…雨
降りしきる雨。
太古、雨は創造主の涙だったという。全てに染み込んで、遍く行き渡る。
もしかして、あの溶解液はマトリエルの涙だったのだろうか? なにか、悲しいことがあったのだろうか? 悲しいということを、理解できるのだろうか? 理解できるようになったのだろうか?
…判らない。
マトリエルの涙が溶かすのは装甲板だったけれど、この降りしきる雨は何を溶かすのだろう?
ヒトの頑ななココロの壁なら、嬉しい?
私のココロなら、恐い?
判らない。……いいえ、解かりたく…ない?
降りしきる雨を見ていると、瑣末な思索に囚われてしまう。
エヴァンゲリオンだった頃には、なったことのない状態。感じたことのない思い。
それは私がヒトになりつつある証拠であるはずなのに、なぜか嬉しくなかった。
「あーっ!アンタたち、何してんのよ!」
アコーディオンカーテンの開く音を掻き消すような、惣流アスカラングレィの声。
「雨宿り」
一拍置いたかのような碇君の返答が、私の背後に近い。
「はん!ワタシ目当てなんじゃないのぉ!? 着替えてんだから、見たら殺すわよ!」
降りしきる雨から視線を引き剥がして振り返ると、アコーディオンカーテンが閉ざされたところだった。
「チッキショー、アホんダラ!誰がおまえの着替えてんのを見たいっちゅうんじゃ!」
「自意識過剰な奴」
鈴原トウジと相田ケンスケの、おそらく惣流アスカラングレィに対して言っただろう言葉は、小さすぎて届かないだろう。
代わりに伝えてあげるべきだろうかと考えていたら、碇君が目の前に。
「綾波。ちゃんと拭いた?」
「…ええ」
差し出された手にタオルを返すと、碇君の肩越しにふすまが開くのが見えた。
「ん? お、おおおおお…」
「お邪魔してます!」
「あら、2人とも、いらっしゃい」
具体的に何が違うと、判ったわけではない。いつも通りの、来客用の高い声だったはずだ。けれど、ふすまが開いた瞬間に見せた葛城一尉の厳しい表情が、この私をして何か違うと感じさせてしまった。
この雨は、葛城一尉のココロにも降りしきっているのだろうか? と……
「お帰りなさい。今夜はハーモニクスのテストがあるから、遅れないようにね」
「はい」
「…はい」
私と碇君の返事を確認するように頷いて、視線がアコーディオンカーテンのほうへ。
「アスカも、わかってるわね?」
「はーい!」
あぁん? とメガネを押し直した相田ケンスケが、深々と腰を折った。
「このたびはご昇進、おめでとうございます!」
「お、おめでとうございます」
鈴原トウジも、同様に。
「ありがとう…」
「いえ、どういたしまして」
葛城一尉…いや、葛城三佐が「ありがとう」と言ったその口調を、なんと言い表せばいいのか知らない。けれど判ってしまった。その笑顔が、葛城三佐のココロとは裏腹であることを。不本意…とも違う何かを滲ませて、顔だけで笑っていることを。
ヒトが己を偽る姿を、痛々しいと感じるべきだと、このときの私は知らなかったというのに。
ダイニングを縦断する葛城三佐に付き従うように、相田ケンスケと鈴原トウジ。そのまま玄関の方へと姿を消した。碇君はダイニングの戸口まで。
「じゃ、行ってくるわね」
「「いってらっしゃ~い」」
着替え終わったらしい惣流アスカラングレィが、ランドリースペースから現れた。赤いタオルで頭を拭きながら向かうのは、ダイニングの戸口だろうか。
「どうしたの? ミサトさんに何かあったの?」
碇君の質問は、玄関に向かって。
「ミサトさんの襟章だよ!線が2本になってる。一尉から三佐に昇進したんだ」
へぇー。と戸口の向こう側に上半身だけ突っ込んだ惣流アスカラングレィは「知らなかった」と、頭を拭くのに忙しい。
「いつのまに…」
碇君の疑問が昇進したことに対してなら、それは二日前のこと。たしか、公示されていたはずだ。けれど、襟章が変わったのは今日のことだと思う。
「マジに言うとるんかぃ? 情けないやっちゃなぁ」
「ぬわぁ、君達にはヒトを思いやる気持ちはないのだろうか。あの若さで中学生3人を預かるなんて大変なことだぞ」
正確には、私はもう葛城三佐の保護下にはない。なのに、それを訂正する時間は与えられなかった。
「ワシらだけやなぁ、ヒトの心持っとんのは」
思わず胸を押さえる。
今の、胸に感じた痛み。
鈴原トウジの言葉が、物理的な硬度を持って突き刺さった気がした。
****
「3人ともお疲れさま。シンジ君、よくやったわ」
