碇ユイが目覚めたらしい。
らしい。と云うのは、詳細がはっきりしないから。
やはり501病室に篭りっきりの碇司令は、医師を除いて余人の入室を許さないのだそうだ。
葛城三佐に勧められて面会に行った碇君も、すげなく追い返されたという。
定期検診を終え、その結果を赤木博士に報告しに行く途中、通りがかったロビー。
そのプラグスーツを見た途端、どうしていいか解からなくなって立ち止まった。たしかに碇君は帰ってきてくれたけれど、それは、なにもかもが解決したという意味ではない。
11-A-2号室や教室には誰か他のヒトが居たから、そのことに向き合わずに済んだ。いま碇君と二人きりになったとしたら、302病室での出来事が再現されるかもしれないことに。
哀しいのに悲しくなかった私のココロはいい。私だけのものだから、それさえ自分の宝物にできる。
けれど、ココロをぶちまけざるを得なかった碇君の胸の裡は判らない。そうして家出した碇君の苦悩を解かってあげられない。なにより、孤独を欲したヒトに、ヒトは何もしてあげられない。
いま二人きりになって、また碇君を傷つけてしまったら……。今度も帰ってきてくれるとは限らない。
それが問題の先送りに過ぎないことは、判ってはいるけれど……、
「おう!綾波やないかい」
逃げ出そうとして果たせず。けれど、自動販売機から飲料缶を取り出して振り返ったその姿は、碇君じゃなかった。
「貴サンも休憩かいな?」
なぜ鈴原トウジが、碇君のプラグスーツを着ているの?
「ん? なんや?
ああ…、これかぃ? さっきも間違われたんヤけど、わしのンは数がナイんやそうでな? シンジのヤツを借ったんや」
買った? プラグスーツを?
手にした飲料缶を開栓した鈴原トウジが、一口。 …ではなくて飲み干した。
ぷは~。と息を吐き出すさまが、なんだか葛城三佐に似ている。
空き缶を捨てに往復した鈴原トウジが、「ん? …そうや」と私の目前に。
「綾波、いろいろ迷惑かけたみたいで、すまんかったな
そんで、救けてもうて、おおきに。ありがトう」
深々と。と、そう表現するのだろう。鈴原トウジのおじぎは。
「…どう いたしまして」
面を上げた鈴原トウジの見せた笑顔を、なんと表現したらいいのだろう。彼を救けられてよかったと、その気持ちでココロが充たされるような。そんな笑顔。
…けれど、参号機はもう無いのに。
「…なぜ、ここにいるの?」
「あぁ。わし、予備んパイロットってことンなってな?」
こないして。と襟元をつまんで見せた鈴原トウジが、音を立ててベンチに座り込んだ。
「シンクロテストんのデータ収集っちゅうのんのお手伝い。っちゅうワけや」
「…そう」
後ろ手をついて天井を見上げた鈴原トウジの、眉根は寄っているのに、笑顔がやさしい。
「まあ、えるしぃえるっちゅうのんが気っショいのんをガマンすりゃあ、妹の治療を続けてくれるっちゅうんやから、ありがたいこっちゃやで」
「…そう。よかったわね」
おう!と応えた鈴原トウジが、また、あの笑顔。
「そういやぁ、今ぁセンセの番でな。そろそろ終わりやと思んやが…」
思わず後退さった左足を止めることができず、
…そう。とだけ、残した。
****
予備パイロットとして残留することになった碇君は、今日もシンクロテストだそうだ。
ゼルエルとの戦いのあと、委員会の勅命により初号機と弐号機は凍結されている。
それを埋め合わせるために量産型の本部配属が検討されているらしく、それに備えてのデータ取りなのだとか。
惣流アスカラングレィは、きっとケィジ。赤木博士によれば、このところアンビリカルブリッジから弐号機を見上げていることが多いらしい。
することもなく、葛城三佐の「どうせだからペンペンと遊んであげててねん♪」という言葉に従って、こうして将棋を指していた。
「クワっ」
ぱちん。と駒を打ちつけて、ペンペンが顔を上げる。
「…そう」
あれは角。斜めに好きなだけ動ける駒。さっき取られた駒。あの位置はきっと私の飛車への牽制で、なおかつ次の一手で懐に潜りこむこともできる。
この小さな盤面の上で、10の71乗もの局面が展開するという。この宇宙にある恒星の数すら遥かに凌ぐ展開量は、計算や虱潰しでは読みこなせない。初めて指した時、あまりの処理数に途惑って、葛城三佐が声をかけてくれるまでの1971回ぶんの間悩んだ。
盤面を見渡して目分量で勢力が読めるようになれば、直感で指せるようになるわ。と将棋を教えてくれた葛城三佐は、私相手に飛車角落ちで相手してくれるペンペンを相手に、飛車角落ちで圧勝する。
私ではその意図が読めないところに打たれた駒に、ペンペンが目を見開いたのを、何度も見た。
ペンペンの陣地に飛び込ませるつもりだった飛車を戻して、ペンペンの角が成るのを牽制すべきだろうか?
