第12話 侵される日常─────第一節 恐れを知らない風景─────「たしかに陸上部は大会が近いってことは知ってたけどさ…………」校庭の陸上部の部活光景を見て、士郎の開口一番の言葉がそれだった。現在は冬。3月まで残り1カ月とはいえまだ寒い時期。であるにもかかかわず、校庭から聞こえてくる喧騒はそれを感じさせないほど明るい声が響いてくる。しかしなぜだろうか、時折悲鳴のようなものすら聞こえてくるのだから不思議で仕方なかった。「陸上部ってあんなにハードだったか?」一年生を追い立てるように上級生が走り回っている。というより一年生を追い立てている人物が目立つ限り一人しかいない。「いや、熱心なのはいいけど止めなくていいのか、あれ?」蒔寺 楓。陸上部短距離走エースにして自称・穂群の黒豹である。なるほど、時折聞こえてくる悲鳴は彼女に追いたてられた一年生のものだったらしい。穂群原のブラウニーなどと称され、機材の修理などで駆り出される士郎は当然彼女のことも知っていた。「…………同情するぞ、一年生。だが悪い先輩に捕まったと思って諦めてくれ」周囲の上級生を見る限り誰も止めようとしないので恐らくこれが大会に近づいたときの練習光景なのだろう。そんな練習光景へ近づいていく女子生徒が一人。陸上部のマネージャー、三枝 由紀香。大量のペットボトルのつまった籠を持って校庭に運んでいた。見ていて不安になりそうな足取りではあったがそれに気づいた楓が近づいていき荷物運びを手伝っていた。そんな光景を見ながら視線は走り高跳びへと向く。ポールを飛び越える姿。走り高跳びをしたことがあるのは事実なのでそちらにも気が向いてしまうのは道理かもしれない。そんな跳ぶ人たちの中に彼女がいた。「…………特に問題はなさそうだな」昨日の今日で普段通りに振舞えるのか心配であったが特に問題なく振舞えているので安堵する。いくらかその光景を眺めていて、その後休憩に入ったことを確認して立ち上がった。「シロウ」隣で同じように陸上部活動の光景を眺めていたセイバーが声をかける。「ん? どうした、セイバー?」「ヒムロは今後どうするのでしょうか? 護衛をするのであればシロウの家に泊まらせるのがいいかと思うのですが」何気に物凄いことを言ってくるセイバー。たしかに護衛するとなればできるだけ近くにいるほうがいいだろう。「そりゃあセイバーの言っていることもわかるけど、氷室には両親だっているんだから無理だろ。泊まらせるってことになれば説明だって必要だ。当然だけど説明なんてできないだろ」「ではどうするのですか? このままだと危険性が高まるだけですが」確かに護衛ができなければ彼女が狙われても守ることはできない。かといって彼女の両親に『娘さんが戦争に巻き込まれて危険なのでうちで預かります!』なんて言ったところで信じないだろう。というか逆にちょっと危ない子と認識されるかもしれない。………それはちょっと嫌だ。「泊まらせることはできなくても周辺護衛ならできるだろ。それにセイバーのマスターは俺だって示せば勘違いしている奴が氷室を狙うこともなくなる」「つまり………護衛しながら自身を囮にすると?」「簡単に言ってしまえばそんな感じ。登下校に関しては…………どうしようか。そこのところは氷室と相談するよ」そうして休憩に入った彼女に近づいていく。一方の鐘はとっくに彼ら二人を見つけていた。(セイバーさんは喪服を着てついてきたのか………)彼女がついてくるかもしれないとは思っていたが、まさかあんな格好で来るとは思わなかった。あれでは美女というより美男子だ。「氷室、休憩してるところ悪いけど、ちょっといいか?」近づいて休憩している鐘に話しかける。美男子となっているセイバーを後ろにつけて話しかけてくるのだから周囲からみれば奇異な光景にもみえる。一方の鐘は士郎の申し出を断る理由もないので「ああ、構わない。では少し向こうへ行こうか」と答えて歩き出す。周囲の目が集まっていたので、場が混乱する前にさっさとその場から離れる。そうして周囲に聞き耳を立てる輩がいないことを確認して「で、話はなんだ、衛宮?」「ああ、これからのことなんだけどさ。氷室は家に帰るんだよな?」「…………どうした方がいいのかな、私は」このまま家に帰ってもいいのだろうか、と考える。