第50話 抵抗する者達─────第一節 明かされぬ過去─────とある昔。衛宮切嗣がまだ正義の味方を目指そうとも考えなかった昔。魔術協会や聖堂教会にも知られないように、とある魔術の研究を行っていた一族がいた。この世界にはある一つの事に特化することが多い。二つの人格を有する一族。人ならざる者の血を身に宿す一族。魔を殺すことだけに特化した一族。奇跡を成すために一千年もの間追い求め続けてきた一族。この一族もまた、彼らと同じようにただある一つの事柄のみを追い続けていた。だが彼らの目指す者は彼らの世界では『禁忌』とまで言われており、仮にその世界の上役たちに見つかれば封印指定は免れず、体を解剖・分析されるのは避けられない。それほどまでの『神秘』である。代を積み重ねながらその研究に没頭していた一族であったが、内部で分裂が起きる。一つは今まで通り積み重ねてきた研究をつづけ、『究極の一』を目指そうとする者達。もう一つはその『神秘』の危険性、発症できた時のリスクの高さ、自己の破滅などを鑑みてその運命に嫌気が射し、研究を終わらせようとした者達。内部の闘争は静かに、外に漏れることなく行われ、外に漏れることなく収束した。結果その一族の中に「宗家」と「分家」が出来上がり、研究を良しとしない者達は軒並み分家扱いされ、隔離されていくことになる。その一族の中にいたとある娘もまた、その研究を良しとは思わなかったため、彼女は隔離される前に自らの意志でその家から出て行った。見知らぬ土地。見知らぬ場所。元より魔術師としての研究を続けるつもりのなかった彼女は一般人として過ごしていく。そこで出会う異性。恋をし、結婚し、娘を産む。そうして元々その『究極の一』を体現すべく作り出された体の回路は徐々にその数を減らしていき、一般人と変わらぬほどまで薄まった。己の家系が元は魔術師の家系だったことなど、もう語り継がれることもなくなったとある女性がいた。だが、それに反してまだ僅かにその体には『究極の一』を体現することができると言われた体が残っている。宗家がどうなったかなど彼女は知らない。否、宗家があることすらもう知る術はないだろう。彼女もまた恋をする。だが、何の因果かわからない。『究極の一』を体現することをやめた分家の末席。それを体現する可能性など微塵もない彼女の婿として訪れた人物は、かつて『禅城』という名を持つ男性だった。禅城の家系は「配偶者の血統の能力を最大限引き出した子を成す」という特殊な体質であった。聖杯戦争の御三家の内の二家の男たちはその家系の女性『禅城 葵』に目をつけた。そうして生まれたのが『遠坂 凛』らである。男性たる彼もまたその力を持っていたが、男性であると同時に彼女のように目をつけられる前に遠い地へと移り住んでいた。彼が家と問題を抱えていたが故の、早い家出だった。加えるは彼らの家系の体質は当時『可能性』にすぎなかったため、遠坂と間桐の両家に深く追求されることもなかった。結果、生まれたのは後に『衛宮 士郎』を名乗る事になる人物なのだが、このときはまだ別の人間である。片方は本当に一般の家族として生きる者。片方は魔術師の妻として生きる者。彼女らはこの冬木の地にやってきて生活をし始めた。新都と呼ばれる都会と、ベッドタウンにもなる深山町という街。海があり、山があり、人がいて、自然も多く、そこは住めば都といっていい場所だった。─────そう、十年前までは。─────第二節 火傷─────熱い灼熱地獄。見えるモノは真っ赤に染まり、感じるモノは全てが熱い。痛い腕や体、顔が痛い。体のあちこちが刺されたように痛い。みな死んだ。みな死んでいった。炎の中、彷徨っていたのは自分だけ。家々は燃え尽き、瓦礫の下には黒焦げになってしまった死体があり、いたるところから泣き声が聞こえていた。その泣き声のする方へいく。目の前には人がいる。足りなかった。腕がない。脚がない。耳がない。顎がない。下半身がない。上半身がない。顔がない。体がない。首がない。『ああ、─────そうか』例えばの話。自分が街の中で瓦礫に埋もれてしまったらどうしよう。行くべき場所がある、行かなければいけない場所がある、守りたい約束がある、会いたい人がいる。そんな思いを持ちながら、瓦礫に埋もれて、炎の海が近づいていたとしたら。そんなところで、目の前に無事な人間が現れたら?間違いなく『助けて』と手を伸ばすだろう。死にたくない。まだやり残したことがある。だから手を伸ばす。やりたいことはたくさんある。だから死にたくない。だから、生きたい。或いは、見殺しにした人達の中には同じような境遇の人がいたかもしれない。それを見殺しにした。自分では救えないから。死にたくなかったから。こんな痛みを伴って、それでも助かりたいと手を伸ばした人達に背を向けて走り去った。ああ、だから、『─────しろ君、しんで』こんな悪夢を見る。ああ、これは悪夢だ。どうしようもない悪夢だ。夢だと判っていながらそこから抜け出せない。だから、これは悪夢なんだ。『ねぇ、一緒に死んで。しろ君』彼女の手が伸びる。それから逃れることはできない。逃れようという意思すら湧かない。彼女の両手が両腕を掴んだ。………焼けた。彼女の手が体に触れた。………焦げ跡がついた。彼女の手が頬に触れた。………皮膚がなくなった。熱い痛いごめん、と。謝った。母親との約束も守れない。自分自身の約束も守れない。