『この世、全ての悪意アンリマユ』。生まれながらにして悪と称される存在。先天性の悪。天使が善意しか持っていないと言うのであれば、これはそれの対極に位置する存在。キャスターの魔力源となっているソレは、そう言うに相応しい存在である。存在もさながら、持つ力そのものも天使と同等と思わせるほどの圧倒的な魔力。実際に戦えばどちらが強いか、という議論はさておいて、そう錯覚してしまうほどの魔力を有しているキャスターには余裕があった。だが、余裕はあっても傲慢になることはなかった。先ほどの話。天使が善意しか持っていないならば、『この世、全ての悪意アンリマユ』は悪意しか持っていない。しかし当の本人達は自身の存在をどう認知するというのだろうか?仮に天使が本当に『善意』しか持っていないというならば、それが『善意』であると認知することはできない。『この世、全ての悪意アンリマユ』もまた同じことだ。その行いが『善』か『悪』かのどちらかを判断するのは、片方しか知らない本人達では認知することはできない。判断できるのは『善』も『悪』も知る人間しかいない。故に、どれだけ自分の行為が『善意的』であったとしても当の本人はそれを『善意』と感じていないし、どれだけ自分の行為が『悪意的』であったとしても当の本人はそれを『悪意』と感じない。それ以外を知らないからだ。キャスターは真っ先にそれに思い至った。『この世、全ての悪意アンリマユ』は確かに極めて優秀な『悪』なのだろう。だがそれはあくまでも人間の価値観からくる判定であり、自身から見てそれが『悪』であると認知することはできない、と。─────そしてそれは『効率的』な『悪』にはなれない。『善意』を知るからこそ『悪』を際立たせることができる。保有する力が全く同じでも、殺人という引き起こす結果が同じであっても。それをどのような形で出力し、彩を持たせるかで過程は大きく異なってくる。そう、必要なものは『悪』という属性を持った膨大な力を、『悪』として適切に操り他の者へ与える者。その結論に行き着いた時、本当の意味で、キャスターは完全な『悪』となる。だからこそ、キャスターは現状を現状のままで進行させていた。キャスターにとって、冬木市に入ってくるイリヤ達は障害ですらない。目的があるとすればイリヤだが、急務というわけでもなく必然的に優先順位は落ちている。目下優先事項はギルガメッシュの撃破。ちょうど真上でアーチャーと戦闘を行っている。ここで介入するのも悪くはないが、互いに潰しあって疲弊しきったところを呑み込めばいい。となるとセイバーが次点の優先事項になる。衛宮士郎はサーヴァント、アーチャーがギルガメッシュと対峙しているためまだ生かしておく必要がある。合流されると面倒なので新都のビル群で永遠と走りまわさせる。だが、その隣にいる人物は別─────『この世、全ての悪意アンリマユ』とはつまるところ『呪い』そのものだ。当然それを浴びれば死ぬ。いや、そもそもとして一般人が受け入れられるほどの薄い『呪い』ではない。ならば─────。学校で誘拐した際に、念には念をという意識の下で作り出した、脳への『勝手口』。『バックドア』は有効に活用中衛宮士郎には感知不能な微弱な魔力を拡散操作対象者達に特定座標を常に自動発信することで、半自動的に疲弊追撃を可能とさせる『この世、全ての悪意アンリマユ』は人を呪い殺すという属性を持った濃い魔力の塊だ。その魔力の“残滓”だけでも十分すぎるほど、一般人に対して効果を持つ。─────加えて『バックドア』から『この世、全ての悪意アンリマユ』の魔力残滓を継続的に与え続ける現在の兆候として、体温の継続的上昇及び『残滓』による心理的圧迫が確認存在自体、人への干渉力が強いため『残滓』でも何らかの情報を与えてしまう可能性があり気になったのは少女が見た『夢』だ。『悪夢』という名目であるならば、なるほどそれは『悪』であるが。衰弱にあたり精神の不安定度が上昇このままいくと精神崩壊、精神負荷による自殺、死亡などを引き起こす可能性が極めて高いキャスターにとってこれは遊戯と同類。どうなるのか、という極めて単純な興味からくる行動。死ぬという結果は変わらない。しかし過程はどうなるのか。─────実験続行そこに、対象者の意思など存在しない。