待つしかないかと閉じかけたまぶたを、やはり開けた。
先ほど私に接触してこようとした気配。あれは使徒。よく知らないヒトだけれど、きっとイロウル。第11使徒。
ならば、どういう相手であるか。どう斃されるのか。見ておくべきだと思ったのだ。
シミュレーションプラグを出ると、ジオフロントの地底湖だった。
LCLに濡れた肌に、夜気が冷たい。今なら水中の方が暖かく感じるだろうと考えて、ためらいなくシミュレーションプラグの外壁面を滑り落ちた。
「…っ」
飛び込んだ勢いで完全に水中に没した時、右第九肋骨が肺に触れた。呼吸器内まで取り込むLCLと違って、水圧が容赦ない。
冷たい湖水はとても心地よいのに、肺への圧迫が呼吸を妨げる。この体にとって負担の大きい領域と知って、体が口元まで沈んだ。
そういえば、私の使っていたこのシミュレーションプラグが一番岸から遠かったように思う。思わず洩れた溜息が、あぶくとなって鼻先をくすぐる。この身体が水に馴染むようなのが、せめてもの慰めだった。
肋骨をかばいながら身体のひねりだけで泳ぎ進んでいくと、目前に別のシミュレーションプラグ。迂回するより、潜り抜けてしまったほうが早い。事前にそうと判っていれば、多少の水圧くらいは耐えられるだろう。
…
けれど…
潜るために肺の中から追い出した空気をまた吸って、そのままシミュレーションプラグに泳ぎ寄ってしまったのは、それが、惣流アスカラングレィの乗っているシミュレーションプラグだろうと推測できたから。
使徒殲滅にこだわる惣流アスカラングレィには、そのことを伝えるべきではないかと思ったから。
救出ハッチは水没していて使えないから、メインスライドカバースイッチを開く。イジェクションカバー排除レバーに手をかけると、イジェクションカバーがシミュレーションプラグの頭側に吹き飛んだ。
脱出ハッチを開けた瞬間、LCLを突き破って打ち出されたのは、こぶし? ハッチの狭さとLCLの抵抗で鋭さはなかったけれど、思わず胸部を庇ってしまった動作がわざわいして、前頭部に当たってしまった。痛みに一時身体のバランス制御がおろそかになって、そのまま尻餅をつく。
…痛い
「こんの、バカシ…」
顔を出した惣流アスカラングレィは、しかし咳き込んで、すぐさまLCLの中へと戻ってしまう。おそらく、肺と気管の中でLCLと空気を混ぜ合わせてしまったのだろう。
しばらくして再び顔を出した惣流アスカラングレィに向けた視線に、非難を乗せた。
「…どうして、こういうことするの?」
まだ痛む前頭部を、両手で押さえる。白いエヴァンゲリオンだった頃に、弐号機に殴られた時と同じ痛み。同じ気持ち。痛覚を遮断しても、なぜかまだ疼く。
やぶにらみの表情のままでまた水没した惣流アスカラングレィは、右手だけを差し出し、人差し指を2度動かした。
来い。ということだと思うので、姿勢を直して脱出ハッチの中を覗き込んだ。
逆さまの惣流アスカラングレィは、私の頭を挟むようにして掴むと、
『アンタ、バカぁ!こんな状況でハッチ開けられたら、トチ狂ったバカシンジが見目麗しい惣流アスカラングレィ様の御姿を一目拝もうと邪な考えでやってきたと思うのが当然でしょ!』
捲くし立てた。
「…そう? よく判らない」
話そうとすると気泡が立ち昇って、うまく伝わらないかもしれない。それに、鼻腔に流入してきたLCLが、今は異物感を感じさせるばかりで、落ち着かない。
『入って来なさい。会話になんないわ』
柳眉を逆立て仁王立ちで命令してくる。こういうのを、有無を言わせず。と言うのだろうか?
