ep.64 / それぞれの意志─────sec.01 / 不定の心遡る事、おおよそ二十五年。彼はその集まりがどのようなものであるか、最後まで知ることはなかった。人里離れた山の中。修験者のように集まり、共同体として暮らす中に彼は発生した。両親も兄弟もない、何の繋がりも持たない赤子として生まれたのだ。誕生より発生と言う方が正しいだろう。無垢である事は幸いだ。例えそこがおよそ人の住む場所でもなく、人が住む方法でないとしても、外界を知らない以上はそれを受け入れた。以来二十年。彼は与えられた十メートル四方の森から出ることなく、与えられた一つの芸を鍛え続けた。彼がいた集まりが所謂『工場』であることを、彼は十歳の頃に教えられた。彼には道具を作った経験がないので、自分が一体どちら側の存在なのかは悩むまでもなかった。自身が生活用品である事に抵抗はなく、むしろ安心したと言っていいだろう。毎日毎日、ひたすら同じ動作を繰り返す。多様性は不要、ただ一つの動作を完成させる。そう教え込まれてきた。自分達は顔も知らない誰かの為に道具なのだと納得し、彼らは更に自分の『用途』に磨きをかけた。それに納得できなかった物の末路など、納得した物が知るところではない。気が付けば………否、気が付くこともなく、その集まりの数が僅かに減っていただけである。彼が自分の『用途』を察したのは、それからすぐの事だ。いずれその『用途』を不足なく発揮させるために、全く以て余分な学習を叩きこまれる。彼らは人間の為の生活用品ではあるが、そのためには擬似的に人間になる必要があった。彼らを作る者達も、余分な機能を付ける事に抵抗はあったらしいが、こればかりは避けては通れない。その教育によって、彼は自分の『用途』の名称を知ることとなる。その名を、─────人殺し。誰にも見つかる事無く、相手に知られる事もなく、息の根を止めること。それが彼らに求められた『用途』だった。覚えの早かった彼は十メートル四方の森から離れ、廟に仕える事が多くなった。とは言っても月が一巡する間に一度程度の割合である。廟は、ひたすらに清潔な空間だった。鬼が棲むとも、阿鼻叫喚の地獄だとも噂されていた建物は、一点の染みもない世界だった。言う事を聞かなかったので生きたまま解体される廃棄品がある。恥をかかせたとかで脳だけ動物に移植される罰の跡がある。慰めの為に集められた子供達の肉詰め水槽がる。そんなものは何も、何もありはしなかった。確かに起きた事ではあるが、それはここにはない。ここは退屈しのぎにもならない退屈しのぎとして、今夜の食事のメニューを増やすという理由で。─────何の関わりもない一般人の人生をお金に替える。料理の声など食す者には届かない。どれだけ懇願しても、どれだけ抵抗しても届くことはない。そうして料理は最期に気付く。目の前の生き物は自分と同じ姿をした、全く作りの違う人間だということに。それは廟に限った話ではない。彼を管理する者は言った。アレが道具オレたちを使う数少ない特権者であり。オマエの『用途』は、彼らの為に人間を一人殺すことだけだと教えられた。彼はそれを『悪』だとは思わなかった。精神面において、彼は既に完成している。道徳概念など、都合のいいように育てられている。故に彼にとって殺人は悪ではない。悪があるとしたら、それは理に叶わぬ行動だけ。道具としての理。存在としての理。言葉を綴る筆が用を成さなくなったのならそれは悪であり、人を殺す為に作られたモノが人を殺さなければ、それこそが悪である。そうして得た機会。待ち望んだ時。─────得たものは何もなかった。そこからはもう語る必要はない。集まりより用意されていたパーソナリティは教職だったが、全うするだけの知識と技能はなんとか身につけている。半年も続くまいと想定していた生活は、想定を遥かに超える時間続いた。彼を捜す者もいなければ、彼自身追手を意識せず生きていこうと決めていた。普通の生活に憧れてのものではない。二十年近く生きてきて、人を殺す為の芸だけを磨き上げて。その結果があのようなモノであったのなら、あとは何も成し得ぬまま消え去るのみだと判断した。彼は周りの人々と変わるところのない人間だ。単に『感動する心』が死んでいるだけ。死んでいるものは蘇らない。心の奥底に眠っているだの忘れ去っているだの、そんなモノではない。もう無い。どんな人間らしい生き方を得ようとしても、彼が感動を得ることは生涯ない。それを彼は苦しいとは思わなかったし、周りの人々も彼を強い人間だと思い込んだ。