狙われるかもしれない自分が家に帰ったら両親にも影響がでるかもしれない。となれば士郎の家に泊まるという選択肢もあるだろうが、そうすると次は両親にどう説明すればいいかという問題が発生する。昨日は一泊だけなので問題はなかったが、これからもとなると一泊ではすまないだろう。連泊するとなるともっともらしい理由が必要になる。生憎と彼女の両親は放任主義ではない。それに一人暮らしの男性の家に泊まるというのも大きなハードルとなっている。正直に答える必要はないかもれないが、嘘がばれた時は逆に追い詰められる。別の友人と口裏合わせをしようとしても数泊するとなると嘘をつきとおせない確率が高い。「セイバーはうちに泊まっていけって言うけど、確か氷室の親って市長だったろ? ってことはそんなの許されないと思うからさ、だから俺が氷室の周囲を護衛しようと思う」仕方がない状況とはいえ一体どこの有名人だろうか、などと思いながら「周囲を護衛、か。確かに衛宮の家に泊まるのが困難となればそうなるのだろうが…………」「そう。で、相談なんだけどさ。登下校はどうしようか。迷惑じゃなければ一緒に登下校しようと思うんだけど」その言葉を吟味してみる。確かに狙われているなら登下校も一緒に行動したほうがいいのかもしれない。しかし問題もある。「一緒に登下校と言うが衛宮。君の家と私の家がどれだけ離れているか知らないのか?」「新都の方だろ? とてもじゃないけど一緒に登下校できる距離じゃないってことはわかってる。けどそこのところは俺がそっちに行けばいいだけだからさ」平然と言う。士郎の家から鐘の家までは歩いたら軽く一時間以上かかる。バスを使ってもそれなりにかかるのだが、本当に理解しているのだろうか? と疑問に思う。「登校時には周囲にも人がいるし、下校時は登校時ほどではないが人はいる。護衛してもらうほど危険ではないと思うが」朝はバス待ちの人がそれなりにいる。夕方も朝ほどではないが人の気配はあるし、登下校にバスを使うので一人っきりという状態にはならないだろう。なるとすればバス亭から家に行くまでの少しの距離くらいだ。その言葉を聞いた士郎は少し考えて「朝なら襲ってこないか…………? そこんところはどうだ、セイバー?」後ろにいたセイバーに尋ねた。半端な知識しかない自分よりもよく知っている筈であろう彼女に訊いた方がいいと判断したのだ。「聖杯戦争は基本的に秘匿のため夜に行われます。夜ほど活発にはならないでしょう。むしろこれから夜になる夕方を警戒すべきではあると思います」もっともそれもマスター次第ではありますが、と付け加える。「なら氷室を家まで送るっていうのは決まりかな。どのみち夜は周辺を見て回ろうとは思ってたし」「…………見て回ろうとは?」尋ねる。だが、その答えも鐘はまたある程度予想はできていた。「ん? 夜は氷室の家の周囲とかをうろつくってことかな。サーヴァントが寝込みを襲ってくるとも限らないし」やはり、と一人呟いて正面にいる顔を見る。確かに襲うなら寝込みが一番だろう。安全かつ誰にも見られずに敵を暗殺できるのだからこれほどいい条件はない。ならばそれを防ぐために周囲を警備するというのは常識ではある。しかしそう頭では理解していてもやはり躊躇いはあった。それは夜中の間目の前にいる青年はずっと外にいるということになる。春が近づいているとはいえまだ冬。夜の冷え込みは十分に厳しい。だがそこまでしなくても…………とは言えないのが現状でもあった。そして朝はどうするか、という話に戻る。朝に行動しないとは限らないが可能性は低い。彼女が活動する時間帯は同じく他の一般人も活動している時間である。活動が停止していく夜よりは人目もあるだろう。加えて光があるということが常識的ではあるが利点である。可能性はゼロではないが常識的に考えて確率は低いだろう。それを踏まえた結果朝は各自で登校することとなった。そうして休憩時間が終わる。休憩していた部員たちがまた活動を再開し始めた。「練習だな…………。じゃあ氷室、頑張ってな。終わるのは5時くらいか?」「まあ………完全下校時刻が6時だからな。それに間に合うようには終わる必要がある」「わかった。じゃあその時間帯にはまたこっちにきたらいいか?」「…………いや。バス停の傍で待っててもらえれば私がそちらに行く。