第39話 絶望─────第一節 衛宮 士郎 VS 氷室 鐘&美綴 綾子─────衛宮 士郎が居間で朝食の後片付けをしている時間。美綴 綾子と氷室 鐘は遠坂 凛の言いつけ通り大人しく布団に横たわっていた。毛布と掛け布団の肌触りがよく、適度な重さもあるため温かい。ただし今に限っては体が発熱しているため、いささか暑苦しい。ということで、毛布を体の下にやって掛け布団一枚で横になっていた。が、それでも暑いものは暑い。そしてその暑さが─────「─────はぁ」あの夢を思い出させてしまう。仰向けになったり、体を丸めて横にしたりと何となく落ち着かない。これがただの夢、と割り切れるならいいのだが、生憎と昨夜は抱き寄せられたり背負われた感覚を覚えているためどうも気持ちが落ち着かない。そしてそれは隣で寝ている鐘も同じだった。というより彼女の場合は、アインツベルン城に行く前の夜の出来事も相まってもはや思考を停止していた。恐らくこれ以上想像するといろいろとまずい気がする、という彼女の直感が告げていたのだった。所詮、二人とも高校二年生という年齢。付き合っている異性もいなければ、恋愛というジャンルにもあまり縁がない。にも関わらず、少なからずそういうジャンルには興味はある。どうしたものか、とため息しか二人にはでなかった。「…………」そういえば、と綾子は昨夜の出来事を思い出す。彼が助けに来てくれた時、自分は彼の名前を呼んだ。それはいい。それは覚えている。だが、隣にいる少女は何と呼んでいたか?記憶は曖昧になってはいるが、彼女は確かに『士郎』と呼んではいなかったか?「……氷室? 起きてる?」どうしようかと思ったが、記憶に自信が持てない以上は自分の中で精査することはできない。ならば隣で寝ている少女に尋ねるしかなかった。「流石に眠気はないのでね、起きてはいるが。何用かな、美綴嬢」「アンタさ、衛宮の事なんて呼んでたっけ?」「? それは衛宮士郎なのだから“衛宮”と呼んでいるが……?」「あ、いや。それもそうなんだけど、あたしが訊いているのはあの公園で衛宮に助けられた時さ……氷室、『しろう』って呼んでなかった?」「─────」ぴたり、と鐘の表情が停止した。そこに追撃をかけるかのように綾子は自分の情報を整理していく。「昨日の話の中で、氷室と衛宮って幼馴染だった……的な事も言ってたよね。でも学校ではそんな素振りは全くなかった。寧ろ好んで近づこうともしてなかったし、学校では『衛宮』って呼んでたし」けれど、じゃあこの差は何なのか。そう考えて、辿りつく一つの可能性。「氷室……アンタさ、もしかしなくても……衛宮のこと、好きなんじゃないの?」鐘の友人三枝 由紀香と昼に話した時も、何かそれっぽいことも聞き覚えがあった。今の今まで忘れていたが、或いはそうだとしたならば。「す───!……み、美綴嬢こそどうなのだ。“あの様な夢を見て布団を抱くほど”なのだろう?」「ぐ………、思い出したくないことをさらりと言ってくれちゃって……!」むー、と睨み合う二人だったが、唐突に何か虚しくなってきてしまい互いにため息をついた。この変な空気をどうしたものか、と考え始めた矢先に─────「氷室、美綴。起きてるか?」話題の人物の声が聞こえてきた。「「ひゃい!?」」ビックゥ!と肩を震わせた二人だったが、廊下にいる士郎は眉を顰めるしかなかった。「………ひゃい?」「い、いや!なんでもない、衛宮。ど、どうしたんだ?」軽く咳払いしたあとに綾子が襖の向こうにいる士郎に声をかける。鐘はその間に呼吸を整えて落ち着かせていた。「いや、ほら昨日公園から帰ってきてそのままだろ。服は着替えたって言ってもさ、汗とかで濡れてると思ったから、濡れタオルとタオル持ってきたんだけど」「あ、ああ………そういえば、そうだっけ?」二人とも士郎に運ばれている最中に意識はなくなったので詳しくは覚えていない。が、意識がない以上は風呂に入れるわけもなくそのまま眠っていたのだろう。「流石に熱出してる時に風呂入るのはどうかなって思ったからタオルにしたんだ。で、持ってきたんだけど………入っていいか?」「……なるほど。ああ、いいよ。あたしも、ちょうど汗もかいてたところだからタオル欲しいなって」事実毛布を体の下にやっていたくらいだ。汗を拭きとって、着替えるのもいいだろう。綾子の返答を聞いて、襖を開ける士郎。手にはタオル数枚と二着の浴衣を持っていた。「ほら、タオル。こっちが濡れタオルで、こっちが普通のタオル。拭き終わったタオルはこの籠に入れておいてくれ。後で持って行って洗っとく。着替えは……一応浴衣持ってきたけど鞄の中にあるよな」パパパッ、とテキパキ済ませていく士郎。その様子を眺めながら、体についた汗を軽く拭きとっていく。「で、……どうだ? 遠坂の奴は今日一日絶対安静、とか言ってたけど調子の方は?」「朝方ほど手足のだるさはないな。君の作ってくれたお粥もあったおかげで、私も美綴嬢も持ち直してきている」「そうだね。一日絶対安静、とは言うけど動くだけなら問題ないかな。……ま、流石に今から運動しろって言われると無理だろうけど」「そうか、ならよかった。ま、今日一日は美味しいモンでもちゃんと食べて、ゆっくりしてること。……と、それじゃその布団今から干すから、ちょっと待っててくれ。今、新しい布団を出す」二人が寝ていた寝室の隣の部屋から、誰も使っていない新しい布団を取りだしてきた。汗をかいたから、布団を交換するつもりだろう。「そういえば、桜の様子はどうなんだい、衛宮?」二人が寝ていた布団を一旦隅にやり、新しい布団を敷いていく。ぽんぽん、と慣れた手つきで先ほどまで敷いていたように布団が配置される。「桜は別の部屋で眠ってる。起こす訳にもいかないから、今はそっとしてる」「そう。遠坂の奴が変な事言ってたから何かなって思ったけど、なら心配はいらないか」その敷いた布団にはホコリ一つなく、驚くべきことに敷く際にもホコリはまったくたたなかった。その事実に妙に感心した鐘は「……慣れたモノだな、衛宮。遺伝子レベルでそういう才能を持っているのか、君は」「流石にそこまではないと思うけどな。それじゃ布団干してくるから、二人はその間に着替えておいてくれ」よっと、と二人分の布団をまとめて抱えた士郎は足で襖を器用に開けて出て行った。もちろんちゃんと器用に足で襖を閉めて。「……結構な重さがあると思うのだがな、大丈夫なんだろうか」鐘がそう呟いた直後だった。廊下より聞こえてきた声。『うわぁー、士郎がお布団持ってる!えーい!』『ちょ……イリヤ!あぶなっ……ってうぉ!?』ずてーん、と間抜けな音と共に声が止まった。その後に聞こえてきた笑い声を聞いて、何となく廊下の向こうで起きている事を想像した二人だった。「それじゃ、あたしらは大人しく衛宮の言うこと聞いて、寝間着に着替えて布団に入っとくか」「……そうだな」着替えの最中に士郎が入ってきて、変な空気にならないように手早く濡れタオルで体を拭き、寝間着へと着替える。ちなみに二人とも浴衣。折角用意してくれたのだから着ないわけにもいかない。着替え終えて数分後。イリヤとの格闘に制した士郎は再び襖を開いて寝室へと入ってきた。手には丁寧に切られたリンゴが。「はい。お粥だけじゃ足りないかなって思って持ってきた。よかったら食べてくれ」ことん、とリンゴが盛られたお皿を二人のすぐ横に置いた。それを見た綾子は「あれ、衛宮。こういうのって、衛宮が食べさせてくれるっていうシチュエーションじゃないの?」と、冗談半分で笑いかけた。が………「む………それもそうだな。悪い、美綴。そうするべきだったか」「………えーっと……」一転少し焦ってしまう。心なしか顔が紅くなっているが、この衛宮士郎はそのことに気付かない。サク、と切ったリンゴにフォークを突き刺してそのまま「はい、あ~ん」と、普通にやってくるのだから最早止めようがない。自分が言い出した手前、断ることもできないので「………ぁ~ん」小さく口を開けて、差し出されたリンゴを食べた。その顔はリンゴ並みに赤くなっていた。「おしいしいか? 美綴」「………ぁぁ」味覚に気を取られている状況でもなかった。