第7話 二人の長い夜─────第一節 避難─────窓ガラスを破り校舎の中へ跳び込んだ。気配遮断を行使して、すぐさま破った場所から離れる。廊下に出て別の教室へ隠れこもうとするが、どこも施錠されていて開いていない。「くっ………そ」こういう時に限って施錠している教室が恨めしく感じる。しかし廊下でうろうろしているわけにもいかない。こうしている間にもあの男は追ってくるだろう。どこかに隠れることができる場所がないかと廊下を歩き回り、手当たり次第にドアに手をかける。だがやはりというべきか、どこも施錠されており隠れることが出来ない。「─────」焦燥感ばかりが増えていく。こんな見渡の良い廊下にいつまでもいられない。それを感じ取ったのだろうか。背中に背負われている鐘は小さい声で、しかし背負っている士郎には確実に聞こえる声で呟いた。「………陸上部の倉庫なら開いている」咄嗟に現在地からのルートを頭の中に思い描き、鐘を背負ったまま陸上部の倉庫へと向かう。一旦外にでる必要があったが幸いにも倉庫の近くにいて、かつ倉庫のある場所に行くまでに遮蔽物が多かった。周囲に気を配りながら夜の校舎を歩く。電気などもちろんついておらず、足元を照らすのは月の光のみ。「─────」二人は息すらも殺している。僅かな物音を聞き逃さないように。そうして倉庫に到着し、中に入る。無論倉庫内の電気はつけない。倉庫の小さな窓から光が漏れてしまうからである。窓から入る僅かな光だけが倉庫内を照らしている。ゆっくりと運動マットの上に背負っていた鐘を降ろし、その横に座る。「─────づ…………!」先ほどの反転と、左肩の傷、限界レベルでの体の行使による反動が襲ってきた。額に汗をかき、痛みに耐えるように体を押さえつける。「衛宮………!?」隣に座っていた鐘は士郎の異変に驚き、顔を覗きこんだ。それに視線を合わせる士郎。鐘の頬や額、腕や足などに軽い切り傷があった。枝木やガラスによって切れたのだろう。「大丈夫………!」対する士郎も傷は深くはない。左肩から血がでているが、ほかは彼女と同じように切り傷や痣があるだけだ。しかし問題なのは体の内部。体のあちこちが痛みを訴えている。空中で二人分の体重を反転させる行為など今まで一度もなかった。それを考えるとあの一瞬の時間で二度もできたのは僥倖だろう。体の痛みを無理矢理意識力で抑え込む。フラフラと立ち上がり倉庫入口に耳をあてた。ヘタに覗き込んで見つかるくらいならば足音を聞く方がまだ安全だ。幸い周囲は静かなのでよほど慎重に相手が歩いてきていない限り聞き逃すことはない。逆に言えばこちらの少しの物音でも聞きつけられてしまう可能性があるということなのだが。その様子を見ていた鐘も運動マットから立ち上がろうとする。が。「あ、れ………?」腰に力が入らない。立つ事ができない。「氷室………? どうした?」そんな彼女の様子が気になった士郎が近づいて目の前にしゃがみ、顔を覗きこんだ。対する鐘は少し視線を逸らすように俯いてしまう。「ぁ………いや、その」言いよどむ。まさか腰が抜けてしまったとは恥ずかしくて言えないだろう。「?…………外、音だけだけど確認してみた。アイツは追ってきていない、このうちに学校を出よう。氷室、立てるか?」立ち上がって手を差し伸べる。その手を見て、戸惑いながらも掴んだ。そして引き上げたのだが………すとん、とまた座り込んでしまった。「氷室………?」「~~~~~~!!!」顔が真っ赤になる。まさか自分が腰を抜かすなんてことを想像したことなどあっただろうか。しかも男性の前で。「氷室? 疲れてるのはわかるけど、学校にいるとアイツが…………」わかっている と心の中で呟いて意を決し、告白する。隠し続けた所で意味はないのだから。だが、中々立たない彼女を見た士郎は別方向の心配をしてしまう。「─────もしかしてどこか怪我を………!?」「い、いや………そうではなくて、だな。その、これからいう事を笑わずに聞いてくれないか………?」「? 笑うって………今の状況で笑うようなことなんて何もないと思うけど。