第59話 幕─────第一節 幕を通す─────気休め程度にしかならない手当てをした。こんな程度で痛みが引くわけでも、体の調子が元に戻るわけでもないのに「ありがとう、氷室。随分楽になった」なんてお世辞でも気遣いでも何でもなく、本気でそんな事を言ってくる。そんな彼に何か要望はないか、と問うと「何か食べる物はないかな。………朝から何も食べてないから、流石に」ばつが悪そうに尋ねてきた。一瞬呆気にとられてしまい、目の前に座る少年から空腹を知らせる音が僅かに聞こえてきた。視線を逸らすために横を向いた顔は、心なしか赤くも見える。そんな─────誰もが言う当たり前の言葉を聞いて、誰もが見せる当たり前の反応を見て、安心している自分がいた。「ああ、何か用意しよう。少し待っててくれ、衛宮」そう言った私の表情は、見事なまでの自然な微笑。─────理由は、わかる。今朝までの彼には見えなくて、今の彼には見えるもの。今朝までの彼には判らなくて、今の彼には判っているもの。それが感じられたから、きっと意識しなくとも自然に笑えたのだろう。親のいないリビングへと向かう。空腹とはいえ、彼は怪我人だ。がっつりとしたものは食べれないだろう。じゃあ何を作ろうか、なんて考えて改めてため息をついた。過去に一度享受しながら一緒に作ったとはいえ、その一回では劇的に腕が上達するはずもない。不味い物を出すわけにもいかない。自分の腕とも相談しながら考えてるとお粥、なんてものが真っ先に思い浮かんだ。公園へ拉致され衛宮邸まで運ばれた朝。その直前の気恥ずかしさもあってか持ってきたのは遠坂嬢だったが、作ったのは間違いなく彼。「─────よし」大手を振って宣言するようなことではないけれど、お粥くらいなら作れる。酢を使うわけでも油を使うわけでもない。ただお米を鍋で煮込めばいい。味は一度彼お手製を食べてるから、再現とまではいかなくてもそれなりに近いものは作れるはずだから。◆「ああ、何か用意しよう。少し待っててくれ、衛宮」そう言った氷室の顔は笑っていた。少し前の学校では見ないような表情。そんな表情を見せて、部屋を出ていった。いつかあった日のこと─────父親がいて、母親がいて、いろんな人がいて、そして少女がいた。守りたかったもの、大切なもの、失うことさえ思いつかなかったもの。「ぐ………っ!!」肺に、異物が“引っ掛かった”。動く肺に突き刺さる。深く呼吸をするとより深く食い込んでくるような激痛。「はっ………はっ………─────は」交換する空気量は最少で、その分肺の膨らみを小さくする。無理に呼吸をすれば、何かが炸裂して大量の血が溢れ出してきそうな。そんな根拠もない感覚が襲ってくる。ゆっくりと、浅くした呼吸を元に戻していく。肺が正常に異物に触れないように動くようになってきた。「本格的に─────やばいよな、これ」内部破壊、とは言ったものだ。明らかに外観よりも内部にガタがきている。次に強力な攻撃をこの身に受ければ、今度こそ倒れる危険性が高い。生き耐えて攻撃に転ずる、なんてことができる保証もない。その上、相手は人間とは比べものにならないほどの存在、サーヴァント。死の危険は、この聖杯戦争を始めたころよりも随分近くにある。普通に高校生をやっているだけではやってこないそれが、体全体を隅々まで覆い尽くしている。死が怖くないわけじゃない。むしろ死への恐怖は増した。生きていたいと思った。「ああ、大丈夫だよ」目を瞑り、息を吐くように小さく呟いた。消えるわけにも死ぬわけにもいかない。気付いていた桜に気付かないまま、救えなかった。助けて、謝って。桜とまた一緒に笑えるように。助けてもらってばかりで、世話をかけてばかりだった。探し出して、助けて。遠坂にありがとうって伝えて。守ってもらってばかりで、助けることもできなかった。見つけて、助け出して。セイバーに不甲斐なくてごめんなって謝って。今までずっと寂しい思いをさせて、一人ぼっちにさせていた。抱き上げて、頭を撫でて。一緒に暮らそうとイリヤに言って。守るといって、守れなかった。謝って、大丈夫と言って。美綴を安心させてやって。一番近くにいてくれて、一緒にいてくれて。手を繋いで、約束して。これからずっと一緒にいたい。そうしてみんなが無事に笑っていてほしい。みんなと一緒に笑っていたい。だから、死ぬわけにも消えるわけにもいかない。気付けば痛みは完全になくなっていた。