その認識には間違いはなかった。ただ、努力はした。このまま無意味に朽ち果てようとも、死んだ心を抱えたまま針の山を歩くが如く、人々の中で生きようと努めた。─────そうして、女に出会った。一日の職務を終え帰路につく時だった。山門に向かう途中、林から物音を聞きつけた。寺に世話になっている彼は当然の責務として様子を見に行き、血まみれの女を見つけた。黒い外套に身を包んだ女は、居間にも消えそうなほど衰弱していた。その時に起きた奇跡は、如何ほどのモノだったのか。たとえ錯覚だったとしても、あり得ない事が起きた。何十年間調子を崩さなかった心臓が、一瞬だけ止まって戻る。停止の反動は僅かながらも鼓動を乱し、死んでいる筈のモノがみじろぐ様に震えた。目の前で人が倒れている、故に助ける。これほどに怪しく危険な香りを漂わせる女を、さも当然の如く、一般理論の元に彼は連れ帰り介抱した。「迷惑だったのなら帰るがいい。忘れろというなら忘れよう」目が覚めて声をかけても驚きの表情しか見せなかった女に言った言葉。それを女はどう受け取ったのか、彼が知るところではない。女は自らの素性を明かし、彼は常識外と言える女の正体をあっけなく受け止めた。女を抱き、聖杯戦争という殺し合いに参加することも了承した。さしもの魔女も驚いただろう。僅かにだが回復していたその力で、断られた瞬間に魔術で心を操ろうとほくそ笑んでいたというのに。たった一言で、自らの卑しい企みをかき消されてしまったのだから。彼は魔女を恐れて頷いた訳でも、聖杯に関心を持った訳でもない。女に協力したのは助けを求められたからだ。元より殺人を悪と思わない男である。マスターになる事に抵抗はなかった。ただ、その過去を遠ざけようと努力していたのは事実だ。違いがあったとすれば、この時。今までの努力を放棄して女の手を取った理由に、彼は気付くことができなかった。「極力、今の生活を乱さないようにしろ。手が欲しい時は言え」それが彼の方針だった。彼に願いはない。彼が助けた女が聖杯とやらを欲しているだけだ。彼が戦うとしたら、それは聖杯の為ではなく女の為。自分が助け、協力すると約束したのだから、女に力を貸すことは当然の責務である。彼にとって聖杯戦争は異常ではあるが、悪行ではない。自分が定めた『用途』を否定する事こそが、彼にとっての悪なのだから。─────sec.02 / 葛木 宗一郎全員が頭上にいる男を見上げる。ある者はなぜここにいるのかという疑問を。ある者は一体何者なのかという疑問を。ある者は何の為にここにいるのかという疑問を。そんな各々の思考など気に留める様子もなく、その男─────葛木 宗一郎は石段をゆっくりと下り始めた。敵意は感じられない。殺気は感じられない。今でこそ魔力を全く帯びぬ、一般人と変わらない宗一郎。そもそも彼自身は一般人そのものだ。先の戦闘では、そんな欠片を微塵も見せてはくれなかったが。「待て、キャスターの元マスター。それ以上何も言わずに近づくならば容赦はしない」セイバーが全員に先だって前へと一歩出る。何も発せずに近づいてくる。それに例え脅威など感じなくとも、制止の声をかけるのは士郎達を守る者として当然の行為。「─────」セイバーの声が届いたのか石段の踊り場付近で足を止める。しかし気は緩めない。つい今しがた山頂で起きたアーチャーとギルガメッシュによる戦闘の大爆発。その後に感じた異様な魔力と感覚。そしてその山頂から降りてきた宗一郎。─────これがどれだけ異常な出来事かを理解している人間は、果たしてこの場に何人いるのか。「そこにいるのは衛宮か? 随分と奇怪な姿になっているが」「─────」足を止めた宗一郎の視線の先にいる人物。その人物の身体から見えているモノに目がいき、その名を確認する。「まあ、私には関係のない話だったな。衛宮、一つ問う。お前たちはキャスターの居場所を知っているのか」「知ってる、と言ったらどうするつもりなんだ」「お前たちが今からキャスターの元へ向かうのならば、後をつけさせて貰う」「………知らない、と言ったら?」「それが事実であるならば一考するが、先ほどの美綴の言葉からして知らないということはないだろう」『大聖杯』。綾子が言った言葉を宗一郎も聞いていた。宗一郎にはキャスターが言っていた『聖杯』と『大聖杯』の違いなど知る由もないし、知ろうとも思わない。だが、キャスターの目的が聖杯を手に入れることだと理解している以上、『大聖杯』というものが無関係とも思わない。