会う事すらできない。そうして生き残った。何もかもを犠牲にして生き残った。生き残る為に見捨てていった。『爺さんの夢は俺が叶えてやる。だから、安心しろよ』隣に現れたのは幼い自分。『爺さんはオトナだからもう無理だけど、俺なら大丈夫だろ。まかせろって、爺さんの夢は俺が叶えてやる』そうだ。この言葉を聞いて彼は逝った。その瞬間から、正義の味方になるのではなく、ならなくてはいけなくなった。けれど、それが間違いだとは思わない。なるか、ならなければいけないかの違いだけ。そこにある『人を救う』という事実は何も変わらない。犠牲にしていった人達がいる。その中で助かった己がいる。─────彼は誰をも救えなかったから。君には、誰かを救える人間になってほしかった。なら、それを叶えよう。犠牲になる人がこれ以上でないように、みんなを救おう。もし仮に犠牲が必要となるなら、それは生き残ってしまった自分が引き受けるべき咎なのだから。からっぽだった自分に中身を入れてくれた憧れた人。ぎち、と。体が軋む。体を蝕む剣山が、広がっていく。火傷を覆い隠す様に、剣は広がっていく。『違う、会えたんだ。約束は守れなかったけど、すぐには会えなかったけど、会えたんだ』目の前に現れたのは小さな自分。『なら、守らなくちゃ。次は裏切らない。次は泣かせない。次こそは一緒にいる。………ひーちゃんを守るために“剣”になるって決めたんだから』ぎちぎち、と音を立てる。その音が。目の前の自分の結晶体なんだと判った。自分に嘘をつくな。これ以上裏切るな。幼い時の温かい記憶。犠牲にしてしまったと思って、自らそこに蓋をした。からっぽだったと思っていた自分の蓋を開けてくれた人。きっと、何かがずれている。幼い自分の決意と、小さい自分の決意。似てる様で、どこかがずれている。『認めるがいい。その“借り物の意志”と“己の意志”は決して同義にはなれないと』後ろに現れたのは未来の自分。『“正義の味方”と“誰かの味方”は決して同じにはならない。何を救い、何を犠牲にする、衛宮士郎』ああ、そうなのかもしれない。気付くことはできないけど、きっと何かが違うんだと。けれど、その中でも同じなモノはある。それは、助けたいという思い。人がいた。死ぬ前に、周りに人がいた。隣で笑ってくれる子がいた。人がいた。救われて、自分に道を歩ませた人がいた。安心したといって逝った人がいた。人がいた。同じ部活で、同じ学校で、気兼ねなく話せる人がいた。違う部活で、同じ学校で、あんまり話したことのない人がいた。それだけじゃない。学校には友人がいた、クラスメイトがいた、姉とも呼べる教師がいた。憧れとも言える女生徒がいた。─────妹とも言える、大事な人がいた。視野は狭いかもしれない。いや、事実狭かった。傷ついている人を目の前に見ながらそれに気付けなかったのだから、視野は狭かった。けれど、同時にみな笑っていた。地を走り空を跳ぶあの姿も、弓を引き矢を放つあの姿も、包丁を手に取り料理をするあの姿も、彼女らの周囲にいた人たちも、笑っていた。あの時の時間は決して嘘ではないと。今でこそこんなことになってしまったが、あの時の時間は必ず取り戻せると。取り戻して見せると、この戦いに挑んだ。切嗣との約束。助けたいという思い。幼い時の温かい記憶。からっぽだった自分に中身を入れてくれた憧れた人。からっぽだったと思っていた自分の蓋を開けてくれた人。助けられてばかりだ。救われてばかりだ。まだ切嗣の目指したモノになれていない、彼女との約束を守れてはいない。このままじゃ嘘つきだ。このままじゃあの火災で死んでいった人達にも申し訳が立たない。救えなかった彼らの分まで、彼らの死を嘆き心に傷を負った者達の分まで、生き残った自分はやり遂げなければならない。生き残った。助けを求めた人達を犠牲にしてまで、生き残った。だから、次はこんな事にはならないようにとひたすら鍛錬し続けた。犠牲になる人がいないような、みんなが笑える未来。目を覚ませ。まだ戦いは終わっていない。眠るとしてもそれは全てが終わった後だ。この身に感じる痛みを、意識を奪うモノとしてではなく、意識を再確認させるために使え。「─────体は剣で出来ている」今ならこの言葉も理解できる。「─────血潮は鉄で、心は硝子」黒い湖に沈みながら、手を伸ばす。「幾たびの戦場を越えて不敗」負けてはならない。「ただ一度の敗走もなく、ただ一度の勝利もなし」けれど、勝つ必要はない。戦うのは勝つためじゃない、守る為だ。「担い手はここに独り、剣の丘で鉄を鍛つ」この体つるぎは、救うために、彼女を守るために。「ならば、我が生涯に意味は不要ず」みんなが、彼女が笑っていられるなら、きっとそれは─────「この体は──────────」─────それはきっと、幸せなことだと思うから。『本当に?』「え?」手を伸ばし、光を掴んだ時に声が聞こえてきた。『それは本当に幸せなの?』どこから聞こえてきた声なのかわからない。『それだと………きっとひーちゃんは喜ばない。悲しい顔をするだけだよ』意識が浮上してくる。それと共に聞こえなくなる声。今何か重要な事を言った筈なのに、思い出せない。『本当に幸せを求めるのなら、君ボクは─────』或いはその答えこそが。ハッピーエンドに繋がる答えなのかもしれない。─────第三節 向かう街の中で─────夜に沈んだ街、深山町。