下校時は途中まで蒔の字と由紀香と一緒に行動していることが多いからな」「そうか、じゃあ終わったらバス停で待ってるよ」そう言って二人は離れていく。そんな後ろ姿を見ながら、しかし鐘は改めて自分の非力さに頭を悩ませていた。─────第二節 夜へと続く道のり─────時刻は五時。太陽は空を紅く染め上げて、今日という日の終わりを告げるようにゆっくりと闇色に近づけていく。「あ。そういえば美綴、慎二のヤツはどうしたんだ? 今日は姿が見えなかったけど」弓道場の前。部員が全員外に出たのを確認してから、最後の戸締りをしている彼女に話しかける。「アイツはサボリ。新しい女でも出来たのか、最近はこんなもんよ」なんでもない事のように言って、校舎の方へと足を運ぶ。「じゃあね。あたし、職員室に用があるから。アンタも色々あったみたいだけど、とりあえずお疲れさん」「ああ、そっちこそ」それだけの言葉を交わして部室のカギを指で弄びながら、弓道部主将は一足先に去っていく。その後ろ姿を眺めながら「美綴」彼女を呼び止める。「ん? なんだ、衛宮?」「最近物騒になってきたんだから早く帰れよ?」「お、なんだ。衛宮はあたしのことを心配してくれるのか?」紅い夕日がニヤニヤと笑っている綾子を染めている。そんな彼女を見ながら「ああ。美綴だって女の子だろ。いくら負けん気が強いからって夜は危ないんだから早く帰れよ?」なんて平然と言ってのける。一瞬呆気にとられた表情を見せるが「はいはい。ま、そんなに遅くならないように家に帰るよ。心配してくれてありがとうな」背を向けてヒラヒラと手を振りながら校舎へと去って行った。普段なら彼女にこんな言葉もかけないだろうが、士郎に突き付けられた現実には無関係な人間である一人の同級生が殺されかけたという事実がある。それもあって念のため、ということで綾子にも声をかけたのだった。─────そうして正門前。正門には大河と桜がいる。「士郎―、帰るわよ」手を振って呼びかけてくる担任教師。いつもならこれに応じて一緒に下校するのだが今日はそう言う訳にもいかない。「悪い、藤ねぇ。桜と一緒に先に帰っててくれ。俺は用事があるから一緒には帰れないんだ」「? 用事って何? あ、もしかしてアルバイト?」「んー、ま、そういう感じかな」実際には全く違うのだが本当の事を言う必要もない上、話したら話したで理由を問われかねない。その理由に事実を言うのもまた躊躇われたため勘違いをそのままにする。「もう、最近は物騒になってきたんだから早く帰ってきなさい。士郎は断らないっていうのは知ってるけど、控えめにしておきなさい」腰に手を当てて生徒に言い聞かせるように言う大河。こんな仕草を見ているとさすが教師だなー、と思う士郎であった。ただし家の行動を見ていると子供が大きくなっただけにしか見えないのだが。「ああ、なるべく早く帰るよ。それじゃ、そんな物騒な夜になる前に二人とも家に帰れよ? 藤ねぇ、桜」「ふーんだ。士郎は人に言う前にまず自分の身振りを直しなさい」「はい、先輩もお気をつけて」いつも通りの大河に対して桜は少し元気がない。「どうした桜。具合悪いのか?」彼女の視線は手前にいる士郎とその後方にいるセイバーを交互に見ながら会話をしていた。「いえ、なんでもありません」「なんでもないわけないだろ。体調が悪いなら言ってくれた方が俺も助かる」「本当に大丈夫ですから。気にしないで下さい」儚げに笑われてしまったら返す言葉はない。見た感じは別に体に異常があるようには見受けれないので勘違いか、と完結させて二人と正門前で別れた。「さてと………バス停に行くかな」二人が向かった方向とは別の方向に向かって歩き出した。後ろには相変わらずセイバーが控えている。歩いて数分でバス停に到着する。無論バスに乗るワケではないので並んでいる列の最後尾につくわけではない。鐘を待つためにバス停の傍で待機することになる。バス停に着きながら列に並ばないでただ眺めている士郎とセイバー。そんな二人を列に並んでいる人達はチラチラと奇異な視線を向ける。いや、確かに奇異ではあるかもしれないが彼らの行動自体は見る人からしてみれば些細な事だろう。多くの人の視線は彼の隣にいる“美男子”セイバーに視線が集中しているところから見て、よっぽど気になるのだろう。