単に痛みが引いただけなのか、それとも生物としての機能が失われていっているのか、もう判別がつかない。けれど自滅なんてしてやらない。死にかける度に暴走する固有結界。アーチャーは制御をする術を知らないからだ、と言っていた。けれど今だからこそ判る、それは違うと。死にかける度に暴走するということは、言い換えれば生きる為に発現するということ。それが例え人間としての機能を損なうという結果を伴ったとしても。“ただ生きる為に”固有結界が暴走する。「─────なら、そこに恐怖なんてない。生きたい、それをカバーしてくれるっていうなら………後は精神おれが耐えればいいんだから」今朝から休まずに動き続けた体を一時停止させる。疲労は確実に体に残り、足を鈍くさせているのも今更ながらにわかった。恐らくはもうこの聖杯戦争は長くない。根拠はないが、予感はあった。そしてこれからの戦いはあっという間に、けれど経験したことがないほどのものになるだろう。なら今は体を休めておこう。一瞬、リビングに立っている氷室を思い、手伝おうかとも思った。けれど多分、いや確実に。『衛宮はゆっくりしていてくれ』みたいなことを言ってくるだろう。少し申し訳ないという思いもあるが、ここは彼女の好意に甘えていよう。◇用意されたお粥を食べ終えたのは大体一時間と少しした後だった。鐘も士郎と同じように作ったお粥を少し食べる程度で終えた。いくら朝昼と食べていないからとは言え、今の状況で大量に食べようとは思わなかった。時計を見ればもうすぐ午後八時半。長かった今日も残り三時間半で終わる。「まずは状況整理かな。イリヤと美綴はアインツベルン城へ行ったんだよな」「ああ、連絡手段としては私の携帯と美綴嬢の携帯があったが、私の携帯は紛失してしまって手段がない」椅子に座る士郎とベッドに腰掛ける鐘。心身ともに落ち着ける状況。「あー、それなら何とかなるかもしれない。イリヤから魔力を貰ってるから、或いはアーチャーに話しかけるようにイリヤに話しかければ………」「テレパシー、のようなものか。そんなこともできるのか?」「多分。そう意識してやったこともないから、うまくいくかは判らないけど」目を瞑り、中にラインのイメージを作り上げる。たったそれだけの作業なのに、途端に体が火照ってきた。『イリヤ』果たして本当にうまく繋がっているかどうかも定かではないまま、念じる様に少女の名前を呼ぶ。こういう交信は士郎の場合、落ち着いて冷静にならないとうまくいかない。戦闘中や切羽詰っているときにやろうとしてもできない……というかそこまで頭が回らない。『イリ─────』少し情けなくなりつつも、再び少女の名前を呼ぼうとすると『あー、シロウ! ようやく気付いてくれた!』「うおぅ!?」こちらの話しかける声以上の声が頭の中に響いてきた。決して大きくはなかったのだがそれでも予期せぬ音量だったために、身構えていなかった士郎は驚いてしまった。当然、目の前で士郎の様子を見ていた鐘も驚いた訳で………「え、衛宮………? 大丈夫か?」「あ、ああ。ちょっと突然のイリヤの声にびっくりして………」何とか取り繕ってはみるものの、傍から見れば何もないのにいきなり驚いて体を震わせたように見える。そして何とも情けない声を発して。「………」「………」そんな反応を見せた士郎にただ苦笑いというか『私は気にしないぞ』的な何とも曖昧な笑顔を見せてフォロー。士郎もそんな鐘の反応を見て素直に感謝しつつ、自分の情けない一面を恥ながら曖昧な笑顔で笑う。「と、とにかくイリヤと連絡繋がったから状況とか話すよ」「わ、判った」変な空気が空間を支配したが、何とか士郎から切り出して脱出。目を瞑り、再びラインに意識を集中させる。修行の時も集中するときは一旦外部情報をシャットアウトして魔術行使をしていた。こうした方が繊細な行動に集中しやすいのだ。決して恥ずかしさからの目を閉じたわけではない。『イリヤ? 今はもう話をしても平気か?』『今の反応の無い間は一体なんだったのか気になるけれど?』『それは聞かないでくれ。俺の修行不足だ』『ふーん。まあシロウがそういうなら』鐘に見られた動作を言葉でイリヤに伝えたくはなかった。なんとなくかっこ悪い。『ありがとう。それで、イリヤ。今はどこにいる? まだ森のお城にいるのか? あの女の人はどうなった?』『流石にもうアインツベルン城からは出てるよ。今そっちに帰ってる途中。シロウが助けた人も平気よ』『そうか、よかった。