深海の底にいるかのような街の中で、セラ・イリヤ・綾子・鐘の四人はとある場所へ向かっていた。イリヤとセラが前を歩き、その後ろに続くように綾子と鐘が歩く。前を行く二人の表情は伺い知ることはできない。だが隣にいる二人は互いの心中をある程度見抜くことはできた。つまり、お互い後ろ髪を引かれている、ということだ。鐘は一度ギルガメッシュの実力の片鱗を見せつけられているし、綾子は士郎が駆け付けるまでの間、リズとの戦闘で相手がどれだけ危険な人物かというのを理解していた。だからこそ不安になる。前回の聖杯戦争の生き残り。世界最古の王。前回の戦闘の折、敵と戦った筈なのに無傷だったという証言。様々なサーヴァントを見てきた二人にとって、『前回の勝利者』というイメージがつくギルガメッシュは、ただ畏怖する対象に他ならない。「…………」「…………」互いに言葉は出ない。今はまだ二月であり、冬だ。その冬の寒空の中を、いるべき住家から追われるように逃げ出しているという現実。そんな光景。「………戦争だと言うのなら、当然なのかもしれないか」ぼそり、と小さく鐘が呟く。数時間前まで楓とバカ騒ぎしていたのが嘘のような現実。意味もなく悲しくなってくる。一体どこで道を間違えたのかと、問いたくなってくる。だがその問いに答えはない。或いは答えは既に出ている。だがどれだけ嘆いても変わらぬ事実である以上、受け入れるしかない。そうして受け入れた結果が、衛宮邸に住むという結論なのだから。「─────なあ、氷室」「………何かな、美綴嬢」隣で歩く綾子が話しかけてきた。僅かに首を動かして彼女の顔を見る。やはりその表情は優れない。自分もきっとあのような表情をしているのだろうと思いながら、綾子の言葉に耳を傾ける。「信じるって、一体どれだけの力があるんだろうな?」「………どうしたのだ、藪から棒に」「藪から棒………? 本当にそう思う?」「…………」思わない。士郎が目の前からいなくなり、戦いへ赴くたびに自分の中に生まれる疑問。信じるという言葉はきっと美しい。信じないという態度よりも、きっとそれは輝かしい。じゃあ、それに一体どれだけの力があるというのだろうか。或いは。何もできない自分に言い訳するために、信じるという言葉を使って逃亡しているだけではないか。けれど実際、彼女ら二人があの戦場でできることは何もない。寧ろいると邪魔になる。そんな後ろにも前にも行けない状態。命を預けると言ったものの、できることなら何かを援護してやりたい。仕方がない、無理だと判っていても、それでもどうにかしたいというこの気持ち。結局行動に移せないで、信じるという魔法の言葉に浸かっている。その虚ろな揺り籠の中で、その揺り籠に疑問を抱き続ける、そんな毎日。「………IFを考え始めると“戻れなくなるぞ”、美綴嬢」「………わかってるよ、氷室」だが同時に、そこに救いがあるようにも見えてしまう。それがこれの悪い性質。頭を切り替えようとした時だった。ドォン! という音が響いた。流石に夜だけあって、遠方の爆発音でも掻き消されずに聞こえてくる。視線の先に見えたのは白い光。どう見ても何かが爆発したような光。現在彼女らは衛宮邸から逃げて坂道を下りきろうとしているところ。爆発はその視線の先で起きた。といっても距離にすればまだ先の方。ついでに言うとこれから向かう方向とは方角は少しずれている。「遠坂嬢らがいる場所だな………あそこは」ぽっかりと黒い世界が広がる場所。夜に沈んでいる所為か、この距離でははっきりと見ることはできないが、近づけばきっとわかる。あそこにはクレーターができているのだから。「? どうしたんだい?」綾子が振り返ったイリヤを見て訪ねる。その表情はやはり優れない。そしてその視線は決して綾子を見ているわけではない。今しがた逃げてきたその先を見つめている。「─────」思わず後ろを振り向いた。ここからでは衛宮邸は見えない。しかし不気味な灰色の煙が上がっているのが見えた。「衛宮………」夜の空に僅かに違いが確認できる煙は、衛宮邸から発したものだろう。胸の中で騒ぐどうしようもない声を押し殺す。何もできないもどかしさを感じながら、ただ彼らの無事を信じて止めていた歩みを再開させる。「………お嬢様」しかし再開させた歩みはすぐさま停止した。眼前に広がる闇の道。その奥より薄らと見えてくるモノ。「住家を奪われた名家とは………。知る者が見ればこの光景ほど可笑しいものはない。そうは思わんかね、アインツベルンよ」目前に現れたのは枯れ木の如く老いた魔術師。間桐臓硯だった。イリヤ自身は初めて見るわけだが、それが故郷の城を出る時に教えられた、同朋マキリの魔術師である事は一目で判った。「─────マトウゾウケン。ええ、そうね。けどそれは貴方にも言えることよね?」目の前に現れた老人を、イリヤは冷淡な瞳で見つめる。老人の言う通り、イリヤが拠点としていた城はギルガメッシュの手により崩壊させられ、衛宮邸から被害を逃れるべく脱出してきた。「かつてはアインツベルン・トオサカと共に同じ目的を持って至った同朋。けれど、今は見る影もないわね。私達にはまだ“アインツベルン”が残っているけれど、貴方にはもう何もない。 ………それほどまでに、マキリの血は衰退したんですもの。影なんてないも同然よね」イリヤの声は冷たい。後ろでその光景を見て声を聞く鐘と綾子はそう思った。嘲りでしかない言葉を、しかし老人は呵々と笑って受け止める。