対象者─────氷室鐘第61話 雲を掴む─────第一節 光─────「こんなものね」ずらっと机の上に宝石を並べるのはここの家の主、遠坂凛だ。目の前にあるのはどれもこれも高級そうな宝石ばかり。「リン、準備はできましたか?」「ええ、戦力となりえる宝石はこれで全部。ほかにもあるっちゃあるけど、恐らく雀の涙程度しか恩恵はないから置いておくわ」魔力の還元はすでに済ませた。体の調子自体はまだ完全ではないが、魔力に関しては問題ないだろう。つまりそれはセイバーの完全復活ができた、ということでもある。しかしそれでも正直に言って不安はある。ギルガメッシュもそうだが、何より桜と対峙するとなった場合、魔力が十全だろうが意味がないということ。サーヴァントが触れればどうなるかなど、すでに身を以て体験済み。「とりあえずはギルガメッシュね。アーチャーが頑張ってくれてる。アイツに加勢してとっとと倒しに行きましょう」「ええ、そうですね。─────しかし、シロウ達はどうしたのでしょうか。アーチャーにも聞きそびれてしまいました」「この家を使った形跡はあるから、今朝はここに泊まったんだろうけど。でもなんていうか、ここにある魔力の残滓がかなり薄いから、ついさっきまでいたとは考えにくいわね」「つまり早朝よりシロウ達はこの家を後にした、と?」「………まあ、アイツの事だから理由は想像に難くないかな。─────そうでしょ、セイバー?」「─────そうですね、そのためにも私達は勝たねばならない」無言で互いの目を見て、改めて決意を固める。そうして寝室を出ようとしたときだった。『ちょっと待ったぁ!』「「!?」」どこかで聞き覚えのある声が聞こえてきた。無論部屋には凛とセイバーしかいない。『ようやく姿を見せたわね、リン、セイバー』「この声………イリヤスフィールですか?」「………アンタ、どうやって話しかけてきてるワケ?」『この部屋に目と声を伝達できるように細工しただけよ。だからこの部屋から出ていかれると聞こえなくなるから、この部屋で聞いてちょうだい』「細工って………一応ここ、私の寝室なんですけど?」『ええ、そうね。リンにしてはいいベッドを使ってると思うわ。けれど、もっとしっかりベッドメイキングはしておくことね』メイドを連れてるアンタだから言えることよね、と心の中で突っ込む。どうやら後でここに仕掛けられた魔術を解いておく必要がありそうだ。「まあ無駄話をしていられるほど私達に余裕がないっていうのは共通認識の筈よね。それで、要件は何かしら?」『シロウを助けてほしいの』その言葉を聞いた二人の顔が僅かに反応する。無論その反応をイリヤが見逃すはずもない。「イリヤスフィール、現在アーチャーが柳洞寺にてギルガメッシュと対峙している。そちらの援護にもいく必要があるのです」『なら、シロウは見捨てる?』「………それを本気で言っているのであれば、貴女に灸をすえる必要がありますね」『言われなくても判っているわ。シロウの居場所を伝える』その後イリヤから伝えられた場所は新都のビル街だった。もう少し進むとセンタービルもあり、鉄橋も比較的近い。「それで、アンタ達は何やってるわけ?」『私達もキャスターの足止めを受けてるのよ。無尽蔵に魔力を持ってるだけあって、数だけは多いし。じゃなきゃ車使ってもシロウのところに間に合わないっていうことはありえないもの』「そ。つまりこの家に来る前に見た光はアンタ達ってワケね」凛とセイバーがこの家に来る前に、かなり遠い場所で光があるのを確認した。普段ならば気にもかけないのだが、こうも街中が暗闇だと車のヘッドライト一つでも十分に目立つ。『リン、気付いていたの?』「まあね。ただ距離もあったし、私もセイバーも魔力がかなりまずい状況だったしで先にこっちを優先させたわ」『賢明ね。魔力不足で来られても迷惑よ。キャスターに狙ってくださいと言ってるようなものだし』事実イリヤ達が対峙しているのはキャスターの使い魔だ。そこに魔力不足に陥っているセイバーが来るのは問題である。だが、それも仮定の話だ。「リン、行きましょう。アーチャーの方も気になりますが、シロウも心配だ」「ええ、そうね」『それと、もう一つ』部屋を出ようとした足が止められる。凛がそれに反応するよりも早く、イリヤは伝えた。『恐らくアーチャーとギルガメッシュの戦いはキャスターも見てる。漁夫の利をキャスターは狙ってる筈だから、まだ動かない。