Chapter3 Evil under the Sun第10話 静かな崩壊Date:2月3日 日曜日─────第一節 崩壊の序曲────────遠い記憶。その光景は生きてきた中で何度も見てきたものだ。その夢を見て跳び起きるなんてことはない。目覚めが悪かったことは何度かあったが………。けれど、今日の夢はそれ以上に最悪だった。夢に見たのはあの夜の光景で、あの赤い世界。私が抱きしめた彼は反応がなく、人形のように止まっていた。その姿は死んでいるようで───「う………ぁっ!!」跳び起きた。体は依然として震えていて、額には汗が滲んでいる。「────はぁ」悪い夢を見たのは枕の所為だ、などと半ば八つ当たりをしながら周囲を見渡す。いつもの洋室ではない和室。少しだけ離れた場所に夢に出てきた彼が眠っている。日はすでに高い。昨日彼が倒れた後にセイバーさんと二人で驚いた。彼の傷がどんどん塞がっていっていたからだ。衛宮を抱えて急いで彼の家へと戻り、応急処置をしたがその時にはもう傷がほとんど塞がっていた。一体何が起きているのかわからなかったのだがその当事者である彼の意識がないため結局はわからずじまい。それに彼自身もそれ以前の反応を見る限りじゃわからないようだったので調べようもない。血のついた私の制服と彼の制服は揃って風呂場行きとなった。間違っても血の付いた服を着て家の中をうろうろするわけにもいかなかった。その後両親に電話を入れ、由紀香の家に泊まると言って彼の家に一泊することとなった。しかし当然私は着替えなどもってきていないわけで、結果浴衣を拝借する形となっている。「セイバーさんは………どこに?」昨夜三人で同じ部屋にいた筈だった。流石に彼と同室で寝るのはどうかと思ったのだが、セイバーさんの「護衛しやすい」という言葉を聞いて反論の余地はなくなった。「………………っ」「………衛宮?」彼の声が聞こえた。寄って彼の顔を見る。瞼がゆっくりと上がっていく。「………氷………室?」「そうだ。私だ、衛宮。体は大丈夫か?」傷は確かに塞がっていた。だがそれでも安心はできなかった故の言葉。口調はいつも通りではあるが。「………う、口の中………まずい………」上半身を起こし、言った後に咳き込む。どうやら口の中に血が残っていたらしい。「大丈夫か、衛宮? 洗面所に行って口の中漱いできたらどうだ?」「………悪い、そうする」そう言って立ち上がろうと体を動かそうとする。だがそんな彼の体は反して崩れ落ちかけた。「衛宮!」倒れそうになった体を支えるように壁に手をあてている。すぐに彼を支えるように腕をとる。「わ………るい。ちょっと眩暈がし………」口に手を当てる。吐き気もあるらしい。「衛宮………洗面所まで連れて行くくらい、私にもできる」彼の体を支えたまま私は寝室を後にして昨夜使わせてもらった風呂場へと続く洗面所に連れて行った。洗面所について彼が手のひらで水を救って口を濯ぎ、顔を洗う。冬で寒い筈なのに水道の冷水を髪に直接濡らしている。息遣いが荒い。横から彼を見ているとこちらもつらくなってきてそうだ。それほど彼の状態はよくなかった。だというのに「………よし、少しは落ち着いた」なんていうものだからむっときてしまう。確かに先ほどと比べてましになってはいると思うが、もっと自分の体を大切にしてもいい筈だ。「氷室………家に泊まったんだな。…………その浴衣は─────」「ああ。すまない、制服は血だらけだったので浴衣を拝借している。ちゃんと洗って返す所存だ」「───い、いや、別にそこまでしてくれなくてもいい」そう言って俯いてしまった。どうしたのか、と思った次にはパンッ、と両手で頬を叩いて気合いをいれていた。「よしっ。氷室、昼飯食べてないよな? ご馳走するから食べて行ってくれ。話はそれからにしよう」普段通りの彼に戻っていた。首を傾げる私に背を向けてドアを開けようとするが、「ここに居ましたか、シロウ、ヒムロ」入ってきたのは昨日であった少女、セイバーさん。「セイバー………!」視線を僅かにそらした。まああの姿を初めて見た時は驚くだろう。「体の方は大丈夫のようですね、一時はどうなるかと思いましたが安心しました」「あ、ああ………。お蔭様で………」「? どうしましたか、シロウ。まさかまだどこかに傷を………!?」「………いや、とりあえず言いたい事があるんだが言っていいか?」しかし視線は別の方向を向いている。気持ちは分からなくもない。「………なんでドレス姿?」確かに私も見た時は驚いた。女の私ですら綺麗だと思ったくらいだ。なるほど、鎧姿しか知らなかった彼にはインパクトが大きすぎたということか。