「いやいや、心配には及ばぬ。事は成りつつあってな。予定では次の儀式で行う筈じゃったが、今回は駒に恵まれての。ワシの悲願はあと数歩で叶おうとしておる」「そう。なら勝手にすれば? 私は貴方に興味なんてないし。貴方が偽物の杯を使おうと私自身は知らないわ。………けど、邪魔だけはしないで欲しいわね」「そうもいかぬ。言った筈。悲願までは後数歩要る、と。一歩はおぬしの体の確保。上手くいきすぎる話には不安要素もある。保険として聖杯おまえを押さえておけば、我が悲願は盤石にもなろう」老人の周囲がざわつき始める。それの正体が一体何なのかを、鐘と綾子は知る由もない。「………ふぅん、貴方自ら手を出しに来るなんて。サクラは操れてないってことかしら? それに貴方一人で私を連れ去れると思っている気?」「いやいや、そう巧い話もないであろう。………が、それにも策があってな。こうして今ここにいる」老人の言葉を聞いて、イリヤの表情が曇る。この場面に来て嘘をつくとは考えにくい。ついたところで意味はない。或いはこの老人の周囲のモノがその策になるのかと注意を払った時だった。「え─────?」ドドッ! とイリヤの背中に“何か”が突き刺さった。何が起きたかも判らずに、視線が正面から地面へと切り替わる。「お嬢様!」隣にいたセラがイリヤに駆け寄る。その背中には二本の短剣が刺さっていた。「カカカ………、流石のアインツベルンもアサシンの気配遮断は察知できなかったようじゃな?」同時に老人の周囲でざわついていた何かが消える。その奥から、すぅと現れたのは白い髑髏だった。「ご苦労、アサシン。殺してはいないな?」「無論、ダ」その光景に息を呑む綾子と鐘。サーヴァント。そこにいたかどうかすらも全く気が付かなかった。鐘と綾子の間から短剣が通った時ですら、彼女らは背後にアサシンがいたという事実が判らなかったのだ。「─────、聖杯に選ばれてもいないモノが………マスターの真似事をしてる、なんてね………」浅い息をしながら老人と髑髏を見る。普段聞こえる筈のない息遣いが、痛々しく二人の耳に聞こえてくる。「お嬢様、それ以上はしゃべらないでください………!」す、と手を背中へ伸ばし、短剣を抜き取る。その痛みでイリヤの表情が歪むがそれは我慢だ。瞳を閉じ、魔力を組み込む。「─────Ylx tlirs fawEE LAas tli raYEE光よ 聖なる力よ 護りとなりて救いたまえ」その手の先から光が灯る。「ほう」徐々に治癒していくイリヤの体。彼女もまたリズと同様に聖杯の失敗作である。ただリズと違う点は、セラは純粋なホムンクルスとして作り出されたという事。故にホムンクルスとしては完璧なる性能を誇るが、イリヤやリズと違い聖杯という奇跡に至ることはできない。また戦闘用に調整されたわけではないので、戦闘には不向き。「奇跡………ではなくあくまで魔術か。ふむ………しかしここで治癒されては些か困る。連れ帰るに暴れられても困るのでの」老人に鬼気が灯る。白い髑髏がゆらりと揺れ、消える。その気配は察することは不可能。「消えた………? セラさん、アイツがまたくるよ………!」「どこに………」綾子と鐘が周囲を見渡す。夜の道に慣れた目がブロック塀やアルファルトの道などを見抜くが、そこに暗殺者の姿は見えない。必死にどこにいるか探す二人を見た老人は、「カカカカ………!まさか魔術の心得すらない者がアサシンを見抜ける筈もなかろうて!サーヴァントですら見抜けぬ暗殺者を見抜くことができるとすれば、それは人を逸脱した暗殺者のみ。おぬしらでは一片とも見つけることはできぬぞ?」不気味に嗤う。その言葉通り二人の目には何も映らない。焦る二人。先ほどのギルガメッシュとは全く逆。堂々と姿を見せ、圧倒的な力で相手を恐怖の底へ落とすのではなく、どこにいるかも判らないまま暗殺されるという恐怖へ落とす敵。「二人とも。此方へ来てください」その中でも極めて冷静にセラは鐘と綾子に指示を出した。しゃがみ込んでイリヤの治療を続けるセラの背中を庇う様に二人は立つ。ほぼ全ての範囲をその視界でカバーしているというのに、やはり暗殺者の姿は見えない。いや、仮に見えていたとしても鐘と綾子では戦闘にすらならない。二人は何の力も持たない一般人。この魔術師同士の戦争の中では足手まとい以外の何者でもない。「安心してよいぞ? 殺しはせん。そこの二人は衛宮士郎との交渉材料に使わせてもらうだけじゃからの」「交渉材料………?」聞き捨てならない言葉が聞こえてくる。「左様。我が悲願の為にはサーヴァントを取り込むのが手っ取り早いのだが、未だにセイバーとアーチャーが生き残っておる。アレに勝てるとは思わんが………何、抵抗なく呑ますに越したことはない」「………!私達とセイバーさんらを天秤にかけさせるつもりか………!」「それだけではないぞ? 彼奴の存在は我が悲願に暗雲をもたらしかねんからの。“そういった意味”でもお主らは非常に良い駒じゃ」呵々と嘲笑う声。聞きたくもない言葉が二人の耳に届いた。一瞬目の前が点滅する。軽い眩暈に襲われた。「………シロウと、カネとアヤコの命を天秤にかけさせるつもりね………本当にクズ、ね。ゾウケン」「何を言うか。我が悲願、不老不死はもうそこに迫っておる。それを邪魔するというのであれば、此方としても相応の手は打つべきであろう?」「不老不死………? 正気ですか、マキリ。聖杯にかける望みが不老不死だと言うのですか?」