───いや、わかった。何かあったなら言ってくれ」真剣な表情で見つめる士郎。その表情が余計に彼女を困らせてしまうのだが、彼はそれに気づかない。「実は………その、」「ああ」「───────腰が抜けて、立てない」訪れる静寂。無論、士郎は笑っていない。笑うというよりは唖然としたような顔。対する彼女は顔を真っ赤にして彼の視線から逃れるように顔を俯かせていた。「─────。…………。…………あー、氷室?………その、大丈夫か?」「………大丈夫じゃないから立てない、のだが」「………だよな、ごめん」立ち上がっていた士郎は再びしゃがみこみ考え始める。その顔に終始罵るような表情は出てこなかった。「どうするかな………ここにいたっていずれ見つかるだけだろうし。見つからないにしても一日を此処で過ごすわけにもいかないしな………」「わ、私が立てば何も問題はないのだろう。すまないが衛宮、もう一度ひっぱりあげてくれないか?」「え………いや、別にそれは構わないけど………」手をとり引っ張り上げる。当然体は立ち上がる、が、「っと、危ない!」機材に頭を打つように倒れそうになったところを抱きかかえられたのだった。「す、すまない………?」小さく息を吐いた直後だった。ぐらり、と視界が歪んだ。心なしか体も少し熱く感じる。「氷室?」「ぁ………ぅ………?」暑さと疲労が体に襲いかかってくる。意識が急速におちていく。すぅ、と目の前が真っ暗になった。ある種当然といえば当然である。彼女はあくまでも一般人。心的疲労や肉体的疲労だって溜まりやすいのである。─────第二節 無実は苛む─────アルコールを口にしたことのない私だったが、酔ったような感覚に襲われる。少し気持ちが落ち着く。────曰く、好きな人の匂いをかぐと落ち着くとかそうして目が覚めて気がついたら浮いているような感覚。「え………?」目の前には彼の顔があった。「大丈夫か、氷室?」そう言って私の顔を見る衛宮だったが何かおかしい。見える風景がおかしい。彼が見えるのはいい。じゃあなぜその後ろが“夜空”なのだろうか。そう考えた時………冷水がかけられたように意識が覚醒した。「ちょ、ちょっと待て…………!」ものの見事に抱えられている。私の意識がはっきりしていなかった以上背に抱えるのは無理で、だから今私は衛宮の胸元に抱きかかえられている。恐らくはあの倉庫の後に気を失ったのだろう。で、あそこにいるわけにもいかないのでこうして運ばれている、と。「衛、宮………!待て、降ろしてくれ。この格好はまずい………!」夜で人通りは少ないとはいえ街中でその……お姫様抱っこをされるなどとは思わなかった。………というより普通はしない!「う………せっかく気にしないようにしてたのに。────でも氷室を歩かせるわけにもいかないだろ。嫌かもしれないけど我慢してくれ」「いや、別に嫌というわけでは………ではなく!この格好がまずいんだ。誰かに見られたら………」今私は何を言いかけようとした!?………いや、今は置いておこう、というよりはまず落ち着………「…………いや、今のところは見られてないけどな。あ、もしかして彼氏とかいるのか?ならそれはまずいか………」「交際している相手はいない…………という問題でもない!こ、こんな状況がいかにまずいかわからないか!これでは………その、なんだ、」─────恋人同士みたいじゃないか………言って後悔した。今の言葉は思考を反映せずに反射的に出てしまっていた。彼が何か言う前に言葉を続けなければ!「と、とにかく!もう私は大丈夫だ。降ろしてくれ、衛宮」「え? あ、ああ………。もう歩けるのか?」「問題はない、早く降ろしてくれ………!」これだけ顔に血が上ったのも初めてではないだろうか。ようやく地に足着く感触。アスファルトの感覚が足から伝わってくる。「………っ」「っと。氷室、大丈夫か?」フラついたところに衛宮が咄嗟に腕を掴んでくれた。フラつきはしたが、しっかりと地面に足は立っている。