気をつけなさい、今狙われるとするならリン達よ』「………ご忠告どうも。安心しなさい、もう二度と負けはしないわ」それだけを言って、凛達は寝室を後にした。玄関戸を開け放ち、すぐさまセイバーの肩に腕を回した凛と共に空を跳ぶ。流石はセイバーと言ったところ。ほどなくして新都と深山町を繋ぐ冬木大橋が見えてきた。だが─────「!」身を翻したセイバーが勢いを止め、アーチの頂の手前にて着地する。凛もまた、セイバーの行動の理由には気づいていた。無言でアーチの頂を睨んだ。高さ50メートルオーバー。吹き付ける風は強風の域で、整備工とて命綱を必要とするであろうそこに。「ごきげんよう、セイバーとそのマスター」かぶるフードは風を忘れたかのように、顔を隠したキャスターがそこにいた。「案の定、といったところね。悪いけど偽物になんて興味はないの●●●●●●●●●●●●。見逃してあげるからとっとと消えなさい」「あら、そんな大口をたたくなんて。お情けで生き残った貴女には過ぎる言葉ね。それにこの私が偽物ですって?」キャスターの言葉を聞いた凛はうんざりした表情を見せる。「どう見ても偽物でしょうが。街丸ごと操って、そこまでしながら漁夫の利狙おうとする奴がわざわざ私達の前に出てくるわけないでしょう」その言葉にくすり、と笑うキャスター。フードの所為で口元しか見えないが、その見えぬ目がセイバーと凛を見下しているということはわかった。「ふふ、確かにそう。けれど、そんな偽物に敗北するのだから、いよいよ貴女達も惨めよね。“最優”という称号はどこへ行ったのかしら?」「易い挑発だな、キャスター。そしてギルガメッシュに敗北するつもりも、もう二度とない。貴様に敗北なども同様にだ」「そう? けれどそれは貴女が決めることじゃないわ、セイバー。数分後、この場に立っている者が決めることよ」ブゥン!! と異様な音を立て、キャスターの周囲に複数の光が出現する。それが。「………!」「………ウソでしょ?」キャスターの前方だけに留まらず、この全長665mの威容を誇る冬木大橋全てを取り囲んでいた。「見せて貰いましょうか。その負けないという意思の強さを」直後、空中に浮かぶ光が一点へと収束し、轟音を響かせる。─────第二節 違和感─────キャスターとセイバーが冬木大橋で激突する、ほんの数分前。何度目の焼き回しだろうか。士郎と鐘は街をひたすら走らされていた。「─────はぁ、─────はぁ」心因性発熱。またの名をストレス性高体温症。精神的ストレスによって熱が、正確には発熱の基準となる37℃以上の高体温となることをいう。ストレスによる体温上昇には、大きくわけて二つのタイプがある。1つは一時的に大きなストレスによって急激に体温が上昇するものの、それが過ぎるとすぐに下がるもの。もう1つは過労や介護など、慢性的なストレス状況で微熱程度の高体温が続くタイプのもの。氷室鐘はその前記と後記の両方の“悪い部分”だけを獲得してしまった状況だろう。急激に体温が上昇し、その高体温が継続してしまうタイプ。彼女が聖杯戦争に巻き込まれてからすでに約十日。日常とかけ離れた空間の中にそれだけ居続ければ、無意識的であろうが精神負荷は免れない。“─────おかしい”手を引かれ走っていた鐘は、漠然とそう感じていた。普段陸上部として活動をしている彼女にとって走るという行為は日常だ。状況が状況なだけに日常と同じとは言わないが、それでも『走る』という行為に関しては日常と同じの筈である。それが、こんなにも苦しい。別にフルマラソンの終盤に来て全力疾走しているわけでも、酸素濃度が低い高地で走っているわけでもない。通常の町中で、酸素濃度も通常値の場所だ。それなのに、まるで長距離水泳をしているかのように体が重く、息が続かない。“違─────、この感覚は、どこかで”気になった事は解決するまで調べるのが彼女の性分。状況が状況なだけに、そうも言っていられないのが事実。それでも、この感覚には嫌な予感があった。それを、無茶を承知で思い出そうと必死になる。─────キャスターの悪意によるものということを、彼女自身が知る術はない。「氷室、大丈夫か!?」「問題は………ない………」前を走る士郎は鐘の状態を気に掛ける。家に出てからすでに何十分が経過しただろうか。或いはまだ数分も経っていないのだろうか?周囲が暗闇な所為で時間の確認もままならない。