chapter.02 / Destination Unknown / 死への旅ep.05 / 運命の日Date:02 / 02 (Sat)─────sec.01 / 変わらない筈の日常炎の中にいた。崩れ落ちてくる家と目の前で焼かれていく人たち。走っても走っても風景はみな赤色。長く、思い出すことのなかった過去の記憶。その中を、再現するように走った。目的地がどこだったのかは分からない。錯乱して無意味に走り回っているのか、それとも行くべき場所があったのか。─────この結末は知っている悪夢だと知りながら出口はない。走って走って、どこまでも走って。目の前で下敷きになった同年代の死体を見て。走る気力すらも失って。行き着く先は結局、歩く力すら尽きて助けられる、幼い頃の自分だった。◆「─────」嫌な気分のまま目が覚めた。額に触れると、冬だというのにひどく汗をかいていた。「………ああ、もうこんな時間か」時計は六時を過ぎていた。耳を澄ませば台所からトントンと包丁の音が聞こえた。「今日は桜の勝ちか」流石に二月の朝は寒い。しかしこのまま起きないわけにはいかないので布団より起き上がる。布団をしまい、制服に着替え、身嗜みを整えて居間へと向かった。居間に入ると大河と桜が朝食の準備を済ませていた。おはよう、と二人に挨拶をしていつもの場所に座る。「………食べきれるのか、これ?」テーブルに用意された朝食は普段に増して多かった。夢見も悪かったせいで、これほどの量を食べられるほど食欲はなかった。「えっへへへ、こっちはお昼のお弁当用!今お財布ピンチだから助かるわ、桜ちゃん」なるほど、と理解する。確かに二食分くらいの量があるなとは思っていたが、昼用だというならば分かる。だが。「………藤ねぇの弁当用かよ。桜に作らせるなんて職権乱用だぞ?」自分の財布がピンチという理由で弓道部顧問である大河が、弓道部員である桜に弁当を作ってくれと言われれば作らざるを得ない。そもそも自分の財布がピンチというのは自身の管理の甘さからくるツケなのだから、その賄いで桜に労力を強いるのはよくない。「いえ、私と同じものですから手間は同じですから、大丈夫です。はい、先輩」「─────桜がそういうなら深くは言わないけどさ。ありがとう」そんなことを考えもしたのだが、よくよく考えれば自分も桜の朝食にあやかっているのであまり大きい声で言えたものではない。「………他人の振り見て我が振り直せ。もうちょっとしっかりしないと」「んー? 何を直すの、士郎。また何か土蔵でやってるの?」「違う。こっちの話だ、気にしなくていい。─────いただきます」まず味噌汁に箸をつける。昨日に実感したことだがやはり今日の味噌汁も相変わらずおいしい。これだけで十分活力は湧いてくる。「ふふ、士郎。桜ちゃんお手製のお昼を食べたかったら昼休み、弓道部に顔出せばー? そうしたら分けてあげてもいいよー」「………そんなことしたら本来藤ねぇ分のが少なくなるぞ。それでいいって言うなら考えるけど、少なくなったからって言って他の部員からメシを集るなよ?」「─────うーん、やっぱり士郎は自分で購買とかで準備してきて」「なんだそりゃ」そこは『そんなことしません』と否定してほしかったのだが、こっちの考え通りに動かない教師。が、そうは思ってもそれ以上は言わない。この朝っぱらから虎に突っ込みを入れるほど元気ではない。というより朝からこの虎が人並み以上に元気すぎるのだ。「そういえば士郎。今朝は遅かったけど、何かあった?」味噌汁を飲みながら士郎に視線を向ける大河。(………ったく。普段は抜けてるクセに、こういう時だけ鋭いんだから)「昔の夢を見た。寝覚めがすっげー悪かっただけで、あとはなんともない」「なんだ、いつもの事か。なら安心かな」とりわけ興味もなさそうに会話を切る大河。士郎も別に気にしているわけでもいないので、ムキになる話でもない。十年前。まだあの火事から立ち直れていなかった頃は頻繁に夢にうなされていた。それも月日が経つごとになくなって、今では夢を見ても比較的軽く流せるぐらいには立ち直れている。ただそれでも当時はひどく、その頃からいた大河は士郎のそういった部分には敏感なのだ。「士郎? 今朝に限って、食欲ないとかはない?」「ない。流石にこの量全部を朝で食べきることはできないけど、いつもの朝並みにはある。あるから人の夢にかこつけてメシを横取りするな」「ちぇっ。士郎が強くなってくれて嬉しいけど、もちょっと繊細でいてくれた方がいいな、お姉ちゃんは」「そりゃこっちの台詞だ。もちっと可憐になってくれた方がいいぞ、弟分としては」ふん、と互いに視線を合わせずに罵りあう。