第30話 幻想はこの手に─────第一節 月下─────彼は布団の上で上半身を起こして、私を抱き止めている。どれくらい経っただろうか。十分くらい………?違う、五分………?まだ三分も経っていない………頭の中がぼぅっとする。私の感覚が麻痺している。見えるのは、温かなヒト。それしか見えなくて───── それだけを見つめている。感じることしかできなくて───── 体を預けている。体に感じる、彼の体が温かい。頭を傾け、彼の胸に預けると、とても落ち着く。落ち着いてから、今まで私は落ち着いていなかったんだと。ひどく不安で、さみしくて、混乱していたんだと、分かった。彼の背へ腕をやって、霞んだ視界を遮る様に瞼を閉じた。目を瞑れば余計に自分の心音が聞こえてくる。胸越しに彼に伝わるんじゃないだろうかと思うくらいに音が聞こえてくる。けれど、今はこうしていたい。この温もりを、できることならば、ずっと感じて居たいとさえ思ってしまう。──ああ、そうだったこの温もりが何時までも欲しかったから、私は私を抱き留めてくれている人と、一緒に居続けたいと願った。何時までも一緒に居たいと願っていたから、居なくなるのを拒んだ。居なくなってしまったから。耐えられなくて、受け入れたくなくて。痛みを、怖さを、苦しみを、悲しみを。受け入れて生きていくのがあまりにも辛かったから。彼が見せてくれていた鮮やかな色の幻がなくなって、彼がいなくなった世界は色褪せてしまった。「もう泣くな。氷室のコトはさ、誰よりも知ってる」「………泣いて──」顔を彼の体に押し付ける。彼の匂いが感覚を擽る。それが心地よくて、温かくて………「─────だから、もうどこにもいかない。どんなことがあっても、どこに行こうとも、傍にいてほしいから、………一緒にいる、氷室」「─────」そして壊れた。声こそ出してないけど、しゃくり上げながら、彼の服を握りしめて、温かい胸に顔を押しつけて、泣いた。髪を優しく撫でてくれている。それだけで、気が振れてしまうくらいにおかしくなる。「大丈夫。もう絶対に独りにしハナサないから………“ひーちゃん”」その言葉は、まるで毒の様にゆっくりと染み込んできた。また目を閉じてみれば、零れ落ちていく幻。けれど零れる以上の幻がここにある。零れた幻も、ずっとそこに残って私と彼の周りを幻で埋め尽くしている。幻に溺れて、奇跡の様な、何かを見た。鮮やかな色は君が見せてくれた幻。今、目を開ければきっと奇跡の様な幻が見える。君と見ていた鮮やかな色が、きっと。だけど。今はまだ見えない。まだ、『彼』は─────「君は………救われたのか?」「え?」一瞬腕が緩んだ。代わりに私が腕に力を少しだけ込める。「ここ数日、君を見ていてわかった。君は、自分に目をやっていない。………最初は、なぜかわからなかった。」額は彼の体に当てたままで。麻痺してしまった体のあちこちを総動員させて、伝える。「けれど、それは、あの火災の所為なのだろう。………そうなってしまうのは仕方ないのかもしれない。しかし、君には君がいるハズだろう………?」「─────」「私は、─────、“しろ君”が傷つく姿は見たくない………んだよ………?」精一杯口に出して言って、言った後に、思いきり彼に抱き着く。離れたくない、というのもあったけれど。胸はバクバクと音を立てているし、顔はきっと物凄い真っ赤になってる。それでも、彼にはしっかりと思い出してほしかった。──あの、遠い日の事を。あえて私は昔の口調に、出来るだけ近づけて喋った。「どこでも、一緒に居れるなら私はそれだけで………。けど、私だけが救われたくない。頑張っている人が報われないのは………“しろ君”が救われないのは、嫌だ」言った。言い切った。胸は今にも張り裂けそうで、その所為で体が小さく震えている。考えられない。今までの私なら、こんなことなど考えられなかった。しばらくの沈黙。その後に「………大丈夫。もう、十分報われているし、救われてる」私の髪に、優しく手を触れた彼の言葉が、胸に響いた。「すく………われて………?」「火事の時に、俺は死んだ。体は生きてたけど、心が死んでた。その時に切嗣に救われて、伽藍洞のまま、救ってくれた切嗣に憧れた。………これもついさっき、判ったんだけどな」彼が語りかけてくる間、私はずっと彼の胸元にいる。耳だけを静かに傾けて、温かさを感じながら、無上の安心を得ながら、彼の言葉を聞いている。「覗き込む目とか、助かってくれって懇願する声を、覚えてる。その淵で思ったんだ。自分が助かったことじゃなくて、助けてくれる人がいることはなんて素晴らしい奇跡なんだろうって」だから憧れた、と彼は続けた。「何も残っていなかったから、俺はそれに憧れるしかなかった。その感情しかなかった。それしか考えられなかった。だから─────俺はそんな感情しか作れなかった」彼の言葉は私に突き刺さってくる。なぜ私は彼を探し続けなかったのだろう。なぜ私は諦めたのだろう。なぜ私は助けてあげられなかったのだろう。『何も残っていなかった』家も、親もいなくなって。辺りを見渡せば地獄しか見えない。「私が………助けてあげていれば………」小さい子供ならそんな状況に陥るなんて目に見えてわかる。探し続けて、見つけてあげたら、彼は救われた筈だったのに。例えこの考えが傲慢だったとしても、そんな『IF』を考えられずにはいられない。「─────けど、何も残ってなかったなんて嘘だった」緩められていた腕に再び力が込められた。