まあ当然だよなー金髪だし、外国人だし、目の色緑っぽいし、なんて他人事のようにそんな光景を眺めている。バスが到着し並んでいた人達がバスへと乗車する。その光景を見ながら、しかし氷室はこないなーなんて感想を懐いていた。バスの戸が閉まり、発車する。そのバスが去って行く方へ視線をやり、見えなくなったところで学校の方へと視線を向ける。「…………セイバー。思うんだけどそんなきっちり着てて暑くないか? 昼からずっとその格好だろ?」日中も現在も日のあたるところに長い時間居た。いくら冬とはいえ黒色の喪服を着ていれば熱も籠るハズである。「いえ、私は大丈夫です。この程度の着物は着なれていますから」はて、ドレス姿のセイバーがなぜメンズスーツが着なれているなどと言うのだろうか。セイバーの回答を聞いて疑問が湧いたが、着る機会なんていくらでもあったのかな、などと適当に結論を出して鐘が来るのを待っていた。夕方。先ほどのバスで並んでいた人達がいなくなったのでバス停にいるのは二人だけ。赤く染まる街並みを見ながら「あ~、一日が短く感じるな」と、特に意味もなく呟いた独り言に「しかし最近は少しずつではあるが日が落ちるスピードは遅まっているぞ」なんて返答が返ってくるのだからあわてて後ろを見る。「氷室か、驚いた。急に話しかけられたから何事かと思った…………」「ふむ、君の驚く姿は少し見物だったな。セイバーさんはわかっていたみたいだったが」「…………そうなのか、セイバー?」「はい。ヒムロが近づいてきたのはすでにわかっていましたから」なんだじゃあ俺だけ知らなかったのか、などと呟きなががっくりと肩を落とす士郎。「どれほど待っただろうか?」「ん、五分くらいか。さっきバス行っちゃったぞ?」「構わない。あの時間帯のバスは混みやすい。だから私は一本ずらしてバスに乗ることもあるんだよ、衛宮」「そうなのか。…………まあ言われてみれば、並んでる人は少し多い方だったかな」と、ここまで会話が進んでいたが止まってしまう。行動としてはバスがくるまでの残り数分を待つだけなので体を動かすようなことはない。坂を下った先にさらにバス停があるが、この時刻だとそこに向かうよりここで待っている方が乗れる。「ところで氷室。俺の鞄見なかったか?」ただ立ってバスが来るのを待っていた中で訊かれる。彼の問いに答えるために自分の記憶を引っ張り出す。だが。「…………いや、残念ながら私は見なかった。どこかに落ちているということはないのか?」そもそも彼女は部室と校庭と倉庫を行き来していただけであり、校舎の中には入っていない。「そう思って校舎の中歩いたんだけど見つからなかった。あれ、大穴あいてるだろうから見つけて回収しようと思ってたんだけどな。どこ行ったんだろ」鐘と別れた後、弓道場に向かうために校内を散策しながら向かっていた。目的は違和感の正体・結界の実態を掴むことと、自分の鞄の回収。あとあわよくば魔術師の手がかりだった。無論全てがうまくいくとは思わなかったが、まさか今日一日でそのどれもが達成できなかったとは考えなかった。せめて鞄は見つけておきたいなーとは思っていただけにこの結果は予想外だったのである。「シロウ。敵がその鞄を持ち去ったという可能性は?」喪服姿のセイバーが尋ねてくる。確かに見つからないのであればだれかに回収されていると思うのが普通だろう。「いや、そりゃあ可能性としてはありえるだろうけどさ、全部学校で使う小道具とかばっかだし。盗む価値があるものなんて入ってないぞ」そもそも昨日だって朝は普通に登校してきたのだ。そんないつも通りの日常になると思っていた中でその日に限って特別な何かを持ってくる筈もなかった。そんな返答に「そうですか」、と答えて黙ってしまうセイバー。その姿を見て今日起きた事を思い返す。「結局、藤ねぇはセイバーに関して何も訊いてこなかったなぁ。折角打ち合わせしたのにな」そう。食事中、弓道部に戻ってきた後、そして校門前とセイバーと顔を合わせる機会はあった筈なのだが全く訊いてこなかった。藤ねぇにはセイバーが見えていないのか、と疑問を通り越えて心配になった士郎だった。そんな彼らのもとにバスがやってきた。先ほど並んでいた人数と比べると確かに人は少なかった。「ほんと、一本違うだけでここまで差が出るんだな?」