「あ、あんな風に抱きかかえられれば動揺して平衡感覚など失う」「………そうか、その、すまん」こちらを見ずにそっけない態度で答える。もっとも、私とて恥ずかしさからそっけなくはなっているのであるが。「氷室? その、歩けるか?」「何とか。だが………少し頼みがある」「何だ?」「うまく歩けそうになるまで、腕を掴んでも大丈夫だろうか?」「ああ、それなら問題ない」そう言って私は彼の腕をとって歩き出した。当然といえば当然なのだが、体が触れ合っている。というより、この状況よりもさらにまずい状況が先ほどあったばかりなのだが、意識のある場所が違うのでこちらのほうが余計に気になっていた。互いに言葉が出ないというこの何とも言えない空気を払拭するべく、隣で歩く衛宮に訪ねた。「衛宮、どこに向かっているのだ?」「俺の家。流石に意識失ってる氷室を抱いてバスに乗るのは躊躇われたから………」当然だ………、といいながら歩く。というよりそんなことをされたら次からは歩いて学校に来なければならなくなる。私の知らない道を衛宮と二人で歩いていく。歩いている間、彼の腕をとっていた。ちらり、と顔を見るのだが視線が合う度に彼は視線を外していた。つまりそれは私が見ていないときは私を見ていると言う訳で…………「大丈夫か、衛宮?………顔が赤いが」言った私も顔が赤いのだがそれは置いておく。「…………大丈夫。単に俺の修行不足なだけだから。氷室こそ大丈夫か? もうすぐ家に着くけど」「ああ………まだ少し違和感を感じるが問題はないと思う」問題がないなら腕を離してもいいのだが、なんとなく躊躇われた。坂を上りきって歩くこと数分。彼の家の門が見えてきた。立派な武家屋敷だ。思わず感心してしまう。「とりあえず家に入ろう。体も冷えてるから温かいお茶でも出して温まった方がいいだろ?」そう言って私を連れて家に入って行く。客観的に見てこの状況は彼氏の家に泊まりに来た彼女ではないのか………?その光景を想像してしまって即座に頭から追い出したが………イメージは払拭しきれなかった。家に入り居間に案内される。きれいな居間だった。日本家屋に相応しい部屋にはそれを壊さないように液晶テレビが置かれている。埃は見当たらなく、しっかりと手入れされているのが伺い知れる。「ちょっとまっててくれ、お茶入れてくる」衛宮はキッチンへと向かっていく。先ほどのあの男との対峙したときの緊張感は何だったのかと思ってしまったが、私だってあんな緊張感は味わいたくない。ここは大人しく彼の用意するお茶を待ちながら、私は何をすべきかと部屋を見渡していた。その視界の中に、彼が持っていた自分の鞄を見つけた。手に取って見る。そこには不自然な傷跡がついていた。そういえば何か金属同士がこすれあう音がしたような気がする。傷を見て気になり始めた。そもそもなぜ私たちは屋上から落ちて無事でいれたのだろうか。「お待たせ。はい、氷室」「あ、ああ。すまない。恩に着る」渡されたお茶をゆっくりと飲む。冬の夜風にあてられて体が冷え切っていたので温かいお茶は身に染みた。「氷室、とりあえず傷の手当をしよう。大したことはないと思うけどしておいたほうがいいだろ」お茶を入れた衛宮は自分のお茶を飲むことなく救急箱を取り出した。消毒液やら包帯やらを用意していく。「あ、いや、衛宮。私の傷はどれも大したことはない、それよりもその左肩を………」「俺のだって大した傷じゃないよ。氷室は女の子なんだからさ、傷は早めに手当して直しておくべきだろ」そう言って傷薬を取り出して私についた切り傷を消毒し始めた。先ほども感じたことだが、こうなった衛宮は動かそうにもきっと動かないだろう。「っ………!」「と、ちょっとしみるかもしれないけど我慢な」体にできた切り傷は数か所。そのうち衣服を着てても見える部分だけ手当をしてくれた。「すまない、衛宮」「どういたしまして」そのまま衛宮は自身の左肩の傷の手当をしようとするのだが「い………つ………」どうやら倉庫のときの痛みが再発したらしい。そのまま畳の上にゆっくりと倒れてしまった。「え、衛宮。大丈夫か?」