「………誰も『大聖杯』と『キャスターの居場所』をイコールで結びづけてはいなかったと思うけれど?」「どのみち、柳洞寺には手がかりはない。そしてキャスターの目的が『聖杯』である以上、そこに向かわない理由はあるか? 遠坂」ないわね、と心の中で答える。だが問題はそこではない。行く理由があろうがなかろうが、凛には全く関係はない。問題は行って何をするつもりなのか、ということだ。「………氷室、一つだけ確認したいけど」一方の綾子はこの状況に混乱していた。なぜここに担任の教師がいるのか、どうして対立するような光景になっているのかが理解できない。「つまり、葛木先生も………ってことなの?」「そうか、美綴嬢は気を失っていて知らなかったのだったな。………その考えで間違いはない」否、理解はできていた。この状況下において、常識なんてものが通用するとは考えていない。つまり、彼もまた『あちら側』に通ずる人間だということだ。今となっては自身も『あちら側』と関わりがある人間ではあるのだが心境は複雑だった。「葛木」士郎が口を開く。「アンタが一体何を目的としてそんな事を言ったのかは知らない。けど、今キャスターがどんな状況か知っているのか」目の前にいる男はかつてキャスターのマスターだった。だが今のキャスターは、この男が知っているキャスターではない。そしてこの男はつい最近まで入院していたのではなかったか。「俺が藤ねぇのお見舞いで病院に行ったとき、アンタが意識不明で病室で眠っていたのを知っている。 アンタの容体を診た医者に訪ねたけど、令呪らしきものはどこにもなかった。 それでもアンタはキャスターの元へ行こうとしている。マスターでなくなったアンタは一体何のために行こうっていうんだ」士郎の問いの後、僅かな空白。言葉を選ぶという意味の空白ではなく、自身が決めた行動を自身の内で再確認するための空白。「お前たちの前に出ずとも、気付かれないように尾行するという選択肢もあった。それをしなかったのには理由がある。 ─────お前たちがキャスターと戦いを行う前に、私はキャスターに問わねばならないことがあるからだ。 だが尾行している限り、お前たちより先だってキャスターと会うことはできない。 そしてキャスターの居場所が分からない以上、お前たちがキャスターに会う前に会うこともできない。 となれば同伴しキャスターと出会い、戦いが始まる前にキャスターに問うしかない。これが理由だ、衛宮」何とも分かりやすい回答が返ってきた。確かに気付かれない様に後をつけるなんてことをしていたら問うタイミングを失いかねない。先回りしようにも場所を知らない以上は先回りも出来ない。だからこそ、宗一郎は目の前に現れた。「─────何を問うのかは知らないけれど、それは私達に害あることかしら? となればここでお断りすることになるけれど」「それを決めるのは私ではない。言える事は、今の私自身はお前たちに敵対するつもりはなく、害を与えるつもりもない。ただそれだけだ」「………それは逆に言えば、問いの答え次第で我々と対峙する、という言葉にも受け取れますが。そういう認識でいいのですか」バゼットが宗一郎の答えに確認を取る。それに対する言葉はなく、つまりそれは肯定を意味していた。「─────私には決定権はありませんので何も言えませんが。それでも言わせて貰うならば、連れて行くべきではないかと。敵対の可能性がある以上、その可能性は潰しておきたいというのが私の意見です」凛と士郎に確認を取るバゼット。今の会話からしてあの者も自身と同じ『元マスター』というカテゴライズに分類されるということは認識できたが、あれが如何な危険人物かまでは分からない。分かりやすく強大な魔力を帯びているとか、得体のしれない武器を持っているとかならばまだしも。目の前にいる人物はまったくの手ぶらにして、魔術師らしい反応も見られない。マスターだったというならばそれは魔術師であることには違いないはずなのに。「そうね、敵になられるのは厄介ね。けど、葛木先生はあくまで一般人。身体を強化されているならまだしも、今はその加護もないから油断をしなければ私のガンド一発で眠らせることもできる」油断したら負けるからその点には注意するけどね、と一言加えておく。つまり連れて行っても連れて行かなくとも問題はない、という回答だ。「一般人………? 待ってください。彼はキャスターの“元マスター”だった人物なのでしょう? それが一般人だったとすれば、彼はどうやってキャスターを使役していたというのですか? 