他に何か変わったこととかなかったか?』『こっちは特に。むしろあったとすればそっちでしょう? シロウ、大丈夫なの? アヤコがカネと連絡とれなくなったって言ってるから、何かあったのかってこっちから呼びかけてるのに全然反応しないんだもの』『えっ、もしかして今の今までずっと話しかけてくれようとしてたのか?』イリヤの言葉に驚く。そういえば先ほども『ようやく気付いてくれた!』と言っていたことから、話しかけてきてくれたのは一度や二度じゃないのだろう。『わ、悪い!ごめん、イリヤ。今までイリヤが話しかけてくれてたことに全然気づかなかった!』『別にいいよ。シロウからの反応はなかったけれど、その代り魔力が通っているから生きてるってことは判ってたからね』『そういってくれると助かる。心配かけてごめん。こっちは………まあいろいろあったけど、無事だ』◆先ほどの変な空間は消え失せ、目の前には瞑想状態の士郎が座っている。(とりあえずは報告待ち、ということか)やることもなく、ただ目の前に座る士郎を眺める。ただこうして待っているのも手持無沙汰なので、なんとなく士郎の表情を観察することにした。さきほどの反応といい、話している内容によっては彼の表情に変化がみられると思ったからだ。そもそも士郎は嘘がつけない。それは嘘をつかない、というのもあるが表情や仕草に出やすいという面もある。素直で判りやすい、という反面隠し事は滅法できない。そんな士郎。時折彼の眉が僅かに動いたり、口元が動くのを歯で噛んで止めたり。なまじ話もせずただ士郎の顔を観察していると、そういう普通に会話をしているだけでは気付かないような小さな変化が見て取れた。それを眺める度に何を話しているのだろうか、何を言われたのだろうか、というのが気になってくる。そこまで気になって、自分の今の状況に気が付いた。士郎の顔をじぃっと見つめる、そんな自分。(………茶碗でも洗ってこようか)自分の行いがなんだか気恥ずかしくなってきたので、思考を切り替えた。いわゆる魔術的電話をしている間、士郎が話しかけてくることもこちらが話しかけることもできない。(電話といえば、携帯はどうしようか)教会での戦闘の際に紛失してしまった携帯電話。もう買い換えるしかない。(そういえば彼も携帯を持っていなかったか。………この際一緒に買うというのもいいかもしれない)そんなことを思い立って、やはりそれに対して軽く息を吐いた。認めたくないというわけではないが、認めてしまうと恥ずかしさを感じて、けれど認めたいと思ってしまう。─────氷室鐘はどうしようもなく、衛宮士郎を欲している。ぶんぶん、と頭を振った。心なしか顔が熱くなっていたが、気にしないことにする。このまま何もしないでこの部屋にいると士郎の顔を眺めることしかできなくなってしまう。いや、それはそれでいいかもしれないが、やっぱり拙いわけで。茶碗を洗おうとベッドから立ち上がる。その動作をした時だった。「あ………れ………?」くらり、と視界が歪んだ。平衡感覚が無くなって、正常に立つことができなくなる。虚脱感が巡り、思考は停止して、それでも何とか倒れないようにと足を動かそうとして─────「っ!? 氷室!?」ちょうど目を開けた士郎に名前を呼ばれた同時、自分のベッドに倒れこんだ。─────第二節 幕間─────疑問はあった。抵抗はなかった。悦びはなかった。嫌悪はなかった。絶望はなかった。感じる事はなかった。なぜ私はこの世に生を受け、なぜ私は存在したのか。その疑問を解くことはできなかった。「殺す」ことで解が得られると思い、その時を待った。そうして機会は訪れた。待ちに待った、というわけではない。解が得られるとすればただその時だけだったということだけであり、ただその時を待ち焦がれていたわけではない。─────そうして得た機会は結局、何も得られぬままに幕を閉じた。他愛なかった。一言でいうならそれに尽きた。「殺す対象」が他愛なかった。どこかで訓練を受けた屈強な人間というわけではなく、優れた腕を持った射撃手というわけでもない。居る立場こそ上の位なだけで、それ以外は極めて一般で没個性でどこにでもいる人間だった。「今まで」が他愛なかった。気が付けば“そこ”にいて、ただこの時の為だけに拳を鍛え、修行に明け暮れていた。そうして訪れた結末を鑑みると、この程度のモノかと悟った。「解」が他愛なかった。解が得られると思い、ただその時の為に生きてきた。そうして得た解。