それが元気な証拠となって、大河は安心したように笑った。「─────ふん」士郎にとってその心遣いは嬉しいものだった。しかしお礼を言おうものならつけあがることは確定なので、いつも通り不満そうに鼻をならしておくことにする。食事を終え、大河は先に家を出て行った。今日は土曜日。学校が休みのところもあるが、穂群原学園は土曜日も午前中だけだが授業がある。ちゃちゃっと食器を洗い終えて戸締りの確認。そして門を潜って外へ向かう。「先輩。今日の夜から火曜日までお手伝いにこれませんけど、よろしいですか?」「? 別にいいよ。桜だって付き合いあるんだし、気にすることないよ」というかまさか今日の夜も実は来る気でいたのだろうか、と桜の言葉を聞いて思った士郎だったがここは言わないでおく。その当の桜はというと少し慌てたように手を振った。「え─────そんな、違います………!そういうんじゃなです、本当に個人的な用事で、ちゃんと部活にだって出るんですから! だ、だから何かあったら道場に来てくれたら何とかします! 別に遊びに行くってわけじゃないです、だから、あの………ヘンな勘違いはしないでもらえると、助かります」「???」挙動不審というか、かなり緊張しているようだ。なぜそんな態度をとるのかわからなかったが、あまり深くは聞かない方がいいだろう。「分かった。何かあったら道場に行くよ」「はい、そうしてもらえれば嬉しいです」そう言って胸を撫で下ろす桜だったが、視線を落とした先のものを見て一転顔を強張らせた。「先輩、その左手………」「─────左手?」桜の言葉につられて左手を見る。ほたり、と赤い血が地面に零れた。「あれ………どっか怪我したっけ?」左手、左腕共に痛む箇所はない。念のために袖をまくって確認すると、確かにそこに血が滲んでいた。「なんだこれ。昨日の夜、ガラクタいじってて切ったか?」そうは言ったが怪我をするようなことはなかった筈である。となると眠っている間にどこかにぶつけてこうなったか、あるいは気付かないうちにどこかにぶつけてしまったか。にしては痛みがない。傷だって、腕にミミズ腫れのような痣があるだけ。痣は肩から手の甲まで一直線に伸びていて、小さな蛇が肩口から手のひらを目指しているようにも見えた。心底疑問だらけだったが、その隣で桜が心配そうに見ているのに気づき、なんでもないように笑い飛ばした。「大丈夫だよ、桜。痛みはないし、特に気にする必要もないだろ」「………はい、先輩がそういうんでしたら」血を見て気分を悪くしたのか、桜は俯いたまま黙ってしまった。◆桜は朝練に参加するために弓道場へと向かっていく。士郎もそれに続いて学校内に足を踏み入れた、その時だった。「─────!」─────ドクン、と。酷い違和感があった。見渡してもそこにあるのはいつも通りの学校。朝練に励む生徒たちは生気に溢れ、真新しい校舎には汚れ一つもない。「………気のせいか、これ」そう思って目を閉じると雰囲気が一変する。校舎には粘膜の様な汚れが張り付き、校庭を走る生徒たちはどこか虚ろな人形みたいに感じられる。「………疲れてるのかな、俺」軽く頭を振って、校舎とは別方向へ向かう。とりあえず先ほどの違和感は気になったが、それは頭の片隅に置いておく。「氷室はもう来てるのか?」昨日の朝に約束した手伝いをするため、士郎は陸上部の倉庫へと足を進めていたのだった。─────sec.02 / 空白の夢その光景を見ていた。真っ赤に燃える街と、暗い筈の夜をさらに黒く染める黒煙。見たことも無いようなその景色は、一度見ただけで十分だった。それを見て、走って家を出ようとする。まるで何かに突き動かされたかのように。─────どこに?それは間違いなく私だった。ただ今の自分の思考・感覚と、走ろうとして腕を掴まれている私とは、ひどく乖離していた。まるで他人事のように、私を見ている私がそこにいた。腕を掴まれている私が振り返り見たその先の光景。真っ赤な夜空。ならそれは通常ならば白のような色、あるいはこの状況ならば赤色にも見える筈の太陽じみたナニか。………なぜ、その太陽が黒く見えるのか。それを見た乖離した私は一層掴む腕を引きはがそうと躍起になっている。だが、思考・感覚である私はひどく恐怖を感じた。夜なのに太陽がある。黒い太陽が、そこにある。─────ああ、いや。乖離などしていない、か違いがあるとすれば、明確に意識出来ているか出来ていないかの違いだけ。結局、乖離した私も思考・感覚の私も、今この瞬間に持ちえた感情は同一のものだろう。─────『違う』部屋に閉じ込められ、乖離した私がベッドの上に小さくなって枕を抱えている。この火事が原因で私は一度だけ入院した。