再びサク、とリンゴにフォークを突き刺して「ほら、氷室も。あ~ん」「─────」隣で同じように寝ていた鐘にも同様にリンゴを差し出していた。すでに顔は真っ赤。思考は停止中。「? どうした、氷室。顔、赤いぞ?」その原因が自分にあるとも思わない士郎。それもそのはず。今朝方、お粥を桜に食べさせたのだ。抵抗はないのだから気づくはずもない。「っ!?」「……やっぱり少し熱があるのかな」ぴと、と額に手を合わせる。余計に熱が上がりかねないということを自覚していない。ビクッ、と肩を震わせた鐘。もういろいろとパニック状態です。「ほら、氷室」「ぁ……あ~ん」ぱくり、と。もはや何も考えられない状況で、とりあえず差し出されたリンゴを口にする。が、やっぱり口の中でシャリシャリと音を立てるだけで、どんな味かまでは注意がいかない。「ん、まだ何個かあるから………」と、再びリンゴに刺したのを見て綾子と鐘は慌てて「いや、いい!あとは自分で食べるから大丈夫だ、衛宮!」「み、美綴嬢の言う通りだ。それくらいはできるから、問題ないぞ!」「? そうか、ならここに置いとくな」慌てた二人に首を傾げながら、皿を床に置いた。立ちあがった士郎は持ってきた籠を抱えて、廊下へ出ていく。「っと。これから藤ねぇのお見舞いに行ってくるからちょっと留守にする。帰りに買い物してくるから、昼飯はまた持ってくるよ」「あ、ああ。わかった。………その、いってらっしゃい」何を言っていいかもわからなかったが、とりあえず思い浮かんだ言葉を、鐘は口にする。「行ってきます。無理は駄目だぞ、二人とも」すぅ、と襖を閉めて足音が遠ざかっていくのを確認する。完全に聞こえなくなったのを見計らって「はぁ─────」と、二人して盛大に息を吐いた。そして、次は互いに背を向けあって布団を顔付近まで被ってしまう。「み………美綴嬢……。なんてことをしてくれた………!」「………ごめん。とりあえず、ごめん。………まさかあの冗談にのっかかってくるなんて……」二人ともリンゴ並みに顔を真っ赤にして布団を頭からかぶってしまった。先ほど汗を拭きとり着替えたばかりだったが、すでに汗ばんでいる。特に顔はさっきよりも数倍熱くなっているという事実が、二人を余計に熱くしていた。─────第二節 第二幕─────「それじゃ、行ってくる。帰りに買い物して帰ってくるから、少しだけ遅くなると思う。昼くらいには帰ってくる。」二人の看病をした後、士郎は家をあとにした。家から病院までは歩いていくと時間がかかるため、自転車を使う。財布の中身を覗き、十分にあるのを確認して、自転車に跨り坂を下りはじめた。「お見舞い品と……、帰りには食材を買って……」街は太陽によって明るく照らされており、歩く人は昨夜の出来事など知らないかのように笑っている。或いは、知っていながら自分には関係ないと考えているのだろうか。「……まあそれが普通、か」原因不明の失踪事件。その原因を知っているのは聖杯戦争に参加している自分だけ。集団失踪など、通常の思考ではその理由を思いつくことなどない。子供を連れてどこかへ向かう親子連れ、歩きながら話し合う女子高生たち。「…………」自転車のブレーキを握り、ゆっくりとスピードを落とす。そして、夜中に駆けつけた公園の前で止まる。あの時の静寂同様、今もこの辺りは静まり返っている。所々にパトカーが止まっていることから、この周辺の住人の行方を調査しているのだろう。「…………」再びペダルを扱ぎ、病院へと向かう。流れる景色を眺めながら、吹き付ける肌寒い風をその身に受け止める。手は冷たくなり、耳も少し痛く感じる。「そうだ……帰りに教会に寄ってみるか……」言峰 綺礼。あの神父ならば何か知っているかもしれない。監督役だというのであれば、何らかの情報を持っている可能性は高いだろう。「────その前に藤ねぇを怒らせないように、ちゃんとしたモノ買っていかなくちゃな」変わらず元気であろう人を思い浮かべて、ペダルを扱ぎ続ける。『起きた事を悔やめるほどまっとうな人間じゃない』。確かにそうだろう。起きた事を悔やんでも、死んだ人は帰ってこない。「必ず……終わらせてやる」なら、前に進み続けるしかない。これ以上被害を出さないように、これ以上犠牲者が出ないように。そして居なくなった人達の分まで、その犠牲ささえを無駄にしないように。◆士郎が家から出て数十分後。「それじゃ、行ってくるわ。お昼ぐらいには戻るから、留守番よろしくね、イリヤ」「どうぞご自由に~。私はゆっくり家にいるわ。……けど、シロウがいないんじゃ面白くないなぁ。カネのところに遊びにいこうかな」「……一応氷室さん、病人なんだから迷惑かけちゃだめよ」玄関戸を閉めて、今ではもう馴染んだ和風作りの門をくぐる。同伴するのはセイバーではなく、アーチャーだ。『だってその方がいいでしょ。セイバーがここにいることで私はセイバーから家の情報を受け取れる。アーチャーを連れて行くことで、士郎とも連絡がとれるからいいじゃない』これがセイバーとアーチャーに言った理由だった。で、その言葉に反応してアーチャーが答えた言葉が『凛、君はサーヴァントを携帯電話か何かと勘違いしていないか』ということだった。が、そんなことを気にする凛ではない。アーチャーを連れ出して外出することとなった。そうして歩くこと数十分。凛は目的の場所に到着した。間桐邸。二百年前この町に移り住んできた。古い魔術師の家系の工房。協力者としてこの土地を譲ったものの、決して交友を持たなかった異分子たる同朋。遠坂と間桐は互いに不可侵であり、無闇に関わってはならぬと盟約によって縛られている。「──────────」それがどうした、と彼女は歩を進めた。互いに関わってはならないのが盟約というのであれば、そんなモノは十一年前に破られている。だいたい盟約を取り交わした者は遥か昔の当主達である。その内容も、理由すらも定かではない決まり事に従うこと二百年。その間、遠坂も間桐も目的である聖杯を手に入れていない。もとより両家の盟約は、“聖杯”を手に入れる事のみで固められたもの。それが今までかなわなかった以上、こんな古臭い決まりに従う道理はない。呼び鈴も押さず、玄関から押し入る。彼女は客として来訪したのではない。あくまで一人のマスターとして、聖杯戦争の役者として訪れたにすぎなかった。が、長年培った体質はそう簡単に変わらない。苦虫を噛み潰す表情で、凛は間桐邸を探索していく。まずは庭。目ぼしいものが見つからなかったので家に続く玄関戸へ。当然ながら鍵はかかっており、入ることはできない。だが、衛宮邸には桜がいる。彼女が持っていた鍵をくすねて、玄関の扉を開ける。薄暗い玄関。奥へと伸びる廊下の先はやはり暗く、ぼんやりとしか見渡すことができない。「……そっか。父さんの言いつけを破ったのって、これが初めてなんだっけ…?」ぼんやりと呟いた。だが、別段それはどうという事ではなかった。父の教えを破ったことで、大切な何かが壊れた訳でもないのだから。ただ、悔いることがあるとすれば、それは「……馬鹿ね。どうせ破るのなら、もっと早くに押しかければよかったのに」十年以上も我慢し続けた、誰かに対する後悔だった。……その後悔を自分が思うよりも早く思わせたのは『───そもそも家族なんだから一緒の家にいちゃいけない理由なんてない。遠坂とセイバーが反対しても、イリヤは連れて帰るぞ、俺は』一体、どこの誰だったか。ふっ、と鼻で笑って薄暗い家を探索し始める。この家にはもう誰もいない。慎二はイリヤスフィールに殺されたし、妹である桜は現在衛宮邸。ならば、ここには誰も存在しないハズである。そう。『いえ、桜ちゃんのおじいちゃんから電話があったのよ。桜の熱が酷いので二日ほど休ませていただきますって』あの言葉がなければ、そう思い続けただろう。つまり、この家にはその“おじいちゃん”とやらが存在する。「……ここもいたって普通、か。………なら」この家の書庫へと向かう。間取りはまだ把握していないが、ここが魔術師の家である以上、それは必ず存在する。「……その必ずが全くなかった家に、私はいるんだけどね、今」小さくぼやきながら廊下を歩いていく。