それに対しての悦びはない。嫌悪はない。絶望すらもない。何も感じることはなかった。─────私には何も無かった気が付けば私はただ生きていた。生きる目的を失ったと同時に、死ぬことにも意義を見出せなくなった私は、ただ生きていた。故に感じることは何もなかった。世が不況に陥ろうが、大火災が起きて多数の死者を出そうが、何も感じることはなかった。時間が過ぎる。それに対して何も思うことなく、ただ流れるままに日々を過ごした。水面に浮かぶ笹舟の如く。時には人に求められ、応えることもあった。だがそれとて心に何かを感じるということはなかった。言うなら『生きた屍』。朽ち果てた殺人鬼。ただそれだけの生涯。しかしそれで構わない。求めるものが無いのだから、それで構わなかった。◆冬木市にある総合病院。この街の中では最大の大きさを誇り、医療施設も充実している。その一室に、その男は居た。「…………」ゆっくりと目を開け、どういう状況かを確認する。窓から差し込む光はまだ明るく、昼過ぎであることを知らせてくる。上半身を起こし、周囲を確認するとそこは見たこともない一室であった。が、それに対して驚きはない。見たことのない一室ではあったが、おおよその見当はついていた。コンコン、と戸を叩く音。返事を待たずして開けられた扉から入ってきたのは、穂群原学園で生徒会長を務める柳洞 一成だった。「あ、葛木先生。起きておられましたか」「柳洞か」入ってきた彼の手には花があった。状況から判断してお見舞いらしい。見るとベッド傍の花瓶にも花が入っていた。「お体の方は大丈夫でしょうか」「………問題はない」「そうですか。それは何よりです」「柳洞。私は自身の足でここへ来て眠った覚えはない。どういう経緯でここへ私が運ばれてきたか解るか?」宗一郎の質問。それに対し一成は自身の記憶していることを伝えていく。「ええ、先生が寺の方で倒れていたとのことで、こちらの病院へ。先生以外にも寺の僧らも同じように病院に担ぎ込まれまして、最近になって目を覚ます者が出てきたんです」「つまり、私がここに運ばれてから数日は経過している、ということか?」「はい、そういうことになります。私も学校の崩壊の所為か体調を崩していたのですが、寺の僧らや先生の状態と比べれば些細なモノでしたので今までこうして見舞いの方を」手に持った花束を見せ、花瓶に入れる。頻繁に来ているらしく、花瓶にはまだ綺麗な花が咲いていた。「判った。柳洞寺の方はどうなっているか解るか?」「寺は学校と同じように崩壊しています。………が、それ以上に奇異なのが門から境内奥まで続く“堀”があることでしょうか。まるで何かが通った跡のようなモノが」「そうか」ここまでの会話の中に遠坂凛やキャスターの名前は上がってこなかったところから見て、一成は何も知らないということだろう。ならばその堀とやらは十中八九戦闘の痕とみていい。「では柳洞。今はどこに住んでいる? 寺が崩れているとなると、そこで寝泊まりするわけにもいかないだろう」「親父殿の伝手で藤村先生の家の方でお世話になってます。寺がある程度復旧されるまでは仮住まいということで今泊めてもらっています」「………なるほど。では柳洞、藤村先生に迷惑をかけないように」「はい、心得ています」一成が花瓶の花を交換し、窓を僅かにあけた。隙間から入ってくる風は冷たいものの、その冷たさが僅かに暑い体を冷ましていく。「しかし藤村先生も何やら大変なようで、病院から帰ってくるなり衛宮の家に行き、『誰もいないー!』といってトンボ帰りしてきました」ピクリ、と僅かに宗一郎の眉が動いた。が、当然そんなものに一成は気付かない。「衛宮は家にいないのか?」「どうもそうらしいです。まあ単純に入れ違いになっただけかと」「なら柳洞は衛宮を見た、ということか?」「少し前に見舞いに来たので、無事であるということは判っています。先に藤村先生の方に見舞いに行っていたらしくて少し疲れた様子ではありましたが」衛宮士郎は無事である。その事実を聞いた宗一郎は改めて現状を考えた。学校でのやりとりがあった以上、衛宮士郎はキャスターを敵視しているだろう。ならばいずれ再び戦うのは目に見えて判り、今日はすでに数日経過している。そして衛宮士郎が無事であるということは、キャスターは敗れた、ということになるのだろうか。「柳洞、街の異変などはどうなった? もう何も起きていないのか?」「相変わらずのようです。