妙に感心しながらバスに乗る。「ああ。急ぎの用がなければ基本的にこの時間のバスに乗っている」続けてバスに乗る鐘。その後ろにはセイバーがついてきた。プシューという音を立てて戸が閉まり、アナウンスが車内に響いてバスが発進する。車内でもセイバーは人々の視線を浴びていた。無論じろじろまじまじと見られているわけではないが、美男子と言う言葉がぴったりなセイバーが気になっているのだろう。セイバー自身も見られているということを感じながらも、平然とした態度は崩さなかった。そんなセイバーを鐘もまた見ていた。時折見せる仕草は何か考えているようにも見える。「どうした、氷室?」気になったので問いかける。もしかしたら自分に気付かない何かに気付いたのかも、と思って声をかけたわけなのだが───「む。いや、セイバーさんみたいな人をどこかで見たような気がするのだが」要するに自分の記憶との照合を試みていただけだった。「喪服姿の人なんていっぱいいるだろ? まさかセイバーみたいな美男子………(今はだけど)と会ったことがあるとか?」「いや、残念ながらそこまでは思い出せない。思い出せたらきっと済し崩しのように解消されていくと思うのだが」そう言って再び考え込んでしまう。そんな姿を見ながら今日の夕食は何にするかなーと考えていたところで突然思い出した。思い出して少し青くなる。「なあ、セイバー?」「なんでしょう、シロウ」「喪服着て家を出たんだよな?…………家の鍵、どうした?」そう。今更ではあるが大問題に気付いた。家の鍵は現在家主である衛宮 士郎という人物が所持している。ということはつまり後から出てきたセイバーは鍵を持っていないのである。加えてスペアキーは桜に渡しているのでつまり鍵はない。「鍵をかけようと思ったのですが鍵が見つからなかったために玄関戸は内側から閉めて、入口から遠い窓から出てきました」「そ、そうか。ならまだ少し(?)は安心か…………」セイバーが気の利く人で本当によかった、と心から安堵したのだった。 ─────第三節 平穏から破滅へ続く道筋─────バスに搭乗してから約25分。目的地であるバス停へ到着した。ここから歩いて数分の距離に彼女のマンションがある。ちなみにバス代は先日3万円という破格のバイト料を得ていたのでセイバーと自分二人分を支払うことになっても苦はなかった。時刻はすでに午後6時半。春に近づいてきているとはいえまだ冬。日が落ちる速度は遅くなってきているとはいってもまだこの時間は暗いままである。あと1カ月もすればこの時間帯でも“暗い”ではなく“まだ少しだけ明るい”というレベルになるだろう。そんな夜の中を三人は歩く。冬の夜は寒い。12月に比べるとまだマシではあるが寒いものは寒かった。鐘と士郎は並んで歩き、その後ろにセイバーがついて歩く。周囲を見渡しながら「この時間帯とは言っても人は少ないんだな。薄暗いし…………」隣にいる鐘に話しかける。「そうだな。最近は物騒になっている、ということもあって足早に帰宅する人も多い。大概の人は日のあるうちに帰宅するのではないか?」新都の中心街へいけばこの時間帯でもそれなりに人はいる。だがほんの少し離れただけで人通りはまばらになっていた。まあそれでも深山町に比べれば人はいる方なんだけどな、などと自分の住む町と比べながら歩く。数分歩いたら前にマンションが見えてきた。「あれが氷室の住んでるマンションか?」「そうだな」結構な高さを誇るマンション。管理は行き届いているらしく周囲の道はきれいに清掃されている。駐輪場を見てもしっかりと並べている辺り、ここの管理者はしっかりと仕事はしているようだ。マンションの入り口から中を覗きこむ。防犯カメラがあった。おそらくはここ最近の事件を考えて設置したのだろう。流石市長の住むマンションだな、なんてあまり関係のない感心を懐きながら一緒に入口を入る。鍵を使ってロックされていた自動ドアが開く。普段通りにエントランスへ入って行く彼女を見送る。「ここまできたら安全かな。防犯カメラもあるみたいだし、襲ってくる奴はいないだろ」「そうかな。来るときは来るものだと思うがな、私は」ニヤリ、と少し怪しい笑みを見せる。「物騒なこと言わないでくれよ………」そんな彼女の言葉を聞いて少し不安になりながら苦笑いを見せる。