「何故、と言われましても鎧を常時身に着けている訳にはいきませんから。戦闘と関係ないときは鎧は消してあります」平然と答える。その回答はあっているのだろうが、彼が言いたい事はそれではないような気がする。「あー………そうだな。セイバーに着るもの用意しなくちゃな、流石に」「確かにドレス姿はこの日本の日常生活ではまず見ないだろう。そして日本家屋にはまずありえない服装ではある」二人して彼女の服装に同意見を出す。そんな私たちの反応を軽く受け取って「シロウ、昨夜の件について言っておきたいことがあります」かなりの不機嫌さで言葉を走らせてきた。「立ち話もなんですので、居間へ来てください。そこで話をしましょう」スタスタと歩いていくセイバーさん。それに首を傾げながらもついていく衛宮。そんな彼の後ろについていった。◆「───で、話ってなんだ? セイバー」緑茶を用意し、テーブルをはさんで向かい合うセイバーと士郎。鐘はセイバーの隣に座っている。「ですから昨夜の件です。シロウはマスターなのですから、その貴方があのような行動をしてもらっては困る。戦闘は私の領分なのですから、シロウは自分の役割に徹してください。自分から無駄死にをされては守りようがない」きっぱりといいきったセイバー。それを聞いて今までのどこか素気なかった雰囲気は完全になくなった。「な、なんだよそれ!あの時はああでもしなけりゃお前が斬られていたじゃないか!」「そのときは私が死ぬだけでしょう。シロウが傷つくことはなかった。今後はあのような行動はしないように。マスターである貴方が私を庇う必要はありませんし、そんな理由はないでしょう」淡々と事務的に語る彼女を見て「な────バカ言ってんな、女の子を助けるのに理由なんて必要ないだろ………!」ダン! と机を叩いて怒鳴る。流石に驚いたのだろうか、セイバーは一瞬固まったがしかしそのあとは、彼を見つめていた。鐘も少し驚いたが、次には相変わらずな顔に戻っている。「う………、と、とにかく………うちまで運んでくれたのは助かった。それに関しては礼を言う。氷室もありがとうな」「いや、衛宮を放っておくわけにはいかなかったからな」「サーヴァントとしてマスターを護衛するのは当然ですが、感謝をされるのは嬉しい。礼儀正しいのですね、シロウは」「いや、別に礼儀正しくはないと思うぞ、俺。───と、それより聞きたいことがあるんだ」士郎は彼女の顔をしっかりと捉えなおして「そもそもセイバーって一体何者なんだ? 昨日の二人の奴といい普通の人間じゃないのはわかった。サーヴァント、とか言うけど正直何なのかわからないんだけど」この質問は彼女の隣に座っている鐘も聞きたかった内容だろう。どう見ても人間という領域から離れている彼女の素性は知りたかった。「………そうですね、まずはそこから話しましょう。シロウにとってもヒムロにとっても、もう関係のない話ではありませんから」一息ついた後に「聖杯戦争というのはご存知でしょうか?」「………いや、知らない」「当然だが私も知らない」「そうですか。では、一番初めから簡略的ではありますが説明します。聖杯戦争とは名前の通り『聖杯』を手に入れるために行われる戦争で、七人のマスターが七人のサーヴァントを用いて繰り広げる争奪戦です」「聖杯って………まさか本当にあの聖杯だっていうんじゃないだろうな?」聖杯、という言葉を聞いて思考を巡らせる。ちなみに彼女の聖杯という言葉に関する知識はおもに小説や歴史書などからきている。無論『聖杯』という言葉と大まかな知識を持っているだけで詳細など気にもかけなかった。複数の該当する知識があったが、さてはたして昨夜の異常さと関係するのか、という疑問があった。「衛宮、聖杯とは何だ?」念のために訊く。間違った思い込みを持ったまま話を聞き続けるのは良いことではないだろう。「聖杯っていうのは聖者の血を受けたって言われる杯で聖遺物の中でも最高位にあって、様々な奇跡を起こすことができる、だった筈。………で、それを手にしたものは世界を手にする、とか言われてた」大よそではあったが自分の知識とそれなりのデータは一致していた。が、当然知っていてもそれが現実で存在するなんて考えない。「………すごいな、もうそれだけで小説がかけそうな気がする」あまりにもスケールが大きく、現実離れしすぎた発言に呆れてしまう鐘。彼女にはすでに理解しがたい世界になっていた。「いや、そうは言ってもそもそも聖杯っていうのは存在自体が“有るが無い物”に近いんだ。