この家は明るく、温かでどこか安心できる衛宮邸とは打って変わり、暗く、冷たい家。しかし、あるいはこれが魔術師の家として普通なのかもしれない。ここまで暗いわけではないが、遠坂の家も似たようなもの。いや、あの衛宮邸こそが、魔術師の家として可笑しいのだろう。あそこまで開放的な魔術師の家は世界中、どこを探してもあそこにしか存在しないと断言できる。「……ホント、とことんイレギュラーね、そう考えると」ぎぃ、と重苦しい音を立てながら扉を開ける。見渡す限りの本、本、本。一端の図書館並みに本が並んであるが、その本のほとんどが一般人向けではない。その中から適当に手にとって中身を見ていると、同じく家の中を探索していたアーチャーから言葉がかけられた。「───凛。屋敷の間取りだが……空白部分が二つある」「え? どこよそれ、一階?」現れたアーチャーに視線をやる。それに首を振ったアーチャーは「二階からだ。階段にしては狭いが、恐らく地下に通じている」「……オーケー。じゃあ行きましょう。……油断はしないようにね、アーチャー」「そういう君もだ、凛。一応マスターという関係ではないのだ、離れないようにな」───姿こそ見えないが、凛のすぐ後ろには赤い騎士が付き添っている。戦闘に備えて連れてきたのだ。それで言うならばセイバーの方が戦闘力はあるだろうが、先ほどの携帯電話の件といい、そして戦闘スタイルといいアーチャーの方がいいと踏んだ。セイバーは霊体化できない。それはセイバーのマスターになってから気付いたもの。加えてこの室内で戦闘するとなると、剣を振るう彼女より、変幻自在な宝具の投擲を行えるアーチャーの方が臨機応変に対応できる。さらに特筆すると、アーチャーは何かと細かいことに気が回る性質のようでもある。屋敷を一回りしただけで、設計図を思い描き、本来なければおかしい部屋がないのを指摘する。凛も薄々気がついてはいたが、アーチャーは物の設計、構造を把握する能力に、騎士とは思えないほど特化しているらしい。指示された場所へと向かい、隠し通路へと向かう。アーチャーのそれとしてはおかしい長所ではあるが、或いはこのアーチャーが“彼”だと言うのであれば、頷けるかもしれない。学校の結界を容易く見破った“彼”であるのならば………。「凛、着いたぞ。私が先行しよう。…………開くぞ」魔術回路に魔力を満たし、何が来ても即座に対応できるように身構える。実体化したアーチャーが扉を開け、中に一歩踏み込んだ。それにつられ入ろうとした凛だが、二人の足は完全に停止した。そこに会話はない。開けた壁。ぱっくりと口をあけた地下への通路から、湿った空気が漏れてくる。それはとても耐えがたいほどの腐臭だった。鼻を服で覆いながら、ゆっくりと地下へと下りて行く。「……この服、もうダメね。士郎ン家に帰る前に家に寄って、別の服を着て帰るか……」この臭いは好きじゃない。そしてその臭いが染みついたこの服を着る気にもなれなかった。衛宮邸には人がいる。その中でこの腐臭がついた服を着たくはなかった。湿った石畳に下りる。周囲は緑色の闇だった。無数に開いた穴は死者を埋葬する為の物だろう。石の棺に納められた遺体は腐り、風化し、穴は伽藍洞のまま、次なる亡骸を求めている。その在り方は地上の埋葬と酷似している。ただ、その腐り落ちる過程が決定的に異なる。ここでは遺体を分解する役割は土ではなく、無数に蠢く蟲たちに与えられていた。「ここが間桐─────マキリの修練場……ってワケ─────」呟いて、目眩がした。嫌悪や悪寒からではない。凛を戦慄させ、後悔させ、嘔吐させたのは怒りだった。これが修練場。こんなものが修練場。この、腐った水気と立ち込める死臭、有象無象の蠢く蟲たちしかいない空間が、間桐の後継者に与えられた“部屋”だった。「──────────っ」ぐちゅり、と何かを踏みつけた。こんなもの─────こんな所で一体何を学ぶというのか。ここにあるのは、ただ飼育するものだけだ。蟲を飼う。蟲を増やす。蟲を鍛えて、蟲を使う。それと同じように、間桐の人間はこの蟲達によって後継ぎを仕込み、後継ぎを鞭打ち、後継ぎを飼育して─────使うのだろう。───それは、自分とどれほど異なる世界だったのか。冷徹な教え、課題の困難さ、刻まれた魔術刻印の痛み。そういった“後継者”としての厳しさを比べているのではない。そも、背負った苦悩、越えねばならなかった壁で言うのならば、凛自身が乗り越えてきた障害とて他に類を見ない。乗り越えてきた厳しさと困難さでは、間違いなく遠坂 凛に分があるだろう。それ故の五大元素使い……アベレージ・ワンと呼ばれる、魔術協会が特待生として迎え入れようとするほどの若き天才魔術師だ。この部屋に巣食う蟲どもを統率しろ、と言われたならば、凛なら半年でより優れた術式を組み上げる。そう、必ず。間桐の後継者が十年かけてまだ習得できない魔術を、凛ならば半年で書き換えることができるのだ。だが─────その愚鈍な学習方法。術者を蟲どもへの慰みものにするという方式に耐えられたかと問われたならば、凛は言葉を飲むしかない。ここで行われる魔術の継承は、学習ではなく拷問。頭脳ではなく肉体そのものに直接教え込む魔術。それがマキリの継承法であり、あの教師が言っていた“おじいちゃん”。……すなわち“間桐 臓硯”という老魔術師の嗜好なのだ。故に。間桐の後継者に選ばれるという事は、終わりのない責め苦を負わされるという事である。「ああ、本当に腹が立つ。─────本当に……最低ね」瞳を瞑り、歯を食い縛る。ぎり、という音はこの世界を壊すかのように聞こえてくる。その後に聞こえる声は「間桐、臓硯…………」呪いの声そのものだった。アーチャーは干将莫邪を具現化し、凛の傍に構える。凛が睨んだだけで殺そうとしているその場所に。「カカカ………、よもや遠坂の才媛がここに来ようとはな」妖怪がいた。◆「まさかあそこまで回復してるとは思わなかった………」お見舞い品を手渡しに行った際、最初は素直に喜んでいたので元気そうだなぁと思いつつ近づいたら『何で昨日こなかったのよぉう!!』と、首に腕を回され締め上げられた。びっくり仰天、その力は病人か? と聞きたくなるほどに回復していた。慌てて抜け出そうとするも抜け出せず、苦しくなってきたので腕を叩いてギブアップ。『ふっ……藤ねぇ、病人なんだからもっと病人らしくだな……!』『病人? なんのことかなぁ、先生はこのとおりぴんしゃんしてるわよ』聞けばご飯をおかわりするほどだという。少しでも心配した俺が馬鹿だった、とちょっと本気で思ってしまった士郎。『まあ、それでこそ藤ねぇっていうか、なんというか』『む、もしかして士郎まで馬鹿にしてる? ここのお医者さん、なんて言ったと思う!?』『知るか。けど、何となく予想はつくぞ、俺は』『藤村さんは稀に見る健康体ですから、寧ろ献血でもしていったらどうですかフハハハハ─────だよ!? ええい、あたしだって病人だって言うのっ。ああもう、次からはここになんてこないんだからー!』『おーい、藤ねぇ? それ、言ってておかしいと思わないか? 一応病人だからここにいるわけで、ここにいる一方で藤ねぇは元気すぎるっていう話だろ?』つまりいい意味での皮肉。一応医者は病人として扱っているけれど、この虎はそれを感じさせないほど元気なのでそう言っただけにすぎない。『む?………えーっと?』『いや、いい。考えなくていいぞ、藤ねぇ。…で、退院までにはあとどれくらいなんだ? 今日か?』『今日は流石にないわよ。少なくともあと1・2日は様子みようって』『そうか。ここの看護師さんにはあと1・2日は同情する必要があるってワケだ』『むっ、士郎。それ、どういう意味?』『さぁ、どういう意味でしょう。判ったなら大人しくしてること。ちなみに判らなくとも大人しくしてること、いいな?』適当に買ってきたリンゴの皮を剥いて、虎に餌をやる。一成たちにも会いに行くと言って病室を後にし、同じ病院内にいる顔見知り達に挨拶しにいった。流石に大河ほどの元気はなかったが、全員命に別状はなく元気そうだった。