警察も動いているみたいですがまだ収まる気配は………あ、いえ。でも本当にここ最近は情報が出回らなくなっているかとは思います。けど、まだ安心には程遠いかと」情報が出回らなくなっている、というのは単純にメディアなどの表のモノだろう。隠蔽などされていたら情報が出回らないのも当然である。◆日は暮れ、夜がやってきた。見舞いに来た一成に要るものはあるかと問われ、いつも学校で来ている服を持ってくるように頼んだ。体調は良好というわけではないが、病院で寝込む必要があるほど重体でもない。体はいつも通り動く、拳はいつも通り握れる、腕は以前と変わらなく突ける。ならばここにいる必要はない。服を着てネクタイを締め、上着を着る。寝ていたベッドを元通りに戻し、病室をあとにした。人通りは比較的多く、ネオンの光が夜の不安を払拭するかの如く煌々と道を照らしている。だがやがて光は減り、人通りは少なくなってくる。新都と深山町を繋ぐ橋を渡り、見慣れた町へと戻ってくる。僅かな街頭が細々と道を照らし、耳に響く風の音がより一層周りの無人さを際立たせる。だがこの男にはそんなものなど関係ない。元より朽ちた殺人鬼。無人であることなど気に留める理由にならないし、むしろ慣れた環境ですらある。荷物を預かっているという藤村宅に行く気は全くなかった。行く先は柳洞寺。覚えている限りで自分が最後にいた場所。記憶の中。凛との戦闘で目の前で宝石という名の爆弾を起爆され、それを回避するためにかなり距離を後退せざるをえなかった。そのおかげもあって軽傷ですんだものの、如何せん視力を奪われていた。音で探そうにも爆発音が鳴り響く戦場。足音を判別するのは無理があった。幸い視力は十数秒もすれば元に戻る。ならばそこから追えばいいと思っていたが、何かに足を奪われたあと意識が途絶えた。だが。その途絶える寸前で。『─────宗一郎様!!』聞き覚えのある声だけが響いていた。どうなったかなど知らない。だからこそ柳洞寺へ向かう。確証を得られるものがあればよし。ないのであれば生存の確認が取れている衛宮士郎を探せばいい。未だに聖杯などに興味はないし、人が何人何十人死のうが興味などない。だがそれでも─────己が始めたことを放棄することはできなかった。─────第三節 手薬煉─────アインツベルン城。崩壊した城の一室で、綾子は目の前に座る銀色の少女、イリヤの言葉を聞き入っていた。「理解はできたかしら?」そう問いかけるイリヤであったが、綾子はただ口元に手を当てて考え込むしかなかった。否、綾子だけではなく同室で説明を聞いていたもう一人の女性もまた驚いた表情を隠せないでいた。バゼット・フラガ・マクレミッツである。「………イリヤスフィール」「何かしら封印指定の執行者さん?」「………せめて名前で呼んでくれますか。いえ、今はどうでもいいです。それよりも貴女が言った事は本当にできるというのですか?」「できないことを言ってどうするのかしら?」「─────もし仮にできたとすれば、それはもはや魔術ではない。“魔法”だ。そうなっては─────」「ええ、知られれば無事ではすまない。…けど、知られる原因がないのだから問題はないわ。ただ一つの点を除いてね」「………私、ですね」「その通りよ、バゼット・フラガ……ってもう、長いからバゼットでいいわよね。貴女が言わない限りは表沙汰になることはないわ」ベッドに座るバゼットと椅子に座るイリヤが会話する中、綾子だけは未だに押し黙ったまま。その理由はあまりにも飛躍した内容で、未だに信じられないからだ。「アヤコ」「へっ?え? あ、ごめん。聞いてなかった」名前を呼ばれて我に返る。どうやら考え込みすぎた所為で、話の腰を折ってしまったらしい。「重要なんだからちゃんと聞くこと!後でアヤコがカネやリン達にも言うんだから!」私が? と頭の中に疑問を作った綾子だったが、これ以上話を中断させるわけにもいかないので言葉に出さないでおく。「………とにかく、今リズとセラが無事な体を探してるけど、あったとしても今の士郎に合うモノは多分ない。となるとどうしても生活に影響がでてきちゃうの。だからアヤコはとある人物を探さなくちゃいけない」「とある人物って誰なの?」「蒼崎橙子って人。“こっちの世界”じゃかなり有名な人形師よ」「人形師………その人が?」頷くイリヤを見て、小さく口に出す。全くもって知らない名前だが、今の士郎を助けることができるのがその人だというのなら、何とかして探し出さなければいけない。