だがそれでも士郎には手を引く鐘の症状が悪化していることに気付いていた。「く─────、氷室!」「え? な─────?」襲い掛かってくる住人が、それこそよくあるゾンビのような鈍足なら問題はなかった。けれど実際は違うのだから、逃げる方としても歩いて逃げられる状況じゃない。「………!え、み」「今は躊躇ってる暇なんてないだろ!」これ以上無理をさせられない、そう判断して鐘を抱き上げた。士郎の人ならざるモノが鐘の体に痛みを伝える。「ごめん、氷室。ちょっとだけ我慢しててくれ」彼女を抱えて暗闇を再び走り始めた。そもそも高体温が続くということは、生体は体温上昇のために普段より多くのエネルギーを使っているということだ。いつもなら何でもないことも、体にとっては大きな負担となりうる。鐘の現在の症状で走り続けることは、あまりにも危険すぎた。だからこそ士郎はその身を案じて彼女を抱きかかえた。しかしその行為に対して、鐘はよい顔はしない。士郎だって先の戦闘のダメージが完全に癒されたわけではない。気を抜けば次の自分がどうなっているかも怪しい状況だ。それでも士郎自身が平常に“ふるまえている”ことにも理由があった。簡単な話。人間の体には『苦しさを麻痺させるシステム』が組み込まれている。「っ!」周囲を睨みながら、士郎は走り続ける。隠れようにも相手がキャスターならば隠れる意味がない。相手がこちらの位置を常に把握しているのだから、隠れると逆に追い込まれてしまう。逃げ続けるしかない。捕まらないように囲まれないに、細心の注意を払いながら逃げ延びなければならない。そしてこうしている間にも、腕の中にいる少女は弱っていっている。それが士郎の焦りに拍車をかけていた。心因性の発熱が続く場合の注意点は、日常生活における『ペースダウン』。および睡眠時間を十分に確保することが最重要となってくる。物事に対して全力ではなく7割程度の力で行う。『申し訳ない』などの罪悪感を抱かずに完全に割り切る。こまめに休息を挟み、疲労した時に抱く思考と行動を休息へと転換させる。鐘はそのどれにも当てはまる行為を行っていなかった。或いは行えなかった、というのが正しいだろうか。この疲弊した状況下において、『常に逃げ続けなければいけない』。7割の力で行動していれば『捕まって殺されるかもしれない』。或いは士郎がその分をフォローすることで逃れれるものの、『申し訳ない』と思ってしまう。そこから相まって、なぜ自分はこのくらいもできないのかと『罪悪感』にとらわれてしまう。仕方がない部分とはいえ、微塵も責めるつもりがないとはいえ。彼の体の剣は少なからず、体に触れる少女の負荷となる。そう。どれも仕方がないことであり、些細なことだ。“通常ならば”その程度で病状が悪化するなんてことはない。だが結果、症状はどんどん悪化し。士郎がよかれと思って、鐘が意識していなくとも、精神的負荷がかかっている。そこへ。街中の人間が凶器を持って何も見えない暗闇の中から襲ってきたとしたら?通常、人間の目は光の反射によって物を見る。つまり、反射する光がなければ、人は物を見ることができない。今この街に光はない。あるのは空から落ちる僅かな明かりだけだ。当然視界の有効距離は極端に落ちる。伸ばした手の先が見えればマシではないかというレベル。そんな中で凶器を持った人間が視界の外から内側へ急に現れたら?精神的疲弊は極端に上昇するだろう。暗闇という状況で相手は迷うことなく襲ってこれるというのに、自身は腕の距離よりも近くに来なければ見ることすら叶わない。唯一の味方である士郎もこの暗闇の中を視認しているというのに、『自分だけが』何がいるかも理解できない。加えて音という情報源も彼女を不安定にさせる。視界がほぼ機能しない中で、頼りになるのは音だけだ。だが、その音も彼女の精神を削り取るパーツとしても機能してしまっている。「─────」そうして、鐘は無意識に瞳を閉じた。思考の外で、これ以上は精神的に持たないと体が判断したのだろう。もともと見えぬものならば見る必要はない、そう言い聞かせるように。だから、その直後に起きた事に対してはひどく無関心だった。「─────ぐっ!?」捕まらないように囲まれないに、細心の注意を払いながら逃げ延びた先で。抱えた鐘の首を裁断しようとする刃を見た。