このままでは息苦しくなる一方だし、たしかに会話も成立しづらいようだから、そのまま頭からシミュレーションプラグに滑り込む。
身体の上下を反転させてLCLを吸い込むと、肺と右第7肋骨がこすれて、少し痛い。
「で? 何しに来たのよ、そんなカッコで?」
「…使徒が来てるわ」
「なんで? どうして?」
質問が抽象的過ぎて、何が訊きたいのかよく判らない。けれどおそらくは、なぜ判るかということだろう。
「…さっき、模擬体の制御を奪われたわ。何かの破壊工作かも知れないけれど…」
「 使徒の可能性が高い…って、アンタは思うワケね?」
顎を引いて、上目遣いに見上げてくる惣流アスカラングレィに、頷いてみせる。
「…ええ。だから、発令所にいくつもり。でも、惣流さんにも伝えておくべきだと思って」
「発令所って、そのカッコで…?」
もともとヒトでなかった私に、羞恥心と呼ばれるものはない。とはいえ、人前では衣服を着るべきだという常識はある。
「…もちろん、更衣室に寄るわ」
「たいして変わんないわよ!まったくアンタってコはホントに…」
惣流アスカラングレィが慌てて口を塞いだ理由が理解できたから、窺うようなその眼差しに微笑みで応えた。
「…人目につきにくい通路も知っているから。貴女は、どうするの?」
「ワタシは… こんなカッコで出歩いたり、できるワケないじゃない」
紡いだ言葉に引き摺られるように、惣流アスカラングレィの視線が下がる。
…
結論は出そうにない。
「…それじゃ、行くから」
シミュレーションプラグを出ようとした私の手首を、惣流アスカラングレィが掴む。
「…」
揺れる虹彩に見えるものを、葛藤と呼ぶのだろうか? 掴まれた手首は痛いほどなのに、とても結論がつきそうにはなかった。
「…更衣室に着いたら、着替えを持って迎えに来るわ。それでどう?」
「どうって…いいの? アンタ、そんな…」
ええ。と頷く。一度引き返してくるくらい、たいした労力ではない。それに、イロウルはエヴァンゲリオンなしで殲滅されるはずだ。それほど急ぐ必要はないだろう。
「どうして、アンタ。そんなにワタシのこと…」
一旦逸らした視線を再び持ち上げた惣流アスカラングレィは、言葉の続きを待つ私を見て、なにか諦めたようだった。
「 気にかけてくれんの?」
気にかけている? 私が惣流アスカラングレィを?
いや、私が気付いてなかっただけで、私は気にかけていたのだろう。感情表現豊かで気性の激しい、この女のヒトを。
それはきっと、私の持っていないものを沢山持っているから。
「…あなたみたいに、なりたいから」
「ワタシみたいに?」
頷く。
「…もちろん、あなたそのものになれないことは解かっている。でも、あなたみたいに、自分というものをしっかりと理解して、表現できるようになりたい」
それが、ヒトになることだと思う。
「 しっかりと理解して…ね 」
口中で呟いた言葉は、LCLの中でなければ立ち消えて聞こえなかっただろう。
「まっ、いいわ。こうしてるあいだにも使徒が侵攻してるかもしんないし、行くわよ」
私を押し退けるように脱出ハッチへ身体を押し上げた惣流アスカラングレィが、あっという間にシミュレーションプラグから出てしまった。
いったい、惣流アスカラングレィにどのようなココロの変化が訪れたというのだろう?
思わず首を傾げた私を、脱出ハッチから突き入れられた惣流アスカラングレィの右手がせわしなく手招きした。
***
……なんだか、長い道のりだったように思う。
更衣室までの間、惣流アスカラングレィは事あるたびに私の陰に隠れるように引っ付くので、とても移動しづらかった。
しがみつかれた拍子に右第八肋骨が肺を圧迫した時など、洩らした苦鳴におどろいて怒り出すし。
なぜ、私が叱られなければならないのだろう?