一般人に令呪が宿ったとも思えない」「それは今でも謎。けど彼自身は絶対に魔術師じゃない。あなたも分かるでしょう? 今こうして対峙しているのだから」「………魔術師らしからぬ存在だとは認識していましたが。まさか本当に魔術師ではないとは思わなかった」そもそも宗一郎に令呪など宿ってはいないし、マスターとは言っても凛や士郎みたく魔術的な繋がりがサーヴァントとあったわけでもない。言ってみればマスターという定義の大部分から外れているイレギュラーな存在だが、それを知る二人ではない。「それで、士郎はどうする? 連れて行く? 連れて行かない?」「………その前に一つ、聞きたいことがある」頭上に立つ宗一郎には変化がない。こちらがどのような判断をしようとも、自身が決めた事を変更するつもりはないのだろう。「葛木。その問いたいことっていうのは何だ。………最悪、アンタ自身が殺されるかもしれない。それでもアンタは行くっていうのか」「愚問だな、衛宮」士郎の問いにシークタイムを挟まずに答えが返ってきた。それが当然であり当たり前だと思っているからこそ、この答えがすぐに出てきた。「………いや、衛宮には分からない話か。だがな、『用途』を再確認する事は何よりも重要なことだ。 そうでなければ、それは“生きながらに死んでいるだけ”の存在。その分岐点に立っている。得られる結果はどうであれ、ここで『いかない』という選択肢を取ること自体が私にとって『悪』であることに他ならない」故に行く。故に変化がない。此方側でどのような結論を出そうとも、彼がキャスターの元へ行くという決定事項は揺るがない。それが揺らぐ時点で彼にとって『悪』そのものであり、それを容認しないのであれば、此方が否定したところで無理にでもついて来るだろう。「………分かった。なら、一緒に行こう」そう結論を出した。相手は十分な認識があり、どうあっても退くつもりはなく、そしてそれが『悪』だと認識しているのであれば、士郎が強制することはできない。「─────感謝する」そう一言伝えて再び階段を下りてくる。そこにセイバーの制止の声はない。「─────シロウ、本当によろしいのですか?」「ああ、どうあってもついてくるみたいだし。少なくとも今は敵意がないのも事実みたいだから、大丈夫だろ。 ………無理に否定して後ろの心配をするくらいなら一緒に行った方がいい」「………その結果、彼と対峙することになる、という事も考えてのことですか?」「できればそうなってほしくはないとは考えてるぞ、バゼット。─────けどそうなったらそれは、“敵対しなければそれ自体が『悪』”っていうことなんだ」そしてそれは『殺されるかもしれない』っていう可能性があったとしても変わらないものだった。一体目の前の男がどのような過去を持ち、どのような考えを以てこの戦いに臨んだのかはわからない。加えて、士郎の問いに答えた言葉。堂々として、迷いも間違いも後悔もないと、当然のように語る姿。それを見て─────否定するということはできなかった。「それじゃあ綾子。途切れちゃったけど、道案内お願い。ある程度のところまで教えてくれたら、こっちでも探してみるから」「………わかった。じゃあ行こう」本来のメンバーに一人加わって、森の中へと入っていく。先頭を綾子と凛が行き、その後ろをバゼットが歩く。士郎と鐘がその後に続き、セイバーが後ろにいる宗一郎を警戒しつつ後をついていく。「綾子、本当にこっちであってるの?」「それを言われるとあたしも不安になるんだけど。………小川が目印だって言ってたから、それさえ見つければ」木々をかき分けて、夜の山を歩いていく。山には獣道さえなく、ほとんど絶壁じみた岩肌を降りることさえあった。「言われたのはこのあたりになるんだけど」柳洞寺の裏手に出たのか、あたりは冬の枯れ木ばかりだった。人工物なんて当然なく、そこに枯れ木とチロチロと流れる小川があった。「ここかしら? へぇ、教えてもらっただけにしてもちゃんと案内できるのね」「………遠坂、あたしをバカにしてるのか?」「そんなつもりはないわよ。街中の道案内って言うわけでもあるまいし、こうして目的地までたどり着いたんだから純粋に感心してるのよ」そうかい、と言って後ろを振り返った。ついてきていた人物は皆はぐれることなくそこにいた。「この付近に………。遠坂嬢、それらしき場所は見つかったのだろうか」「まだよ。流石に一目でわかるような作りにはなってないでしょうから、探す必要はある………んだけど、これって………」「? どうしたのだ?」