体は密着して、また私の感覚が麻痺してしまう。「残っていたモノがあった。いてくれた人がいた。それが、氷室とその思い出だった。………あの時死んだ筈だった自意識ジブンは、生き返った。救ってくれた。 氷室が、──救ってくれた。」「私、が………?」「そう。………初めて、氷室と出会ったときのことを夢に見た。あんな風に笑えたら、って。きっと、その時にもう救われてた。多分………一目惚れだった」「─────」思考が完全に停止した。初めて会ったとき。それは私も覚えている。何せあまりにも印象強かったから。彼が夏風邪を拗らせてるのに、無理に外に出てきて、ベンチで横たわっていた。様子がおかしいと思って近づいて、会話をしているうちに楽しくなって。彼の家に行って、看病の真似事までした。けれど、その数日後には私が彼の夏風邪を貰ったらしくて寝込んでしまって。その時は彼が家に来て、同じような真似事をしてくれた。本当に、印象強い、出会い。「氷室も、切嗣も。俺を救ってくれて、そして憧れた。………あんなふうに笑えたらって、思った。───だから、大丈夫」『ありがとう、氷室』彼の顔を見る事ができない。できなくて、ずっと彼の胸にいる。覗きこまれないように、額を胸に当てて、俯いている。 ───きっと、今の私の顔は頬が緩んで元に戻らなくなってる「………切嗣の受け売りになっちゃうけど、『正義の味方』になるんだったらエゴイストになれって言われてさ」「─────」「誰にも彼にも味方をしていたら意味がないんだから、自分が信用できる、“自分が好きな相手”だけの味方をしなくちゃいけないって。………今まではどういうことかわからなかった」彼の言葉にずっと耳を傾ける。彼を理解するのに、余分な言葉は必要ない。「けど、今なら判る。判りすぎて、なんで今までわからなかったのかが判らないくらいに、判る」──だから「俺は、氷室を守るよ。………好きな人を守るのなんて当たり前だ。氷室を、氷室がいる世界を、守る。───守るための剣になる。あの時に、そう誓ったから。だからその約束を必ず果たす」誓約だった。彼が誓う、私への、彼自身への誓約だった。そして、それは同時に“──”だった。蛍の光の様に、記憶の中にある姿が蘇ってくる。あの時から、彼は私を守る様に立っていた。もちろん、その当時はそんな風には考えなかったが。───ああ、なんだあの時から、私は既に守られてた。同時に可笑しくなってくる。衛宮士郎という人は、衛宮となる前の士郎という人は、氷室鐘なんかよりも、ずっと早く、何倍も相手の事を想ってくれていた。込み上げてくる言いようのない気持ち。けれどそれは決して悪いものではない。寧ろ、あまりにも心地よすぎて、壊れてしまいそうな気持ち。なら私は?「そんなもの………決まってる」小さく呟いて、少しだけ、彼を押す様に体を傾ける。「………氷室?」その力に逆らわないで、また布団の上に寝転がる。もちろん、胸にいる私も一緒に倒れこむ。彼の胸にあった体を少しだけ横へずらして、彼の顔を見る。「なら、私も誓約する。──絶対に、幸せになる。………君と、エンゲージを交わす。ずっと一緒に居られるように、全力を尽くして実現させる」エンゲージ。それは絶対に、相手がいなければ成り立たない。守ってくれる、それは嬉しい。けれど、それは同時に苦しい。私の代わりになる、と言っているのと同じだから。だから。「絶対に、幸せにする。君がどこかへ行ってしまわないように、君が傷ついても癒してやれるように。………君を、守れるように」せめて、そうしないと割に合わない。幼いあの時から守られていたなら、これくらいするのは当然だと思う。いや。それもあるかもしれないけれど、そんなものを抜きにしても。そうしたいと思ったから。理由はそれで十分。むしろそれ以上なんて必要ない。好きだから理由はこれだけでいい。「───士郎」彼の驚いた顔が見える。そんなに驚かなくてもいいだろう………?私だって言うのに、物凄く勇気を必要としたのだから。同時に恥ずかしくもなってくる。多分、紅かった顔はさらに紅くなってきている。今すぐにでもどこかへ隠れたくなる。けれど。「───鐘」そんな考えはこの言葉を聞いて吹き飛んだ。………大きな誤算。私が彼のことをファーストネームで呼ぶのならば、その逆のことも当然考えるべきだったのだ。なのに、その可能性はきれいさっぱり、頭から抜け落ちていた。遠坂嬢が彼のことを「士郎」と呼ぶものだから、私も同じように呼んだ。遠坂嬢の時は、彼は変わらず「遠坂」と呼んでいたものだから、………“そちら”の考えには至らなかった。先ほどとは比べものにならないくらい顔が、いや、全身が熱くなる。混乱して、恥ずかしくて………そして、例えようもなく、嬉しい。いつの間にか、私は真っ赤になりながら、満面の笑みを浮かべていて。彼が私の肩を抱き、そのまま抱き寄せる。私はそれに逆らわない。その抱擁で、胸に抱かれた私のスペースが狭くなる。苦しくはない。この窮屈さが心地良い。そのまま、彼がゆっくりと、私に口づける。浅く、深く、やさしく、力強く。「ん……ぁ、……」彼に酔いながら、私は自分を確認する。正直、意識を保ち、彼の背へまわした腕の震えを押さえるのが精一杯だった。数分は過ぎたのか、それともまだ数十秒なのか。判ることはなかったが、一つだけ判ることがあって、私はそれを願った。──もっと続いてほしいと思っている、士郎。