世界各地にある伝承とかに顔を出しても、そんなものを実現させるだけの技術はない」「ふむ、まあ考えてみればそうだろうな。もしそんなものが本当に実在していたのなら、とっくの昔にこの世界は変わっているだろう」「そういうこと。───だから、セイバー。その聖杯戦争の『聖杯』って本物なのか? そんなものが本当に実在するとは思えないんだけど………」「いえ、本物です。その証拠として昨夜のランサーや私をはじめとした我々サーヴァントがここにいる」さっきまでそんなものはない、と話をしている中でしかしそれは本物で実在する、と言う。しかし彼女が嘘をついているようには見えないのも事実だった。「………わかった。仮に聖杯があったとして、じゃあサーヴァントっていうのは何だ? 聖杯とどういう関係にあるんだ?」「サーヴァントとは過去に存在していた英雄のことです。英雄として名を馳せ死後それでもなお信仰の対象となった存在は、輪廻の輪から外れ一段階上の存在へと昇華されます。亡霊というより精霊や聖霊に近い、或いは同格とされる存在、定義的には英霊とするのが一般的でしょうか。そしてそれらを引き連れてきて使い魔としているのが、この聖杯戦争のサーヴァントです」つまり、それは英霊ということ。英霊は生前に卓越した能力を持った英雄が死後に祭り上げられたもの。「ちょ………ちょっと待て。過去に存在していた英雄を呼び出して使役する? そんな魔術聞いたこともない」「ええ、これは魔術ではありません。あくまでも聖杯が行っていることで、魔術師であるマスターはその力を利用してサーヴァントを呼び寄せているだけなのです」「───いや、そりゃあ聖杯が本物ならそんな『奇跡』だって起きるかもしれないけどさ…………」二人とも驚いた顔を隠せない。目の前にいる少女が英雄だ、なんていってもまず信じられないだろう。「過去の英雄…………ということはセイバーさんも過去に存在していた英雄ということなのか?」どう見たって英雄には見えない少女に尋ねる。確かにあのランサーと打ち合ったところを見れば実力のほどは窺い知れるのだろうが、こんな少女の英雄など存在したのだろうか? なんて考えるのは普通である。「ええ。でなければ私はサーヴァントとして呼ばれることはまずありません」「…………ということは、昨夜のあの女の子が言っていた『ヘラクレス』というのは………」「………バーサーカーのマスターが言った通り『ギリシャの英雄』でしょう」それを聞いた鐘はもう疑うことをやめた。ここで嘘をつくメリットはないだろうし、仮に嘘であったとしてもあの怪物の存在が消えてなくなるわけでもない。彼女のいう事は本当だろう、と結論づけたのだ。「なあ、セイバー。マスターっていうのはその過去の英雄を従える魔術師のことだよな。それはいいんだけど、セイバーのことがよくわからない。それにランサーにバーサーカー………だっけ? 聞いてはいるけどどうも本名じゃないような気がするんだが。バーサーカーには『ヘラクレス』って名前があるのに『バーサーカー』ってあの女の子も呼んでたし」「ええ、私たちの呼び名は役割毎につけられた呼称にすぎません。………そうですね、この際ですから大まかに説明していきましょう」「ああ、頼む」「私たちサーヴァントは英霊です。それぞれが“自分の生きた時代”で名を馳せたか、或いは人の身に余る偉業を成し遂げた者たち。どのような手段であれ、一個人の力だけで神域にまで上り詰めた存在です」「つまり、セイバーさんも神域に上り詰めるまで有名なことをした者………というわけなのか?」失礼だとは思うがどうもそうは見えない、と心の中で感想を漏らす。ただし昨夜の戦闘を見る限りではその限りではないが。「ええ。しかしそれは同時に短所でもあります。私たちは英霊であるが故に、その弱点も記録している。名を明かす───正体を明かすということは、その弱点をさらけ出すことになります」「───そうか。英雄っていうのは大抵、何らかの苦手な相手がいるもんな。だからセイバーとかランサー、っていう呼び名で本当の名前を隠しているのか」「はい。もっとも、セイバーと呼ばれるのはそのためだけではありません。聖杯に招かれたサーヴァントは七名いますがその全てがそれぞれの“役割”に応じて選ばれています」サーヴァントのクラスはその数と同じ七つ。 騎士─────セイバー 槍兵─────ランサー 弓兵─────アーチャー 騎乗兵─────ライダー 魔術師─────キャスター 暗殺者─────アサシン 狂戦士─────バーサーカーだと言う。そして有名な英雄ほど歴史に経歴や特徴、武器、能力、弱点などを残している。