメン」と扉へ向かった。
「きばれやー、センセぇ」
「頑張れよ、シンジぃ」
「気をつけてね、碇くん」
…
駆けていく背中に向かって声をあげていた3人が、碇君の姿が見えなくなった途端に肩を落とす。
「センセ、イけるんかのぅ?」
「使徒じゃないし、危険はほとんどない。って言ってたから、大丈夫じゃないか?」
「避難…しなくていいのかしら?」
あの移動物体を止めたのは、第3新東京市からウイングキャリアーで5兆4192億7836万9105カウントほど離れた場所だったから、ここまで影響が及ぶことはまずないだろう。
「…問題ないわ」
綾波さんがそう言うなら安心ね。と洞木ヒカリが見上げてくる。
「それなら、お昼ご飯食べてしまいましょ。ほら、綾波さんも座って。お弁当、碇くんのお手製?」
…ええ。と腰を下ろす。
「それにしても…碇くん、昨日までパン食じゃなかった?」
顔の向きから推察するに、これは私への質問ではないらしい。
「おさんどんは当番制だけど、弁当は初挑戦って言ってたなぁ」
「ミサトさんトコ扶養家族が増えたさかいに、節約せなって思たらしいで」
ふうん。と洞木ヒカリ。なんだか納得していない様子の視線を、私の手元に移した。
包みを開けると、半透明の容器にご飯とおかずが詰め込まれているのが見える。
「タッパーって…愛想がないにもほどがあるよ」
そう云えば、急に思い立ったから、弁当箱の用意がないと碇君は言っていた。今度一緒に買いに行かない? とも。
「小っさいのぉ…そんなんで保つんか?」
「…ええ」
充分すぎる。
蓋を開け、箸を取って、いただきます。と言おうとして、途方に暮れた。
…割り箸。
左手だけでは、割れない。
「なんや綾波? …ああ、片手やさけ、箸が割れんのかいな。そういう時ゃあ、歯ぁで噛むんや。そんでな…」
「そんなこと、させられるわけないでしょ!綾波さんも、真に受けてそんなはしたない真似しちゃダメ。ほら、貸して。割ってあげるから」
口元に持っていきかけた箸を、差し出された手に載せる。
綾波さんが何も知らないと思って…、油断も隙もないわ。と呟きながら割ってくれた。
「…ありがとう」
「どういたしまして」
割ってもらった箸で、卵焼きをつまむ。
美味しい。とても美味しいけれど、昨日の夕食や今朝の朝食ほど愉しくはない。
それは、やはり碇君が居ないからだろうか? 向かい側で葛城一尉が飲料缶を積み上げていないからだろうか?
そんな気がする。
でも、独りで栄養調整食品をかじっていた時のような、味気なさはない。このヒトたちとも絆が出来つつあるから?
そうだと思う。
見渡した視線の先で、洞木ヒカリと目が合った。自然と口元がほころぶ。
「そうだ。綾波さん、お茶飲む? カップがひとつきりだから、わたしと共用になっちゃうけど」
なんだか落ち着かない様子で水筒を開けた洞木ヒカリが、お茶を注いだカップを差し出してきた。
「…ありがとう」
どういたしまして。と応える声が、今度は小さい。
受け取ったカップに口をつけて、お茶を含む。途端に押し寄せた温点からの警報は、舌が悲鳴をあげたかのようだ。まるで逃げ出したみたいに咽喉へ引っ込もうとして、呼吸すら阻害しかねなかった。
口腔内の温点からもたらされる情報が、どうにも過剰すぎる。この身体は熱い飲食物に慣れてなくて、感覚が過敏だったらしい。
温点からの情報を幾分か無視して、お茶を飲み干した。
代わりに増大する、痛点からの警告。口の中を熱傷したようだ。
返したカップにお茶を注いだ洞木ヒカリが、口をつけて顔をしかめた。
「綾波さん、火傷しなかった?」
ふうふうと、カップに息を吹きかけている洞木ヒカリに、うなずいて見せる。
「もう少し、冷ましてから飲んだほうがいいと思うわ」
「…そう? そうかもしれない」
豚の角煮を口に含むと、熱傷で味蕾を損なっていて味わいが少なかった。
神経伝達情報を制限したり無視することはできるが、増幅したり生成することは出来ない。迂闊に口中を損なうと、食べることの愉しみが減ると知る。
…今度から気をつけようと思う。
「ごっつぉさんや!」
ぱんっ。と手を打つ音に視線をやると、鈴原トウジの前から大量のパンとおむすびが消え失せていた。私なら、6回分の食事に相当しただろう量。私も洞木ヒカリも、自分の弁当に手をつけたばかりで、相田ケンスケも2個目のパンを平らげたところだったが。
「よいしょっと」
白いビニール袋に、空になった包装紙を詰め込んでいた鈴原トウジが、ビニール袋を縛ってから立ち上がった。そのままフェンス際に歩いていって、両腕を投げ出すようにもたれかかる。
「はぁ~、喰ぅた喰ぅた~」
それを追いかけた先で、洞木ヒカリもまた鈴原トウジに視線をやっていた。なんだか悲しそうなその眼差しが何を意味するのか、私には解からない。
見られていたことに気付いた洞木ヒカリが目を逸らし、ピンク色したポテトサラダを口に運びだす。ふたくち、みくちとなんだか慌しい。私の視線が気になるのか、咀嚼しながら寄越した視線は3度ほど。
「綾波さんは、お料理しないの?」
嚥下し終わったらしい洞木ヒカリが再び口を開いた時、私はさやいんげんのソテーを咀嚼している最中だった。
「…」
もきゅもきゅ。と、さやいんげんの歯ざわりを充分に愉しんでから、見下ろす弁当。思い出すのは、それを作っていた碇君の背中。
「…したこと、ないもの」
こちらをうかがうように、洞木ヒカリが首をかしげている。
「したいと思ったことはない? 例えば、お返しに碇くんに作ってあげたいとか」
「…私が?」
見やった洞木ヒカリの表情を、なんと表現すればいいか判らない。嬉しいとも、優しいとも、途惑いとも違う、期待も不安もすべて混ぜ込んだような複雑さで。
「…」
ヒトにとって重要な、栄養摂取を担う行為。それを、私が。碇君に…
「…してみたい」
なにやら独りで納得したらしい洞木ヒカリが、うんうんと頷いている。なんだか、ずいぶんと嬉しそうだ。
「それなら…お料理、教えてあげよっか?」
弁当箱を膝元に置いて、指を組み合わせるように両掌を合わせていた。
「…洞木さんが?」
「ええ」
洞木ヒカリの弁当箱に、視線を落とす。
さっき見た、ピンク色したポテトサラダ。綾波レイの少ない経験の中にも、本で知りえた知識の中にもなかった存在。…なぜか、心惹かれる。
洞木ヒカリに料理を教われば、その作り方も伝授されるだろうか?
碇君はそれを食べてどう思うだろう? 私の作った、ピンク色したポテトサラダを。
…
「…お願いします」
「ええ、任せて」
胸元に掌を当てて、洞木ヒカリが頷いた。
「細かいことは後で決めるとして、お弁当食べちゃいましょう。お昼休み、終わっちゃうもの」
「…ええ」
視線を戻そうとして、気付いた。
「…碇君の、お弁当」
白いナプキンに包まれたままの弁当が、そこにあった。
つづく
2008.04.06 PUBLISHED
2008.06.01 REVISED