第51話 ナイトメア─────第一節 一般常識の範疇外─────第五次聖杯戦争。前回より十年の時を経て、再び始まったこの戦争は最初から破綻していた。そして、この戦争は前回のソレと同じように、大量の犠牲者を出していた。冬木市深山町。とある交差点から柳洞寺方面へと続く道。いつもなら閑静な住宅街であるのだが、今日この日だけは明らかに違っていた。当然それは警察に所属し、現場へ一番早く辿り着いた石垣 蓮と佐々木 衛士にとっても同じであった。「えーっと、先輩。俺達って日本にいるんスよね?」狭い道路を遮る様に止めたパトカーの中で石塚は運転席に座る佐々木に話しかけた。「………一応ここは日本だ。そして冬木市の深山町」ポケットからライターを取りだしてタバコに火をつける。僅かに窓を開けて肺に溜めた煙を外へと吐いていた。そんな先輩警官を横目で見ながら、視線を無線機へと落とす。「──────いやね、必死に呼びかけようとしてるのに無線が全く通じないんじゃ、ここが日本以外のどこかだって考えたくもなるじゃないスか?」先ほどからパトカーに備え付けられた無線機をひたすら弄りまくっている石塚だが、ウンともスンとも反応しない。警察車両というものは、バス会社がバスの運行を行う際にタイヤなどを点検するのと同じように、日々車両関係の備品もチェックしている。いざという時に備品が破損していたり、深刻な事故を引き起こさないためだ。当然この警察車両も手入れは行き届いている筈なのだが、それに反して無線機が壊れているのだから変な方向に解釈が行くのも無理はない。だが、その相方である佐々木は。「………じゃあ俺たちはいつの間に海を越えてきたんだ。日本と韓国に橋でも架かったか?」平然とした物言いで、いつも通りに対応してくる。前々から思っていたのだが、この人物に感情なんてあるのだろうか。無表情でタバコを吹かす先輩警官の反応に息を漏らしながら、正面を見つめる。「………じゃあ聞くッスけど、俺達は間違えてどっかの映画撮影所の中に入りこんじゃったとかないスか? ほら、実は見落としてたけどどこかに進入禁止の看板があったとか」周囲を見渡ながらどこかに映画のセットがあるのではないか、と期待半分に周囲を軽く見渡していた。が、当然そんなものはどこにもなく。「………映画撮影をしてるならそういう情報は所内でのデスクワークできっちりと認識されてる。それがなかったから映画云々はない。第一この治安不安定な街で映画取ろうなんていう監督はいない」故に低テンション警官、佐々木 衛士はボケることも確認することもなく石垣の言い分を一刀両断してみせた。ギャグでもボケでもツッコミでもいいからやってくれればいいものを、至極真面目に当たり前なことを言うもんだから結局はこの“異常”と“地響き”しか残らない。「う~~~~~~~!!」佐々木の冷静かつ的確な返答を聞いて頭の髪を掻き毟る石垣。石垣にとってこんな“異常”な光景は見たことがない。それなのに隣にいる佐々木 衛士という先輩警官は淡々といつもと変わらぬ表情と対応。一度頭の内部の構造がどうなっているのか見てみたかった。というが、普段どちらが優秀かと問われれば間違いなく佐々木 衛士であり、石垣 蓮は所謂“オタク”と呼ばれる人間に分類されていたりする。そんな事実はさておいて、身の危険を嫌というほどに感じまくっている石垣は吹っ切れたように大声で叫びだした。「じゃあこのクレーターはなんスか!それにあっち、『小山』なんてあった──────!?」ズン! と一際大きな地響きが襲った。車が大きく上下に揺れ、いよいよ冷や汗だらだらになるというところで。「──────死にたくなかったら口は塞いでろ、石塚」佐々木がアクセルを思い切り踏み込んだと同時に、パトカーが物凄い勢いで狭い路地道を後退していく。その速度は瞬く間に三十キロを超え、四十キロへ到達しようという速度。間違っても路地道で出す速度ではない。そしてそれが前進ではなく後退での速度なのだから、助手席に座る後輩警官からしてみれば恐怖である。「うわっ!? 速い、速い速い速い!先輩、法定速度明らかオーバーっスよ!?」こういう時だけ無駄に法に関することを言い出す後輩警官。