「あ、それと。言う必要もないだろうけど、誰かに吹き込まれたりしたら大変だから伝えておくわ」「ん、何?」「その蒼崎橙子って人のことを絶対に『傷んだ赤色スカー・レッド』って呼ばないこと」「スカー・レッド……? わかったけど、なんでまた?」「それを言った者は必ず殺されているからですよ、美綴さん」「殺されてって………」「蒼崎橙子はかつて魔術協会の総本山、時計塔で名を馳せた人物です。ですが、その優秀さが仇となり魔術協会から封印指定を受け、逃亡。現在も行方は分かっていません」バゼットの説明を受けて、呆気にとられてしまう綾子。そんな彼女に気付いていないのか、バゼットは説明を続ける。「魔術協会に実力を認められた人物に対して『色』が与えられます。その条件などはここでは話しても意味はないので置いておきますが、当時蒼崎橙子に与えられた色が『赤』でした。ですが蒼崎橙子本人は『赤』をひどく嫌っていたようで、それ故に『傷んだ赤色スカー・レッド』と呼んだ結果が最初の犠牲者です」「は、はぁ………とりあえずかなりおっかない人だというのは解りましたけど。─────というか行方不明じゃ探しようがないんじゃ?」「そうね。けど、もし無理だったならどうする? シロウは一生外に出ることができない。それはアヤコだって嫌でしょう?」「そりゃあ嫌だけど」迷いなく即答する。仮にこの聖杯戦争が無事集結し、元の日常に戻れたとしても士郎の体があのままでは公の場に出ることは無理だろう。なぜ命を懸けて戦い、勝った代償がずっと閉じこもる生活となるのか。「………そうだね。なら何が何でもその蒼崎橙子って人を探し出すしかない。正直どうなるか不安だらけだけど、やるしかないね」そうすることで今まで助けてくれた士郎に少しでも恩を返せるなら、人探しだろうが何だろうがやる。元より情けない自分が彼の為に何ができるか、と考えた場合これくらいしかない。「………決意を折るような形になって申し訳ありませんが、本当に見つけられるでしょうか? 魔術協会もまた彼女の行方は調べています。しかし何の情報もないのが現状です。ましてや魔術も使えない一般人。どうしても見つけられる可能性は無いように思うのですが」「一般人だからこそ見つかる可能性っていうのはあるわ。協会からの追手は当然魔術師。なら魔術師を警戒して、魔術師に対して有効な迎撃手段を用いる。まさか魔術も使えない一般人が魔術世界に生きる自分を、ましてや顔も知らない人が知っているとは思わないでしょう。それに封印指定を受けようが蒼崎橙子は人間。仙人じゃない。必ず魔術師の見えない部分でどこかの誰かとパイプはある。なら価値観も視点も何もかも違うアヤコらが見つけれる可能性はゼロじゃないわ」「─────理屈でいえば確かにそうなのでしょうが………」「それに見つからなかったとしても、彼女の作った人形さえ手に入れば問題はないわ。そうね………、最悪オークションにでも出品されてたら落札するっていうのも手ね」「オークションって………そんなモノもあるの?」「例え話だからあまり気にしなくていいわよ、アヤコ」「失礼します、イリヤスフィール様」ノックと共にセラが部屋に入ってきた。その姿を見たイリヤは一瞬期待したような顔を見せたが、すぐに元に戻った。「その様子からすると、やっぱりなかったのね」「はい、残念ながら。ほぼ全てが先の戦闘で破壊、乃至は損傷してしまっていました」「まあ判ってはいたんだけどね」あっさりとした反応を見せるイリヤを見て、バゼットは疑問を投げかける。「随分な反応ですが、目的の物がないとなると影響がでるのではないですか?」バゼットはまだ見たことがない人物、衛宮士郎。聞けば体に異常があり、まともな生活はもうできないという。その彼を救いたい、と言いつつそれに必要な物がないという状況において、この反応は些かドライすぎる。確かに可能性としては目の前にいる美綴綾子が探し出すことも考えられる。しかしそれはあくまで可能性。それに縋るには余りにも頼りない。ならばこの状況は多少焦ったり、別の案を考え込んだりするのが普通の筈だ。少なくとも判っていたと言ってすんなり諦められる状況ではない。「もしや別の案がある、ということですか?」「ないわよ。やることは一緒よ」だが返ってくるのは変わらぬ反応。それに訝しげになるバゼットの傍らでセラが僅かに見つめていた。「お嬢様………」「セラ」何かを言おうとしたセラを口止めする。