後にも先にも今のところ入院はこの一度だけ。過去の映像。似たようなものは何度か見ている。ならいい加減に起きよう。この映像にいい思い出などない、視るだけ無駄だ。そう、意味なんて。( )─────え?気が付けば、その『空白』へ………幼い手を伸ばしていた。◆「─────」一人薄暗い部屋で起き上がった。そのまま自分の胸に手をあてる。心臓が脈打つのがしっかりと分かった。次に時計を見ると、時刻は五時半だった。「………まだ、こんな時間か」耳を澄ませば台所からトントンと音が聞こえた。母親が料理をしている音だろう。「─────目が、覚めてしまった」夢でうなされるということはなかったと思うが、急に目が覚めて心臓がうるさかったことは何度かあった。要するに嫌な夢を見てとび起きたということなのだが。「起きるか………」珍しく目覚ましが鳴る前に起きて、目覚ましを解除して部屋を出る。台所から漏れてくる明かりが寝起きの目には少し眩しい。「あら? どうしたの、鐘。まだ五時半よ?」「目が覚めただけ………顔洗ってきます」嫌な夢を見たものだ、と内心思ったが気にしても仕方がないのでさっさと顔を洗い身嗜みを整える。部屋に戻り、制服に着替えて学校の用意を完了させた。特に何の問題もなく、いつも通りの朝の支度。起床時間が早かった分母親が早めに朝食を用意してくれたので、こちらも少し早い朝食を食べる。食べ終えて自室へ戻るが、時刻はまだ三十分ほど余裕があった。いつもより三十分早く起きたのだから当然だろう。「─────」自然と、気が付けば先ほど見た夢の内容を考えていた。目覚めと同時に忘れる夢もあるが、今回のは珍しく鮮明に覚えている。それほどまでに違和感と疑問が多かった。「黒い太陽………」正直に言うとあれは誇張だろう。まだ幼かった私が、火事の恐怖で見た幻想の類だ。そうでなければ説明がつかない。夜に太陽というだけでもおかしいのに、それがまるで全てを吸い込むブラックホールの如く真っ黒となればいよいよ現実離れしている。「何か違う………?」恐怖を覚えた。それは分かった。あれほどの火災となれば恐怖を感じることは不思議ではない。その所為でベッドの上で、まるで何かに耐えてるかのように蹲るのも理解できる。─────それが『違う』「違和感が………拭えない」だが、その違和感も黒い太陽も、最後の『空白』で上書きされる。「声………? いや─────」一番肝心な部分であろうところが、ほぼ完全に抜け落ちている。現実離れした太陽も、違和感だらけの恐怖も。それら全てを受け入れてもなお手を伸ばそうとした『空白』が、私には見えない。「………もうこんな時間か」気が付けば三十分が経っていた。嫌に感じるほどに時間の経過が早い。「行ってきます」気になることではあったが、これ以上思考に浸っているわけにもいかない。リビングにいる母親に声をかけるとともに見えたテレビには、『あの火災からもうすぐ十年』という字幕が出ていた。─────sec.03 / 終わる筈のない日常いつも通りのバスに乗る。さきほど考えていた事は頭の片隅に追いやっていた。どう頑張っても疑問が晴れることはないし、そもそもこれは夢である。過去の夢を見たと言ってもそれが全てとは限らず、それが事実とも限らない。後ろ髪を引かれる様な感覚はあったが、気持ちを切り替える。学校に到着し部室へ向かう。そこにはいつも通り楓と由紀香がいたので挨拶をして運動着へ。しかし。「………」どうも調子があがらない。どこかが悪い、ということでもなければ何かが悪い、ということでもない。ただ単純に『調子があがらない』。「………いつも通りと言えばいつも通りなのだろうか」ストレッチをしながらそんな事を呟いた。そこに深い意味などなかったのだが、どうやら近くにいた二人は気にしたらしい。「ん、どうした氷室? 何がいつも通りなんだ?」「調子があがらないということだ。無論不調、というわけでもないのだが」「え? 鐘ちゃん、どこか気分がすぐれないの?」マネージャーである由紀香が尋ねてきた。昨日の今日ということもあり、そういう話には少し敏感になっているようだ。「いや、気分が悪いというわけではない、由紀香。体調に関しては今日も変わらず良好だ」「そうなの………。それならいいんだけど」「ということは何かね、氷室名参謀殿はやる気が足りていないというのかね? この前言ってた朝食は食べたのか、うん? それとも寝坊して慌ててバスに飛び乗ったかー?」「………私の返答も聞かないまま捲し立てるが如くの質問攻めには、最早呆れを通り越して感心すら覚える。 そしてその質問全てにおいて一言言わなければ気が済まなくなるような内容にも見事だと褒めてやろう、蒔の字」気が付けば口元が知らず笑っていた。