歩道橋のエスカレーターを降りると、スカートのポケットの中で鈴が鳴った。
碇君が沖縄のお土産としてくれた、シーサーという形而上生物のマスコットが付いたストラップ。勧められて、携帯電話に着けている。
鳴るたびに碇君との絆を感じさせてくれていた鈴の音が鈍く聞こえるのは、布越しだからだけではないように思えた。
あまり鳴らないように、足運びを抑えてしまう。碇君との絆が要らないわけでは、ないのに。
***
「ひくっ…」
しゃっくりのように喉が鳴った瞬間、洞木ヒカリの体毛が全て逆立ったのが、見えたような気がした。
私の作ったポテトサラダを味見するために頬張った、直後のことだ。
「…」
こめかみから滲み出た汗を滴らせるままに、ゆっくりと咀嚼している。回れ右するように背を向けた洞木ヒカリはそのまま前進して、冷蔵庫から円筒形の飲料サーバーを取り出した。
あの飲料、知ってる。番茶。セカンドインパクト以降、昼夜での寒暖差が少なくなった日本では、一番茶でもタンニンが多くて番茶にせざるを得ないのだそうだ。
特に好きって訳じゃなかったけど、飲めないとなると恋しくなる時もあるわね。と、食後に番茶を出されたときに赤木博士が言っていた。
あんたの給料なら安いもんでしょ。と飲料缶を傾けた葛城三佐に「ちゃんとしたものを探すとグラム1万を越えるのよ。流石にそこまではね」と返した赤木博士の溜息を憶えている。
きっかり90度の方向転換を行なって流し台に相対した洞木ヒカリがガラスコップに番茶を注ぎ終えるのと、その口中を嚥下し終わるのが同時。
「…」
一息に飲み干した洞木ヒカリが、ガラスコップを置いてこちらに向き直った。
「綾波さん、コショウが多すぎ」
「…そう?」
試しに一口、頬張る。
確かにコショウの刺激が強いように、味覚が伝えてきた。けれど、そのことのへの反応が、ココロでもカラダでも、うすい。
「…よく判らない」
碇司令の言葉を聞いてから、それを聞いた碇君の表情を見てから、味覚は私に喜びを与えてくれなくなった。私にとって食事の歓びとは、一緒に食べてくれるヒト、作ってくれたヒトとの絆だったから、当然の帰結。……なのかも知れない。
食べることの歓びを感じられない今、作ることへの興味も失せていた。いつになく強引に洞木ヒカリが「約束でしょ」と念を押してくれなかったら、ここには来なかっただろう。
絶対に多すぎ。と洞木ヒカリが番茶をお代わりしているのを見て、もう一口、頬張る。
コショウの刺激は、やはり何の反応をも引き出さない。けれど、それでもこのポテトサラダは、ポテトサラダとして味を認識できた。それは洞木ヒカリとの絆の賜物だと思うから、……
「…そうかもしれない」
綾波さん、味覚は鋭い方だと思っていたけど……。とガラスコップに再び番茶を注いで、洞木ヒカリがこちらに。
差し出されたガラスコップを受け取る。けれど、番茶を飲み下す気になれない。
…
「もしかして、綾波さん。心配事とか、ある?」
「…なぜ、判るの?」
なんとなく、だけど……。と一歩下がった洞木ヒカリが食器棚に背中を預けて、「アスカも碇君も、なんだかよそよそしかったから」と視線を落とした。
もし私が当事者でなければ、碇司令の言葉を聞いた瞬間の碇君の表情を見ていなければ、とても碇君のココロを推し量ることなどできなかっただろう。
それを、なんとなく。で読めるのは、洞木ヒカリがヒトだからだろうか? 同じヒトだからこそ結果から原因を察しえるのだろうか?