「この聖杯戦争は普通じゃない。なら………普通じゃない結末があってもおかしくない。少なくとも私達はその類●●●でしょう?」「………」「アヤコには無理難題を押し付けてる。その内容の時点でもう普通じゃない。けど、アヤコは覚悟した。シロウを助けると覚悟した。なら、私がそれを放棄するわけにはいかない」黙るセラを話に出てきた綾子が見る。彼女を様子が普通ではないことは理解していたが、何を思っているのかはわからない。パンパン、とイリヤが手を叩く。話は終わりだと言わんばかりの仕切り方で「さあ、それじゃあ戻りましょう。─────冬木へ」─────第四節 幕開け─────アーチャーは夜の街を一人飛び回っていた。もちろん翼を生やしての「飛行」ではなく、あくまでもその身体能力を生かした「跳び回り」だ。衛宮士郎に干渉することはもう必要ないだろう。故に干渉するときは聖杯戦争の戦闘時のみ。それ以外で士郎が何をしていようが興味などなかった。自分でありながら、自分とは全く違う存在。それを妬むことも、羨望することも、憐れむこともしない。元よりそれらによって敗北したのだから何かを言うことなどできないし、アーチャーである『衛宮士郎』の人生はすでに終了している。生前のアーチャーにとって特別はセイバーであり遠坂凛であった。それが間違いだったとは思わないし、今も思わない。ただそれでも、全くノーマークだった人物が果たして運命を変えてしまうほどの重要人物だったと知った今。或いは、という考えが出てこなかったわけではなかった。だからこそ、アーチャーは士郎に干渉しない。そこに可能性があるとするならば、その可能性を見つけることすらしなかった己が干渉する余地などないからだ。今現在、アーチャーは凛とセイバーを探し、街を跳んでいる。残った敵は3。間桐桜とキャスターの黒聖杯組。神父とランサーの教会組。そしてギルガメッシュ。─────教会でランサーと戦う前まではそう考えていた。だが、ランサーが消えかける直前『チッ、だからこんな人形じゃ足止めもできねぇっつったんだよ』聞こえるか聞こえないか程度の声でそう呟いたのをアーチャーは聞き逃さなかった。事実、教会でのランサーは今までのどれよりも弱かった。姿形まではアーチャーに気付かれないレベルで似せることができても、ランサー本人の能力までは忠実に再現できなかったようだ。こちらが宝具を見せたにも関わらず、相手が宝具を発動しようと構えすら取らなかったのがそれを明確に示していた。このことから考えられる事実。ランサーを完全とまではいかずとも模擬できるほどの人形を作り出せる存在がバックにいるということ。まさかあの神父がそれをできるとは到底思えない。となるとそれができる人物は実質一人だ。これで敵は3ではなく2。果たしてあのランサー組が何を考えてキャスターと手を組んだのかはアーチャーの知るところではない。否、知る必要もない。どのみち敵なのだからいずれ戦うことになるのは明白で、倒すことにも変わりない。だがそうなったとき、戦力が自分一人というのは明らかに分が悪かった。衛宮士郎には間桐桜を助ける術がある、とは言っても、そこにたどり着く前に倒れては意味がない。またそれまでに戦って勝ったとしても崩壊しては意味がない。となるとサーヴァント二体は同じサーヴァントがぶつかる必要がある。そしてこの二人、アーチャー一人で全て対応できるとは決して言い難い。特にキャスターの魔術は避ける以外に術がない。対魔力の高いセイバーならばともかく、アーチャーの対魔力ではあまりにも厳しい。自分の実力に自信がないわけではない。むしろ自分の実力に自信があるからこそ、的確な判断を下せる。「あの少女は衛宮士郎にとって必要な存在だ。奴の傷を癒すのは彼女しかいないだろう。………だが」ダン! と力強く地を蹴り跳ぶ。鷹の目と呼ばれる目でより遠方を視界にとらえる。「………」視界にとらえた情報を処理し、無言で手に弓を具現させる。今まで探しても見つからなかった訳。聳え立つビルの屋上から、“ソレ”を見る。夜に溶け込もうとすらしていない。弓を構え、矢を具現する。その鏃の名を赤原猟犬フルンディング。今までも幾度と使ってきた矢だが、此度の標的相手にはこれほど有効な矢はないだろう。無銘の弓兵。投影した宝具を矢として使用する錬鉄の英霊。狙うは─────魔力を装填された矢が数キロ先にいる敵を補足する。気付いているのか、いないのか。