倒れた彼に近づいて声をかける。少し表情は歪んでいたが、「あー………大丈夫。ちょっと気が抜けて痛みが戻ってきただけ。横に………なれば」と、平気だアピールをしてくる。………無論、それが強がりだというのは流石にわかった。「………とりあえずその左肩の傷の応急処置はしよう」救急箱を近くに持ってきて道具を用意する。ガーゼに包帯、ハサミにテープに消毒液。大よそ必要そうなものを取りだして手当をしようとしたときだった。…………彼の服を脱がさなければいけない。(…………)どうしたものか、と考える。服を脱がせるという行為をするのは果たしてどうなのだろうか?それは彼も思っていたらしく、「氷室、俺は平気だからお茶でも飲んでてくれ。向こう行って一人で手当するから」確かに一見すればそれが正しいようにも見える。だが手当してもらった手前、それに従うのはどうだろうか。「───いや。衛宮は手当してくれたのに、私だけ何もしないというのはおかしいだろう?」別に何か変なことになるわけではない。それに男性は海やプールに入る時には上半身は裸だ、問題はないハズだ。そう言い聞かせて、私は衛宮の服を掴んで脱がそうとする。「ま、待て、氷室。服ぐらいは自分で脱げる!」「む、そうか。てっきり服を脱ぐのも億劫なものだと思っていたが」「いや、さすがにそれはない。痛むけど動けないわけじゃないからな」左肩が見えるように左腕だけ服を脱いだ。その肩には直径数cm程度の穴が開いていてそこから血が出ていた。それを見て息を呑む。…………浅いのが救いだった。「衛宮………これは」こんな傷を負うのは状況的にも得物的にも一つしかない。「うん、あの槍に刺された」だというのに当の本人は軽い感じで答えるのだから苛立ちを覚える。「衛宮、君の方が私よりも重症ではないか。なぜ自分を優先して手当しなかったのだ?」そう言いながらも私は周囲についた血をふき取って必要最低限の手当をする。明日にでも病院にいくべきではないだろうか?「いや、別に放っておいても死ぬような傷じゃないしさ。氷室の傷は言う通り浅いけど女の子だろ、傷なんてついちゃいけない。残ったりでもしたら大変だ」「………気持ちはありがたいが………」ある程度の処置を施して包帯を巻き終えた。それを見た衛宮はありがとう、と言ったあとに訊いてきた。「応急処置、上手なんだな。どこかでやったことあるのか?」「私は陸上部の走り高跳び、しかもハイジャンプに挑戦している人間だぞ? 当然同級生や後輩が怪我をすることだってある。応急処置くらいはできているつもりだが」「ああ、そうか。………うん、確かに一年の頃から楽しそうに跳んでたよな。────なるほど。となれば、そういうのも結構あったってことか」納得がいったようなので用意されたお茶に手を伸ばそうか────「────」待て。────今なんと言った?「ずっと見てた………?」「? ああ、陸上には目が行きやすかったんだ。グラウンドでやってたっていうのもあるけどな」見られていた。別にそれは大したものではない。もとよりこそこそと隠れてやっていたわけではないのだから見られることなど当然だろう。しかし。「………つかぬ事を訊くが、衛宮。今朝、跳んでいるところを近くで見たいと言ったのは………?」「ん、そういうこと。確かに今朝言った理由もあったけどさ。今まで遠くから眺めていただけで、近くで跳んでるところを見たことがなかったから。いい機会かな、って思ったんだ」「…………そうか」お茶を飲む。何故だろうか、お茶がさっき飲んだ時よりもおいしく感じられた。そう。ここで終わっていればいいのに「その中でも走り高跳びで本当に楽しそうに跳んでる氷室に目が行った。だから氷室の顔は一年の頃から知ってたんだ。最初は名前と一致しなかったけど。で、一度近くで見れたらいいな………って、どうした?」「………何も心配はいらない。頼むからそう顔を覗き込まないでほしい」────どんな顔をしてるかわからないから。◇「アイツには見つからなかったからたぶんもう大丈夫だと思う」「そうか………。