テーブルに置いたガラスコップは、ことさら乱暴に扱った覚えはないのにその水面を波立たせて、荒い。
「なにか力になれればって、思ったんだけど……」
水面から剥がした視線を、洞木ヒカリに向ける。その眉根を落とすように寄せて、……困惑の表情? …いいえ、
「…ありがとう」
洞木ヒカリが、まるで我が事のように心配してくれてると判ったから、感謝の言葉は自然と。
「…でも、きっと話してはいけないと思うから」
事情を話すとなれば、碇司令の言葉に触れざるを得ない。けれど、あの労いの言葉が論功行賞の一環だとすれば、おそらく守秘義務に抵触する。
笑顔を向けたかったのに、笑顔を向けるべきだと判っているのに、眉根が寄るのを抑えられない。落ちた視線の先にガラスコップ。その水面にはもはや波一つないのに、このココロは……
「…ごめんなさい」
「あっ、いいのよ、綾波さん。わたしのほうこそ、ごめんなさい。立ち入った真似しちゃって」
一歩踏み寄ってきた洞木ヒカリの、覗き込んでくるその顔に、笑顔。眉根を寄せたまま、口の端を引き締めたまま、なのに笑顔。
それはきっと、自分のココロを偽る仕種。けれど、それは他者のために、今は私のために。自分のココロより、他者のココロを思いやって。
このこと知ってる。やさしさ。きっとそれこそが、ヒトの毅さ。
だから、笑顔を返せた。眉根を寄せたままだけど、口の端を引き締めたままだけど、おそらくは洞木ヒカリの笑顔と、同じ笑顔で。
「…ありがとう」
唐突に視線を逸らした洞木ヒカリが、自らの視線を追いかけるように背を向けた。
「う、うん…その、どういたしまして……」
なにやら複雑に組み合わせていた指を止めて、「そうだ」と振り返る。
「綾波さん。元気の出るおまじない、教えたげる」
「…おまじない?」
ええ。と踵を返して流し台へと歩み寄った洞木ヒカリが、戸棚から片手鍋と金属製のバットを取り出した。
バットに張った水を、たちまち捨てて、そのまま冷凍室にしまう。何も載せてないバットを冷やす行為にココロ惹かれるものを覚えて、歩み寄る。
このこと知ってる。好奇心。知らないことを知りたいと思うココロ。
片手鍋に張った水は捨てずに、点火したガスコンロへ。三温糖とラベリングされた容器から掬い上げた茶褐色の粉末を、2度3度と片手鍋に投入している。
「…なに?」
「まず、べっこうあめを作るの」
「…べっこうあめ?」
ええ。と、ゴムベラを取り出した洞木ヒカリが、片手鍋の中身を掻き混ぜだした。
熱が加わるにつれ、茶褐色の液体に粘性が増していっているように見える。洞木ヒカリは、いったい何を作ろうというのだろう?
こんなとこかな。と火を止めた洞木ヒカリが、シナモンパウダーを手にした。
「綾波さん。冷凍室からバットを出してくれる?」
「…ええ」
冷凍室からバットを取り出して振り向くと、片手鍋を手にした洞木ヒカリがテーブルの傍らで手招きしていた。「ここに置いてくれる?」と指図されるままに、テーブルの上に。
「よ~く、見ておいてね」
片手鍋を傾けて、茶褐色の液体を細くバットに垂らしだす。左から右へと一文字に引いた線を、36度ほどの角度で左下へと折り返した。そこからまた36度ほどの角度で右上へと折り返し、次は右下、さらに左上と繰り返されて始点へと戻ってくる。そうして描かれたのは、☆のような図形。
「こうやって好きな形や言葉を書くの。綾波さんもやってみて」
はい。と鍋敷きの上に置かれた片手鍋に、手を伸ばす。
…好きな形、……好きな言葉。
すぐに思いついた言葉はしかし、この筆記具で書くには適さない。ひらがなでも、カタカナでも、難しいだろう。だから……
「n?」
筆記体で描いた文字を、洞木ヒカリが口にした。
頷きだけを返して、続けてexusと描く。
「ネク…サス?」
「…ええ。好きな言葉」
片手鍋を鍋敷きの上へと置いて「…絆」と呟くと、口元から温もりが拡がるよう。
「いい言葉ね」
「…ええ」
それじゃあ…。と伸びた手が、バットの上から☆を取り上げた。冷えて、固まったのだろうか? そのために、バットを冷凍室で冷やした?
「こうして作ったべっこうあめを、食べるのよ」
☆の一角を齧り取った洞木ヒカリが、その頬を緩めている。
さあ、綾波さんも。と促されてnexusを手にするけれど、
「…食べなくては、ダメ?」
「それが、おまじないだもの」
…そう。と言ったその口で齧り取る、nの字のγの部分。それは、とてもとても、
「…あまい」
歓びを伴わなくなった筈の、私の味覚に、頬が痛くなるほどの甘味。
これが、おまじない。ショ糖と水だけで作られて、なのに私の機能不全を回復せしめる。洞木ヒカリのおまじない。
どう? と笑顔で覗き込んでくる洞木ヒカリに頷いて見せると、甘いべっこうあめにしょっぱい泪滴が降りかかった。
「綾波さん!?」
慌てる洞木ヒカリに、かぶりを振り。もう一口、べっこうあめを齧り取る。
「…ありがとう」
うん。と目を細めた洞木ヒカリが、その手を私の背中に添えてくれた。
「どういたしまして」
***
コショウの入れすぎでとても食べられないポテトサラダは、洞木ヒカリの手でココットと言う料理にされて夕食に供されたそうだ。
それもまた、洞木ヒカリのおまじないなのだろうか?
つづく