ハーモニクスのテストが終わって、赤木博士の講評。
「何がですか?」
「ハーモニクスが前回より6も伸びているわ。たいした数字よ」
零号機に乗っている碇君は、ハーモニクスも低い。
「でも、ワタシより190も少ないじゃん?」
「あら、10日で6よ。たいした物だわ」
まっ、そうかもね。と惣流アスカラングレィが肩をすくめた。
エヴァンゲリオンとパイロットの親和性を計る指標は2つある。シンクロ率とハーモニクスだ。
ただ、本来そんな指標は不要のはずだっただろう。直接制御が、実現していれば。
模造使徒であり、人造人間でもあるエヴァンゲリオンは、ヒトの免疫によく似た異物排斥、あるいは同化のシステムを有している。使徒はココロとカラダが同一であるから、精神と肉体の両面を併せ持った機構であるが。
エヴァンゲリオンをほしいままにするには、その免疫機構に抵触せず受け入れられることが必須だ。具体的には2億5千万種の免疫抗体のうち、致命的な5500万種以上に適合することを求められる。
そういう意味では、あのヒトですらエヴァンゲリオンを直接制御していたわけではなかった。ココロを貰った私が嬉しくて、少しでも近くにと、寄り添っていただけ。
苦肉の策でヒトが作り出した間接制御は、当然のごとく5500万のボーダーを満たしてない。
間接制御のシンクロとは、取り込まれてしまった人柱を目隠しにして、エヴァンゲリオンの免疫を誤魔化す。ということだ。
そのとき、どれだけ誤魔化さずに直接エヴァンゲリオンと適合できるか。それがハーモニクスという数値だった。
それが高ければ高いほどエヴァンゲリオンそのものとの親和性が増し、シンクロなどという強制的にココロの壁を剥がされる手段に頼らずに済む。
「それで、ファーストは?」
「レイは伸びてないわ」
ただエヴァンゲリオンの免疫がヒトと違うところは、シンクロの回数・時間によってパイロットを受け入れていくところにあるだろう。
つまり、ハーモニクスは上昇するのだ。
間接制御によって、パイロットが即座に排除・同化吸収されないようにならなければ、判らなかっただろうけれど。
「シンクロ率はもう差もないし、ハーモニクスでアンタを追い抜くのも、時間の問題ね」
シンクロ率に頼り、それを伸ばそうとすることは、ハーモニクスの上昇に歯止めをかける。逆に、ハーモニクスが上昇すれば、シンクロ率を下げることができる。
ハーモニクスが上がることは、惣流アスカラングレィにとって歓ばしいことだと思う。
「…そうね」
だから、同意して頷いたのに、惣流アスカラングレィは柳眉を逆立てた。
「余裕ってワケ?」
なぜ、余力があることがこの状況を形容し得るのだろう?
「…余裕? わからない」
すべてを貫きそうな視線を私の瞳孔に刺し込み続けていた惣流アスカラングレィが、唐突に天を仰いだ。
「ホント、変わったコねぇ」
それはつまり、私がヒトではないと言われた気がして、ココロがきしむ。
「アンタ、また!」
何を見咎めたのか、瞬時に詰め寄ってきた惣流アスカラングレィが、私の眉間を人差し指で突いた。そのまま押し続けて、壁際まで。
「今度はナニよ?」
かぶりを振る。これは、私の問題だ。惣流アスカラングレィにそう言わせてしまう、私の側の問題だった。
「このままじゃ、ワタシがアンタを虐めたみたいじゃない。はっきりさせとかないと気持ち悪いわ」
さっさと言いなさい。と言葉にせず雰囲気だけで言い放って、惣流アスカラングレィが仁王立ち。
「…」
惣流アスカラングレィの向こう側に、碇君と葛城三佐と赤木博士。
その場から動かないけれどこちらを見て、様子を窺っている。
私のことを見てくれていると判ったから、
「…変わったコだと言われると、仲間はずれにされているようで、切ない」
自分のココロを、口にできた。
はぁ? と、息を抜くように言うと、惣流アスカラングレィが肩を落とした。
「人間なんて、みんな違ってて当然じゃない。当たり前のことよ」
当然なら、あのような使い方にはならないと思う。それとも、そのことが理解できないのも…
「あ~はいはい!わかったわよ!もう言わないから、泣くんじゃないわよ」
頷くと、眼窩に満ちかかっていた泪滴が、落ちる。
惣流アスカラングレィは、もう言わないと約束してくれた。それは、私がヒトになったことの証にはならないけれど、ココロの軋む現状がひとつ、改善されたということ。
だから、手の甲で涙を拭って、歓びのままに微笑んだ。