周囲を見渡す凛の表情は険しい。それは凛だけでなく、バゼットも同じだった。「この周辺に魔術による偽装の痕跡が多数確認できますね。あそこの岩肌、小川の奥、地面………。美綴さん、一つ尋ねますが“入口”はどこにあると聞きましたか?」「え? いや、ここにいけば後は遠坂とかセイバーさんとかが“魔術的な偽装がある場所”を見つけてくれるからって言ってただけで、具体的な場所は………」「─────つまり、ここにあるどれかの偽装が本物で、後は偽物ってわけね」周囲を見渡せば見渡すだけ魔術の偽装が見受けられる。どれが本物かは見分けがつかない。「問題はこれが元からこれだけ偽装してあったか、って話だけど。綾子の今の話だとそれはなさそうね。となれば」「………侵入を拒むために、誰かが意図的に偽装を増やした、ということですか」「そういうことになるわね。ま、誰か、なんていうのは分かり切っているんだけど。じゃあなんでこんな事をする必要があったのか、ということ」十中八九これを仕掛けたのはキャスターだろう。だが今のキャスターはこんな小物の仕掛けをするのではなく、もっと別の方法で隠すことだってできたはずだった。バゼットと凛の間で共通の答えが導き出される。つまり、“そうせざるを得ない状況にある”ということ。「─────しかしなぜ? 街を異常たらしめるだけの魔力を持っておきながら、ここに仕掛けられた魔術にそれほどの脅威を感じない。 無論罠と分かっていて飛び込むことはしませんが、これならば地雷処理をする要領で潰していけばいずれ本物に辿り着く」「或いはそれが目的なんじゃない? 乗り込んできてくれるのはウェルカムだけど、今は困る。つまり単なる時間稼ぎ。 魔術で脅威となりそうな仕掛けがないのは、一つは元々あった偽装と遜色ない程度の反応にする必要があったってところかしら。 もう一つはそれをする時間がなかった。………つまり、元々ウェルカムだったのに突然来ては困るような状況になった所為。 そしてそれがつい今しがただったから、私達がこっちに向かってくる目の前で大規模な偽装魔術をするわけにもいかない。 そんなことしたら、自分で発煙筒を焚くようなものだから。─────これが私の考えだけど」「ならばここで我々を一掃してしまえばよかった。それをしなかった理由は?」「セイバーを取り込むため………って考えたらわかりやすいかしらね。一掃すれば大ダメージは確実だし、ヘタすればマスターである私は死ぬかもしれない。 本来ならその後で消える前のセイバーを取り込めれば御の字………だったのに、それをしなかった。 ということは、それはしなかったのではなく─────“できなかった”と言う方が正しい」その会話を士郎も聞いていた。そして、凛が導き出したその答えの意味を理解する。「遠坂、それって─────」そこで士郎の言葉は遮られた。パチパチパチ、と。森の中であり得ない音………拍手する音が聞こえてきた。この場にいる誰かが拍手をしたわけではない。それはつまり、この場にいない筈の人物が拍手をしたということだ。そして─────「─────いや、頭が回るもんだな、嬢ちゃん。この状況からそこまで導くとは、恐れ入る」その主は小川の先にいた。─────sec.03 / クランの猛犬その男は何を隠すわけでもなく、紅い槍を持ち、いたって平然とそこに立っていた。「ラン………サー………」その姿を見て、バゼットは一人固まった。「………」対するランサーも、バゼットを見ても何も言わない。ランサーを見るバゼットの瞳は、ランサーと合う事はない。かわりに─────「よう、坊主。嬢ちゃん。これで会うのは何度目だろうな」「─────」その後方にいた士郎と鐘に軽く挨拶をしていた。その更に後ろにいた人物にも目がいくが、大して興味がなかったので放っておいた。「ランサー………!」セイバーが凛の前に出る。剣を構え、すぐにでも攻撃できるように戦闘態勢へと移る。「待って、セイバー。………ランサー、いくつか尋ねるけど、答える気はあるかしら?」「ああ、いいぜ。そっちの時間が許すっていうなら、答えられるものなら答えてやる」軽口を叩くランサー。武装し、戦闘態勢になっているセイバーを前にしてなお戦う構えは見せていない。それは凛がセイバーに制止の声をかけたからだろう。彼女がマスターの名に反して斬りかかってくることはない。そして自身に聞きたいことがあるということを示している以上、それが聞かれるまでは戦闘は始まらない。