衛宮、警察に通報とかは?」「………内容を説明したら、多分まともに取り合ってくれないと思う」「────そうだな」それだけ二人の前に現れたあの男は常識外だった。殺すことを平然とやってのける。人間離れした動き。そんなことを説明したところで普通の人は信じない。ここで疑問が生まれた。普通の人は信じない様な人間が現れた。その人間に狙われた二人はなぜ平然とできているのだろうか。気になった。気になってわからない以上は調べるしかない。「衛宮」そう。正面にいる少年に尋ねる他はない。「いろいろと訊きたい事があるのだがいいか?」「………ちなみに。助かったから全て良し、という選択肢は?」「ない。気になった事は調べるのが私の性分なのでね。悪いが質問には答えてもらう」「────む」少し彼が押し黙ったところで質問を開始する。「まず。なぜあの常人離れした人間の動きに対応できたのだ、衛宮? 警察すらまともに取り合おうとしないくらいのレベル相手に君は私という荷物を背負いながら回避できた。それがおかしいということに気が付いているか?」「………あれはただの偶然。相手も油断してたみたいだし。もう一回同じことしろって言われたらたぶんできない、と思う」「偶然、か。────では次の質問。なぜ私たちは屋上から飛び降りてこれだけの怪我で済んでいるのだ?」「それは校舎近くにあった木の上に落ちたから、かな。あれがなかったら多分俺も氷室も死んでた」彼の言葉に迷いはない。真実を言っている、と彼女は感じた。しかし、それは別の疑問を生み出すだけにすぎない。「では、なぜ屋上から木の上に下りれたのだ? 私を背負ったまま跳び下りても木の上にはたどり着けなかった筈だが。それに木の上に落ちたとして、この程度の怪我で済むわけがない」「────む」「それにこの鞄の傷は何だ。明らかに不自然だろう。私はあの時衛宮の背中しか見えていなかったが音は聞こえていた。金属音だ。………一体どうなっている?」「────」完全に黙ってしまった。それは『話したくない』というよりも『どう納得してもらうか』という方向に近いものだった。ずっと黙っている士郎を見る鐘。それは説明してほしいという願望を込めた眼差し。至極当然。それは彼女の性分にも合うからというのもあるが、人間が理解不能なことに陥った時、努めて冷静にいられるように情報を欲しがるのは当然だから。「────わかった。氷室に嘘なんかつけない。というより、俺自身嘘が上手くないしな。ついたところで氷室なら簡単に見破るだろうし」そう前置きを置いたうえで「これから言うことは他の誰にも言わないでほしい。………氷室の心の中に閉じ込めてくれたら、俺は話す。────それでもいいか?」他言無用、ということに了承する。これから一体何を話そうとするのか。一種の期待、そして一種の恐怖を抱きながら言葉を待つ。「実は────」だが、その言葉は続かなかった。「────!?」カランカラン と警鐘が鳴り響いた。ここは間違っても魔術師の家である。敷地に見知らぬ人物が入ってきたら警鐘がなる程度の結界は張られている。「───何?」対する鐘は突然明かりが消えた事に驚く。警鐘が鳴ったのは彼女も聞こえていただろうがそもそもそれの意味を知らない以上は反応のしようがない。「────なんで」一方士郎は焦っていた。このタイミングで、あの異常な出来事の後でこの家に誰が侵入してきたかなんてわかりきっていた。家に帰ってくるまで誰かにつけられてはいなかった。なので、完全に追ってきていないと思い込んでいたのだ。しかし実際には追ってきた。「衛宮、これは一体────え?」何か言おうとして口を閉じた。否、閉じられた。衛宮が近くに寄って口を手で塞いでいた。「────?」「氷室、悪い。ちょっとだけ静かに聞いてくれ」口に当てていた手を離す。「“アイツ”が追ってきた」「────!」その言葉だけで鐘の背筋が凍った。なぜ、という思いでいっぱいである。確かに追ってくる可能性はあった。だけど、起きていた間だけだったが周囲には気を配っていたし後ろに誰かがいたわけでもなかった。