だから、無事に更衣室でコルセットを着けたとき、安堵で溜息をついてしまった。
それを見咎められて、また叱られたのだけれど。
こうして本部棟まで戻ってきて気になるのは、地底湖に残してきた碇君のこと。もう一つのシミュレーションプラグに向かおうとした私を、惣流アスカラングレィが止めた。「男なんだから問題ないわよ」と言うが、なぜ男なら問題がないのか、「当たり前のコト訊くんじゃないわよ」と、それは話してくれない。
発令所で交わされていた会話から推測して、MAGIフロアに下りてきた。躯体を持ち上げられたカスパーの入り口に葛城三佐。伊吹二尉の姿もある。
「あら、レイにアスカ。あんたたちどうやってここまで…」
「ワタシたちを迎えにくんのは、アンタの職務のうちだと思うんだけどね?」
途端に口論を始めてしまった葛城三佐と惣流アスカラングレィを置いて、カスパーの中に這い入る。
「あら、レイ。貴女…」
「…赤木博士。手が止まってます」
発令所で、大体のあらましは理解してきた。イロウルがマイクロマシンのような微細な使徒で、模擬体からハッキングをかけてきているのなら、確かにエヴァンゲリオンの出番はないだろう。
「何しに来たの?」
視線もくれない。手も止まらない。でも、声音に拒絶はない。
「…使徒、殲滅に」
「そう。でも、今回は出番、ないわよ?」
「…はい。ですから、戦っている赤木博士を見に、来ました」
キーボードを叩く指が、一瞬止まった。
「そう。まあ好きにしなさい」
そっけない口調とは裏腹に、雰囲気が柔らかくなった気がする。
『来たっ!バルタザールが乗っ取られました!』
≪ ・人工知能により 自律自爆が決議されました 自爆装置は三審一致ののち 02秒で行われます 自爆範囲はジオイド深度マイナス280 マイナス140 ゼロフロアーです ≫
足を前に投げ出し、膝に顎を預けるようにして座りなおした。
≪ ・特例582発動下のため 人工知能以外のキャンセルは出来ません ≫
『バルタザール、さらにカスパーに侵入!』
赤木博士の眼鏡が、照り返しで光っている。
『該当する残留者は速やかに待避してください。繰り返します、該当地区残留者は速やかに待避してください』
≪ ・自爆装置作動まで あと20秒 ≫
『カスパー、18秒後に乗っ取られます』
気負いも焦りもなく淡々とキーボードに向かう姿を、なんと表現したらよいのだろう。私はまた、赤木博士にも憧れていると知る。
≪ ・自爆装置作動まで あと15秒 ≫
「リツコ…急いで」
躯体の外から、葛城三佐の声。
「間に合うんでしょうね?」
惣流アスカラングレィの声にも、怯えが見える。
葛城三佐も惣流アスカラングレィもここに来て、赤木博士の姿を見ればいいのに。そうすれば、恐れることなど何もないと理解できるだろう。
≪ ・自爆装置作動まで 10秒 ≫
「大丈夫、1秒近く余裕があるわ」
≪ ・9秒 ・ 8秒・ ≫
「「1秒って」」
≪ ・7秒 ・ 6秒・ ≫
「ゼロやマイナスじゃないのよ。マヤ!」
≪ ・5秒 ・ 4秒・ ≫
『いけます』
≪ ・3秒 ・ 2秒・ ≫
「押してっ」
≪ ・1秒・ ≫
≪ ・0秒・ ≫
・
・
・
…時間が止まれば、こんな静寂が訪れるのだろうか。
≪ ・人工知能により 自律自爆が解除されました ≫
…
『 『『『「「「「「 ぃやったぁー! 」」」」」』』』』 』
歓声も、カスパーの中では遠い。
内壁にもたれかかった赤木博士に、かける言葉を探す。
「…おつかれさまでした」
「もう歳かしらね、徹夜がこたえるわ」
見せてくれた笑顔は力ないけれど、赤木博士がそのココロを見せてくれたように思えて嬉しい。
***
「…赤木博士?」
本当に疲れていたのだろう。
帰宅した赤木博士は自室に敷布団を敷くなり、倒れるように寝入ってしまったのだ。ふすまも開け放したままで。
押入れから掛け布団を出して、かけてあげる。
泥のように眠るとは、このような状態を言うのだろう。寝息が深い。
その眼の下に、隈。
このところすっかり薄くなっていたのに、今はくっきりと浮かんでいる。指を這わすと、そこから疲労が染み込んできそうだった。
途端に、音をたてそうなほど縮こまった胸郭。今感じた想いを、なんと言い表せばよいのか、知らない。
自分は、いったい何を欲しているのだろう?
判らないけれど、ただただこの場を離れがたくて、布団の中に、赤木博士の傍に、そっと潜りこんだ。
つづく