「お見舞いは終わったし……次は」ここからは見えないが、山の方へと目をやる。教会。黒い影、ギルガメッシュ。聞くことはある。「行くか」自転車に跨り、ペダルを扱ぎ始める。坂道は自転車にはつらいが、前へと進んでいく。─────第三節 真実─────教会。ここに来るまでの坂は自転車では流石にきつかった。話を聞くのに息が絶え絶えになるというのも避けたかったので、途中からは降りて自転車を押すことにした。「……けど、ここは多分何度来ても慣れないだろうな」他を威圧するかのようにそびえたつ教会。だが威圧されているようではいけない。気合いを入れて、教会の扉を開いた。大きな礼拝堂。そこに神父の姿があった。その神父はまるで来るのが判っていたかのように、「おや、どうした衛宮士郎。進退窮まって神に祈る、などと殊勝な男だとは思わなかったが、宗旨変えかな」と、やはり皮肉たっぷりで出迎えてきた。いちいちこの神父の嫌味に付き合っていると疲れるので「────ふざけろ。今日は聞きたい事があったから来たんだ。じゃなきゃ、頼まれたってここにくるもんか」「それは結構。私も暇ではないのでね、簡単に懐かれても困る。……聖杯戦争の事ならば昼間のここで行うべき会話ではない。ついてこい、奥で話をしよう」礼拝堂の奥にある扉へと向かい、その奥へと消えて行く綺礼。ここまで来た以上は何もせずに帰るわけにはいかない。雰囲気に威圧されないように、気合いを維持させたまま、教会の奥へと向かった。「……外も凄かったけど、中も凝ってるっていうか………」礼拝堂の奥の扉を抜け、少し歩くと中庭が見えてきた。あの神父一人が住むにしてはあまりにも立派な庭園と渡り廊下が広がっている。「何をしている。話をするというのならこちらに来い」神父は何個めかの曲がり角を進んでいく。教会は想像通り……よりも少し大きく、ちょっとした迷路だった。まさかここで迷う訳にもいかない以上、今は大人しく神父についていくしかなかった。見失わないように後ろについていき、扉を開けた。案内された部屋は、質素な石造りの部屋だった。あの礼拝堂や中庭の優雅さとはかけ離れたここが、この神父の私室らしい。ライトは昼白色の蛍光ランプではなく、白熱ランプの色合い。窓から日の光も射し込んでいるが、外部からの侵入を防ぐ柵が取り付けられているため、少しばかり暗い。部屋の中央にはソファーとテーブルがあり、しっかりと整理されている。「持てなす物のひとつもないが、許せ」ずっしりとソファーに身を預けながら、神父はそう言ってきた。微かに匂うのはワインの香り。匂いが部屋に染みつくぐらいなのだから、相当の好き者なのだろう。神父が座ったソファーと対面するソファーに座り、一息つく。どう切り出していいものか、と思案する士郎だったが「どうした、話があるのではなかったのかね。そこで考え込まれても困るだけなのだが」「……どう言い出していいか迷っただけだ。……いいよ、じゃあ単刀直入に聞く」「それはなにより。回りくどい言葉を衛宮士郎から聞かされて喜ぶような趣味は持ち合わせていないのでな」はぁ、と小さく息を吐き神父の顔を見る。訊くべきことは……「……どれも普通じゃないモノだ。けど、アンタなら。監督役であるアンタなら知ってるかもしれないと踏んでここに来た」「だろうな。……でなければ、私になど訊かず、凛にでも訊ねればよいだけの話だからな」「まず、街に現れた『黒い影』について知ってるよな? 俺が氷室と美綴を保護したのを知ってるくらいだ。寧ろ知っていなきゃおかしい」「ああ、知っている。柳洞寺より現れ、街の住民を際限なく、無差別に食している影の事だろう。……それで、何が訊きたい」「……アンタはあれについて、何か知っているか? あれの正体、もしくはあれの目的」神父に問いただす。何かを知っているとは限らないが、何も知らないとも限らない。もしかすると過去の聖杯戦争において何らかの情報が残っているのかもしれない。「結論から言おうか」しばらく考え込むように黙っていた神父はゆっくりと言葉を紡いだ。その答えは「あれの正体、あれの目的。……完全にこそ判ってはいないが、ある程度の事ならば推測できる。……そして、それを操っているであろう後ろの存在も」士郎の想定していた解答よりも上をいく答えだった。「本当か……!?」「ああ、本当だとも。私は神父だぞ? 嘘などつくものか」その言葉にはあまり同意したくはなかったが、この際スルー。監督役が知っているであろう事を訊きだす。「まず、話す前に知っておかねばならないことがある」「知っておかなければいけないこと……?」「事の起こりは前回の聖杯戦争だ。十年前の火災、それが聖杯戦争による爪痕だということはもう教えただろう。アレはな、聖杯が破壊されたことによって起きた火災だ。……ここまではいいかな」「……ああ」昨夜、セイバーから聞き及んでいる。セイバーが衛宮切嗣の命令によって聖杯を破壊したこと。前回の聖杯戦争の結末が、あの火災だということ。「驚かないのだな。もう少し驚くものだと思っていたが?」「……話の本命はそこじゃないんだろ。いいから話を進めてくれ」「───ふ、そうだな。では続きといく前に一つ問おう。そも、聖杯の中身は何だと思うかな、衛宮士郎」「?……そりゃあ、アンタも言ってた『あらゆる願望をかなえる万能の窯』なん───」言いかけて、ふと止まった。それは窯であり、つまりは聖杯のこと。では聖杯の中身は?「聖杯の中身は膨大な魔力だ。その魔力は一魔術師からしてみれば、天地がひっくり返ったところで手に入る事のない量の魔力。故に、一魔術師がそれを手に入れさえすれば実現不可能な魔術などない、文字通り“あらゆる願望をかなえる万能の窯”……といったところだ」「聖杯の中身が膨大な魔力……?」「そうだ。だが膨大な魔力であれこそ、それは無色だ。願いを叶えるのに別の色が混ざっていては、勝利者の願う色には変わらないだろう?……赤と青の絵の具を混ぜ紫にしようとしているのに、そこに黄色が混ざれば紫にはなりえない。これと同じだ」「……つまり、聖杯の中身は“何色にも染まっていない膨大な魔力”ってことか」「理解が早くて助かる。そういうことだ。………では、再び質問だ。ではなぜ、“前回の聖杯戦争であの火災は起きたのだ?”」「え………?」神父の問いかけに再び考え込む。なぜあの火災が起きたのか。それは今まで“聖杯戦争が起きたから”という理由で片付けていた。が、この神父の口ぶりからしてそうではないらしい。「仮に、聖杯戦争が起きただけであの火災が発生したというのであれば───この街はすでに火の海だ。しかしそうなっていない。……つまりあの火災が起きたのにはしっかりとした理由がある」「理由……?」「そう。それこそが先ほどの前提として置いた事だ、衛宮士郎」神父がこの話をするにあたって最初に話した内容。それは。「………聖杯が破壊された」「───続けよう。つまり、聖杯が破壊されたことによってあの火災は発生した、ということだ。……が、しかしだ。聖杯が破壊されたからと言ってあの火災は本来起きない。なぜならば、聖杯は火薬物ではない。火花を散らしただけで爆発し、燃え上がるような代物ではないのだ。破壊されたならば崩れ、カタチを失うだけで終わる。故に聖杯は何度も作られる。これが“第五次”まで聖杯戦争が続けていられる理由だ」神父は目を瞑り、そしてまた開ける。士郎の顔をしっかりと捉え、言葉を紡ぐ。「だが、聖杯の中に蓄えられた“魔力”は別だ。……器が破壊されたならば中身はこぼれ出るしかない。───つまり」「聖杯に蓄えられた“魔力”があの火災を引き起こした原因だっていうのか……!?」辿り着いた事実に驚愕する士郎。だが、神父はそれに息を吐いて笑い、ストップをかけた。「待て、衛宮士郎。その結論に至るのは早計だぞ。先ほども言った筈だ、『無色である』と。無色である以上、火災を引き起こすような事はない。目的のない力は、目的のないまま霧散するものだろう」「……そういう、モノなのか……?」ならばどうして、漏れた魔力が火災を引き起こしたのか。無色だと言うならば、神父の言う通り………?