─────無論、目は笑っていなかったが。ストレッチをしたのちに体を温めるため軽くグラウンドを走る。大会も近いこともあって、走り高跳びの選手である鐘は早めに切り上げる。そしていつもと同じ様に準備の為に倉庫へと向かう。だが、その倉庫が見えてきた時に彼女の足は止まった。「─────失念していた」額に片手を当てる。鐘が見た光景。昨日コペンハーゲンで見た人物がそこに立っていた。(昨日、『明日も手伝う』と言っていたではないか。まったく、なぜ忘れていたのか………)自分に対して毒を吐きつつ近づいていく。鐘に気がついた士郎が小さく手をあげた。「お、氷室。おはよう。今日は少し遅かったんだな?」「少し蒔の相手をしていた。─────いや、せざるを得なかった、と言った方が正しいか。 そしてすまない、衛宮。君がいるということを先ほどまで忘れてしまっていた」「なんだ、忘れてたのか。いや、別に構わないけどな。流石に氷室がこのまま来なかったらアレだったけど、忘れてても氷室はここに来るんだし結果オーライだ」謝罪する鐘に対し、士郎は特に気にする様子もなく倉庫の中へ入っていく。薄暗い倉庫の中だがパチリ、とスイッチを入れると明かりが天井より落ちてくる。「それに友人と仲良くするのは当然だろ。今日は別に生徒会の用事もなかったから、ここで五分十分待ったって問題なかった」「………衛宮がそう言うと、君の行為に甘えている私が言えることは何もないな………」倉庫の中に入っていく姿を見て、足は士郎を追いかけていた。「さて、それじゃセッティングをしよう。最初は俺一人でやってもいいかなって想ったけど、部員でも無い奴が一人で準備してると流石にうまくないだろうって思ってさ」「そうだな。まだ君が元陸上部員であれば周囲に話は通じただろうが、陸上部には入っていないのだから立つ言い訳はないだろう」「ヘタすれば氷室に迷惑かけちまうしな。それだけは避けたかったからこうして待ってた」マット運びから始まり、走り高跳び用のスタンド、それに掛けるバーを持ち出していく。バーはグラスファイバー製のバーと天然竹のバーの二種類があるが、この学校に用意されているのは竹。天然竹製であれば安いものでは十本セット一万五千円ほどで買える。少し背伸びをして高級品を選んでも一本で同じ値段だ。だがグラスファイバー製の物ともなれば、安くても一本で先ほどの竹製のバー十本セットと同額の値段。高いものならば余裕で一本あたり二万円を超える。セット物となればそれこそ生徒会と戦争じみた交渉をする必要が出てくるだろう。そして今、運動部には逆風が吹き荒れている。生徒会の長、柳洞一成。運動部に偏り過ぎた予算を是正しようと力を注ぐ彼は、運動部の申請を悉く却下してきた。特に合宿の類は軒並み却下。その度に楓が鐘に文句を言うのだが、それを生徒会長に言うようにとその都度提案していた。鐘に文句を言ったところで申請が許可される道理はないからだ。そのためバーも一番コストが低いものが選ばれる。一本当たり千五百円程度で済むものと、一本で二万円するものを比べれば必然的に前者になる。「─────いや、なんか運動部は運動部で苦労してるんだな、氷室」「そうだな。私自身は大して不自由は感じていないが、蒔が何かと食いつく。 あれは皆で騒ぎたい故に合宿を提案している節があるからな。これで他の運動系の部が合宿を許可されれば真っ先に生徒会室へ乗り込んでいくだろう」そんな舞台裏の事情がある以上、使えるものは使えなくなるまで使う。自分が持っているバーに視線を落とす。「………テーピングをすれば、まだ使えるか」幸い痛んでいる箇所は軽微なので適当に修繕すれば問題はないだろう。◆「すまない、衛宮。今日も助かった」「いや、別にいいって。俺が好きでやってるわけだからさ。氷室は練習頑張ってくれ」そう答えた士郎は用意した練習場を眺めている。「………衛宮?」「? なんだ?」「いや、何をしているのかと」準備が終わったのだからさっさと離れろ、なんて言うつもりはない。だが特別眺める価値があるような代物ではないのも事実だ。「ああ、ごめん。いや、氷室が跳んでるところを近くで見たいなーって思っただけだ。邪魔だったなら謝る、すまん」鐘が考えすらしなかった答えが返ってきた。その顔は冗談で言っている顔ではなく、だからこそ困惑した。「………謝る必要はない。しかしどうしたのだ? 急に見たいとは」「あー………俺さ、四年くらい前に走り高跳びやってた事があったんだよ。まあその時の名残っていうか、気分っていうか」またもや意外な言葉を聞いた。これもまた考えもしなかったことだったが、彼は陸上の、しかも元走り高跳びの選手だったということだろうか?