イリヤの代弁をするかのようにセラが問い詰める。イリヤは現在治療中であり、しゃべるにもまだつらい状態だ。「当然じゃ。見よこの肉体を。刻一刻と機能を失い、悪臭を放ち、身内は内から溶け、こうしている今の脳細胞は蓄えた知識を失っていくのだ。─────その痛み。生きながら崩れ行く苦しみがおぬしに判るか?」老人がイリヤを見る。嫌な汗を流しながら、荒い息遣いでイリヤは、「………自業自得でしょう。人の体は────っ、五百年の時間に耐えられない。それを超えようというのだから、代償は必要だわ。………それに、耐えられないなら死ねばいい。そうすれば、楽になるんじゃない………?」その状態でもイリヤの瞳の冷たさは変わらない。老体が震える。魔術師は咳をするように背中を震わした後。「カカ、カカカカカカ………!やはりそうきたかアインツベルン!貴様らとて千年続けて同じ思想よ!所詮人形、やはり人間には近づけなんだ!カカカカ………!」そう、心底おかしそうに声を発した。「戯けめ。よく聞くがよい冬の娘よ。人の身において、死に勝る無念などない。虫どもの苗床となるこの痛みなど、己が死に比べれば蚊ほどのものでもないわ。自己の存続こそが苦しみから逃れる唯一の真理。 死ねば楽になるなどと、それこそ生きていない証ではないか。だからこそおぬしは人形にすぎぬのだ。その急造の体ではあと一年と稼働しまい。短命に定められた作り物に、人間の欲望は理解できぬという事だ………!」告げられる真実。綾子と鐘の知らないイリヤの事実。残り寿命が一年を切っている。その事実。「イリヤ嬢………一年とは………!?」二人の頭の中では、まだピースはバラバラのまま。パズルは完成していない。だが、それでも徐々にその完成図は見えてきた。ギルガメッシュと士郎との会話。今先ほどの老人の言葉。少しずつ、答えが見えてくる。イリヤは鐘の問いかけを無視し、目の前の“敵”に罵る。「─────ええ、理解できないわ。貴方は人間の中でも特例だもの………。ねぇ、貴方。そんなに死にたくないの?」その言葉を聞いた老人の口元はさらに歪む。その言葉こそを待っていた、とでも言うかのように。「無論。ワシは死ぬワケにはいかん。このまま死にたくはない。─────だが、それはワシが特別だからというのは間違いだな、アインツベルンよ。おぬしらの背後にいるそこの二人」老人の指が綾子と鐘を指す。にたりと嗤う、その口から告げられたのは「─────その二人とて、死にたくないから衛宮の家にいたのであろう? そして死にたくないから、衛宮の家より逃げ出してきた。………そら、ワシとどう違う? 同じじゃよ。死が恐ろしくない人間などいぬよ」「あ、あんたと一緒にするな!アンタみたいな人間と─────」「ほう? ならば死んでもよかったと? おぬしらはそれぞれサーヴァントに襲われた時、死の恐怖を感じなかったかね? 助けてと乞わなかったかね?」死の恐怖。思わず言葉が詰まった。鐘はランサーに、綾子はライダーにそれぞれ襲われかけた。士郎と会うまで必死に逃げていた。その時に感じたものはなんだったか。それは紛れもなく、『死にたくない』という感情ではなかったか。「だ………だが! 貴方みたいに人を犠牲にしようなどとは思っていない!」「─────カ」ぞわり、と。鐘の背筋に悪寒が奔る。「カカカカカカ!これは傑作!いや、ある意味は当然と言うべきかな。得てして守られる側など、そういった感覚しか持ちえぬよ!」「な─────なにを」「よいか、おぬしらが巻き込まれたは二百年前を始まりとした魔術師同士の戦争。それらの戦争時、決して一般人が一人も巻き込まれなかったという事実はない。だが同時におぬしらの様に守られ続けたという経緯もない。 遠坂の小娘の父、遠坂時臣は一般人ながらも事情を把握していた己の妻ですら聖杯戦争時は家から立ち退かせた。使用人には全て暇を渡しての」つまり。「聖杯戦争時に一般人を抱え込むことは危険だということ。………前回の聖杯戦争。衛宮士郎の父、衛宮切嗣は別にいたマスターの許嫁を誘拐した上でマスターもろとも殺した。人質になる危険性を小僧の父親はその手で証明してみせた。 暗示をかければ情報漏洩、はたまた操られての背後から刺殺などもありうる。わかるか? 魔術師同士の戦争に無力な人間を抱え込むという行為が、どれだけ自身の身を危険に晒すかということを」「─────」「言い換えれば、おぬしらは自身の安全の為に小僧に“危険”を与えていることになる。犠牲にしていない、という考えは的はずれよ。………だが、ワシはそれを否と断ずるつもりはない。目の前に生き延びる手段があり、手を伸ばせば届くというのなら─────何者をも、たとえ世界そのものを犠牲にしても手に入れるのが人間だというのをおぬしら自身が証明しておる。 ワシもまた同じようにしているだけの話よ。その過程でおぬしらと対立しているだけであり、ワシの行いとおぬしら二人の行いに差異はない。故に恥ず必要はない。誰かを犠牲に生を謳歌する、それが人間という生物なのだ」言い返さなければいけない。違うと断じなければいけない。人を、衛宮士郎を犠牲にして生きようとしているという考えなど微塵も持っていないと、断じなければならない。だがそれとは裏腹に今までの記憶が残っている。キャスターによって操られて公園に連れてこられ、士郎が傷を負ったという事実はまだ記憶に新しい。