「まさか、その魔力がすでに色を持っていたっていうのか………!?」「……御名答。そういうことだ。目的のない無色の魔力は、火災を引き起こし、人を殺めるということなどない。だが、その魔力が“人を殺す”という色を持って流れ出したというのであれば、その限りではないだろう」「つまり、聖杯を手に入れた奴が……そう願ったってことか……!」ぎり、と歯を食い縛る。あれが誰かが望んだ結果によるものだとするのであれば、到底許されることではない。だが、神父が発した言葉は別のものだった。「いや、言った筈だ。“聖杯は破壊された”と。……破壊されたというのに、どうして誰かの願いを叶えることができよう」「え……? けど、“火災が起きた”っていう事実はあるんだから、結局望まれたから起きた火災だろ。じゃないと変だ、矛盾する。願いを叶える魔力は無色で、願われない限り何かをすることはない。けど、その願い手がいないんじゃ、願いは起きない。だけど実際火災は起きている。なら───」「……そう、願われたからあの火災は起きた。だが、前回の聖杯戦争では聖杯を手に入れた者はいない。故に願い手は存在しない。……この矛盾。これこそが、お前が言った影へと繋がっていくのだ、衛宮士郎」◆「……にしても、アンタがここに残っているなんて思わなかったわ、臓硯。てっきり逃げ出したかと思ったのだけど?」そう言葉に出しつつ、ポケットより大量の宝石を取り出す。何か妙な反応を示すと即座に起動させて、爆撃する。その準備だった。「カカカ……、生憎とここはワシの家なのでな。どちらかと言えば、ここに逃げてくるものではないか?」「ええ、ここにしか逃げてくる先がない奴ならそうでしょうね。自分の工房なんですもの。これ以上安心な場所はそうないでしょ」一歩前へ歩み出る。ぐちゃ、と嫌な音がしたが今の凛には何も聞こえない。目の前にいるしわくちゃの老人を倒すことしか脳内に存在しない。「ほう、それを判っていながらここに足を踏み入れたか、遠坂の小娘。勇猛果敢なことじゃの」「お褒めいただきありがとう。あんたに褒められたってヘドしか出ないわよ、クソ爺」また一歩、前へと歩み出る。この宝石の爆撃範囲まであと二歩。そこまで近づいたら一気に消失させる。「ふむ。───して、ここに何の用か。遠坂の才媛たろう者が、ここに用なく訪れるとは思えんのだが。慎二はバーサーカーによって殺され、桜は衛宮の子倅の家にいる。……ここに用はあるのかな」「しらばっくれてんじゃないわよ、この蟲」ぐちゃっ! と音を立てて足元にいた蟲を踏みつぶした。腐臭が依然として漂っているが、もはやそれすらも気にしない。あと一歩。それですべてが終わる。「何をそこまで憤っておるのか。ここがどのような部屋であろうと、小娘には関係ない話」「私もこんな家に興味はなかったし、関心もなかった。けどね……、桜がここで何かをされていたっていうなら話は別よ。そして、それにアンタが関わっていたっていうのも明白」慎二は魔術を使うことはできず、慎二の親はこの家にいない。ならば、桜が魔術師として生きる為の教育を施したのは目の前にいる老人しかありえない。そして、その教育というのが。「ここの家の調査と、………間桐臓硯。アンタをぶちのめしにきたのよ!」そう言って一歩を踏み出す。後はこの宝石をばら撒くだけ。それだけでこの老体は吹き飛ぶ。だが───「───そうか。ならば………おぬしが死ね、遠坂の小娘」ヒュッ、と。凛の頭上から攻撃するよりも早く、短剣が降り注いできた。◆「影に繋がる……? どういうことだ、言峰」「前回の聖杯戦争に願い手はいなかった。にも関わらず、人を殺すという願いが発生した。となれば、言えることは一つ。聖杯の中には『人間を殺すもの』がいる。そうでなければ説明はつかんだろう」「な──────」人間を殺すもの。それが聖杯の中に居て、願い手のいなかった聖杯に願いを託した、とでもいうのだろうか?「──────……………」視界が軋む。そんな馬鹿げたモノがいる筈がないと否定しようとして。けれどそれを、士郎は十年前に見上げていたのではなかっただろうか。「っ───それこそおかしいだろ!聖杯の力が無色の色だって言うなら、初めから『人間を殺す』なんて、目的を持ったモノがある筈がない!」「ああ。それは本来あってはならぬもの、作られるはずのない矛盾だ。───だが、確かにソレは聖杯の中に潜んでいる。十年前の聖杯戦争。その時点で、聖杯の中身は“ナニカ”に汚染されていた。無色の筈の力は、あらゆる解釈をもって人間を殺す方向性を持った『渦』になっていたとするならば。………あの火災は起きることは必然だっただろう」言葉が出ない。聖杯の中に潜む“ナニカ”がいた所為で聖杯は人を殺すという方向性に動き、あの火災を引き起こした。そう言われて即座に『はい、そうですか』と言えるわけがない。「……そして、聖杯の中にあるその膨大な魔力。その正体……それが何であるかは知っているか、衛宮士郎」「………知らない。何なんだ、一体───」「“サーヴァント”だ。……疑問には思わなかったか? サーヴァントが消失し、どこに行ったのか、と。……フ、無論サーヴァントだけの魔力ではないが、そこは論点ではないから置いておくとしよう」バーサーカーが目の前で消えて行く姿を幻視した。確かに消えて行くさまを見届けはしたが、その後どこに行ったかなどと考える余地も、余裕も、その思考さえもなかった。「例え幼子であったとしても人間は魔力を持つ。それは生命という名前の魔力だ。それがサーヴァントとなれば別格。サーヴァント1体で何万、何十万人という人間分の魔力が手に入る。純粋で無色の魔力が、だ」「……まさ、か……」「そうだ。“サーヴァントが最後の1体になるまで聖杯は現れない”というルール。それは“最後の一体になるまで戦わなければ魔術師が望むような万能の窯にはなりえない”ということだ」「──────」揺れる。視界が揺れる。では、セイバーは、アーチャーは。魔術師が望むためのただの生贄ということになるのではないか、と。「案ずるな。……確かに聖杯にサーヴァントは取りこまれる。が、セイバーやアーチャーと言った“存在”は元いた“座”へと戻る。何も“座”にいた者が消えてしまうワケではない」まるで心の中を見抜いたかのように神父は語りかけてくる。或いは、士郎の表情がそれを容易にさせているのではないか、という可能性もあったが。「皮肉な話だ。穢れなき最高純度の魂をくべる杯。そこに一粒の毒が混ざった程度で、穢れなきモノは全て変色した。なにしろ無色だからな。どれほど深遠で広大だろうと、たった一人の、色のついた異分子には敵わなかったという訳だ」「異分子って……じゃあ、それが聖杯の中身を変色させた原因だっていうのか?」「恐らくな。三度目の儀式のおり、アインツベルンは喚んではならぬモノを召喚した。その結果、聖杯戦争という儀式に不純物が混入した。三度目から四度目の間。五十年という歳月をかけて聖杯の中で出産を待った不純物は、しかし外界へと出ることは叶わなかった」喚んではならぬモノ。それが全ての元凶。それは一体何なのか。「さて、話を戻そう。黒い影は一体何なのか、ということだったな。衛宮士郎、お前はあの影についてどれだけ知っている?」「キャスターがあの黒い影の味方をしていた。けど、何か前みたのとは違ったような……。それと、あの黒い影は人を襲って魔力を奪っている、くらいか」「それが判っているならば、後は先ほど述べた事を組み合わせれば、大体の予想はつくだろう。キャスター……すなわちサーヴァントとは膨大な魔力を持った高純度の魂。そしてその黒い影は魔力を集めている。……そら、まるで聖杯の様じゃないか」「聖杯……だって……!?」「聖杯とて視点を変えれば“魔力を集めている器”だ。あの黒い影もまた人、サーヴァントを襲い魔力を集めている。違うとすれば“人を襲う”か“襲わない”かの違いだ。そして、この“人を襲う”という黒い影。……先ほども話した。最早予想はついているだろう」手が僅かに震える。まさか、という言葉が出てきたが、しかしそれを否定するだけのモノを士郎は思い浮かばない。