「ほう。つまり衛宮は陸上部だったということか?」「いや、陸上部じゃない。けど、ひたすら走り高跳びをしてた。………ちなみに理由や結果は訊かないでくれるとありがたい」そう言って視線が鐘から外れた。どうやらうまく跳べなかったらしい、と察する。「まあ、確かにじっと見られてちゃ集中の邪魔か。氷室だって近々大会あるんだったよな? それは乱すのはいけないな」「あ、いや。衛宮、私は別に………」構わない、と言いかけた時だった。背後より聞き馴染みのある声が聞こえてきた。「氷室ー、どうしたんだ?」「蒔寺に三枝か、おはよう」「あ、おはよう、衛宮君」「おはよう、衛宮。─────で、お前は何でこんなところにいるんだ?………まさか氷室にちょっかい出してるんじゃないだろうな?」「いや、蒔。彼は─────」ちょっかいなど受けていない。寧ろ準備を手伝ってくれたのだ。だが、その当の本人は別の事を考えたらしい。「ん、確かに邪魔したかな。そう思ったから離れようとしてたところだ」「衛宮ー、氷室は大会控えてるんだからさ、邪魔するなよー?」「安心しろ、蒔寺に追いかけられる前に撤収するから。じゃ、氷室。練習頑張ってな」そう言って立ち去って行く。小さくなっていく背中。「ぁ………」何とも言えない気持ちになる。自身が遅れたにも関わらず待っていてくれて手伝ってもらったというのに、最終的には追い返すような形で別れてしまった。「氷室、高跳びの練習は………って、どうした?」「………蒔の字。君は一度冷水で顔を洗ってくるといい」士郎の後を追う。このまま終わるのはどうも後味が悪すぎた。「え? あ、おい。氷室ー?」◆「衛宮」前に歩いていた士郎を呼び止める。振り返るその顔は近づいてきた人物を確認するなり、少し驚いた表情を見せた。「氷室。どうしたんだ? 練習は?」「いや、その前に君に謝っておかなければいけないと思って」「………謝る? って何を?」「手伝ってもらったのに追い返す様な形で立ち去らせてしまったのだ。謝罪をするのは当然だろう?」少なくとも親切心でやったのに追い返される様な仕打ちは間違っているだろう。仮に鐘がその立場ならばいい気はしない。だが………「そんなことか。いいよ気にしなくても。俺は気にしてないからさ。むしろ蒔寺の言った事は正しいだろ。もうすぐ大会、ついでに期末試験も控えてる。集中する必要がある時期に邪魔する俺が悪いんだからさ」「いや、そもそも邪魔だとは………。例え君が気にしなくとも私は気にかける。 それにそれでは何というか………酷いだろう? これでは衛宮が報われないではないか」「報うって………。別に俺は見返りが欲しいからやってるわけじゃないぞ? よかれと思ってやってるんだから、氷室が助かったなら俺も本望だよ」それに、と士郎が続ける。「別にこれが初めてじゃない。過去何度か似たような経験はあるし、その時も別に気に掛けた事はなかった。 人の為に役に立ったんだからそれでいいだろ」「─────」………言葉が出なかった。彼はそれを気に掛けることもなく「俺の事なら大丈夫だからさ、氷室は練習に戻ってくれ。大会の調整はしないとまずいだろ? それに、二人も後ろで待ってるぞ」鐘の後ろを指さす。つられて後ろを振り返ってみると、そこに楓と由紀香がいた。「それじゃあな、氷室」軽く別れの挨拶を言って、彼は校舎の中へ消えていった。その後ろ姿を茫然と眺めながら、先日の会話を思い出した。『しかしな、衛宮のは度が過ぎるというか、このままいくと潰れてしまうというか。─────そうは思わんか、役所の子』最初は何を言っているのか、と思ったが今ならば生徒会長と同じことを思えるだろう。─────このままいくと彼は破綻する、と。少し不安な、心配な、何とも言い難い気持ちになったが、そんな自分に気付いて追い払う様に頭を振った。そして次に自分のこれまでの行動を思い改める。(待て、違和感がありすぎる。何故私は衛宮を気に掛けた? そもそも私と衛宮は気安く語らいあえるような仲だったか? 昨日といい、今といい。これでは、その)─────私が衛宮の事を好きみたいじゃないか自分で考えてその結果、自分で顔を赤くした。何とも言えない感情に支配されたが、次には冷静な彼女の理性が働いて落ち着かせた。が、体温はまだ上がったままだ。「蒔の字に言えた事ではないな。………私も冷水で顔を洗ってくるべきか」「鐘ちゃん、どうしたの? 衛宮君と何かあったの?」背後より近づいてきた由紀香が話しかけてくる。それまで自分の世界に入り込んでいた鐘は意識を戻し、後ろを振り返った。「いや、衛宮に礼を言った。