医療部の通路を曲がった先に、ロビーがある。そのベンチに腰かけて、碇君の姿があった。
「…なに、泣いてるの?」
「綾波……」
涙を拭うのに忙しくて、私に気付いてなかったらしい。
「ごっごめん……、ちょっと嬉しいことがあって」
「…嬉しいこと?」
うん。と頷いた碇君は、それでまた何を思い出したというのか、治まりかかっていた涙をまた溢れさせている。
でも、綻んだ口元はとても嬉しそうで、だから私も嬉しい。
ハンカチを取り出して、渡す。赤木博士が買い与えてくれた――伊吹二尉が選んでくれた――衣料一式の中に入っていて、持ち歩くことはするようになったけれど、使うのは初めて。
ありがとう。と受け取った碇君が落ち着くまで、少し時間がかかった。
「父さんが、これまでのことを謝ってくれたんだ。すまなかった。って、頭を下げて
いままで、よくやってくれた。と褒めてもくれたんだ」
これ、洗って返すから。とハンカチを仕舞っていたのに、碇君はそう言うなりまた目尻を潤ませる。
こういう時、どんな顔をすればいいのか判らない。
「それに、僕に弟か妹ができるらしいんだ。母さんと一緒に、初号機の中で眠っていたんだって
僕、お兄ちゃんになるんだって」
「…おにいちゃん?」
そう口にした途端に跳ねた鼓動が、私に思い出させてくれた。
かつて私が初号機であった頃、私の中へと溶けた存在があったことを。名前も与えられず、還ることも生まれいずることもなく、私のココロの礎となったヒトが居たことを。
碇ユイの娘。碇君の妹。このヒトがくれたココロが、私の源だった。
目の前には、照れたような笑顔。はにかむ。と言うのだろう。
碇君の笑顔を見て嬉しくなるのは、私のココロの中に、このヒトのココロが生きているから、息づいているからだと教えられる。
「まだ、実感なんか湧かないんだけどね」
大丈夫。碇君は、きっといいおにいちゃんになれる。
乱暴に目元を拭った碇君が、立ち上がった。自然と後を追った視界の中に壁掛け時計があって、指定された時間を過ぎていることを示していた。
「お兄ちゃんになるんだから、しっかりしなくちゃ」
「…そう、よかったわね」
何を驚いたのか、碇君が目を見開く。
「…じゃ、呼ばれてるから」
あっうん。と頷いた碇君は、本当は私を呼び止めたかったのではないだろうか?
***
「貴女が……、綾波レイちゃんね」
「…はい」
続き間になっている501病室のベッドの上で、碇ユイはリクライニングに体を預けて上半身を起こしている。両腕は投げ出されたようにシーツの上で、もしかしたら上手く体を動かせないのかもしれない。
浮かべた笑顔に、隠すような途惑いを、以前の私では気付けなかっただろう。
「今の生活はどうだ」
ベッドの向こう側に、碇司令。憔悴の度合はさらに進行しているようで、目元の隈は筆記具で塗りつぶしたかのように黒い。
碇ユイの帰還はこのヒトにとっても福音となると思っていたのに、とてもそうは見えなかった。それでいて見下ろしてくる視線は、私そのものを見ているように思える。
それが理解できないのは、私がまだヒトであるとは言い難いからに違いない。
「…赤木博士の帰宅が遅いので、少し寂しいです」
「そうか…、寂しいということを覚えたか」
ベッドを回り込んで、碇司令が歩いてくる。
「この子もまた、私と貴方の罪……なのですね」
「違う。俺の、俺だけの罪だ」
碇ユイに向けた視線を私に戻した時には、碇司令の虹彩が揺れていた。
「葛城三佐がお前を引き取ると言い出したときは、それで使い物にならなくなれば乗せかえればよいと考えていた」
この肉体を殺して、ターミナルドグマから新たな綾波レイを連れ出すということだろう。
「だが、今となっては、お前が感情を持てるようになったことが、わずかばかりでも贖罪になることを願うばかりだ」