それでその名、あるいは武器でもいい。それを知られれば生前苦手とした事項、或いはは致命的な弱点を探られる可能性がある。それを隠す為のクラス名という訳である。「………………」「どうかしましたか? まだ何か分からないことがありますか?」「いや………俺は聖杯戦争っていうふざけた殺し合いに巻き込まれて、セイバーを召喚したっていうのは理解したつもりだ。そして既に契約しているというのも事実だ。けど俺にはまだ、マスターなんて言われても実感が湧いてこない」「………ええ。何も知らないということは知らないまま私を呼びだした、ということですからね。しかし過程がどうであれ私は貴方に呼び出され、マスターであるという事実は揺るぎません。その証拠として令呪………痣の様なモノがあると思いますが」「………これか」翳した左手を見る。士郎の手の甲には赤い紋様のような刻印が刻まれていた。「令呪とはサーヴァントに対する絶対命令権にしてサーヴァントを繋ぎとめる楔でもあります。サーヴァントを律すると同時に、サーヴァントの能力以上の奇跡を可能とする大魔術の結晶の名。ですが使えるのは三回だけです。それに長期的な命令よりも瞬間的な命令の方が効果は強力ですので、使う場合は良く考えて慎重にお願いします」「…………繋ぎとめる楔、か。なあ、セイバー。俺が仮にこの令呪を放棄した場合は―――」─────俺を殺すのか?そんな言葉を口にする。今までの話を総合すれば、マスターとはサーヴァントを従える事が条件なのだろう。それを可能としているのがこの令呪。それを放棄すればマスターではなくなり、聖杯戦争への参加権を手放すことになるということなのだろうと推測しての質問。「マスター…………それは戦いを放棄する────ということですか」一転して鋭く睨んでくるセイバー。「いや………分からない。セイバーには助けてもらった恩もあるから恩返しはしたいとは思っている。けど聖杯なんてものは俺はいらない。戦う理由は………」「ない、ですか。確かに聖杯戦争を知らない者が突然参加したのですから、聖杯に望むような願いはないのかもしれません。ですがすでにランサー、バーサーカーはシロウを狙うべきターゲットとしています。仮に令呪を放棄したところでそこで安全が保たれるという保障はどこにもない」「────っ………そうだよな。氷室なんか魔術師でもないのに殺されかけたんだ。もう………逃げるっていう選択肢すらもないかもしれない」そう呟いて拳を握りしめる。自分はこれからどうすべきか。どうあるべきなのか。「────なぁ、セイバー。ランサーとかバーサーカーは、まだ………氷室を狙ってくるのか?」「…………っ」そう。彼女もまた狙われている。理由は単純。『見たから』。たったそれだけで彼女の命は消されてしまいそうになった。もう現実味の欠片すら感じられないような話ではあるが、その非現実が彼女を殺そうとしていた。「可能性としては………ゼロではありません。────いえ、もしかすると昨夜の出来事でさらに狙われる確率は増えたかもしれません」「………どういうことだ?」「ランサーはマスターの命令により殺そうとしていたようです。ランサー自身は殺す気はないらしいですが、サーヴァントはマスターの命令に基本的には絶対遵守。マスターの意志が変わらない限りは狙い続けてくるでしょう」それはまたランサーと彼女が顔を合わせるときがくる、ということである。「バーサーカーもまた命令に従います。バーサーカーのマスターは昨日の言葉からしてヒムロをシロウの協力者と思っているようですので、こちらも危険性がないとは言えません」それと、と加える。思い出すのはランサーとの戦闘後の出来事。「昨夜はランサーからヒムロを守る際に、アーチャーからの遠距離攻撃を受けました」「アーチャー………弓兵か。たしかに弓は接近して撃つようなものでもないからな………」「はい。アーチャーが一体どこから見ていたのかは知りませんが、最悪の場合私のマスターはヒムロ、と思い込んでいる可能性があります」「なっ………」「ま、待ってくれ。私がマスター? 私は魔術師という存在を昨日知ったばかりだというのに勘違いで殺されるかもしれないのか?」「アーチャーが詳しい事情を知っていたのならばその限りではないでしょう。しかし橋の一件だけ見たとするならばそうとられてもおかしくはない」そう言われては反論のしようがない。確かに昨夜の橋の一件は何も知らない敵からしてみたらそう映るだろう。「そして厄介なのがキャスターです。キャスター自身はその場にいなくても魔術によって遠距離で行われている戦闘や行動が筒抜けになってしまう恐れがあります」「つまり昨日のことも見られていた可能性がある、か。