走り高跳びの準備を手伝ってくれたのでな」「なんだ、衛宮に手伝ってもらってたのか? なら言ってくれればいいのに。衛宮に頼らなくたって手伝ったのにさ」相変わらずの口調の楓。隣にいる由紀香もいたって普通である。「さ、氷室。練習に戻ろうぜ」二人は踵を返してグラウンドへ向かっていく。その後ろ姿を見て鐘も歩き出すが、校舎へ一度だけ振り返った。そこに士郎の姿はない。「………今朝といい、今といい。─────いや、気にする必要はない」そう自分自身に言い聞かせる様にグラウンドへ向かう。しかし、言い聞かせるにしてはあまりにも複雑な心情であった。─────sec.04 / 死への旅土曜の学校は午前中で終わる。午後からは部活動に勤しむも、帰宅し新都で遊ぶも、学校に残って試験勉強するもよし。過ごし方は基本的に自由だ。士郎は午後から特に予定はなかった。そこに一成から生徒会の手伝いをしてほしいという依頼が。それを快く引き受けた士郎は学校の備品の修理やら一成の手伝いやらをしていた。途中、『すまない、衛宮。俺も別件で寺の用事がある。もうそろそろ切り上げるが、衛宮も適度なところで切り上げてくれ』と、言われた。そこで終わってもよかったのだが、生憎と目の前には修理待ちの患者達が。『分かった。とりあえず今はキリが悪いから、こいつらを直したら俺も上がる』『そうか。すまないな、衛宮。では、武運を祈る』なんて、やはり少し間違っていそうな日本語使いで去って行った。その後集中して器具の修理に取り掛かり、あと少しというところで外を見てみると太陽は地平線に沈み、星空が見える。「やべ………。さっさと終わらしちまわないと」目の前にはストーブが。『使えなくなった』ということでその教室の生徒がわざわざ持ってきてくれたものだった。神経を集中させ、構造を解析する。(断線しかかっている部分が二つ。………一応補強しておこう。放っておいたらまた修理行きだ。電源コードは………難しいな。絶縁テープでいけるか?)確認し終えたところで工具箱から工具を取り出し、修理を開始する。まずは該当箇所を修理するためにパーツを分解。ここで分解した際にでるネジなどを無くしてしまうと後で痛い目を見るのでしっかりと無くさない場所に保管。断線しかかっているところを思い切って切断し、ダメになった部分を破棄。ケーブルを覆っている被膜を一センチほど剥がし、内部の何本も束になった細いケーブルを広げる。それらを重ねてねじり、接続させる。その後接続部分を保護するためにテープを巻きつける。ただこれだけでは数か月でダメになる。巻きつけたテープの上からロックタイでしっかりと補強する。「よし、とりあえず軽い方はこれで………。問題は電源コードの方だな。ここまで来たんだ。これを終わらせて帰るか」◆午前の授業が終わった後、いつも通りに由紀香と蒔の二人で昼食を食べ、一息ついたところで陸上部の部室へと向かった。午後からはしっかり陸上の部活だ。いつも朝は一時間半程度、平日の放課後も平均二時間程度の活動しかできない分、こういう午後の時間はしっかりと練習に取り組める。「お疲れー、氷室。ちゃんと跳べたかー?」部室に一足先に戻っていた蒔が私に尋ねてきた。「ああ、大丈夫だ」「ふーん、ならいいんだけどさ。怪我とかには気をつけろよ?」衛宮と別れた後、いつも通りに走り高跳びの練習を再開した。だがやはり気持ちの切り替えが甘かったらしく、バーに触れて落としてばかりだった。そんな私の状況と近頃の周囲の状況もあって、由紀香も蒔も気に掛けたようだった。無論、怪我などはしていない。「蒔の字、由紀香。すまないが、先に帰っていてくれ。私は少しやり残したことがある」「え? 鐘ちゃん、やり残したことって? 手伝うよ?」「いや、手伝ってもらうほどの人手は必要としていない。私一人でも平気だ。それにバスまでまだ少し時間もある。気にしないで帰ってくれて構わない」着替え終えて部室を出た私を追う様に二人も部室から出てきた。空は既に暗く、吐く息が白く見える。「氷室、完全下校時刻まであと少しだからな。遅れないように帰れよ?」「忠告は感謝しよう、蒔の字」ばいばい、と手を振る由紀香と蒔に別れを告げ、陸上部の倉庫へと向かう。もう一年の頃から馴染みのある倉庫。その鍵のかかっていない倉庫に入り、問題のバーを手前に持ってくる。これからやるのはバーの修繕。別に私がやる必要はないのだが、だからといって他人がやる必要もないので私がやることにした。バーをテープでぐるぐると巻いていく。途中歪んだりしてしまって悪戦苦闘。「慣れないことはするものではないな」応急処置ではあるが完了した。誰の悪戯か、或いは事故なのかわからないが、一部欠けていた竹のバー。