「何、自分の城というものはそういうものだ。完璧であると思えば思うほどに隙間などないと信じている。だから綻びが生じた時の驚愕は尋常ではなく、致命的な失敗を招くこともあるものだぞ。私はそうならないように考えを馳せているだけだよ、衛宮」そんな彼女の言葉を聞いて感心したように「ヒムロの考えは立派ですね。万が一という事を常に考えて行動できるのならば咄嗟の出来事にも冷静に対応できるでしょう」と、セイバーが賞賛した。そういうものかな、なんて感想を漏らしながら「じゃあ、氷室。また明日学校でな。朝練、するんだろ? また手伝うよ」「君の心遣いには感謝するが、恐らく明日は蒔の字達が手伝ってくれる。無理はしなくていいぞ、衛宮」「ん、そうなのか。まあ確かに部外者が手伝うよりかは自然か」そう言って自動ドアが感知しないように離れる。それを感知したドアがゆっくりと閉まって行く。「衛宮はこれからどうするのだ?」不意にそんな事を訊いてきた。「俺はこの辺りを調べてみる。氷室を狙ってくるとも限らないからできるだけ周囲を動き回って存在をアピールする必要もあるしな」学校で決めた事を伝える。人質として囚われるのも勘違いで彼女が殺されるというのも許容できない話なのでこの対応を取ることに何の不満も疑問も抱かなかった。自動ドアが閉まり二人を隔てた。それを確認した士郎は手を小さく上げて別れを告げ、彼女に背を向けて外へと出て行った。彼女もまたその姿を確認して自分の家へと帰って行く。「…………何もできないのだな、私は」その呟きは誰にも届かない。自分を苛めるのは無力と言う言葉だけ。だがもう悩むのはやめよう。信じがたいことではあるが受け入れて前へ進む。この超難題の課題をどう克服してクリアするか、それだけを考えよう。◇マンションを出て再び外へ。如月の冷気をその身に感じながら「よし、それじゃ家に帰ってメシを食うかな」と、歩き始めた。確かにこの時間帯、人は少なくなってきているが就寝時間にはまだほど遠い。加えてマンションということもありマンション内には人が大勢活動しているだろう。本格的に行動するのはもっと夜が進んでから、と結論を出して足早に帰路へと向かう。ここから歩いて帰ると着くのは8時を超えるだろう。バスを使えばもっと早く着くのだろうが、見回りと囮も兼ねる為に歩いて帰ることは決定事項だった。ついでに商店街によって夕食の食材を買って帰れば無駄はないかな、などと主夫的な考えも持ちながらマンションをあとにした。時刻は午後6時半過ぎ。すでに周囲は完全な夜となっていた。セイバーと二人で新都へと足を運ぶ。周囲を見渡すとさっき見た時よりもさらに人は少なかった。………というよりは人が見当たらない。先ほどはバスが止まった所為もあったのだろう。だが今は当然バスもないために閑静な住宅街となっていた。褒め言葉であるのだろうが、この時に限っては寂しくも感じる。ここらの道にはあまり詳しくないが自身の感覚を頼りに少し細い路地へと入る。後ろについてくるセイバーもまた何事もなくついてきた。何も言わないのだろうか、と思って声をかけようとして後ろを振り向いたとき─────ドンッ!と細い路地から出てきた誰かがぶつかってきた。「うわっ!」「なっ!」突進された勢いで倒れる。ぶつかってきた人…………女性もまた反対側に尻餅をつくように倒れた。「いてて………。す、すみません。大丈夫ですか………?」後ろを向いて前の確認を怠ったのだから謝るのは当然か、などと思いながらぶつかってきた女性を見る。その服装は彼が通う穂群原学園の制服だった。次に顔を見てみると………「あ、あれ? 美綴?」「え、衛宮?」少し前に学校で別れた美綴 綾子だった。少しだけ安堵した士郎は立ち上がって手を差し伸べる。その手を掴み立ち上がる綾子。「ごめん、前見てなかった。大丈夫か美綴。どうしたんだ、そんなに慌てて?」「な、なんであんたがここに…………」見る限り動揺しているらしい。(まあ確かにこっちは俺の活動圏じゃないからな)と思う士郎だったがどうもいつもの彼女とは様子が少し違う様に見受けられる。「………? 美綴、何かあったのか? 顔が少し青く見えるけど?」「!─────そ、そうだ。えみ……………」綾子が何かを言いかけた直後。「! シロウ、伏せて!」