誰がどのような武器を持って攻撃してきたかなど、認識すらしなかった。ただ『その攻撃が致命的すぎる』という一点だけを脊髄反射で反応した。抱えていた腕を力の限り自分の体へとひきつけて同時に後方へ飛び引いた。体勢は崩れ、抱えていた鐘は地面へ倒れ士郎自身も背中から倒れこんでしまう。「っ………。悪い、氷室!ごめん、怪我は─────」言葉が止まった。倒れた際に視界を奪ったノイズ。一瞬で消え失せ、その光景の先にぐったりと倒れている鐘の姿があった。だが、倒れているその鐘の姿が。士郎の目には一瞬だけ─────に見えてしまった。「ひむ─────、っ!!」咄嗟に振り向いて干将莫邪を出現させる。甲高い音を響かせながら、両手に負荷がかかる。もはや猶予はない。この短時間で悪化している彼女をこれ以上連れまわす訳にもいかない。強行突破でも何でもして、とにかくイリヤと合流しなければいけない。そう心に決めかけた時だった。「な─────」再度その姿を眸に映し、その攻撃を受け止めた。もはや慣れた光景だった。いや、慣れてはいけないものだが、前例と遭遇してしまっている以上は慣れてしまう。「蒔寺………」どこから手に入れてきたのか、日本刀を構えている。彼女もまた例外なくキャスターの魔術の餌食となってしまっていた。奥歯を噛み締め、楓を操っているキャスターn─────想─────。「─────」横から金属バッドで殴りつけられたかのような激痛が頭に奔る。今は何かを思考している暇はない。「蒔寺、俺の声は聞こえて─────」士郎の言葉を聞いてか聞かずか、一歩踏み込んだ楓が袈裟へ刀を振り下ろしてきた。風切音が士郎の耳に届く。「っ、ごめん蒔寺!」振り下ろされた刀を受け止め、即座に懐へと潜り込んで右手の短刀の柄で腹部を強打した。その衝撃で手に掴んでいた刀が地面へ転がり落ちる。普通の人間ならばよろけの一つもするような、クリーンヒット。そのことでさえ─────今の彼女には関係がない。「なっ─────!」倒れるものだと思い込み、後ろに倒れる鐘に気を取られていた士郎はそれに反応できず、押し倒されてしまう。「っ!!」後頭部を地面に強打する。勢いよく倒れた反動で右手に握っていた白色の短剣が地面へ落ちる。ノイズが奔ったその視線の先にあったのは、握られたナイフだった。「ぐ、この!」眼球に全力で振り下ろされたナイフを両手で挟み込んで停止させる。強化した身体能力だからこそできた反応と抵抗である。だが、状況は着実に悪化の一途を辿る。無数の音が近づいてくる。それは救援の足音ではなく、正気を失っている住人達のものだ。足音にばらつきがあり、継続的に続いているからして間違いない。「まずい………!」この状況で囲まれれば逃げ切れなくなる。先ほどから後ろにいる鐘の様子もおかしい。そう思い、見た先に。「──────────────────────────────」すでに操られた住人が、倒れている少女の前で。楓が握っていた日本刀を大きく振りかぶっていた。殺される。あと数秒で、凶器が首へと落ちる。死ぬ。目の前で。殺される。目の前で。守ると誓った少女が殺される。抵抗もできないで、ただ見ていることしか─────「お、おおおおおおああああああああああああああああああああああああああああっ!」脳裏に過った鐘の姿。両手で挟み掴んでいるナイフを無理矢理押し返す。反動で両腕を押し上げられた楓を押し退け、上半身を起き上がらせた。視界にノイズが奔った。─────関係ない。千切れるような音がした。─────関係ない。間に合わない、と声がした。─────関係ない!!!!どんな暗闇にいようとも。どんな絶望的な状況であっても。必ず助ける。そう、誓ったのだから。─────第三節 破戒─────「投影、開始トレース・オン!!」その一瞬を狙い撃つ。勢いよく振り下ろされた日本刀は、横から飛び込んできた別の刀によって勢いよく弾き飛ばされる。刀を握っていた男を蹴り飛ばし、とりあえずの周囲の安全確保を行う。「氷室………」優しく抱きかかえると、反応したように瞳が見えた。「私なら………大丈夫」弱りきった瞳で、鐘はそう言った。細い指が頬を撫でる。その感覚を確かに掴み、その指を握りしめる。言葉でこそ大丈夫と言っているが、明らかに様子がおかしい。なぜここまで弱りきっているのか。熱だからといって、その状態で走ったからといって、ここまで衰弱することはない。