それがバーの端なら問題はなかったのだが、それが丁度選手が跳ぶ部分にあるとなると放っておけない。欠けた部分に勢いをつけた体がかすれば、それだけで皮膚が切れて出血してしまう。さきほど行った修繕はそれらを隠す作業だ。これがもう少し致命的な損壊だったなら大人しく捨てるところ。だがテーピングをするだけでまだ使えるのであれば使ってく。「思ったより時間がかかってしまった。もう下校時刻は過ぎているか………」この倉庫には鍵がない。そのため鍵をかける手間と鍵を職員室に返しに行く手間が必要ないのはありがたいが、防犯面という意味では問題だ。「………最近は物騒になっているのだから、鍵の一つでも用意してはどうなのか」或いは生徒会に鍵の購入の申請でもしてみようか。真っ当な理由がある以上、この申請は通るはず。「……………?」そんな事を考えながらグラウンドに向かっていた。だが、いつからか何かの音が聞こえてきた。「金属が………ぶつかる音?」倉庫から走り高跳びに使うスタンドを取り出す時、誤って倉庫の壁にぶつけてしまう事がある。今聞こえてくる音はそれと似たような甲高い音だ。グラウンドに近づいていくと、それに比例して音が大きくなって聞こえてくる。何事かと思いながら音の発生地であるグラウンドを覗いて─────「─────な」─────その光景を見て、意識が凍った。言葉も続かない。足も動かない。私の目線の先に、何かよくわからないモノがいた。赤い人間と青い人間。時代錯誤なんてレベルはとうに越えて、冗談とすら思えないほどの武装をして、どこかの時代劇の様に斬りあっている。見せつけられる光景は、夢としか思えない内容。(夢………ではない。何かの撮影?─────いや、そんな話は聞いていない。じゃあこれは………)一体なんだ、と。私の中で必死に現実の何かに置き換えようとする。けれど、置き換えられない。私の知っている全てを総動員しても、“アレ”はどれにも該当しない。“アレ”は人間ではない。人間に似た何か別のモノ。あんなもの、誰が見たところでそう思うだろう。人間という生き物はあれほどのスピードで動ける筈がない。陸上の私が言うのだから、間違いない。だからこそ、“アレ”の説明が、理解ができない。─────だから、“アレ”は関わってはいけないモノだ。………気が付けば、足が後ろへ一歩下がっていた。青い人間<の様なモノ>が持つ物。始めはそれすら見えなかった。けれどそれが凶器だということは分かった。二人が対峙していて、金属音を鳴らしている以上、それは凶器以外にありえないから。青い人間<の様なモノ>が動きを止めて、ようやくその凶器が見えた。………紅い、槍。(……………ぅ)それを見た時、昨日由紀香から聞いた話の内容を思い出した。確か、子供を除く三人が“長物”の凶器で殺害された。(まさか………)じゃあ、目の前にいるモノは何だ。長物、槍、人間の様な人間ではないモノ、殺し合い。(逃げ、ないと………)─────その結論に至るまでに、信じられないほど時間がかかった。そう、逃げる。逃げなければ殺される。確証なんてないが、直感でわかった。だから逃げなければならない。なのに私の足は動かない。距離は四十メートル強。気付いていない筈だ。─────けれど、背中を向けて走り出そうものなら、その瞬間にあの紅い槍が背後から自分の胸を穿つ様な気がして、満足に息もできない。目の前の光景に、恐怖ではなく、恐慌に陥っていた。体がうまく動かない、言葉が出ない、息すら………満足にできない。「………!」赤い男と青い男が動きを止めた。構えていた槍の穂先は戦いを停止したことを表す様に地面へと向いていた。なら、もう戦いは終わったと、私は一人安堵した。その安堵からか、満足にできなかった息を初めて意識的にしたときだった。「っ……………!」ぞわり、と。言いようのない寒気が私の体を駆け巡った。歯がカタカタと鳴る。あまりの寒さに対応しようと、シバリングをしようとしている体。その震える体を必死に押さえつけた。これ以上ここにいてはいけないと、また一歩だけ、ロクに足も上がらないのに後ろへ下がる。「!? ひゃっ………!」体のバランスが崩れた。足を上げないまま動けば、段差で躓く。そんな子供でも分かるような失敗を、あろうことかこの場でしてしまった。極度の緊張状態にあった所為で、そんなことで声を出した。─────校庭にいるモノは、それを聞き逃す様な存在ではないと、理解してた筈なのに。「誰だ─────!!」怒号が、私の耳に届く。青い男が私を見つけた。「─────っっ!!」その声色と、見つかったという事実だけで、瞬時に理解した。─────“アレ”は、私を殺す気だ。青い男が姿勢を変化させる。