それとも…。と他の手を探そうとしたとき、電話機のベルが鳴った。
「…待ってて」
クワぁ~っ。とフリッパーを振るペンペンを残して、ダイニングの子機を取りにいく。
しかし、呼び出し音は1回のみで留守番電話に切り換わってしまって間に合わない。
≪ はい、ただいま留守にしています。発信音の後にメッセージをどうぞ ≫
『 葛城、俺だ。多分この話を聞いている時は、君に多大な迷惑をかけた後だと思う
すまない。リッちゃんにもすまないと、謝っておいてくれ 』
どうするべきか、迷う。
『 あと、迷惑ついでに俺の育てていた花がある。俺の代わりに水をやってくれると嬉しい
場所はシンジ君が知ってる 』
吐いた息を、吸い戻したような気配。
『 葛城、真実は君とともにある。迷わず進んでくれ
もし、もう一度会える事があったら、8年前に言え… 』
「…加持一尉」
思わず、受話器を取っていた。どうするべきか、答えもないままに。
『 … レイちゃん…かい?』
留守番機能が停止したことを報せる電子音が、短く。
「…貴方は、なにをしようとしてるの?」
洩れた吐息は、苦笑?
「…葛城三佐を悲しませるようなことをする気なら、赦さない」
『こりゃ参ったな…』
クワ~? とリビングから覗き込んできたペンペンに掌を見せて、待って。と伝える。
『すまないが、』
その声音に、話す気がないことを感じ取ったけれど、加持一尉が何をするつもりかは重要ではないことに気付いた。
「…今すぐ葛城三佐に連絡します」
『ちょっと待った!いま知られると拙い』
「…そう、よかったわね」
嘆息。吐き出した息が重いのか、耳障りな音を立てている。
『 わかった。葛城を悲しませるような真似はしない』
電話機の録音機能を起動。
「…この通話を記録します。もう一度言って」
『いやはや、信用無いなぁ…』
加持一尉が何をするつもりかは判らないけれど、それを確実に止める方法は無いのだ。嘘をつかれたら、それまで。
採るべき手段を、選んでいられない。
「…先ほど留守番電話に吹き込まれた内容も消去します。伝えたいなら、直接どうぞ」
参ったなぁ。と再び嘆息。
『負けたよ。葛城を悲しませずにすむよう努力する。それでどうだい?』
携帯電話を取り出した。ジオフロントは防諜のために携帯電話への直接通話はできないから、かけるのは発令所だ。
『 レイちゃん?』
加持一尉の呼びかけは、無視。
「…青葉二尉ですか? 葛城三佐に取り次い…」
『待った!わかった。わかったから!』
…やはりいいです、ごめんなさい。と携帯電話を切って、待つ。
3回目の嘆息は、すこし遠かった。
『 葛城を悲しませるような真似はしない。誓うよ』
ヒトの絆は、言葉の力に拠らないと、タブリスは言っていたけれど。…私には判らない。言葉の力を以ってしても、私では…
「…そう。なら、そうして」
受話器を置いた。
留守番機能の録音内容を消去。…しようとして、思いとどまる。もしもの場合に、加持一尉の言葉を残しておいたほうがいいと思うから。
電話台の抽斗から予備のマイクロテープを取り出して、交換。それまで使っていたマイクロテープを手に、リビングへ戻る。
加持一尉は、約束を守るだろうか?
葛城三佐に連絡するのが最善だとは、思うのだけれど。
「クワっっ!!」
ひどく慌てた声にペンペンを見やると、葛城三佐との対局中みたいに目を見開いていた。
何を驚いているのだろうと、ペンペンの視線を追いかける。
9×9のマス目の中、……
「…3五、マイクロテープ?」
無意識に打ってしまったらしい。
つづく