だが隣にいる佐々木はそんな声など聞こえないかのように、しかしいつも通りの表情で思いっきりハンドルを左へときった。「ひぃいぃぃぃぃぃ!!」狭い路地のTの字交差点で、タイヤの擦れる音を響かせながらパトカーが急停車、即座にアクセル全開で前進を開始した。瞬く間にその場から離れていく。佐々木自身、この状況を冷静に分析した結果、この場に留まるのは危険と判断した。だがそれは撤退であって逃亡ではない。無線機が使えないという事実、ほかの応援車両がこない件。クレーター、地響き、一人も人がいない街。つまり明らかにこの場所は異常であって、何の情報も持たない自分たちが行動するのは自殺行為。ぎりぎりまでその場で粘ったのは何等かの情報が得られるかもしれないと考えたため。だが結果は後輩警官が騒ぐだけだった。「………とりあえず署に戻って情報整理だな。無線機がどうなってるかも聞く必要がある。だからそれまでに─────」そう言いながら助手席へと視線を送る。その先にいたのは。「………おい、そんなことじゃ警察機動隊には入隊できないぞ、石垣」「………俺は機動隊員志望じゃないです…………」ぐったりとなっていた石塚だった。◆「残りの警察車両一台、確認しました。対応はこちらで行います。そちらは至急結界をお願いします。防音だけではなく、視覚遮断の方も恐らく必要でしょう。警察の方にも手を回しておいてください」使い魔による通信を終了させ、魔術師は警察車両に接近していく。その視線の先とは別方向。「十年前の再来とはこのことか………」僅かに視線をそちらにやり、呟いたのだった。─────第二節 戦いではなく殺し合い─────「──────────」言葉にこそ出さないが、セラはこの状況に歯噛みしていた。現在、サーヴァント・アサシンの攻撃から身を守るべく魔術による結界を張っている。が、相手はサーヴァント。長く保つ道理はない。かといって魔術を解けば即アサシンが先ほどの様に主であるイリヤを狙ってくるだろう。そんなものを許す訳にはいかない以上、持てる力を使い切る覚悟で防御をし続けている。「カカカ………良く耐える。しかし先ほどと比べれば“中の様子が判りやすくなってきておるぞ?” その結界も限界が近いようじゃな」ギィン!! と、二十三発目の短剣を受けきる結界。ここまで保った結界とその発動者には賞賛を与えてもいいだろうが、いわゆる『頑張った賞』などこの生死を分ける戦いの中では意味がない。破られれば死、張り続けれる限りは生き残れる。この二択。そこに中間の存在はない。「ふぅむ、しかしアサシンの短剣も無限なワケではない。………手間と効率、メリットを考えてワシもちと手助けぐらいはしてやろうかの」老人の言葉と同時にその足元にナニカが老人の背後より出てきた。地を這うように出てきたソレを、鐘と綾子が注視する。………が。「な、なんだ………アレ………!?」ゾワリ、と二人の体に寒気が奔る。それは老人が言う『蟲』なのだが、世間一般が知る虫とはその姿からしてかけ離れていた。「コイツは魔力を糧にして活動する蟲じゃ。ソレが魔力の網で作られた結界だとするならば、コレにとってみれば餌にすぎぬ。─────その結界、蟲どもの餌となってもらうぞ」同時。老人の足元に群がっていた蟲が白い結界へと突進してきた。「…………!」しかし回避はできない。結界の外側に張りつくように蟲たちが纏わりついていく。前面のほぼ全てを覆い尽くしたソレは、鐘と綾子からしてみれば見たくもない光景だ。「う………ぇ。よくこんなのを操ろうだなんて思うよな………」「………それがあの老人の“魔術”なのだろう?─────流石の私もこの光景は見たくないが」だが、そんな悠長な話をしていられるほど状況は甘くなかった。その異常に気が付いたのは結界を張っているリズとそれを見ていたイリヤである。「結界の魔力を食いちぎる………!? けど、そんなのさせないわ」イリヤが結界の内側に手を添えた。その部分から薄青色の波のようなものが結界を伝播し、結界に群がっていた蟲たちを弾き飛ばした。周囲の光景を見て一安心する一般人の二人だったが、目の前の老人は数百年を生きた妖怪である。「─────え?」