それだけで、標的は私に切り替わったと理解できた。「─────…………!!」声は出ない。そんな指令はきっと、脳から発せられてはいないだろう。勝手に手足が動く。それが死を回避する為に動いたものだと、体が動いた後に理解して、逃走する為に私は全力を注ぎこんだ。─────sec.05 / 運命の夜「はぁ─────、は─────ぁ」これほどまでに息があがったことはない。それほど全力で、長い距離を走った。どれだけの時間を走って、どれだけの距離を走ったかなど、今の私には分からない。長距離走の選手ではないが、陸上部に入ってよかったと心からそう思ったのと。あの時由紀香や蒔と一緒に帰ればよかったという後悔が。そして殺されるかもしれないという恐怖が、私の中に氾濫していた。─────そんな状態では、この無音の世界に響く些細な音ですら私を恐怖させる。ガラッ「!─────っ」声を必死に抑えて、音のした背後へと視線を向ける。そこに「あれ? 氷室じゃないか。どうしたんだ、こんなところで」………信じられない人がいた。「衛………宮」普段と、今朝と変わらない様子で彼はそこにいた。その姿を見て、不意に涙が零れた。「………っ!」見せないように背を向ける。今の、こんな自分を誰にも見せたくはなかった。「? どうした、氷室。何か忘れ物でもしたのか?」なるほど、と彼の言葉を聞いて妙に納得する。完全下校時刻を過ぎた夜にまだ学校にいる。私は走ってきた所為で息があがっている。いるはずのない時間に、息が上がった状態でここにいる。ならば走って忘れ物を取りに来た、そんな風に見えるだろう。「………氷室? 大丈夫か?」返事をしなかった私を変に思ったのか、或いは僅かに見えた私の顔色が優れなかったのか。近づいてきた彼は、私の肩に触れた。─────だめだ、衛宮。私に触れないでくれ。今の私は─────「………!おい、氷室。どうしたんだ、何かあったのか!?」そんな言葉をかけてきた。きっと普段の私ならば『それは君の思い過ごしだ』と切り返せるだろう。けれど今の私にそんな余裕はなかった。そして耐えられなくなって泣き崩れる訳にもいかない。深呼吸をして、無理矢理にでも気持ちを落ち着かせる。こんな状況で言えたことではないけれど、冷静であることこそ、私の取り柄だと。そう言い聞かせて。(………撒けたのか?)幸いあの青い男が近づいてくる音はなかった。あまりにも楽観的すぎる思考を頭の片隅に置きながら、彼の問いかけに応じる。「………別に、何かあったわけじゃない。君の言った通り、忘れ物をしてそれを取りに来ただけだ。 そういう君こそ何をしている? もう完全下校時刻をとうに過ぎているぞ?」………冷静になれた、元に戻れた………とは、正直言い難かった。矢継ぎ早に言葉を続けてしまったのがその証拠だ。流石の彼でもそんな私をおかしく思ったのだろう。一瞬怪訝な目で私を見たが、「ああ、一成の手伝いをしてたんだよ。ストーブの修理だったんだけど、思ったより重体患者で終わったらこんな時間になっちまってた」笑いながら彼はそう答えた。(一成?……………ああ、生徒会室、か)彼が出てきた部屋の札を見る。そこには確かに生徒会室と書かれていた。(ということは、私は無意識に階段を駆け上がってきていたのか………)何が冷静さが取り柄、だ。自分が上がってきた階にすら気づいていないじゃないか。「氷室、本当に大丈夫か? 無理しなくてもいいぞ? 何なら家まで一緒に行くぞ?」“俺は本気で心配しているぞ”、という顔で私を見てくる。………その言葉に『私』が揺らいだ。「──────────、」けれど、それはダメだ。そもそもこんな廊下で話をしていることが間違いだと気付く。「いや大丈夫だ、衛宮。心配してくれるのはありがたいが、君は君で早く家に帰った方がいい。この学校に長居は無用だ」暗に『早くこの学校から出ていけ』と言った。ストレートに言うとその理由を問われかねないからだ。「………いや、そんな顔色の氷室を一人にしておくわけにはいかない。長居は無用だって言うのは同意見だけど、それは氷室も同じだろ?」─────この、お人好し。「言っただろう? 私は忘れ物を取りに来たと。まだ回収していない。私は取ってから帰るから衛宮は先に帰ってくれていい」「じゃあ俺は氷室と一緒に忘れ物を取りに行って一緒に帰る。ほら、これなら何の問題もないだろ?」─────こ、の、お人好しで頑固者。そもそもこの場にいることが間違いなのだから─────!「大有りだ!そもそも衛宮は─────」………その私の言葉が続くことはなかった。私の前にいる彼の後方。そこに「よう、嬢ちゃん。─────追いかけっこは終わりか?」紅い槍を持った、青い死神が立っていた。