「───────」屋敷が静まり返る。物音一つしない闇の中。二人は確かに、あの時感じた嫌な感覚──殺気──が近づいているのがわかった。「………っ」息を呑む。背中には針のような悪寒。幻でも何でもなく、この部屋から出れば即座に串刺しにされる。その映像が手に取るように見えた。「────はぁ、────っ」落ち着かない心を懸命に抑える鐘。何も知らない彼女ですら、この状況がどれほど危険かは理解できる。そんな状況で悲鳴を出そうものなら、この家に潜んでいる殺人鬼は歓喜の声を上げて二人を殺しに来るだろう。立ちあがった彼の傍に寄り服を掴んでいる。その手は気がつけば僅かに震えていた。どうしようもない恐怖。数秒後の未来か、或いは数分後の未来だろうか。二人に襲いかかるのは間違いなく『死』。今はただ殺されるのを待っているだけ。そんな絶望的な状況に「────ふざけんな」言葉が響いた。「………いいぜ。やってやろうじゃないか」その言葉を聞いた鐘は驚愕を露わにする。「衛宮………!?無理だ、衛宮では………」────勝てない相手の異常性を少なくとも彼よりは知っている、と鐘は自負していた。彼ではあの男には敵わない。認めたくなくとも冷静でいる自分がそう結論を出してしまっている。どれだけ彼を信じようとしても覆ることのない、自身が導き出した答えがそれを否定してしまっている。勝てない。────だからもう何をしても意味がない。助からない。────だからもう何をしても無駄だ。「大丈夫、氷室は必ず守る。約束したろ? 絶対に死なせない」だと言うのに目の前の人物は諦めない。「………まずは武器を何とかしないと」そう言って部屋を見渡す。土蔵に行けば武器となるものはあるだろうが、丸腰のまま出て行くわけにはいかない。ナイフや包丁はリーチが短すぎる。槍という獲物の前では活路は見いだせないだろう。「うわ………藤ねぇが持ってきたポスターしかねぇ………」部屋の隅に置きっぱなしになっていたポスターを見てガックリと肩を落とす。が、同時に覚悟は決まった。「衛宮………やはり無理だ………」「大丈夫だって。………ここまで最悪の状況ならもう後は力尽きるまで前進するだけだ」そう言ってポスターを取り、目を瞑る。この場の緊張感を塗り替えるような雰囲気を纏い、一度息を吐く。「………衛宮?」人前では魔術を使ってはならない。それは魔術師として当然のこと。しかし、彼の父親はこう言っていた。「一番大事なのは………魔術は自分のために使うのではなく、他人の為に使うものなんだ」────同調、開始トレース・オン────自己を作り変える暗示のもとに、強化は何も知らない鐘の目の前で開始された。あの紅い槍をどうにかするためには今までの鍛錬よりも更にランクの高い強化が必要。故に全神経を集中させる。隅から隅まで魔力を通し、固定化させて武器とする。「────構成材質、解明」ポスターに魔力を浸透させる。「────構成材質、補強」その光景を見届ける者が一人。「────全工程、完了トレース・オフ」目をあけて完了したポスターを手に取る。紙製ポスターの外見が鉄色の様に変化している。しかしそれ以上に変化したのは中身。紙の重量を持ちながら、鉄の硬度よりもさらにランクが上がっている。「これなら…………」────やれる自身の強化に手ごたえを感じ、言葉を漏らす。しかしそんな事は目の前の少女にとっては関係がない。今目の前で起きた事。それはどれほどの異常か。「衛宮………? 今、のは────」「────悪い、氷室。言ってなかったよな」腕を降ろし顔を見て薄らと笑う。「実はさ………俺、魔法使いなんだ」◇今、彼は何といったのだろう。魔法使い───確かにそう言った。───ありえない そう頭の中で結論を出す。当たり前だ。魔法なんて現実のこの世界で存在するわけがない。魔法と言うのは、それこそ漫画やアニメ、小説などの世界のお話。MPを消費すれば人が生き返るなんて非現実はありえない。そう。ありえない。そのはずなのに。では今目の前で起きた出来事は何か。