綾子の足元。ヒビが入り、僅かに盛り上がるアスファルト。その光景を見て、脳が理解する前に。「セラ、結界を解きなさい!」「美綴嬢!」地中より這い出てきた蟲が、結界内に現れた。イリヤの声と共に結界を解除し、即座に間桐臓硯と蟲たちからはなれるべく距離を─────「自らアサシンの元へと近寄るか?─────よかろう、では相手をしてやれ、アサシン」四人の時間が停止した。全員足元より現れた蟲を避けるべくそちらへ注視していた。つまり、振り向きなおした正面はがら空きである。「─────御意」虚空より現れたのは暗殺者。闇に浮かぶ白い髑髏を四人が捉えた。思考は間に合わない。動く脚を急停止させようとして、背後に蟲が迫っていることに気付く。蟲に捕まれば間違いなく終わる。先ほどの結界のように食い破られるだろう。だが正面にはサーヴァント。当たり前だが勝てない。「──────────ま」まずい、と。鐘が言葉にして出す時間すらない。綾子が前後より襲いかかる敵を避けようとする時間もない。セラと綾子ではこの状況を打破することもできない。そこへ。─────ドォン!!と、大地が揺れた。「うわっ………!」「っ!」余りに大きな地響きは、まるで近くに巨大な物体が落ちたかのようだった。その揺れで体勢が崩れ、地面へ倒れる鐘と綾子。だが、その揺れはアサシン、そして間桐臓硯にとっても予想外だったらしい。「うぬ─────なんじゃ?」揺れを感じた方角には巨大な土煙が上がっていた。それが一体何であるか、この距離からでは確認できない。だがその方角がセイバーやアーチャーが戦っている方角だと判り、アサシンは再び視点を戻した。向こうでどれだけ激戦が繰り広げられていようと、今目の前にいる敵を救いに来ることはない。寧ろ向こうが激戦であればあるほど、こちらにくることはない。止まっていたアサシンの左手が僅かに揺れる。もう一度揺れれば確実に銀色の少女に命中する。次は治癒されないよう、その傍にいる侍女も同時に攻撃する。一般人など気にかける必要もない。確実に二人の意識を奪ってから、両足を潰せばいい。いずれにせよ、この四人はここで─────「まずハ、二人ダ」一瞬だった。アサシンの投擲した短剣はずれる事なくイリヤとセラへと投げ出された。それを止める時間はなく、それを防ぐ術もない。「──────────」だが、イリヤに傷はない。彼女らに向かった四本の短剣全ては。「───────────────セラ?」イリヤを咄嗟に庇ったセラの背中に突き刺さっていた。「お嬢様………ご無事、で………」ずるりと体が傾き、彼女の体が地面へと倒れた。呆然自失でその光景を見るイリヤだったが、彼女らを見た鐘がいち早く叫んだ。「イリヤ嬢!そこから離れるんだ!」「え?」後方。そこに群がるのは蟲の大群。「─────っ!この………!ほら早く!!」比較的近くに居た綾子がすぐさま体勢を立て直し、セラとイリヤの元へ駆け寄った。セラに肩を貸すような形で持ち上げた綾子だったが、その正面に。「どこに行ク?」暗殺者が笑っていた。逃げ場など無い。時間も無い。このままでは─────『─────投影、開始トレース・オン』そこから導き出される結論を脳が認識するよりも早く。一番聞きたかった声を、綾子と鐘、イリヤの耳が認識した。「ヌ─────!!?」同時。降り注ぐのは無数の剣。綾子らに攻撃を仕掛けようとしていたアサシン目掛けて豪雨とも言える剣群が飛来した。そしてその剣群はそれだけにとどまらない。鐘と綾子らの背後から襲おうとしていた蟲の大群をも串刺しにしていく。「っ…………!!!」周囲の衝撃に瞼を閉じるが、僅かに開いた視線の先には赤い髪の少年がこちらへ走ってきていた。―Interlude In―「は─────、はぁ─────」人通りの全くない夜道。冬の夜風が身を斬り裂く中、リズは士郎を抱えて走っていた。しかしその動きは今までの身体能力と比べても明らかに遅い。ギルガメッシュとの戦闘時に士郎を救うべく行った『制約解放』は一時的なモノでしかない。彼女もまた活動限界が近いのだ。本来士郎を抱えるという行為すら避けねばならない状態なのだが、そうと判っていてもリズは士郎を運んでいる。