別の原因がきっとある。「けど、それを確認するには………」この状況から抜け出さなくてはいけない。足は止まった。止められてしまった。周囲には大勢の住人がいる。逃げ場はない。これが敵ではない以上、投影で殺していくわけにもいかない。しかしここに居続けていれば、きっとさっきと同じ状況が出来上がる。「─────投影、開始トレース・オン」前後を挟まれ左右はビル。ならばビルへ逃げ込む以外に道がない。投影によって開けられた大穴の中に逃げる。だが建物の中に逃げるということは、それ以上の逃げ場がない場所へ入るということ。それでも。「投影、開始トレース・オン!」開けた大穴をふさぐようにさらに壁を壊して瓦礫で埋める。これで敵はビルの“正規の入口”以外に使う術はなくなった。「ここは………そうか、センタービルなのか」建物内の案内のこのビルの名称が書かれている。冬木市の繁華街「新都」になる高層ビル。屋上に上ればかなり広範囲まで見渡すことが可能。「ここなら時間稼ぎはできそうだ。………けど、逆に言えばここから動けない」広い建物ではあるが、街の住人が一気に攻めてくると逃げ切れる保証はない。「氷室………」抱いていた鐘をゆっくりと寝かせる。マンションから脱出したときよりも明らかに症状が悪化している。「普通じゃない………よな、これ。でも魔術で何かされているように感じないし………」士郎では魔術による治療ができない以上、一刻も早くイリヤ達と合流するべきである。が、これ以上鐘に負荷を与えるわけにもいかない。「ぁ─────」「氷室?」「水………」「水………? 水が欲しいのか?」途切れ途切れで聞こえてくる言葉。それだけでどれだけ苦しいのかがわかる。周囲を見渡してみるが、ここはビルの中。水自体は水道があるだろうからそれを探せばいい。大きいビルなので、自販機ぐらいおいているだろうから飲み水も問題はない。「─────あの時の」「え?」周囲を見渡していた士郎に再びかけられる声。「あの時、みたいな感覚がして、………気持ちが、悪い。水の中に、いるように体も………」そう言って、鐘は再び目を閉じた。あの時? と疑問が湧いた。あの時とは一体いつの事を言っているのか。だがそれは彼女に聞くべきではない。話しているだけで通常の数十倍も体力を必要としているのかと思わせるほど、苦しそうに話す姿。今は少しでも体力を温存させるべきだ。苦しいのに、それでもちゃんと伝えてきてくれたのだから、次はこちらが何とかする番。(気持ちが悪いなら、相応の『嫌な出来事』があったはず)自分が記憶している限りの悪い出来事を思い出す。あの時という事は鐘の隣か或いはすぐ近くに士郎自身もいたということ。ならば思い出せる。締め付けるような頭痛も、彼女の苦しさと比べればどうってことはない。『魔術師は血を纏う』。ある種こうなることが当然なのだから、こうなることが異常である鐘と同等に比較してはいけない。(水の中にいる………? 息苦しいのか、或いは体が重いのか、その両方か)士郎が思考の渦にとらわれかけた時だった。遠くで何かが割れる音がした。ビル内は基本的に無音であるので、何か音がするだけで響いてくる。「くそ、キャスターの奴………!」ガラスか何かを割って、閉ざされた入口を強引に開けて入ってきたのだろう。逃げなければいけない。「………キャスター?」動こうとした体が停止する。一瞬だけ見えた光景。公園だった。瓦礫の中だった。街の中だった。情報が交差する。「そうか………!」確たる証拠はなかった。だがそれでも確信に近いものを持っていた。それならば楓と遭遇したときに『見間違えた』理由も納得できる。「なら、あとは助け─────っ!?」士郎が一つの解に辿りついた直後に鳴り響いた爆音。それは先ほどのガラスが割られる、という些細な音などではなく、爆撃機が爆弾を投下したかと思わせるようなものだった。それが一度だけではなく何度も連続で起きているあたり、異常事態だと伝えているようなものだ。「なんだ………何が起きてる!?」横になっている鐘を抱きかかえ、窓から外を見る。だが外に立つビルが視界を遮っている所為で確認することができない。「─────、なら外に出て………」そう言って振り返るが、いつの間に近づいてきていたのかすでに十人近くの人間が凶器を持ってそこに立っている。ビル内は無音だ。