「あの黒い影の正体は……聖杯の、人を殺すっていう“ナニカ”なのか、言峰!」「これが、私が推測した黒い影の正体だ。……が、おかしいとは思わないか、衛宮士郎。もし仮にそれが聖杯の中身だとするならば、それは十年前に現れてもおかしくはなかった。にも関わらず起きたのは単純な火災。影が発生し、人を殺めたという事実はどこにもない」混乱する。この神父はイチイチ回りくどい。つまり、どういうことだというのか。「そも、聖杯の中にくべられるのは魔力。それが黒く染まろうと聖杯の中身は純粋な“力”の渦にすぎない。中にあるものは方向性を持った魔力だ。『人を殺す』という方向性をもった、それだけに特化した呪いの渦。人間の悪性のみを具現した混ざり気のない魔」「──────それは」「ならばあの黒き影は何なのか。カタチを持たぬ力と同じモノが別として存在しているのか。……答えは否、だ。アレほどのものが複数として存在などしないだろう。つまり」「……カタチのない“力の渦”がカタチを持ったモノ……、それがあの黒い影ってか……」「その通り。これこそが、次に生まれる矛盾。本来カタチ無きモノが影というカタチを得て現界し、人やサーヴァントを食らう現象として存在する、この矛盾こそが。……次へと繋がる」◆キィン!! という甲高い音と共に短剣ダークは弾かれた。一瞬、ほんのわずかに感じ取れた殺気から、凛へと落ちる攻撃をアーチャーが防いだのだ。「アーチャー、助かった。ありがと」「カカカ……、サーヴァントに救われたな、遠坂の小娘。じゃが、言った筈。……ここはワシの工房だと。この闇から逃れることはできんぞ」ぞわり、と足元が蠢く。蟲。教われたら最後、体の隅々まで食いちぎられるであろうその蟲を見て、しかし凛は動じない。「……確かに、周囲が闇だっていうならアサシンにとっては有利でしょうね。気配を消して、死角から攻撃すればいいだけだもの。気配遮断のスキルもあるからそう簡単に位置を特定することもできないし」けどね、と凛は言う。後ろにいるサーヴァント、アーチャー。彼女は彼の戦闘方法を知っている。手に剣を持つ方法以外での戦闘方法を。「逃げ場なんてあたえなきゃいいのよ。気配を消してようが関係ない。逃げる場所がなかったら気配消したって意味ないんだからね。……だから」“────Anfangセット”“────I am the bone of my sword”アーチャーが呪文を紡ぐ。凛が宝石に魔力を注ぎ込む。「ここら一帯、全部焼き払ってあげるわよ!」手に持つ宝石が光り輝く。アーチャーと凛の周囲を投影した剣群が宙を漂う。そして────「Funf五番 Drei三番 Vier四番………!Der Riese und brennt das ein Ende終局、炎の剣、相乗────!」「停止解凍フリーズ・アウト、全投影一斉射撃ソードバレルフルオープン────!」一点凝縮出来るハズの弾丸を散弾のように放ち、弾けた魔力が色を得て赤い炎を形作り、禁呪とされる相乗の力を以って膨れ上がり闇色の蟲倉を蹂躙する。対するアーチャーも、この部屋全面に剣の嵐を巻き起こす。まさしく蹂躙。彼女達がいる一点から、波状攻撃がこの部屋全体へと加えられていく。鼓膜を破きかねない爆音と、視界を染める赤が一気に生まれる。広大な地下工房を残らず包囲蹂躙する炎の渦。数の暴力であり一匹一匹の力など高が知れている蟲など、この炎に焼かれればたちどころに死滅する。広大な地下工房を隙間なく刺殺していく剣の雨。数の暴力を以ってして、天井、壁、床、あらゆる場所を串刺しにしていく。間桐の家が大きく揺らぐ。セイバーとて十分な戦力になりえただろうが、この戦術は使えない。これは、凛とアーチャーだからこそできた広範囲攻撃である。◆「己が誕生。無から有に至る為に必要なモノ。それは“カタチ”。だが、力にカタチはない。ならばとれる方法として二つある。一つはその力そのものがカタチを得る事。もう一つは別の誰かにその力を受け渡すこと。……そうすることでこのチカラはカタチを得ることができる。……だが、もとより肉体を持たない“力”だ。人間として肉を持つ必要などない。誰かがその力を継承するだけで、それはこの世に存在するということになる」「………? なんでだよ。確かに力は存在するだろうけど、受け渡したら、その誰かのモノになるだろ。なら、人を殺すっていう目的には────」「つまり、その誰かが御し得ることができれば、と? 浅はかだな、衛宮士郎。一体誰が御し得るというのだ。聖杯の中身を、この世に生きる誰が御し得ると?」「っ………」「だが、確かにそうだろう。もし仮に御し得る者が手に入れたのであれば、“人を殺す”という目的を持った力は行使されない。だが、御し得ぬ者がそれを受け取った場合……、その時こそ聖杯の中身はこの世に誕生する。マスターとサーヴァントの関係と同じだ」一体どれだけ時間がたっただろうか。もしかしたら昼を過ぎているかもしれない。この部屋に時計らしきモノが見当たらないので時間が判らない。しかし、今はそれ以上にこの話の内容を注意深く聞く必要がある。黒い影の正体。その詳細。それが一体どういうことを意味するのか。「それがあの黒い影だ。……だが、アレは依り代となった人間に浸透することで誕生しようとしている魔。故に───あの黒い影は聖杯の中身などではない。依り代となった者への力の浸食……、その結果があの黒い影となる」「────────」息を今一度整える。今まで説明されてきた内容をゆっくりと、まとめていく。一つ一つ、取りこぼさずに確実に。「では次なる問いだ。その依り代……一体何を以ってして依り代たりえるのか。普通に生きる一般人がある日突然に依り代になる……などはありえない。仮にも聖杯の中身。それ相応の依り代でなければならない」「相応の……依り代」「そうだ。通常ならば用意された正規の聖杯が妥当だろう。……だが、正規とは正規たりえるモノ。異物が混入したモノを正規品の聖杯が受け入れた所で、力の継承など起きることはない。イレギュラーを受け止めるのはイレギュラーのみ。故に、此度の聖杯戦争のために用意された正規の聖杯ではない、ということだ」「………別の誰かが、聖杯の中身の力を継承できるイレギュラーを用意した……ってことか。けど、どうやって」神父の表情に変化はない。だが、奥底まではわからない。「それこそが、前回の聖杯戦争へと繋がるのだ、衛宮士郎。前回の聖杯戦争で汚染された聖杯は破壊された。その際に出たであろう汚染された聖杯の破片。それをその場にいた魔術師が拾っていたとするならば? そしてその破片を孫たる者に埋め込み、教育してやれば?………教育次第ではあるが、イレギュラーを受け止めることができるイレギュラーの聖杯へと変貌するのではないかな」「拾って……教育? それに孫って……?」「なに、ここまでくればもはや答えは近い。その前回の聖杯戦争で“触覚”たる破片を手に入れた者こそが、此度の元凶だ。……その者の正体。その者こそが、あの黒い影の裏で暗躍する人間だよ、衛宮士郎」「その……ソイツの正体を知ってるのか、言峰……!?」もはや息すらするのを忘れるほどに、目の前の神父に問いただす。その人物の名を忘れないようにしっかりと。「ああ、知っているとも。その魔術師の名前は、お前も苗字くらいは聞き覚えがある筈だ。………名を『間桐 臓硯』。間桐家の祖父として存在する、老魔術師だ」「間桐……臓硯……? 祖父……?」思考が今一度停止した。間桐。マトウ。先ほどの神父の言葉。『そしてその破片を孫たる者に埋め込み、教育してやれば?』孫。孫とは一体誰か。間桐。孫。一体────「凛から聞いていないか? 間桐慎二は魔術師ではない。アレは魔術回路が閉じてしまった魔術師もどき。……ならば、孫と言える存在は一人しかいないだろう、衛宮士郎」「ま……待て────待ってくれ言峰。じゃ……、じゃあなんだ」腕が震える。止めようとしても止まらない。声もどこか震えている。「その……汚染された聖杯の破片を埋め込まれて、その……“人を殺すモノ”の力を継承しているのって………っ」「加えるならば、その継承によって影になっている者……そう、それこそ。