見るからに重傷。体の右半分が爆発の影響により大火傷を負っている。特に起爆物そのものを持っていた右手は辛うじて原型を留めているものの、ただそれだけである。放置すればそこからすぐにでも崩壊が始まり、死へと至らしめていくだろう。そうなる前にイリヤの元へ連れて行き、早急な治療を行ってもらう必要がある。「………!」だが、そんな彼女の心配を無用だと言うかの様に士郎自身に変化が起きた。ギチ、と歪な音が聞こえたと思った矢先、彼の右肩から銀色のナニカが出現していた。その光景に思わず足を止めかけたが、止めた所で今の自分に治癒する術がない以上は一刻一秒でも前に進まなければいけない。限界近い体で足を動かしていく。体力と腕力の低下により体勢を崩しかける事も何度もあったが、ぎりぎり耐える。肌を斬る様に冷気が襲いかかってくる中、一定間隔でギチ、という金属音が聞こえてくる。その都度に視線を落としてみると、右肩より見えていた銀色の物体が右腕へ侵食していっているのがわかった。だがそれ以上の思考能力はすでにない。体は満身創痍。活動限界を大幅にオーバーしている彼女の思考能力はかなり低下してしまっている。「リ…………」「!」聞こえた声に反応してリズの足が止まる。進行方向へ向けていた視線を落とした先で、士郎は薄らと目を開けていた。「─────悪い、ちょっと………寝てた」相変わらず言葉を発するだけで喉に痛みが奔るが、しゃべれないほどではない。「………大丈夫?」言いつつリズはゆっくりと士郎を地面へ下す。士郎の右手はあの爆発により火傷の痕がひどい。右手から始まり右腕、右肩、喉、右頬、右目。右肩から右腕の上腕二頭筋の部分までが体の部分同様に銀色に覆われていた。痛みが伝わってくることからして神経はまだ死んでいないらしいが、果たして動かせるのか。「左手は、まだ動く。─────リズ、イリヤ達はどこだ?」爆発の衝撃で反応が鈍くなっている左手を動かしながら顔を見てくるリズに尋ねる。右目は開いていない。というより開けるのが怖い。見えなくなっているのではないか、という恐怖ではなく、開けた時に起こるであろう痛みの所為で動けなくなることが怖い。“今こうして目を閉じている状態”が一番いい状態であると、本能がそうさせている。無理矢理右目を開けるのは避けるべきだろう。「………この道、まっすぐ行けば─────いる………よ」「! リズ─────」下り坂を指差そうとして彼女の体が傾いたのを士郎は見逃さなかった。士郎とは反対側に倒れそうになったリズの背に左手をまわし、何とか倒れないように此方側へ抱き寄せる。つまりは士郎にリズが抱き着く格好となるわけだが、事態は深刻である。「リズ………! しっかりしろリズ………!」「───────」抱き寄せる体だが、次は彼女の膝が落ちた。崩れる彼女を己の刃で傷つけないよう、優しく抱えて座り込んだ。「………ちょっと無理しすぎた、かな。からだ、うごかない」「………!悪い、疲れてるのに運んでくれて。ゆっくり休んでてくれ。次は俺が連れて行く番だ」家からここまで。気を失っている間、疲弊しているにも関わらず男性である自分を運んでくれたリズ。そんな彼女に感謝と謝罪をし、何も言わずに瞳を閉じたリズを横へ寝かせた。「─────どうする」運ぶと言ったからにはこの右腕が使えないと非常につらい。右手は相変わらず反応しないが、剣に覆われた腕ならばなんとか電気信号が通っているらしい。腕の上下ならばかろうじてできる。だがこの腕で誰かに触れるのはかなり危ない。「ちょっとあれだけど………」リズの腹部辺りに左肩を入れ、肩に乗せる様に立ち上がった。こんな運び方だと彼女にも負担がかかるだろうが、右腕が使えない以上は左片方でなんとかするしかなかった。「─────まずは合流か」下り坂。緩やかなカーブを描いているが為、その道の先までは見えない。まるで地獄へ続くかのように闇へ延びる道を、士郎は駆けだしたのだった。◆士郎が見た光景は、初めに驚愕だった。セラがイリヤを庇う様に倒れ、綾子が殺されそうになっている。強化した目には鐘と綾子らの背後に蠢く異質なモノも捉えていた。すぐさまアレが敵だと認識し、即座に投影を開始する。