紙だったはずのものが鉄のような光沢を放っていた。目の前でそんな出来事を見せられて、その後に名乗られては否定しようにもできない。私の動揺を見た彼は「───うん。信じられないのは当然だよな。………別に信じてくれなくていい、それが『普通』だから。けどアイツは何とかするっていうのは信じてくれ、氷室」何も言えない。目の前に起きた事がかけ離れていた。────衛宮。君は一体………そう言おうとした声が、喉から出ることはなかった。─────第三節 戦闘開始─────「氷室っ!!!!」そう叫びながら士郎は彼女に跳びかかった。「え?」対する彼女は何が起きたかわからない。突然顔色を変えた士郎が自身に跳びかかってきたのだから。押し出される。それと同時に。ドスッ!! と不吉な音が居間に鳴り響いた。「………………………え?」自身が立っていた場所にあの『紅い槍』が刺さっていた。一瞬の殺気に気づいた士郎が咄嗟に突き飛ばしたおかげで鐘に直撃することはなかったのだ。しかし。「あっ─────ぐ」彼女を押し出した士郎の左腕にその槍が突き刺さっていた。左腕を地面に張りつけられている。「はぁ、は───う、────ぁ」苦痛に顔を歪めながら突き刺さっている槍を抜こうとする。対する助けられた彼女は今実際に目の前で起きた出来事に脳の処理が追いついていない。────そして、さらに場は混乱する。「────俺の殺気を感じ取ったか。なるほど、やはりそれなりにはできるようだな、坊主」倒れた士郎の後方、何が起きたか一瞬理解できずに茫然と眺めている鐘の前方にその男は現れた。「うおおああぁぁっ!!」その声を聞いた直後、左腕に刺さった槍を力の限り右腕で引き抜き、その勢いのまま後ろにいる敵へ突き立てる。ブチブチブチ! と左腕が嫌な音を出したが今は気にしている場合ではない。「へえ、わざわざ引き抜いて俺に『返してくれる』とはな。気が利くじゃねぇか?」「なっ………」突き立てたはずの槍はあの男の手の内に『戻っていた』。その光景に驚愕を露わにするが、この男相手にはそれは致命的だった。「おいおい、一瞬の隙をついて逃げ切った奴が隙作ってんじゃねぇ………よっ!」言葉とともに強烈な蹴りが士郎の腹にクリーンヒットした。「ご────ぁ」呼吸が停止する。意識が一瞬飛びかけた。後方へ吹き飛ばされ鐘の後ろへと転がり、勢いよく壁に叩きつけられた。腕の血が壁に塗りつき体が沈むとともにその血の痕もズルズルと描かれていく。「衛宮………!」目の前の異常性をようやく理解し、後に飛ばされた方士郎に振り向く。そこにはしゃがみこんでしまった士郎の姿が。そして、それの行動はランサーに背を向けるということ。「………余計な手間を。見えていれば痛かろうと、オレなりの配慮だったんだがな」背後。そこにはすでに槍を構えたランサーがいた。「─────」後ろは振り向けない。振り向いた瞬間死ぬ。振り向かなくとも死ぬ。この距離で、この相手で、逃げ切れるはずもない。(────ああ、私はここで死ぬのか)漠然とその感想だけが思い浮かんだときだった。目の前の少年が勢いよく起き上り「あああああぁぁぁぁっ!!」ブンッ! と強化魔術がかかった体で、文字通り全力投球で『鉄製』のポスターを投げつけた。同時に士郎の体が跳ぶ。ガンッ! と槍でポスターを弾き、突進してきた拳を避ける為に二歩後ろへ下がり回避するランサー。その彼の目の前に映し出されたのは、廊下でみたあの光景。大きく違うのは正面にいる彼の左腕がだらしなく垂れ下がっている部分か。右手には『強化』されたポスター。背後にはしゃがみこんでいる鐘。「氷室!立てるか!?」「────っ、衛宮、腕、左腕が………」しゃがんみこんでいる鐘の視野の中には士郎の左腕が映る。そしてその先に見えるはずのない部屋の向こう側が見えた。つまり、槍が突き刺さった部分が完全に穴が開いていたのだ。肩の傷とは比べ物にならない。もう彼の左腕は機能しないだろう。しかし彼はそんな自身の左腕を気にもかけてない。「よし、氷室。立てるな? 