恐らくは気付いている。アーチャー自身はまだ対峙したことはないが、マスターである衛宮士郎からの情報は受け取っている。全てを見下ろす為に浮いているアレが、撃ち落とそうとして構えている己を気付いていないはずがない。─────それでも。『我を知った上で狙い撃つか、アーチャー』「無論だ。衛宮士郎が負けなかった男に、私がただ傍観するだけなどと、あってはならないことなのでね」直後。赤い光を伴った魔弾が、数キロという距離を無にしたが如く、強風を伴いながら天へと撃ち出された。─────第五節 黒幕─────その全てが始まるほんの少し前。間桐桜は薄暗い洞窟の中にいた。「流石はセイバー………あの一撃で蟲が無塵に還るとは思わなんだ」ただし、発せられる言葉は彼女のそれではなかったが。セイバーに両断されてから既に半日。それでも死ななかった間桐臓硯は桜の体の中にいた。周囲には誰もいない。キャスターもアサシンもいない。キャスターがいないことについては臓硯がどうこう言うつもりはない。だが、アサシンが半日たった今でも己の下へやってこないことについては違和感があった。まさか場所を知らぬというわけでもあるまい。この場所は事前に知らせておいたし、魔力供給を受けないで行動できるスキルがない以上、ここにくることは必然の筈。「ええ、来るはずありませんもの。当の昔に取り込んだのですから」突如桜(臓硯)の背後から空間を捻じ曲げるようにその姿が現れた。その突然に驚きはしたものの、間桐桜は驚かない。「キャスター、貴女何を言って─────」「あら、おかしいわね。扱いやすい様に強制的に眠らせて疑似的に伽藍にしてる私のマスターが、言葉を発するなんて、ね?」その言葉を聞いた臓硯が、次に起きたことを理解するのに数瞬の時間を要した。「!?」今自分がいる場所。外だった。「な─────」言葉を発する。だがそれも間に合わない。「罠に乗ってくれてアリガトウ。サヨウナラ」時間にして数秒。理解することも反応することも許さない。瞬間的な摘出と殺害。その対象物が掌の上に簡単に乗せれるほどのものならば、或いはこの魔術師ならば当然なのだろう。完全に消え去った間桐臓硯。そこに何かしらの感情を抱くことはない。「アサシンとライダーで二騎。バーサーカーで一騎。残る三騎は未だ健在。そして一騎のイレギュラー」操り人形のように動かない桜を横目にキャスターは一人中央へ。「この世全ての悪………だなんて、大層なものね」妖しく笑みを浮かべ、この場所ではない、別の場所をその水晶に映し出す。「ええ、私はキャスターですもの。他の者が扱えないというならば、私が扱ってあげましょう」渦。脳が炸裂するほどの渦。殺せ殺せと際限なく、止めどなく、流れてくる。弟を殺し、父を殺し、我が子までも殺した。女神に翻弄されて、気付けば魔女に成り下がっていた。─────憎い求めたものは何だったのか。今となっては黒く塗りつぶされて思い出すことさえできない。─────憎い憎い憎い憎い憎い憎い死ぬ間際、どうしてたった一人にも看取られることなく逝かなければならなかったのか。─────憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い。翻弄した女神が、邪魔をした殺した者達が、誰一人相手にしてくれなかった周りが!ならば─────全部殺してしまえ「アハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!!」映し出されたのは一つの姿。見たことがある姿。殺してしまうのは易い。けれどそれではあまりにも呆気なさすぎる。そんな、『周囲の人間が死んだ程度の絶望』なんていう、どこにでもありふれたものを再現するつもりはない。あくまで最初は気付かないように。─────それでいて効果は劇的に。外堀を埋めて、気が付いたときにはもう変えられない状況で。それすらも変えてしまう可能性をちらつかせながら、やってきたところを消し去って。殺しつくす。ああ、その為には生かしましょう。糧となる存在も、人質となる存在も、道具となる存在も、すべて優しく生かしましょう。このキャスターワタシが、アンリマユアナタの願いをかなえてあげましょう。吐き気を催すような、邪悪を再現してあげましょう。そのためならば優しくなりましょう。それができる。なぜなら、今の魔法使いすら及ばない、『神代の魔女』なのですから。