「─────は、あ─────」頭を打ちつけてくる頭痛。右腕が繋がっている右肩部分が痛い。肩が凝り固まっているような感覚。だがそれは決して通常のコリではない。それら全てを押し通して、投影を開始する。「リズ………、ちょっとだけここにいてくれ」ブロック塀に凭れさせるように彼女を座らせ、標的をロックする。「─────投影、開始トレース・オン」撃ち出すは無数の剣。この傷で、この怪我で、この体力で、この魔力で、これだけの数の投影を行うのはかなりきつい。だが、今はそんな体の事などどうでもよかった。今は。今だけは。「美綴!!氷室─────!!」─────みんなを守れるだけの力を。―Interlude Out―─────第三節 ダウンロード・インストール─────ヒーロー。その定義は様々だが、一番判りやすくかつ一番思いつきそうな定義は『身に危険が迫ったとき、助け出してくれる人』だろう。事実テレビで放送されるのは怪獣やモンスターと戦う『戦隊モノ』であったり、突如現れて敵を撃退する巨人であったりと子供向けアニメに定番なモノが挙げられる。つまり、この場面で現れた彼は彼女達にとって間違いなく『英雄』なのだが、対して本人はただ歯を噛み締めていた。走る度に右肩に侵食してくるような痛みに対してではなく、倒れたセラを救うことができなかった己の未熟さに対してである。そして何より忘れてはいけないのは、どれだけ危機的状況に現れた所で敵はサーヴァントであるということ。しかもそれがセイバーのような“真っ当な戦いを望む者”ではなく、“ただ殺す”ことに特化した暗殺者なのだから、この危機的状況は何も変わらない。「飛んで火に入るなんとやらとは言うが、このことかの? いやいや、対面はこれが初めてじゃの、衛宮の子倅。想像以上に人間離れした体を持っておるな?」「その声………、おまえが間桐臓硯か………!」駆けつけた士郎は視線を動かして全員とりあえずは無事であることを確認する。そして同時に、綾子らに攻撃を仕掛けようとしていた黒い人物がいないことにも気が付いた。姿としてただ後ろ姿をみただけだが、凛やセイバー達から“暗殺者”についてある程度は聞いていた。そして今現在その姿が捉えられない以上、この状況は極めて危険だ。「─────投影、開始トレース・オン」左手に握られる短剣は、ライダーの鎖付の杭だ。アーチャーの短剣は両手を必要とするし、セイバーの剣は今この体の状態で投影しようとすると自殺行為になりかねない。ここにくるまでにすでにかなりの疲労が積み重なっており、右半身は爆発の影響で未だに活動に大きな影響を残す。当然そんな大きな傷跡を隠せるワケもなく、駆けつけてきた士郎の体を見た綾子と鐘は言葉を失っていた。彼の顔の右頬から目のあたりは赤く焼けている。右目は開いていないし、右肩部分の服は焦げたようになくなっていた。右手にいたっては、かろうじて原型を留めているだけであり人の腕として機能するとは到底思えない。「カカカカ、ギルガメッシュ相手によく逃げ果せた………と思ったが、その代償は大きかった様じゃな。その右腕、もう使えまい」「………それがなんだ。右腕がどうなろうと、おまえだけは絶対に許さない、間桐臓硯………!」士郎が知る限り、桜を苦しめている敵は紛れもなく間桐臓硯。その悪の根源が目の前にいる以上、許す理由はない。遮るモノは体の痛みだけ。ならばそれを押し切って進むのみ。地を走る。十数メートル先には間桐臓硯がいる。だが走り始めたと同時、背中から異質な気配を感じた。それがアサシンのものであるということは周知していた。だがそれでも止まらない。マスターである間桐臓硯を狙えば、サーヴァントであるアサシンは否応にも守らなくてはいけない。標的を自分一人に集中させることができれば、一般人である二人が標的になることはないし、治癒を行っている二人が狙われることも少なくなる。一手に役割をこなすためにも、ここで間桐臓硯を討つ………!「─────死ネ」「っ………!?」すぐ耳元で、不吉な声がした。視線を横に移すと、そこには短剣を舐め笑う、白い髑髏の面があった。しかもその横というのが、武器を持つ左側ではなく無防備を晒している右側に現れたのだから。