それが分かっていたから、セイバーを前にしても手に取った紅い槍を構えることはしなかった。「一つ。貴方はなぜここにいるのかしら」「言わねえと分からないか? ここにいて、かつお前たち側じゃないってことは、そういうことだろうに」「………二つ。貴方がそこに居るということは、その後ろが入口と考えていいのかしら」「違いねえ。この後ろこそ、お前たちが捜している入口だ」「─────三つ。今さっきの私の考えに対する貴方の答えだけど、合っているという認識でいいかしら」「ああ、合ってる。名推理だ」凛の言葉に答えた後、瞳が向く先は士郎。「そういうことだ、坊主。今なら恐らく最も安全な状態であの桜って子を助けられるかもしれねぇぞ。………逆に言えば、それを逃せば勝機はないだろうがな」「………桜が一体どうなってるのか知ってるのか、ランサー」「まぁな。何せうちの“マスター”が“アレ”と手を組んでるからな。情報くらい分かる。─────ありゃあ一種の『腹痛』だな」「─────は? 腹痛?」ランサーの言った言葉が理解できなかった。思わず聞き返してしまう。「ん? なんだ、腹痛を知らねえのか? ほらあれだ、食い過ぎた時に胃の消化が間に合わないで─────」「違う、そうじゃない。腹痛の意味じゃなくて、なんで腹痛なんだ?」「だから」やれやれ、といった面持で士郎を見る。そんなことも分からないのか、という顔で。「─────あの影はな、柳洞寺でアーチャーとギルガメッシュを飲み込んだ。流石に二体同時は堪えたのか知らんがお陰で今あの影は制御不能っていうことだ。 と言っても何も暴れ回ってるわけじゃない。どっちかっていうと痛みに耐えているって言う方が正しいか。 取り込んだ筈の奴が腹の中で暴れ回ってるから、その痛みに耐えて何とか消化しようと躍起になってる所為で思う様に動けないって状態だ」「─────」言葉が、出なかった。というより、なんといえばいいのか分からない。分からないが、それはつまり。「………今なら桜も、そしてあの影もまともに動けないってことね」「そういうことだ。言わずとも知っているだろうが、あの影はやばい。真っ当な英霊なら、取り込まれた時点で終わるものだ。 ─────だっていうのに、取り込まれてなお抵抗する輩がいるんだ。流石のキャスターも想定外だったらしい」「なるほど。それなら時間がない、来てもらっては困る、というのにも頷ける。何でもかんでも食べる奴が、食あたりを起こすなんて考えもしなかったでしょうからね」「が、それもいつまで保つか。数時間か、数十分か、数分か。正直あの影の腹具合なんざ知らねえからな。動くとすれば今だろうよ」そう。サーヴァントを取り込んでしまうあの影が動けない。それはここにいるセイバーが、今限定であの影の脅威から取り払われているということだ。この事実は大きい。如何なセイバーと言えども、あの影には勝てない。そしてそれは士郎と凛も同じ。その影の抵抗が一時的に無いというならば、いまにおいて攻め込む他にない。「そうか、今が絶好のチャンスっていうことはそういうことか。─────けど、ランサー。なんでそれを俺達に伝えたんだ? お前のマスター………言峰はキャスターと手を組んだって言っただろ」「だって言うのに、こっちが弱っている情報をお前らに渡すのはおかしい………ってか?」それが理解できなかった。今の情報は明らかに士郎達が有利になる情報だった。それをもたらしたランサーは敵対関係にある。普通ならば自身側が不利になるような事を敵に教える理由がない。「当然だろ。仮にお前が言ったことが事実だったとすれば、それは間違いなく好機だ。けど─────」「そこの嬢ちゃんが証明したじゃねぇか。お前ンところの参謀が出した答えをお前が疑ってどうする、坊主」「違う。遠坂の推理は凄いと思うし、合ってると思う。俺が聞きたいのは、“お前は一体何が目的”なんだっていうことだ」ピタリ、と。ランサーの動きが止まった。「目的か? そうだな、俺の目的は─────」同時にランサーの紅い槍が動く。その動きに反応したセイバーがいち早く対応すべく一気に気を引き締めるが、対するランサーはただ穂先を士郎に向けただけだった。「俺の目的は足止めだ。言峰の野郎からそう命令されてな。こうしてやってきたってわけだ」「足止め………。けどそれなら」「中で待ってりゃよかったんじゃないか、って? ああ、確かにそうだな嬢ちゃん。 けどな、言峰は『足止めをしろ』とは言ったが“どこで足止めをしろ”とは言わなかった。