今までその光景を見ていたセイバーが一瞬で鎧化した。その姿と言葉を聞いて咄嗟に綾子を抱きしめてその場に倒れこむ。キィン! と甲高い音が閑静な住宅街に響いた。「……………何だ?」守る様に綾子を抱きながらしかし首だけはその音のした方向へ向ける。そこには。「…………あいつは?」大よそ現代の格好には不釣り合いな眼帯をした紫色の長髪の女性が立っていた。その女性と対峙するように立つセイバー。すでにセイバーは鎧化をしておりいつでも斬りかかれるという状態。「……………貴様もまた一般人に手を出すか。誇りはないのか、貴様は」セイバーが問いかけるが対する長身の女性は「………………」無言でその場に立っていた。その姿を見て士郎は不気味に感じた。そしてこの状況。つまり狙われたのは今自分の下にいる彼女だとわかった。「美綴、大丈夫か?」抱いていた手を解き、相変わらず長身の女性から守る様に立ち上がる。彼女の手を取って立ち上がらせた。「……………あ、ああ。すまない、衛宮」この状況に戸惑いながら何とか返事をする綾子。無事そうだな、と確認した士郎は再び対峙している二人へと視線を戻す。セイバーは構えをとっているが、対して長身の女性はただ立っているだけである。手には釘のような短剣が握られている。互いに動かないことで訪れる静寂。だがこの静寂は突然終わりを告げた。ヒュッ と投げられた短剣がセイバーを突き刺そうとする。だがそれを容易く不可視の剣で打ち払い、そのまま相手に斬りかかろうと動くが─────「………………逃げたか」長身の女性は投げたと同時にその場から速やかに闇へと逃げていた。鎖付の短剣がジャラジャラと音を立てて勢いよくその闇へと戻って行く。これを追いかければ彼女に行きつくのだろうが、マスターである士郎と離れる訳にもいかない。そうして突然の会合は終わりを告げた。危機が去ったことを確認して視線を後ろにいる綾子に戻した士郎は「おい、大丈夫か美綴? なんであいつに追われてたんだ?」もっともな疑問をぶつける。あの女性もまたサーヴァントであるということはわかった。ならば狙われる理由など多くはないはずである。「知らないよ。突然現れたかと思ったら襲ってくるんだから…………」一方の綾子も何が何だか、という感覚で述べている。「理由もなく襲われたのか…………? なんでまた」「あたしに訊かれても困る。あたしはただいつも通り帰ってただけなんだからさ」「………まあそうだろうけどさ」呟きながら考えるのだが考えた所で思いつくわけでもない。ここは一旦打ち止めとして「美綴。家、近いんだよな? 送って行くよ」と提案を出す。先ほどの事といい放っておくわけにもいかない、と士郎は考えたのだ。「え……………、いや別にいいよ。家はすぐそこだし」一方誘いを受けた彼女はというと驚いた表情を見せる。どことなく挙動不審に見えるのは気のせいか。「はあ、まだ強がり言ってるのか。あんなことあった手前で美綴を一人にさせておけないだろ。ほら家どこだ? 送って行くからさ」落ちていた彼女の鞄を拾い、手渡す。受け取った綾子は鞄を見て、そして手渡した彼を見て、そしてその後ろにいる鎧姿のセイバーを見て「………そうだな。訊きたい事もあるし、それじゃお願いするかな」そう言って歩き出した。士郎もまた彼女の横に並んで歩く。「で、衛宮。さっそく訊いていいかい?」「……………答えられる範囲なら」何を訊かれるか何となく予想がつくが、一応答える。「なんでここにいるんだ? あんたの家、こっち方向じゃないだろうにさ」「まあそれはとある私用で。ここにいたのは偶然だ」嘘はついていないので問題はないだろう。あの路地に入ったのもまた偶然ではあったので問題はない。「じゃあ次なんだけど…………」体を寄せて耳打ちする。「後ろにいる人………誰なの? 昼は喪服着てなかったっけ? なんで鎧つけてんの?」「あー……………それは、だな」さてどうしようか、と悩む。彼女の身の説明なら打ち合わせ通りに言えばいいだろうが、鎧姿の説明がつかない。が、黙っていても疑問は晴れないので「あの人はセイバーって言って、俺の親父を頼りに来た人なんだ。で、いろいろ街を案内していたら偶然ここで美綴と出会ったんだよ」我ながらそれっぽい嘘を言えた、と内心感心するがやはり鎧姿の説明にはなっていない。