咄嗟に体を左側へ倒し、攻撃を避けようとして。「─────っづあっ!!」投擲された短剣が脇腹に突き刺さった。音をたててアスファルトの道へ倒れる。脇腹から血が滲み出ているが、今はそれ以上に上から降り注ぐ短剣を避けなければ─────!強化された脚を動かし、着弾コンマ数秒前というぎりぎりの時間で、さらに左へと攻撃を回避。ミシミシと限界駆動を超えた動きを強要される骨が悲鳴をあげる。右肩や腹部に見える剣が、動くたびに体を突き刺すような痛みを発信する。「─────っ、馬鹿か俺は………!役割もなにもサーヴァントに速度で勝てるわけないだろ………!」自分の思考の回らなさを罵倒しながらアサシンと間桐臓硯から距離をとる。頭に響く鈍痛は変わらない。明らかに集中力を乱している。アレはマスターを殺す者。こと戦闘ではなく、殺すことだけに特化したもの。そんな暗殺者に一体どこまで耐えられる? 背後を取られ頭部に攻撃を食らうか、心臓を一突きにされるか、今の様にいたぶられるように衰弱していくか。「どれも御免だ。………なら、もう一回………」押し寄せる頭痛をこらえ、内面へ没頭する。ギシギシと腹部と右肩の剣が食い込むようなビジョンが見える。その度にそれらを叩きつけたくなるような感覚を、その度に抑え込んでいく。「サセぬ………」瞬間、白い髑髏面めいたものが視界の片隅に映った。いや違う。確かに瞬間ではあったが、反応できたはずの速度だ。なのにそれに反応できなかったのは─────。「─────っ!」無我夢中で左手の短剣を振るう。笑いたくなるような抵抗だが、やってみる価値はあったらしい。金属音と共に短剣が地面へと落ちた。だが。「いっ─────あ、ぐ………!」投擲された短剣は一本ではなかった。いや、寧ろアサシンが投擲した短剣など一本も見えなかった。疲労に加え、闇にまぎれるような短剣を肉眼で追えるわけがない。不意打ちみたく受けた短剣は右脚、右腕ととことん右側狙い。どうやら運よく弾いた一撃は顔面を狙っていたものだったらしい。だがその運なんかよりも、自分の投影時間が長引いていることに気付いた。「駄目だ………。もっと、もっと早く………」二歩三歩後退して、自分の状態が悪い方向へ進んでいることに気付く。ギルガメッシュの戦闘では無茶をしすぎた。加えて自爆とも言える爆発。ライダーの宝具を防ぐためのアイアス展開。そのどれもが今という時間にのしかかってくる。「衛宮………!」「─────っ!?」声が聞こえた。咄嗟に後ろに振り向けば、そこに鐘がいる。反対側には綾子らもいる。巻き込むまいとして突進した筈が、攻撃を受けて後退し、いつの間にか駆けつけたその場所まで下がっていたということだ。これ以上は下がれない。いや、そもそも前線なんてものがあったのかすら危ういが、もうそれについては考えない。まだイリヤはセラの治療を行っている。彼女の受けた傷は致命傷。即座に手当されているからこそまだ息がある。逃げるにしても逃げられない。せめて治療が終わるその時までは倒れてはいけない。今、アサシンと間桐臓硯は確実に自分だけを見ている。この面子の中では一番“有害”だからだ。だからこそ、その“有害”という認識を逸らす訳にはいかない。ここで倒れ、“無害”と認識されてしまったらイリヤ達に魔の手が伸びる。それは避けなければいけない。つまり踏ん張りどころはどこでもない、今この瞬間。「─────投影、開始トレース・オン」弱った自分の力だけは、迎撃が間に合わない。今の自分の中に、弱り切った状態での効率的な迎撃手段はないし、思考がうまくまとまっていない。一撃を受ける度、呼吸をする度、痛みを感じる度に視界が揺らぎ、ノイズが奔る。ならば自分の中にないのなら、自分の中でまとまらないなら、それ以上に経験の宝庫である宝物庫の鍵を開くのみ。抵抗率低下。上書き。上書き。上書き。非効率を効率へ。上書き不要部分はそのままに。効率化による投影時間短縮・圧縮。武器の貯蔵の増加。攻撃手順の増加。剣を矢に変える。弓を登録。偽・螺旋剣を認識、登録完了。赤原猟犬を認識、骨子の情報再照合完了。「─────憑依経験、共感終了」アサシンが揺れる。撃ち出される短剣は正面から四、上方より三、右側より五。