ついでに言うと戦う前に無駄話をするな、とも言わなかった。だから俺は純粋に“足止めに来ただけだ”。─────どうだ? 今ここの間でどれだけ時間を費やした?」「な─────」にやり、と笑うランサーとやられたという顔をする凛。だが、それを差し引いても士郎達が得た情報は大きい。「どうする? まだ話すっていうなら答えてやるが、時間がどれだけ残ってるか分からない以上は急いだ方がいいんじゃねえのか」「そうね、お言葉通り急がせてもらうけど。─────じゃあ、貴方は邪魔をしないで道を譲ってくれるのかしら」「ああ、邪魔をするなっていうのは無理な注文だ。………が、他の連中を中に入れないという行動を阻害するような相手なら、或いは入れるかもしれねぇが」槍の穂先は士郎へ。視線はセイバーへ。「さて、どっちが来る。セイバーか、坊主か。或いは両方か。全員でかかってくるっていうなら相手になってやる」それは既に戦闘態勢へと移行していた。話す事は話した。後はお前たち次第だ、と言わんばかりに。「待って─────待ってください!!」だが、一人だけは納得も何もなかった。バゼット・フラガ・マクレミッツ。「ランサー………、私は─────」「俺はな、バゼット」今の今まで反応すら見せなかったランサーが、バゼットをしっかりと見た。何かを言おうとしていたバゼットの言葉が中断される。「そこの坊主と嬢ちゃんを殺そうとした」「─────え?」予想外の言葉が返ってきた。ランサーの視線の先へ振り返る。そこに居たのは士郎と鐘だった。「その時はまだその坊主はマスターじゃなく、魔術師としても大したことがない奴だった。─────だがな、ソイツは俺から逃れた。嬢ちゃんを“守りきった”上で」何を言っているのか、という視線。それに気にすることもなく、ランサーは続ける。「まあその後もいろいろあったんだが、それはどうでもいい。過程はどうであれ、坊主は嬢ちゃんを“守りきった”。だから今こうして二人がここにいる。 ─────なあ、バゼット。“俺はどうだった?”」「そ………れは─────」「マスターが襲撃されて、駆けつけるも相手に反撃もままならず、令呪によって行動を封じられ、傷ついたお前を放って、いいように使役される。 ─────これが、お前が知っている“俺”か、バゼット」「─────違う、違う、違う!それは私に責任がある!あの時ランサーは言った、言ってくれた!注意しろと、大丈夫なのかと! 私は彼を疑わなかった、貴方の言葉に耳を傾けずに彼と接触した私が!外面ばっかりの私が!!」─────弱かったから。そう言葉にして、いつの間にか震えていた自分の体を抱きしめる。その表情は先ほどまでのものとは全く異なり、まるで泣き出す一歩手前の姿だった。「─────そうかよ。俺はな、“アンタみたいな負け犬に覚えはない”」そう、一言に付した。「な─────」絶句する。どうしていいのかも分からず、ただ立ち尽くすバゼット。「一つ聞く。お前は一体何のためにそちら側にいる。確固たる意志があったからこそ、坊主たちと一緒にこっちに来たんじゃねぇのかよ。わざわざ死にかけから回復してまでよ」「意志………」「それとも何か? とりあえず、とか、なんとなく、とかでついてきたか? なら正直言って邪魔だ、見逃してやるから帰れ」「違─────私、は」言い返そうと、答えようと。何かを言おうとして、言葉が出ない。「違うって言うなら!!俺に声をかける前にお前の意志を貫き通せ!!お前の手でお前が言った弱さを変えてみせろ!!一人だけうじうじと過去の失敗を嘆いてんじゃねぇ!!」─────そんな、バゼットの心が、吹き飛んだ。鬼のような形相をし、殺意をむき出しにして放った怒号。それこそ、口答えするならばその瞬間に殺すと言わんばかりの殺気がこの空間を支配する。「俺はお前を守れなかった。そしてお前もミスをした。ならこれは二人のミスでこの結果だ。 ………それでも、この結果が気にいらねぇっていうのであれば、それを受け止めて先を見ろ。 もう一度聞くぞ、バゼット・フラガ・マクレミッツ。─────お前は一体何のためにそちら側にいる」「私、は─────」両目が痛かった。唇は異様に乾いていた。けれど。「私は言峰綺礼を倒し、ランサーを取り戻す。それが私の意志で、それが私の目的だ」それでもはっきりと、確固たる意志を以てそう答えた。「─────その過程で俺と戦うこととなっても、後ろにいる坊主と戦うことになってもか?」「ええ、構いません。