早くここから逃げろ、俺なら大丈夫だから………!」「そんな………!嘘だ、大丈夫な筈が………!」「氷室!早く行け!!」聞いたこともないような大声で怒鳴る。「─────っ」ビクリ、と一瞬震えた鐘は何かに耐えるように俯いた後、鞄も持たずに立ち上がった。言いたい事すらいえないまま鐘は居間から廊下へ向かい、玄関へ向かって走って行く。足音が遠ざかり、その光景を眺めているランサー。「…………なんで今の間に殺さなかった」「へっ、そこまで無粋じゃねぇよ。だがな、坊主。ここであの嬢ちゃんを逃したところで意味ねぇぜ?」「………逃げ切れるかもしれないだろ」「ああ、そりゃ無理だ。─────そうだな、冥土の土産に教えてやる。俺がどうやってここを探し当てたか。────簡単だ、ルーンを使った」「ルーン………!」魔術系統の一つ、ルーンを用いた魔術のことであり、『ルーン文字』を刻むことで魔術的神秘を発現させる。それぞれのルーンごとに意味があり、強化や発火、探索といった効果を発揮するのである。「そうだ。言っただろ、『俺からは逃げらんねぇ』って」槍を構え直す。士郎もまたそれを見て強化されたポスターを構えた。「いいぜ─────少しは楽しめそうじゃないか」男の体が沈んだ、その刹那。横殴りの槍が放たれた。ガキィン!! と、顔面に放たれた槍を、確実に受け止めた。「こんなのっ───!」「いい子だ。ほら、次だ………!」ブンッ! と振られる槍。一体この室内でどういう扱いをすれば引っ掛からないのだろうか。今度は逆側からフルスイングで胴を払いに来た。ガキィン! と確実に受け止める。だが、反動がさっきよりも大きい。証拠に辛うじてポスターは握っているが、右腕が痺れてきている。それを見たランサーはうれしそうに笑った。「よし、ここまでは耐えたな。───なら、次はどうだ?」再び横薙ぎの一閃。速度は先のどれよりも速い。「ぐっ────!!」それを受け止める。が。「うぁ────ぐ!」強化された筈の右腕が折れたかのような感覚に襲われる。それだけの威力と速度。強化したはずのポスターはへこみ始めている。「ぐ、この────!!」一気にランサーの懐に踏み込んで顔面めがけて強化したポスターを振った。「おお?」その攻撃に驚いたが、しかしそんなものはどこ吹く風。槍の柄だけで受け止めて弾き返してきた。「くそ………!」左腕は使い物にならず強化されたポスターは限界に近づいている。加えてそれを持っていた右手は痺れてしまっていてもう感覚すらない。それでも握っていられるのは魔術強化のおかげではあったが。左腕と腹部の激痛は痛覚を故意的に魔術で麻痺させているためまだ動ける。「はぁっ!!」ここから逃げていった彼女を守るためにランサーからは逃げない。恐怖を押し殺し、痛みを押さえつけて、再び懐に入り込もうと開いた距離を詰める。対するランサーは面白い玩具を見つけたかのように笑っていた。「ククク………、なかなかいい動きするじゃねぇか。ちゃんと“与えた機会”を活かしてしっかり攻撃を仕掛けてくる。魔術師に斬り合いを望んでも仕方ねぇと思っていたが………」向かってくる士郎にランサーは“さらに早い横一閃”を放った。「うっぐ………!」「どうして期待に応えてくれるかな、魔術師!」轟! とランサーが“本気で”振り抜いた。強化されたポスターごと受け止めた体が浮く。「─────!!」「………吹っ飛べ」ガシャン!! と内と外を分けていたガラスをぶち破って外へと放り出され、そのまま家の塀に叩きつけられた。「が────はっ」呼吸が止まり、息ができなくなる。だがそれを整えている時間はない。「ッ!!」もはや止まっているだけで死ぬという強迫概念が体を動かした。横へ跳び逃げた直後にその場に紅い槍が突き刺さっていた。「────っ」驚愕する。もはや投げられた槍に反応すらできなかった。それでも避けれたのは本当にただの偶然。右手で辛うじて持っていたポスターはすでに折れ曲がっている。「………ホント、よく砕けなかったな………コレ」歯を食い縛りながら士郎は庭の隅にある土蔵へと走る。