近づく音が聞こえれば反応できる。だが、その足音をかき消すほどの爆音があれば、その限りではない。「まず─────」右脚に力を篭めて後ろへ跳ぶ。腕には鐘がいる。跳ぶならもっと早く、もっと遠くに。鋭い風切音。斧を持った男性が勢いよく斬りかかってくるが、それを回避する。だが敵は十人。「っっっ! 投影トレース─────」金属バットと持った若者二人が左右からスイングしてくる。受けてはいけない、かすってもいけない。ただでさえ苦しんでいる少女に追撃をかけるような真似は許さない。「─────完了オフ!」士郎の声と共に出現する花弁。本来ならば遠距離に絶大な効果を発揮する7枚の花弁だが、目の前に現れたのはたった2枚。それでも、一般人が振るう攻撃を防ぐには十分な硬度を誇る。「ぎ………!」金属バットが花弁に叩きつけられる。罅すら入らない。だが反して士郎の頭の中には激痛が奔る。「だめだ、ここから逃げないと………!」投影をするたびに頭の中を直接たたきつけるかのように頭痛が発生する。いよいよ疲労が出てきたかと内心薄く感じながら、突破口を探す。入ってきた時のように壁を壊して外へ出ようかとも考えたが、廃案。恐らくこのセンタービルは囲まれている。外に出たところで逃げ場はないだろう。それに準じて強行突破も絶望的だ。どうあがいても操られている住人を倒さねばならない。当然だが操られている住人は全くの無関係で無実の人間。殺すわけにはいかない。となると。「くそ、上しかないじゃないか!」脇目にあった階段を駆け上がっていく。◆「─────はぁ、はぁ、はぁ」そうして、たどり着いたのは屋上だった。一階から五十階まで。エレベーターは電源がないため動かず。動いていたとしても確実に止められるので使うこともできず。「流石に………五十階まで階段は」大きく息をしながら、それでもゆっくりと鐘を横にさせる。四十八階と四十九階、そして屋上へ繋がる唯一の階段を打ち抜いたので、これで当分はやってこないだろう。心配ごとがあるとすれば、打ち抜いた際に発生した瓦礫が操られている住人に直撃していないか、ということだがそれを今確認する術はない。「─────、つ、ふぅ」上がった息を落ち着かせる。先ほど得た情報。先ほど得た結果。もし想像通りとするならば、最早猶予がない。やるならば一瞬で、対応される前に決行する必要がある。投影。自身ができる、力の行使。「─────投影、開始トレース・オン」体の上から下まで、全身にガタがきている以上、残り何回投影できるかわからない。それでも。「衛宮………?」横たわった鐘が再び、瞳を見せた。顔色がかなり悪い。確実に、悪化の一途を辿っている。もはや口を動かすだけでも辛いはずだ。それもそうだろう、と士郎は心の中で思った。キャスターから何らかの『呪い』の類がかけられているとするならば、辛いなんて言葉で表現できないほど苦しいはずだから。結局、正体は判らない。だがそれでも、彼女を蝕んでいるのが単純な病気や疲労からくるものではなく。“そう見せかけて殺そうとしている”呪いの類だということは理解した。これほどまでに衛宮士郎に効く攻撃はないだろう。守ると誓った存在。その傍にいながら、その異常を見逃して死なせてしまう。あくまでも“自身が気付かなかった所為で”という名目を付け加えさせることで。それだけで士郎への精神的負荷は計り知れないものとなっていただろう。そうだ。これは『彼女』と全く以て同じ状況。一緒に居たいと願っただが、気付いた。間に合った。そして、何より救い出す術もある。だから─────みんなで笑っていたいと─────「大丈夫、氷室は必ず守るから」─────だから、この悪意つながりを破戒する。─────第四節 兆し─────冬木大橋。大爆発が起きたその場所から、凛とセイバーはいち早く退避していた。だがセイバーらが立っていた場所は消失しており、それだけでどれほどの威力が込められているかが見て取れる。「助かったわ、ありがとうセイバー」「いいえ。 それよりもリン、どうしますか。無視して抜けられるほどの相手ではありません。しかし─────」「戦ってるとそれだけで時間を食いかねない」宙に浮くキャスターを睨む。制空権は相手が握っている。逃げ切ることは不可能。かといってセイバーは跳ぶことはできても、空を飛ぶことはできない。そして時間を割いていられるだけの余裕もない。