今、お前が保護している人物……『間桐 桜』だ」「────────」思考が止まった。時間が止まった。身体が止まった。呼吸が止まった。視界が止まった。告げられた真実。逃げようにも逃げられない事実。今まで話してきた話。それはこの事実から逃れるための外堀をゆっくりと埋めていたのだ。故に逃れることもできず、否定する材料すら見当たらない。汚染された聖杯の欠片を埋め込まれたのは間桐臓硯の孫。慎二は死んでおり、桜しかいない。その欠片を埋め込まれた桜は力を継承し、人を殺す影となっている。それは、あの影を殺せばその下から桜が現れるという事。「は────────、 あ」心臓が止まるかと錯覚した。強く、肉を抉るほど胸を押さえて、消えていた呼吸を再開させる。揺れる視界を何とか押さえつけて、神父に尋ねる。「……桜は……桜は、助けられないのか……?」御し得る事が出来たなら、黒い影は現れない。けれど、聖杯の中身を御し得ることができるほど桜はきっと強くない。人を殺す力を継承されれば、黒い影となる。ならば、その継承を阻止すれば、黒い影とはならないのではないか。いや、その桜の中にある欠片とやらを取り除けば、救えるのではないか。「助ける、か。………なにをいまさら偉そうに、どの口が言うというのだ、衛宮士郎」「────────────」止まった。次は完全に心臓が停止した。体の温度全てが無くなったかのような錯覚に陥った。「間桐桜は十年前の聖杯戦争より、此度の黒き聖杯に至るために教育され続けてきたはずだ。……教育、とは言ったが受けたのは拷問に等しい行為だろう。なにせ聖杯の中身を受け止めようというのだ。知識などを優先させるよりも、まずは肉体がその苦痛を耐えられるような肉体改造をされたに違うまい。間桐桜はお前が思うような乙女ではなく魔女だったということだ」「────────────」「それを貴様は見抜けたか? 少女が苦しんでいるということに気付いたか? 答えは否だ。そうだろう? でなければ、もっと結果は変わっていただろうからな」士郎は答えない。一緒に過ごしてきた時間は長かった。だというのに、助ける事などできなかった。「恐らくは、間桐桜はお前に知られまいとしながら、常に救いを求めていた筈だ。それに気づかなかった男に、彼女を想う資格はない」そう、気づかなかった。何も気づかなかった。いや、気づくべきだった。チャンスはあった。桜が家に泊まる際、かなり喜んでいた。それはつまり言い換えれば、家に帰りたくなかったのではないか。それはつまり、家に帰ればその拷問とやらが待っていたのではないか。だから、彼女はあの時喜んだ。それに対して、何も疑問を持たなかった。「黒い影が現れたと言う時点で、力の継承は進んでいる。つまり……例えこの聖杯戦争が終結しようとも、間桐桜は黒い影のそのものだという事だ」追撃とも言える言葉を受け、何も見えなくなる。どうればいい、どうすればいい、どうすればいい。「じゃあ……助ける、方法は……」「資格がない、と言ったハズだが?」「……判ってる。俺は……お前の言う通り最悪な奴だろう。だけど……それでも、前に進まなくちゃいけない……!失った過去は……元に戻らない。なら、今からでも助ければ!」「滑稽だな。今から助けて罪滅ぼしか? それで許しを得ようと?」「そんなんじゃない。桜が助けを求めているってわかったなら助ける。そんなの、当たり前だ……!」「当たり前、か。だが、忘れていないか? あの黒い影……つまり、間桐桜は人を殺している。大量にな。それを、正義の味方たるお前は許すというのか?」「それは桜が悪いわけじゃ………!」「事の善悪を説いているのではない。責任の所在を説いているのだ。“間桐桜は人を殺したが、被害者だ。だから間桐桜は悪くない。だからその間桐桜が手にかけた人間が死んだのも仕方がない。だから間桐桜には何の責任もない”と、いうのか?」「─────っ!そんなの、今はわからない。けど、今は………!」「今は先に助けることを優先する、か。お前がそれでいいというのであれば、私から何かを言うつもりはない」空気が少しだけ変わる。それは神父が、身に纏った重圧をさらに増したことによるものだった。「しかし、それよりも先にしておかなければいけないことがある」「しておかなければいけないこと……?」「そうだ。間桐桜が黒き聖杯となった原因。間桐桜がそうなってしまった元凶。……それを潰さぬ限り、どのような手を用いようと無意味に終わる」「………間桐─────臓硯───」今一度、桜の祖父の名前を口にする。全ての元凶がいる限り、例え助けられるものであったとしても、助けることはできない。「……そいつを倒せば、桜を助ける事ができるのか……?」「どうかな。間桐臓硯を倒したところで黒い影は止まらない。間桐臓硯と黒い影は別モノだからな。間桐臓硯を倒そうとしている間にも間桐桜は人を襲う」間桐臓硯を倒したところで黒い影は消えない。しかも黒い影を消そうとしても消すことはできない。仮に消せる手段があったとしても、間桐臓硯を倒さない限りその手段は行使できない。「どちらにせよあの妖怪を倒す必要がある、ということだ。間桐桜が間桐臓硯の操り人形になっているとも限らない。……わかったならば、これ以上の話は止そうか。こうしている間にも間桐桜は刻々と蝕まれている」「─────、─────」目を瞑り、俯いて息をする。何をすべきで何を守るか。何を倒し、何を選ぶのか。選択肢を誤ってはいけない。誤ればきっと取り返しのつかないこととなる。「……衛宮士郎。お前がどのような道を選ぶかは、私にはわからん。だが、もし間桐桜を救うというのであれば覚悟しておけ。“人を殺す力”に分別などない。いずれお前が守ろうとしている者達にも手をあげるだろう」もしその時。もしその時が来てしまったら。「その時、お前は一体どちらを守るのだ?」桜である黒い影が、鐘と綾子に襲いかかったとき。その時。衛宮士郎はどちらを取る?二人を助けるならば、桜を止めなければいけない。どうやって?サーヴァントですら呑み込む影を、魔術師一人が食い止められる道理がない。事実、アインツベルンでは成す術なく倒れた。あの影を止めることはできない。なら、二人を助けるならばどうすればいい?止めることができない、防ぐことができない。逃げる?逃げればきっと助かるだろう。けれど、逃げたところで状況は変わらない。寧ろ問題を先延ばしにしているだけで悪化している。なら─────コロス?ありえない。守るべき対象を殺す。それはあってはならない矛盾。「衛宮士郎。お前がマスターになった理由を覚えているか」歯を噛み締める。神父の言葉は、最後通牒そのもの。「正義の味方……。ならば決断を下せ。自身の理想、その信念を守る為─────自分を殺すかどうかをな」言葉が重くのしかかる。ソファーを立ち上がり、出口へと向かう。「……言峰、一つだけ……訊いていいか」「この際だ。聞いておいてやろう」「……桜を……助ける手段はないのか?」数刻の静寂。士郎は綺礼に背を向けたまま尋ねている。重苦しい空気の中で、神父ははっきりと言った。「聖杯として完成すれば、間桐桜という人格は消え去るだろう。聖杯としての機能に紛い物である間桐桜が耐えられるとは思えんからな。そして人格が消え去ったときこそ、中の“ナニカ”は完全に間桐桜となり外界へと進出する。………だが、聖杯が放る“力”に彼女の精神が少しでも耐えられるなら……その僅かな時間が希望になる」「僅かな……希望」「おそらく、保って数秒。その合間に聖杯を制御し、その力を以って彼女の内部に巣食うものを排除する。要は力ずくだ。間桐桜を聖杯にしたて上げているモノも、彼女の肉体を依り代にしているモノも、聖杯の力で『殺して』しまえばいい。汚染されたとは言え、聖杯は願望器としての機能を保っている。その用途が『殺害』に関することならば、それこそ殺せぬ命はない」「─────聖杯……聖杯、か……結局」「そう、聖杯だ。だが注意しろ。