残り2歩分の距離を残して、立ち止まった碇司令。見下ろしてくるその眼差しが、ひどく優しくて、哀しい。
「レイ、すまなかった。お前の願いは、俺が植えつけたものだ」
背中が見えるほどに、下げられた頭。
すべては私が悪いのです。と口を開いた碇ユイが、バランスを崩して倒れそうになる。すかさず歩み寄って支えた碇司令の、背中が小さく見えた。
「俺のエゴを叶えるために、お前を利用しようとしていた」
…
沈黙は、応える言葉を知らない私がもたらしたもの。
今の私はあまりにも変わってしまっていて、もう綾波レイのココロを慮ることができない。綾波レイならどう受け止めたか、推し量ることができない。
もちろん、私のココロの一部は、この肉体が持つ記憶によって支えられている。それがもたらす渇望を、理解できた時期もあった。けれど、私は私。綾波レイは綾波レイ。…だもの。
振り返った碇司令が、再び頭を下げた。
「赦してくれとは言わん。すべての責任をとる覚悟はある」
碇司令に何も求めず、碇司令の思惑を潰しにきた私には、碇司令のエゴなど、何の意味もない。
「…赦すまでもない。私の願いは、もうそこにはないもの」
「赦してくれるというのか?」
面を上げた碇司令の、目が見開かれている。
「…そうとりたければ、そうとればいい」
私は綾波レイではないから、碇司令を赦す権利などあるわけがなかった。もちろん、赦さない権利も。けれど、碇司令が勝手に思い込むというのなら、それでかまわない。
崩れるように膝を着いた碇司令が、両手を床について肩を震わせている。
それを見る権利も当然ないはずなのに、義務であるかのように目が離せなかった。
****
惣流アスカラングレィはこのところ、このようにアンビリカルブリッジから弐号機を見上げていることが多いと聞く。
「…なに、してるの?」
こぶしを腰にあてた姿勢のまま、少し落とした視線。
「さあ…て、自分でもよく解からないのよ」
惣流アスカラングレィを探してケィジまで来たのは、さっき医療部で会った碇君の笑顔が忘れられないから。まるで網膜に灼き付いたかのように、まぶたを閉じると浮かんでくる。
「…お母さんに、会いたい?」
弾けるようにこちらを向いた惣流アスカラングレィは、私の顔を見つめて、それから再び弐号機を見上げた。
「…」
何かを呑み込むような頷き。
「そうね。会いたくないと言えば嘘になるわ」
ううん。と振ったかぶりに乗せた視線を、そのまま逸らし。
「会いたかったから、弐号機を追い込んだり、したの」
口の端を吊り上げるようにして「ううん、あれはほとんど脅迫ね」と苦笑。
「おかげで触れ合うだけなら、弐号機に乗るだけで、できるようになったわ」
そうして弐号機を見上げなおした視線を、なんと呼べばいいのだろう。
「初号機とは違うのかしらね? 暴走しただけじゃ、ママは出てきてくんないみたい」
もちろん、それは違う。だからこうして、惣流アスカラングレィの想いを聞きに来たのだ。
「…お母さんに、会いたい?」
いま一度私を見た惣流アスカラングレィは、驚いたことにかぶりを振った。
「ママは、ワタシを護れる力を得て、そのことに満足しているみたい
だから、そのことを尊重してあげたいの。今は、ママが選んだ方法で護られていてあげようってね」
背中側から回した左手で右腕を掴み、何かを蹴るようにして1歩、こちらに。少し嬉しげで、でもやっぱり寂しげな、仕種。
「このあいだは護りきれなくて、少し落ち込んでるみたいだったから、気にしないでって言いに来たりしたけど……」
私の顔に何を見出したのか両眉を上げた惣流アスカラングレィが、腰に両手を当てて胸を張る。
「ワタシね? 全てが終わったら研究者になるわ。そうしていつか、ワタシのこの手でママを連れ帰って見せる」
とりあえずはリツコに弟子入りかしら? と笑った惣流アスカラングレィが、なんだか眩しかった。
つづく