「んー……………」何か納得いかないなー、なんて考えながら当然のようにその穴を突く綾子。「いや、衛宮。あんたがここにいる理由はそれでいいとしてもあの鎧姿の説明には─────」後ろを振り向きながら再度セイバーの姿を確認するが「…………あれ?」喪服姿のセイバーに戻っていた。今まで鎧姿だと思っていたので、当然目が点になる。一方彼女のマスターもまた目が点になっていた。「……………何か?」平然とした態度で尋ねてくるものだから「あ、いえ………何でもありません」なんて律儀に返答をして再び前を向いて歩き始める。あれーあたしの見間違いかなーでも確かに鎧姿だったよなー? なんて一人呟きながら歩を進める綾子。で。辿り着いた場所は先ほど鐘と別れたマンションだった。まさか一日で二回も見上げることになるとは、なんて思いながら本日二度目の自動ドアをくぐる士郎。「美綴もこのマンションに住んでたのか」何気なく言った言葉だったのだが「? そうだけど………。衛宮、今のセリフ、おかしくなかったか? あたし“も”って別の人も住んでること知ってるような口ぶりだったな?」まずった、と思ったが言った言葉が戻ってくるわけでもなし。「で、衛宮。あんたがここにいる本当の理由は何?」笑みを薄らと見せながら顔を覗き込んでくる。言っても問題はないだろうが、逆に言わなくても問題はないので言わないことにする。「別に。さっき言った通りセイバーの道案内だよ」ふーん、と適当に相槌をうってロックされていた自動ドアを開ける。「そういえば、さ」何やら改まって尋ねてくる。「これからどうするのさ。警察、連絡入れといたほうがいい?」ああ、そうだよな と理解した。いくら強気な彼女とは言え女の子であることにはかわりないし、一般人であることにもかわりない。彼女の出した提案は至極まともなものだろう。だがサーヴァント相手に警察など意味はないということは重々承知していた。「いや、警察の方は俺から連絡入れとくよ。美綴は家に帰ってゆっくり休んでてくれ。あ、間違っても夜出歩くなよ? また俺が近くにいるとも限らないからな」警察に連絡する気はないが、そう言わないと理由を尋ねられかねない。「ん、わかった。じゃあ警察の方は任せる。で、衛宮もこれから家に帰るのか?」その言葉を聞いて少し考える。出た答えが「………まあそういうことになるんだと思う」なんて曖昧な返答だった。当然そんな曖昧な返答で納得する弓道部主将ではない。「衛宮、なんでそんな曖昧なんだ。……………あんた、まさか」「ん、まあ見て回りながら帰ろうって話だよ。知り合いの女の子が追われてたんだ、気になるのは当然だし守るのも当然だろ」父親から女性には優しくしなさいと教わってその実その通りに生きている士郎にとってはいたって普通だった。そんな返答を聞いて「女の子…………ねぇ」何を思ったのか、少し考える素振りを見せる。「にしてはさっきおもいっきり抱きしめてくれちゃったわけだけど、そこんとこの感想はどうなの?」聞いた直後に思い出して「ぶっ!!」思わず吹き出した。確かに抱きしめたしその時何か柔らかい感触があったしいい香りもしたけど! と咄嗟に出てきた感想を無理矢理抑え込むが慌てた様子までは隠せない。顔を真っ赤にしてその熱を逃がすように頭を振る。「い、いや!さっきのは咄嗟のことだったからそんな状態になっちまったんだ!決してやましい気持ちがあったわけではない─────ていうか御免!謝るの遅れて!」頭を深々と下げる。そんな慌てた様子を見せつけられて「ははは、いいって。守ろうとしてくれた咄嗟の行動っていうのはわかったから、気にはしないよ」「そ、そうか。すまん、美綴」頭を上げて綾子の顔を見るが、その姿はどこか素気なく見えた。が、当然そこまで頭が回る士郎ではなかった。「じゃあな、美綴。また明日、学校でな」「あいよ」そう言って少し足早に出て行く姿を見送る。見えなくなったところで足を動かして家へと向かう綾子。「まあ守ろうとしてとった行動っていうのは理解できるけどさ」その身に覚えた感覚を思い出し少し顔を赤めながら「あんな強く抱きしめられたのは初めてだったわけで。あたしもドギマギしちゃってるんだよね………衛宮」あはははは、と困ったように笑みをこぼしながら彼女も家へと到着した。