聖杯の力を聖杯そのものに向けるのだ、並大抵の魔術師では魔力を制御できず、しくじれば十年前の惨劇を繰り返すことになる。いや……それだけはない。わずか数秒で聖杯を制御するなど狂気の沙汰だ。どう足掻いても成功する確率は低い。それこそ成しえない奇跡だろう」「……けれど、やるしかない。なら、やってやる。それで助けられるなら………!」「───そうか。ではこちらからも一つ訊こう。万が一その方法で救えたとする。先ほどの話の続きだ。間桐桜が聖杯でなくなったとしても、すでに多くの人間を殺している。その罪人を、おまえは擁護するというのか?」「っ………それ、は」「間桐桜自身、果たしてそのような自分を容認できるのか? 罪を犯し、償えぬまま生き続けるのは辛かろう。ならば一思いに殺してやったほうが幸せではないか? その方が楽であり、奪われた者たちへの謝罪にもなる」連鎖はそれで終わる。本人の意志でなかろうと関係ない。どんな理由があったとしても、加害者は罰せられなくてはならない。命を奪ったのであれば、それと等価のモノを返さなければ、奪われた者は静まらない。それだけではなく、結局桜を救えず、聖杯になってしまえばもうそこで終わってしまう。今よりもっと、何十倍もの命が失われる。あの日と同じ、無関係な人間が、死の意味すらも判らないまま、一方的に、無意味に死んでいく。「…………………けど、それは」「フ……決断を下すのは早めにした方がいいぞ。遅れればそれだけ致命傷になる。………そして、どのような形であれ間桐桜を救うというのならば、先にも言った通り、間桐臓硯は殺しておくべきだ。でなければ、成功率が限りなくゼロに近い救出法とて、ゼロパーセントになってしまう」その言葉をしっかりと耳に焼き付けて、無言でその部屋から出て行こうとする。だが。「ああ、そうだ。もう一つ言っておかねばならないことがある。先ほどの手段で間桐桜を救うというのであれば………間桐桜であるあの影にサーヴァントを呑ませる必要がある」「な………にを……」「当然だろう。イレギュラーはあくまでもイレギュラー。黒い影がサーヴァントを呑まない限り、倒れたサーヴァントは正規の聖杯へとくべられる。つまりそれは黒い聖杯に魔力がくべられることはない、ということだ。そしてそれは……黒き聖杯が完全に完成することはないということ。故に不完全。その状態で先の手段がうまくいくと思うか?」「─────」答えられない。どうなるかなど予想もつかない。「これは私の見解ではあるがな。そうなった場合不完全のまま中のモノが出てくる、と見ている。聖杯としての機能も不十分な状態での聖杯の降臨。……さて、果たしてそれで間桐桜の洗浄は可能か?」可能……とは思えない。聖杯の力で聖杯を壊そうとしているのに、その聖杯の力が不十分では破壊できない可能性がある。そもそも、不完全で聖杯が発生したときどうなるかなど予想ができない。否、或いは。その時こそ、あの日の惨劇が起きてしまうのではないか。そんな予感だけがしてくる。「じゃあ、お前は……!セイバーと、アーチャーを!生贄にしろっていうのか!?」「でなければ、余りにも不確定要素が多すぎてただでさえ奇跡レベルの行動が、それ以上になってしまう、と言っただけだ。……だがそうだな、黒い影にむざむざ差し出すのが嫌だというのであれば別の方法もある」「……別の方法?」「イリヤスフィール・フォン・アインツベルン。……お前が保護している少女。あれの心臓を黒い影に差し出せばいい。そうすれば────」「ふざけるなっ!!!」ガン!! とこれ以上ないほどに力を込めて壁を殴った。右手からは血が流れているが、もはや感覚すらない。「なんでそこでイリヤの名前が出てくるんだ!? イリヤは関係ないだろ!それになんだよ、心臓を渡せって……!」「───お前はイリヤスフィールが何なのか、判って保護していたわけではなかったのか?」ずしり、とソファーにまた背中を預ける綺礼。対する士郎はこの神父が言った言葉にただ訝しげな表情を作るしかできなかった。「イリヤスフィール・フォン・アインツベルン……、彼女こそがアインツベルンが用意した“正規の聖杯”だ。普通に聖杯戦争を行っていた場合、サーヴァントの魔力はイリヤフィールに溜め込まれる。……そして期限とともに聖杯として彼女は機能する」「──────────」言葉が出ない。最早何を言っていいかすらわからない。黒き聖杯が桜であり、正規の聖杯がイリヤだという。これを、今までの話を。全て嘘だ、といって突っぱねてしまいたい。だが、できない。その感覚すら、もう機能していないというのだろうか。ただ、言われたことが真実にしか聞こえなくなってしまっていた。「黒き聖杯に魔力を溜めたいのであれば、そのいずれかだ。セイバー、アーチャーを差し出すか、イリヤスフィールを差し出すか。そうしなければどうなるかはわからない。かといって放置すれば間桐桜は完全に死に、多くの人間を殺すだろう。それはお前が保護した少女二人も例外ではない。………そしてゆっくり考えている時間もない。お前の行動次第で、今後の全てが決まると言っていいだろう」まるで出口のない迷宮に入り込んだかのよう。どこの出口も奈落の底にしか通じていない。歩くたびに制限時間は失われ、出口にたどり着けなくともゲームオーバー。入口に戻ることもできず、どうすればいいかもわからない。「己が理想、己が信念。………一体お前が何を捨て、何を選び、何を殺すのか。それを良く考えて決断を下すのだな、衛宮士郎。君の懸命なる判断を期待している」重い扉を開けて中庭へ出ていく。来た道を戻り、礼拝堂を抜けて外へと出る。桜を助けるためにはイリヤかアーチャー、セイバーを見殺しにしなくてはいけない。見殺しにしたくないと言えば、桜が助からない。桜が助からなければ、氷室と美綴が助からない。…………そこに逃げ道はない。空は曇り空。ポツリポツリと、雨が降り出してくる。朝は布団を干しても大丈夫なほど晴れていたというのに。─────もう、何も見えない◆「………これで終わりか。案外あっけなかったわね」周囲を見渡すが、臓硯らしき人影は見当たらない。アサシンもまたあれ以来攻撃を加えてこなかった。屋敷の地下は大部分が崩れ落ちかけていた。足元に蠢いていた蟲は凛の魔術により一掃。文字通り、ここには何も残っていない。「凛、屋敷が崩れるぞ。ここから出る」「……やりすぎた?」そう言って来た道を登っていく。やりすぎた? と訊きこそしたが、後悔など微塵もない。桜が帰ってくる屋敷がなくなるが、そこの問題はどうとでもなるだろう。「いや、むしろ足りなかっただろう。あの波状攻撃。確かに有効策ではあったが、あの空間がそれに耐えきれなかった。アサシンは霊体化と気配が消せる以上、物をすり抜けることは可能だ。臓硯に関してもあの妖怪のことだ。崩れ落ちてきた部分から逃げることは可能だっただろう」「ほんと? けど、逃げた素振りは見えなかったけど」「それは私も同意だ。……しかし死体はなかった。ああいう妖物はこの目でしっかりと確認しなければ、基本生きていると思って行動したほうが足元をすくわれないで済む」地下室を走り抜ける。あと少しでここより脱出できるというときに、『カカカ……全くもって甘い小娘よのう』蟲の声が聞こえてきた。あからさまに舌打ちをした凛は上りかけた場所から地下を見下ろす。だが、その姿を確認することはできない。「チッ……一体どこに……!」『ほれ、みろ。ここを崩したせいで………“アレ”がおぬしを食おうと動いてきたぞ?』「? アレ……って?」「!? 凛っ!」ヒュン、と投擲される短剣ダーク。それをぎりぎりで確認したアーチャーは、咄嗟に凛を突き飛ばし短剣を身体に受けた。崩れる音と闇、それらがアーチャーの反応を僅かに遅らせてしまったのだ。「アーチャー!」『ほう、この状況下でよくやりおる。……が、失策だった、と伝えておこうか。アーチャー』「何………!?」腕に刺さった短剣を抜き捨てた時だった。瓦礫の隙間から、生まれるように。「え………」アレが浮かび上がっていた。凛が反応したときはすでに遅い。アーチャーも間に合わない。のばされた触手は………─────凛の胸を貫いた。