貴方と戦うことになれば貴方が消失しないように戦うだけですし、士郎くんと戦うことになったら意識を刈り取って勝利してみせます」迷いなき言葉。その言葉を聞いて、先ほどの参道での一件を思い出す。暴風じみた風に運ばれてきた凶器を的確に拳だけで砕いていた姿。「─────意識だけで済みそうにないんだけど………」あれで殴られたら意識プラスいろいろな部分が持っていかれそうな気がした士郎だった。「ハッ、いい覚悟だ。─────“それ”を忘れるな。“それ”が、始めの第一歩だ」笑ったその姿は、先ほどの怒号とは正反対だった。「──────ふ」自然、笑みが零れた。ああ、本当に。このサーヴァントはいつもこうだったと。どんなに打ちひしがれても、躓いても彼は何でもないような言葉で私を励まし、前だけを見ていた。そんな彼を仮に取り戻せたとして、私が変わらなかったら、きっと同じことが起きるだろう。ならば、劇的でなくてもいいから変わらなければならない。「わりぃな、こっちの都合で更に時間を食わせちまった」「いいわよ、別に。今更何かを言おうとも思わないから」「そうか? ならよかった。─────それで、誰がここに残る。残念ながら俺が何もしない、って選択肢はない。俺を足止めできるだけの奴を用意しろ、本気でやりあってもな」そう言って、ランサーはその本性を現した。「言っておくが、今の俺は最高に“ハイ”だ。容赦はしねえ、やりあうからには殺すつもりでいく。恨みたいなら恨んでくれて構わねぇぞ」「私が相手になる」ランサーへと一歩前へ出るセイバー。事実、今のランサーと互角に戦えるのはセイバー以外にいないだろう。「ま、そうなるわな。─────ほら、さっさと行け、お前ら。ここにいたっていい事なんざ起きねぇぞ」「─────そうね。行きましょう、士郎。今を逃すわけにはいかないわ」「あ、ああ。けど、氷室と美綴は─────」綾子と鐘を見る。彼女ら二人はここに残ってもらうのだろうか?だが正直に言うと、それは不安しかなかった。この場が魔術で偽装されているということは、ここら一体はいつでもキャスターの攻撃を受けるということだ。「ああ、その二人も連れていけ。言っただろう、“ここにいたっていい事なんざ起きねぇぞ”って。今のキャスター相手に一般人である嬢ちゃん二人が安全になれる場所なんてねぇよ。 なら、安全かどうかも怪しい場所に放っておくより、多少危険でも目のつくところに居て貰った方が戦う側としても安心するもんだ」「………それは、経験からの助言か? ランサー」「さあな。下らねえこと聞いてる暇があるんだったらとっとと行け、坊主。あの影が復活したら俺もセイバーもてめぇも、誰も助からねぇぞ」「─────礼は言わないぞ、ランサー」「当たり前だ。俺がお前ら二人に何をしたか、忘れたわけじゃあるまい。─────ま、それでも忘れるっていうなら忘れてくれて構わねぇんだが」「冗談。………行こう、氷室、美綴」「あ、ああ」後ろにいる二人を呼ぶ。ただ成り行きを見守っていただけの二人だったが、士郎の言葉につられて後へとついていく。「………」ただ、鐘だけは違った。ランサーの横を通りぬけた後、一度だけ振り返った。だが、それも一瞬。士郎と綾子に続くようにその向こう側へと消えて行く。「ランサー。私が言峰綺礼を倒すまでは負けないでください」「おいおい、それはセイバーに負けろっていうことか? それはちと酷なんじゃねえのか? 仮にも今のお前はセイバー側だろうに」「ええ、ですから。『負けないでください』。『勝ってください』、とは言っていません」何とも無理難題な注文を押し付けてバゼットも向こう側へと消えて行った。そしてもう一人。「─────スルーしてもよかったんだがよ。一応聞いておく」「………」「てめぇはどっちの味方だ?─────ああ、答えたくないなら答えなくていい。事情はどうであれ、あの坊主らと一緒に来たんだ。通さないつもりはない」「─────すまない」そう一言だけ口にして、宗一郎も消えて行く。そうして漸く。「これで一対一サシってワケだ」にやり、と笑うその顔は戦いを待ちわびたランサーの顔そのものだ。獣じみたランサーの殺気がセイバーの圏内に侵入する。「彼女には悪いが、ここで時間を取られるわけにはいかない。………ランサー、この戦い、勝たせてもらう」「よく言った。─────白状するとな、貴様が最後に残ってくれて嬉しいぜ、セイバー………!」ランサーの槍が閃光となって迸る。それに正面から立ち向かうセイバー。再戦は、互いに必殺の一撃を以て開始された。