柳洞寺ではアーチャーが、新都のどこかには士郎が助けを待っている筈だ。「よく避けたわね、セイバー。けどそこからどうするのかしら。あなたの宝具で葬ってみる? それもいいわね。けれど、“偽物”に対してそれを行えるだけの余裕はあるのかしら?」「っ、魔力が有り余ってるからって言ってくれるわね」そう、目の前にいるのは偽物。だが、偽物の攻撃ですら、彼女の対魔力で防ぎきることのできないほど高密度高威力の攻撃。時間もない、余裕もない、猶予もない。結局魔力を取り戻し万全になろうとも、事態がそこまで深刻化してしまっている。“─────どうする”セイバーは目の前の敵から一挙一動を見逃さない。確かにあれほどの魔力と魔術を行使できるのは脅威。加えて制空権も握られている。だからこそ、そこに逆転のチャンスがある。圧倒的不利であることには変わりない。そしてキャスターにとって圧倒的有利であることにも変わりない。そこに突ける道がある。唐突に力を手に入れた者は、どれだけ気を払っていてもどこかしらに意識の『抜け』が生ずる。自分の力を妄信しすぎ、自身の状況が絶対的優位であればあるほど、その『抜け』は突きやすくなる。ならば、絶対的不利であっても勝利する可能性が存在する。「気に入らないわね、その目」杖が揺れる。たったそれだけで数百の光弾が出現する。呪いを帯びたAランクという枠組みを超えかねないほどの魔弾が。「さっきは一撃を重視しすぎたかしら? なら、次は避けきれないほどの数を打ち出してあげる」凛が確認できたのは、光が動いた、ということだけだった。セイバーに抱えられた凛は、ただ爆撃音を聞くことしかできない。橋を飛び降りたセイバーは水面を走る。橋の下に潜り込もうかとも考えたが、こちら側が一方的にキャスターの位置を把握できなくなるだけだと結論づけた。「セイバー、降ろして! 私を抱えてちゃ満足に反撃もできないでしょ!?」「リン………、いえしかしこの状況では─────!」いくら凛が優秀な魔術師だからといって、キャスターのあの魔術に対抗する術は持っていない。魔力保有量と出力量の時点で敗北しているのだから、当然と言えば当然。「そう、その小娘を置いて逃げれば反撃はできるかもしれない。けど残念ね? その小娘はあなたのマスター。結局、守るしかないということ!」水中で、光が生まれた。それが下から突き上げてくる魔弾だと理解する。そしてすでに周囲には無数の魔弾が飛来してきている。逃げ場がない。セイバーならば直撃しても、ダメージを受けることはあっても死ぬことはないだろう。凛は確実に死亡する。一秒先にくる死の未来。「「!!!??」」だが、反して聞こえてきたのは凛の悲鳴でもセイバーの叫びでも、キャスターの高笑いでもなかった。たった一撃の赤い閃光。彗星のように飛来したそれは、偽物であるキャスターを寸分狂いなく打ち抜いた。同時に巻き起こる爆発。赤白い光が、闇夜を吹き飛ばす。吹き荒れる風は突風の域を軽く超え、暴風となってセイバー達へ叩きつけられる。「何が─────」凛とセイバーは全く同じ疑問を抱く。だが、その数秒後に全く同じ光景を思い出し、全く同じ結論に到達する。二人はかつて同じ光景を見たことがある。一人は攻撃側で、もう一人は回避側。「この攻撃って─────」キャスターの偽物が消し去られたことにより、周囲の魔弾は姿を消す。何が起きたかにせよ、勝利者はこの場に立っている凛とセイバー。だが、二人にはそんな粗末なことなどどうでもよかった。「セイバー、今の一撃、どこから放たれたか判る?」「判りません。判りませんが………知っている場所ならばあります」水面に立つセイバーはそれだけを言って、すぐさま新都へと水面を蹴った。地を蹴り、壁を蹴り、空を跳ぶ。そして二人は目撃する。「やっぱりセイバー達だったんだな。よかった、無事で」「遠坂嬢………、セイバーさん………」どこか表情が優れない氷室鐘と、髪の一部が白くなっている、衛宮士郎を。―an Afterword―お久しぶりです、作者です。今年に入ってからというもの、忙しい日々が続いており、ようやく61話の更新にたどり着けました。今後も更新が遅いかもしれませんが、更新自体は止めるつもりはございませんので気長に待ってくれれば幸いでございます。今後ともFate/Unlimited World―Re を宜しくお願いします。