あの時は餌として連れてこられたが、或いはあれが操作の類で士郎を背後から刺殺するように操作されていたらどうなった?自らの手で守ってくれた人物を見下すことになっていただろう。自分たちを庇う為に彼が傷を負った事は何度あった?一度二度ではなかったはずだ。かすり傷程度じゃ済まなかった筈だ。自分たちという弱点を持ち続ける限り、危険は自分たちを通じて常に存在する。死に直結するものから、形勢が一気にひっくり返ってしまいかねないほどのものまで。その事実が、喉まで出かかった言葉を鈍らせていた。「さて、戯れもここまでじゃ。聖杯である体は要るが、心に用はない。おぬしら二人も“生きておれば”問題はない。我が悲願のため、この間桐臓硯が手を下そうぞ」老人の声に呼応するかのように、白い髑髏が空より現れた。同時に投擲されるは短剣ダークと呼ばれる武器。頭上・背後・側面より投擲されたそれは寸分たがわず四人へと殺到する。「─────Ylx tlirs fawEE LAas tli光よ 聖なる力よ 護りとなりたまえ」「─────ヌ」金属音が闇夜に響いた。アサシンが狙いを外したわけではない。狙った先に現れたモノ。白いドーム状の物体だった。それらは一か所に固まった四人を保護するように周囲を囲っている。「ほう、魔力の盾とはな。いやいや、流石はアインツベルン製のホムンクルスというべきか。魔術といい、その魔術回路といい、かなりの逸品のようじゃな」突如展開されたシールドに驚愕する鐘と綾子。向こう側が僅かに白くぼやけてはいるが、アサシンの攻撃を凌ぐあたりそれなりの強度はあるようだ。「貴女たちも何を戸惑っているの、カネ、アヤコ」「え?」治癒を完了したイリヤが起き上って二人の顔を見つめていた。その表情は昼間見る無邪気な顔ではない。「貴女は助かるためにシロウの家に来たのだから、それに戸惑ってはいけないわ。例え私が死んでもリンが死んでもシロウがいなくなっても、生き残ったとするならば貴女達は生きていればいいのよ。 もし仮にそうなって貴女達が死ぬように追って来たなら、それこそシロウに生きていた意味はなくなってしまう。本当の意味で、貴女達がシロウを殺すことになる」それに、と続ける。だが、次の顔には表情が灯っていた。「シロウは貴女達二人を助けることを負担だ、犠牲だ、なんて思っていないわ。それは判っているでしょう?」「え─────あ、あ」「それにシロウは強いよ。だってバーサーカーの剣を使いこなしちゃうくらいだもの。アヤコやカネが心配するほどシロウは弱くない。だから─────二人はシロウが帰ってくることを信じていればいいのよ。だって、そうすることに意味はあるんだから」この状況に相応しくない明るい笑顔で、イリヤは笑う。その笑顔を見て、そして自分たちの中にあった“言い表せない黒いナニカ”が。消えたようにも感じた。「………まさか、イリヤ嬢のような子供に諭されるとは。私もまだまだという事か………」「ふ~ん、士郎が欲しかったらお姉ちゃんである私が認める女になりなさいよね、二人とも。それにこう見えても私、二人よりも大人なんだからね」「な、何を─────」綾子が何かを言おうとした直前、ギィン! と弾く音が響いてきた。アサシンの攻撃がセラが作り出した魔術防壁にぶつかったのだ。「─────っと、そんな話は後だね。まずはここからどうするかだけど」「………私は戦闘向きではありません。この防御自体を形成することは可能ですが、攻撃を加え続けられるとなるとそう長くは保ちません。お嬢様、如何なさいますか」防御を解いて戦ったところでアサシンには誰も勝てない。このまま防御を続けていても遠からず破壊される。手詰まり状態の四人。だが。「大丈夫だよ」イリヤの視線は、二人に向いたまま。いや、それよりはもう少し奥へ続いていた。彼女の中にあるのはかつて繋がれたライン。「私、本とかで見た事があるわ。………英雄ヒーローは遅れてやってくるものだって」─────第四節 主人公がいない戦場─────「そうか、わかった。連絡などはこちらで受け持つ。そちらは引き続いて隠匿作業に入れ」受話器を戻したのは言峰教会の神父、言峰 綺礼。いつも通り教会内で聖杯戦争絡みの書面などの仕事をしているときに鳴り響いた電話。その内容は察するまでも無く、セイバー達の戦場の隠匿であった。ライダーとキャスターの攻撃は隠匿しようとも規模が大きく、未だに戦闘が続くため警察などの方に対応を迫られており現場隠匿が追いつかないという状況。被害状況報告でどれほどの規模というものは伝わってきたが、今もなお戦闘が続くとなると隠匿の為に結界を張るのも一苦労である。地面が抉られているともなると、それを元に戻すために大量の土砂と地下に埋まってあった排水管などの復旧にも取り掛かる必要が出てくる。アルファルトの整備や家の復旧なども視野に入れる必要があるだろう。似た騒動はこれで二度目。普通ならば前回と同じように聖堂教会だけではなく、魔術協会にも協力を依頼し、事態の収拾及び隠匿作業に奔走しなければならないのだが。「………連絡する気はねぇみてぇだな、言峰」戻した受話器を再び握ろうとしない神父を見て言うのはランサーだ。「当然。今ここで無用な外野の戦力が入ってきては、間桐桜の事実が漏れる恐れがある。幸い戦闘は街中といえど、住民が全ていなくなった死の街で行われている。