「─────工程完了ロールアウト。全投影、待機バレット・クリア」迫る短剣。普通なら射出しても間に合わない。だが、今の状態なら。「─────停止解凍フリーズ・アウト、全投影連続層写ソードバレルフルオープン!」「キ─────!?」剣が降り注ぐ。飛来した剣は十二の短剣を瞬く間に撃ち落とし、放ったアサシン目掛けて飛来する。だが、もとより回避に優れるアサシン。しかもそこが闇で無限に広がる空間だというならば回避は容易い。が、それでも豪雨は豪雨。空より落ちる雨粒を人間が回避できないのと同じように。回避を試みたところでこの雨からは逃れられない。「ぎ、ギ─────!!!」脚に刺さった剣がアサシンを撃ち落とした。ブロック塀の向こうに落ちるアサシン。敵は倒れた。なら後はそのマスター、間桐臓硯を倒すのみ………!!「まさかここまでやれるとはの………」「逃が………すか─────!!」後退していく老人。アレを逃すわけにはいかない。ここで倒すべき敵。「ヌう─────!?」剣を撃ち出し、足を止める。群がる蟲を串刺しにし、確実に滅ぼし、強化した脚で一気に接敵する。凛とアーチャーの話では、間桐邸地下で戦闘し、同じように剣を撃ち出したとのこと。しかし『敵』は生きていた。剣群での刺殺は固体に対して有効打であるが、それを以ってしてもなお生き残ってるとなると直接斬りつけるしかない。生憎と凛のように魔術には長けていない。良しか悪しか、投影による剣の攻撃しか士郎にはない。退路を断った。群がる蟲も大半を殺している。襲ってきてもこの勢いなら脳天より剣を振り下ろせる。何も進展しなかった展開。けれど、少なくともこの敵を倒せば桜を救う道へ確実に一歩近づく。─────勝ったと。その光景を見た鐘と綾子はそう思った。短剣をその身に受けた士郎の苦悶の表情はみたくもなかった。受けた短剣は三。急所ではないとはいえ、十分身体の活動に影響を与える。それだけではなく右手のあの状態。いくら彼が“剣を撃ち出す者”とはいえ、平気であるワケがない。そんな中で、痛みを押し切って、あろうことかサーヴァントを退け、敵を倒そうとしている。ならこれで終わると。二人の認識は共通していた。だがたった一人。「だめ………シロウ! 先にアサシンを倒しなさい!!」この状況が危険だと警鐘をならしたのは、イリヤだった。「え?」直後。崩れたブロック塀の向こう側より現れたアサシン。その姿は一部を除き通常通りだ。しかしその一部こそが、命取りだった。アサシンの羽織っていたマントがはがれる。本来あるべき筈の右腕。そこにあったのは右腕ではなく棒だった。「─────追い詰めた、と思うたかね? 衛宮の子倅よ」正面あと数メートルにまで近づいた間桐臓硯が、妖しく嗤った。それと同時。側面へ飛ばされたアサシンが“変形”した。骨を砕き、曲げて、髑髏の腕が異形の翼を羽撃かせる。なんという長腕か。暗殺者の右腕は、拳と思われた先端こそが“肘”だった。折り畳まれ、その掌を肩に置いた状態で縫い付けられていた腕だったのだ。ゾクリ、と悪寒が奔った。あれほどの長さならばこの距離でも届く。あの腕に触れられればおしまい。─────今から剣を撃ち出せば止められる?無理だ。撃ち出せて相手に直撃したとしても、同時にあの腕が体に直撃する。止める事が出来ない。コンマ数秒の差で相手が攻撃を完了させる方が早い。何しろ相手はすでに攻撃準備を完了させている。どう足掻いてもコンマの差で負ける。「──────────っっっ!!!」じゃあ諦めて放置する?そんなものは論外。死ぬと決まったわけではない、抵抗できるならコンマの差で負けようとも抵抗してみせる。少しでも遠く、少しでも時間をかけさせるため、老人へ向けていた足をアサシンとの距離を離すべく急激な方向転換へと切り替える。同時に投影を開始。アーチャーの知識で全面的に上書きし、その知識と経験により圧縮効率化され、時間短縮された投影を以ってして─────「妄想心音ザバーニーヤ」すでに攻撃準備を完了させていたアサシンが、当然のように士郎よりも早く─────呪腕を突き出していた。─────数秒後の地面、そこに赤い斑模様が描かれていた。