私の笑顔では、ヒトを笑顔に出来ないと知っている。洞木ヒカリと同様に、惣流アスカラングレィも顔を赫らめるばかりで視線を逸らしてしまった。
****
『目標を最大望遠で確認!距離、およそ2万5千!』
このヒト知ってる。サハクィエル、第10使徒。
『おいでなすったわね…エヴァ全機、スタート位置!』
初号機をしゃがませ、クラウチングスタートの体勢。
『目標は、光学観測による弾道計算しかできないわ。よって、MAGIが距離1万までは誘導します。その後は各自の判断で行動して。あなたたちにすべて任せるわ』
『使徒接近、距離、およそ2万!』
『では、作戦開始!』
『行くよ』
【FROM EVA-00】の通信ウインドウに、碇君。
『スタート!』
駆け出す。
流れていく視界の隅に、昨日立ち寄った展望台があった。
…………
シンクロテストの後、葛城三佐と一緒に帰宅することになった。
すまないけど、ちょ~っち寄り道するわよ。と、その所有車を停めたのは展望台で、第3新東京市を一望にできるという。
車内に差し込むのは、赤い光。
夕陽を見ると、綾波レイの、儚い願いが思い起こされる。沈む太陽に消えていく命を重ね見て、己が願いを新たにしていた。
私は綾波レイではないから、夕陽は嫌いじゃない。
それでも私は綾波レイだから、夕陽は嫌い。この身を置いて消えていく太陽を妬ましく思う、そのココロが解かるから。解かりたくないことを、解からさせられてしまう。だから、私も夕陽は嫌い。
ドアを開けて降りた葛城三佐と呼ばれて降りる碇君を横目に、後部座席から動かない。動けない。
「レイとアスカも、ちょっち付き合って」
呼ばれて降りた惣流アスカラングレィが「ほら、アンタも呼ばれてんのよ」と引き摺ってくれたけれど、照りつける赤光に遮られて、葛城三佐の言葉は届かなかった。
…………
『距離、1万2千!』
もともとエヴァンゲリオンだった私は、初号機の免疫機構の、精神的な部分をかなり無効化できる。
そのぶんハーモニクスは高く。それだけ初号機の能力を引き出せる。
「…フィールド、全開」
肉体的な能力面はもとより、ATフィールドの出力が段違い。
サハクィエルの落下地点へ一番乗りし、初号機のATフィールドだけで支えきった。
『綾波!』
位置的に近かったのだろう、一早く到着したのは零号機。
「…碇君、フィールド中和」
『わかった!』
零号機が振り上げた両手が向かう先の、ATフィールドを一部解除。
『このっ!』
サハクィエルのATフィールドに指先を突き入れた零号機が、そのまま破り開くように。
『フィールドっ、全っ開!』
まるで、暴走中のエヴァンゲリオンのような中和の仕方だ。
『今だ!』
『こんのぉー!』
駆け込んできた弐号機が、勢いもそのままに改良型プログレッシブナイフを突き入れた。
さよなら、サハクィエル。
私の拒絶が強固なATフィールドとなって、その爆発は何ひとつ道連れにできない。イスラフェルと同じように、湖を残すことができたはずなのに。
****
「…」
もし、麻紐を口にしたとしたら、こんな味がするのかもしれない。
口に含んだ麺を、ほとんど咀嚼せずにそのまま呑み下した。いつもなら盛大に押し寄せる温点からの警報に気付かなかったことに、後で思い至る。
栄養補助食品と栄養調整食品による栄養摂取でも、ここまで味気なく感じることはなかったのに。
それは、このとんこつラーメンという料理の問題ではないだろうし、屋台という形式で、見知らぬこの中年の男のヒトが作ったから。というわけでもないだろう。
脳裏で繰り返されるのは、南極に居るという碇司令からの言葉。
- 話は聞いた。よくやったな、レイ -
返答に困って、口篭もった。目を見開いた碇君を目の当たりにして、私はなんと応えたらよかったのだろう?
なぜ司令は、碇君に声をかけてあげなかったのだろう?
確かに、初号機の働きはあっただろう。最初に到着したし、支えきった。しかし、サハクィエルのATフィールドを中和したのは零号機だし、とどめを刺したのは弐号機だ。
褒められるなら、全員が褒められるべきだと思う。
明らかに落ち込んでいると判る碇君と、目に見えて不機嫌になった惣流アスカラングレィに挟まれて、居たたまれないという言葉の意味を実感した。
とんこつラーメンに手をつけようとしない碇君と、物凄い勢いでふかひれチャーシュー大盛りを平らげていく惣流アスカラングレィが視界に入らないように、身体をずらした。
つづく