度重なる爆発音でほかの地区に住む住民もそこへ向かおうとはしていない。 ならば対応すべきは火中に近づいていく警察関係者とマスコミ関係者だけだろう。それだけならば現地の魔術師だけで事足りる。一先ずは防音結界を張らせて事態を気取られないようにするのが急務だな」淡々と話す言峰だが、ランサーはその声に舌打ちする。「えらく他人事の様に言うんだな。仮にもこの聖杯戦争の監督役だっていうなら、それなりに慌てたらどうだ?」「慌てる? 何を言うかと思えば」ぎし、と音を立てて椅子より立ち上がる。「むしろ残念だよ。報告通りの規模となると仮に住民がいた場合、そこに地獄が展開されていただろう。燃え盛る家に抉られた大地。そこに嘆きが木霊する人の声。これほどの地獄はなかなか見れるものではない」「─────そうかい」聞くランサーもそれ以上の言葉は発しなかった。マスターとサーヴァントという関係だが、凛とセイバー達のように親密なわけでもない。そもそも出会いからして歪だったのだから、間違っても親密になるようなことはない。それとは別にランサーが言葉を打ち切ったには理由がある。「失礼します」隠匿作業を行っている内の一人の魔術師がやってきていたからだ。「なんだ」「ご報告が一つ。姿を眩ませていた『間桐臓硯』ですが、深山町にて発見。アインツベルンと現在交戦中とのことです」「………そうか、判った。他にはなんだ」神父が問いを投げると、報告にきた魔術師は懐より手を伸ばし幾枚か束になった書類を渡してきた。「現在判っている被害リストとなります。中には“死の街”に居住していた者のリストも含まれております」書類を受け取り、表紙だけをさっと確認する。発生場所からその範囲、被害者リストの一部などが克明に書かれていた。「ご苦労。現在手が足りない状況だ。現地へ行き、隠匿作業の強化にあたれ」「かしこましました」頭を下げ、綺礼がいる部屋より退室していく魔術師。ぱらぱらと紙面に目を通しているときだった。ガタン!という音と共に、何やら礼拝堂からけたたましい物音が聞こえてきた。この部屋の作りはどういう訳か礼拝堂のやりとりが聞こえてしまうという欠陥を持っている。その所為で礼拝堂でのやりとりは筒抜けであり、この音もまた綺礼の耳に届いていた。書類をデスクに置いて礼拝堂へと向かう。「誰かね? このような時間に神の御家を騒がすのは」両開きの扉を開け、礼拝堂に入る。その視線の先にいたのは。「こんばんは、神父さん。一応─────初めまして、でよろしいですよね?」「─────ああ、挨拶はそれで合っているぞ………間桐桜」キャスターと間桐桜だった。少女の髪は白く染まり、身を包む装束は、彼女の影そのものだ。アレは己の体に自らの暗い魔力を纏っている。「さて一つ聞こう、間桐桜。君はまだ君かね?」「………初対面だっていうのに、その口調なんですね。或いは元々なんですか、神父さん?」「さぁな。………ふむ、みる限りでは崩壊はしていないようだな。いや、それもそうか。崩壊しているのであれば間桐臓硯が放っておくわけなどないのだからな」つい先ほどの報告を思い返し、再び桜を見る。だがその視線は隣にいるキャスターへと移ってしまう。「………そこのキャスターは本物かな。深山町でキャスターが戦闘中という報告を受けたのだが?」「クス………、神父さん、キャスターって人形を作るの上手なんですよ? 遠目では判らない………いえ、例え近くにいても判らないくらいにね」「なるほど。魔力を帯びた道具………人形を作り出せるというわけか。バックアップにはその力。…………ふ─────すばらしい。名実ともに現段階最強のマスターということになったわけだな、間桐桜」報告にあったキャスターの攻撃と、今ここにいる本物。キャスター単体ではそこまでの能力付加はできなかったであろうそれを、やってのけてしまっているという事実。「ええ、わたしは強くなりました。今まで弱かった………、ただ耐えているだけのワタシはとっくに消えたわ。苦しめてきた人達みんなに、わたしがみんなを苦しめるの」クスクスと笑う。二重人格ともとれる発言をする桜であったが、神父はそれを。「─────おかしなことを言う、間桐桜」一言で下した。「………何が、おかしいんですか」「今までの間桐桜がいなくなったとしたならば、まずはイリヤスフィールの確保へ向かうのが上策だろう。間桐臓硯の手駒になっているかはともかくとして、苦しみを与えるならば訪れるべきはここではない」少女の表情が僅かに歪む。だがそれを気にかける神父ではない。「それはつまりまだ“間桐桜”が存在するということだ。そう考えればここに来た理由も説明がつく」「………、その説明とやらをしてもらいたいんですけども、神父さん」少女の貌が強張る。「“間桐桜”は自分が汚れていたことを隠し通したかった。また、自分が変貌していくということも隠したかった。衛宮士郎にな。………が、衛宮士郎はそれを知っていた。己の姿を見る前からな。 少なくとも衛宮士郎がその事実を知らなければ、衛宮邸での出来事で“間桐桜”は“衛宮士郎”を呑むことができたはずだからな。その事実。それを知ったのはどこか。─────簡単だ、この教会、この私を経由して“間桐桜”という存在を知った」淡々と話す神父の前に立つ少女。足元には僅かに影が広がり始めていた。「ならば『己の素性をなぜ知っているのか』、『己の素性を看破し得た者は一体何者なのか』、『なぜそれを衛宮士郎に教えたのか』、などと疑問を抱くのは当然であろう。だがそれは“間桐桜”が持つ疑問であって、苦しみを与えたいというおまえの言う“別人格の間桐桜”が抱く疑問ではない。 求道者だというならば特別気になどしなかったが、苦しめたいという感情と力を持ちながら答えを求めてやってくるほどの求道の心は持っていまい」ぎり、と歯ぎしりの音が聞こえた。だがそれに興味は示さないと言わんばかりに、神父は告げた。「故におまえは“間桐桜”だ。………そして同時に、泥に呑まれ、暴力に酔うおまえもまた間桐桜だ。異なる人格を用意し、“間桐桜”は悪くないなどと言い訳をするにはいささかおかしいな」「─────」少女から声はない。だがその感情を表すかのように、足元の影が急速に礼拝堂を侵食していく。その速度は今までの比ではなかった。「─────しかし、そこまで狂っておきながら芯はまだ間桐桜のままか。存外、『衛宮士郎』という存在は大きいようだな。………なればこその間桐の老人の動きか。必死だな、間桐臓硯」「………まるでわたしがここに来るのも判っていたみたいな口ぶりでしたね。─────いいです、その減らず口、減らしてあげます」ずあ、と唐突に広がる影。神父は躊躇うことなく後退した。かつて代行者として世界を巡ったこともあった。その時の身体能力は低下したとしても、依然として余りあるほどの能力を有す。迫りくる影。だが相手は強大と言えど素人。戦闘経験はなく、魔術師としても未熟な彼女が相手ならば、百戦錬磨のこの神父ならいかようにも離脱できる。「─────馬鹿なひと、逃げられると思うの、わたしから?」同時。綺礼の体が異常を発した。ずきん! という激痛と共に喉より込み上げてくるナニカ。今まで感じた事すらない激痛に礼拝堂へと転がり落ちた。「は─────ぬ、ぐ…………!」呼吸をしようとして、その度に激痛は襲う。血は止まる事を知らず、その度に喉がおかしくなる。「どうですか、心臓を鷲掴みにされた感想は。どこに居ようと、貴方の命はわたしの手の上なんですよ?」ゆっくりと近づいてくる。影の侵食事態は止まっているが、絶体絶命にはかわりない。「今日まで貴方を生かしてきた仮初の命、そろそろわたしに返してもらいましょうか」少女の顔が歪む。その表情は少なくとも、士郎が知る表情ではない。逃げ切ることは不可能。そう思った矢先だった。「っ─────! え、あ、う─────そ………!?」少女の体が折れ曲がる。視線は綺礼から黒くなった礼拝堂の床へと切り替わる。「嘘………ライダー………ライダーがやられ、た………?──────────いえ、まだ………まだ、生きてる。まだ………生きて─────」ぎろり、と隣にいるキャスターを睨んだ。「キャスター………どういうこと? 貴女、あっちでは何をしていたの?」「セイバーが囮になって、私の人形とライダー諸共アーチャーが吹き飛ばしたようです。………『偽・螺旋剣カラドボルグ』。魔力次第であそこまで大規模な攻撃になるとは思いませんでした」「………っ!貴女、アーチャーとも戦ったことがあるのでしょう? なぜ判らなかったの?」「あれほどの威力ともなると固有結界内限定のモノだと思っておりましたが故。それにあの矢は空間を斬り裂く………。 セイバーを注視してしまってたが為、回避も間に合わなかったのです。それよりもマスター。ライダーを援護するためにも魔力を送った方がよろしいのではないですか?」「─────そうね」視線を戻した先、そこに神父の姿はない。血だまりだけがそこに残っていた。「………ふん、逃げ足だけは達者ね。一瞬で姿を消すなんて。………キャスター」「承知しました」すぅ、と姿が消える。それを確認し、少女は元来た道を戻っていく。礼拝堂の外。下り坂へと繋がる道。「ライダーが………負けるはず、ない。─────待ってて、ライダー。すぐに………魔力を」影が街へ下りる。◆「よう、とんだ災難だな、言峰」墓地に繋がる隠し通路から出てきたのは言峰 綺礼。その出口でランサーは待っていた。「ふ─────笑うか? それも構わんが」「………少なくとも、てめぇが後悔してるように見えねェから笑うことはねぇな」「後悔? そんなもの、持ちえぬ感情だな」隠し通路の扉を閉め、周囲の状況を確認する。そこへ現れるは、「キャスターか………。間桐桜の命で追ってきたのかな」「そう、と言えば貴方はどうするのかしら?」「間桐桜が孕んだモノは私の長年の問いに答えを出せる存在だ。………それが生まれるというのであれば、その誕生の瞬間を祝ってやるのが神父である私の務め。少なくともこの場で潰されるつもりはないな」「………なんだ、言峰。コイツも殺っていいってならその仕事、引き受けるぜ?」槍を構えるランサー。だがその光景を見たキャスターは怪しく笑った。「てめぇ………何が可笑しい」「あら失礼。貴方が猛々しいのは構わないのだけれど、生憎私は戦う為に来たわけじゃないの。戦闘を希望していたならごめんなさいね」「………なんだと?」キャスターの言葉を聞いた綺礼がキャスターを見る。「………じゃあてめぇは一体なにを目的に現れた? あれだけの力を持ってるんだ、同盟を組もうなんていう誘いでもあるまい」ランサーとて間桐桜がどれだけの存在かは理解している。相手を馬鹿にするような物言いでキャスターに問いかけたのだが返ってきた言葉。それは。「──────────あら、察しがいいのねランサー」