厄介っていうのは………」「キャスターは全サーヴァント中最弱の部類に入ります。しかしそれ故に様々な策略を練って攻撃を仕掛け、生き残ろうとします。────ここまで言えばわかるとは思いますが………」「………つまり、氷室を人質にして動きを封じてくるかもしれない、というわけか」「アサシンについては残念なが何も言えません。アサシンはそのクラスの特性上、高度な『気配遮断』を有します。戦闘能力自体は私よりも劣りますが、気配がない故にアサシンはサーヴァントではなくマスターを優先的に狙ってきます」「マスターを狙うっていうのは………」「サーヴァントはマスターを依り代としています。故にマスターがいなくなってしまうと、依り代となるマスターを早急に見つけないと存在できなくなり消滅してしまいます。逆に言えば───」「マスターを殺してしまえば、自分より強いサーヴァントと戦う必要はない………か」「はい。アサシンがいたのかどうかもわかりません。もしかしたらあの場に居合わせていなくてヒムロのこともシロウのことも知らないという可能性もあります。しかし知っている可能性もある。そうなった場合、マスターを殺しに来るでしょう。そして最悪の場合はアーチャーと同様に『ヒムロがセイバーのマスター』と思い込んで暗殺してくることです」「くっ…………!」士郎は苦虫を噛み潰したように顔を歪める。鐘も俯くしかない。昨日見た、というだけで大量の敵から狙われるかもしれないという日常を送ることになるというのだろうか。「ライダーに関してはこの件には全く絡んでいないと思われますが………ここまでくるとあまり意味はありませんね」「………6人中5人が狙ってくるかもしれないんだろ。一人知らないなんてことで安心できるわけもない」そう言って黙ってしまった。セイバーの隣で話を聞いていた鐘自身も悩むしかない。(私では誰かを守るとかそんな大層な考えの前に自分の身すら守ることができない)仕方がない、といって逃げてもやってくるのは死ぬという結末だけだろう。何もできない。その結論だけが鐘を苦しめていた。続く静寂。それは決して軽い静寂ではない。重い、『殺されるかもしれない』という事実を知って生まれた沈黙。「────わかった、セイバー。教えてくれてありがとう」そんな沈黙を破ったのは彼の言葉だった。鐘とセイバーを見据えて口にする。「俺は氷室を守る。狙ってくる奴がいるならその全員と戦って守り抜いてやる。他にも無関係な誰かを巻き込もうとする奴がいるなら、俺は絶対に止める。その為なら俺は自分の意思で戦える。その為に俺はマスターとして戦う」それは明確に聖杯戦争に参加するということ。そしてその理由が────前に座っている少女を守るためだということ。「衛宮。私のために、なんて理由で戦わないでくれ。どこの小説だ。そこまでする義理だってない筈だ」彼女ではサーヴァントを止める事などできない。しかし『自分のために死ぬかもしれない戦場に行く』なんてことを言われて『はい、そうですか。では私のために頑張って死に物狂いで戦ってください』なんて言うような人間ではない。「いや、このままだと氷室が殺されてしまうかもしれない。俺はそんなのを黙って見過ごすつもりもないんだ」そう言って鐘に向けていた視線を隣に座るセイバーへと移す。「………セイバー、マスターとしての知識もない。戦う理由も聖杯戦争を勝ち抜くことじゃない。それでもおまえは、俺と一緒に戦ってくれるのか?」「当然でしょう。そもそも彼女を全サーヴァントから守り抜くというのであればそれは聖杯戦争に勝ち抜くということと同義です。行き着く先は同じですし、何より私はシロウの剣になると誓った身です。異を唱える理由など存在しません」互いが互いの意志を確認する。目的こそ違えど目指す方向性が同じならば手を取り合ってそれぞれの目的を成すために進んでいけるだろう。そんなやり取りの最中、鐘だけは優れない表情をしていた。「氷室………?」「………なんだ、衛宮」「いや、何か難しそうな顔をしているから………」「そうか…………私はいつも気難しそうな顔をしていたか」「い、いや。そんなことないぞ? どうしたんだ?」「………何も問題はない」返答が素気なくなっている。なぜこんなにも素っ気なくなってしまっているのだろうか、彼女自身もわからなかった。「…………シロウ」「ん?」「ヒムロは魔術師ではありません。今の話にシロウほど早くは対応できないでしょう。少し席を外して考える時間を与えた方がいいかと思います」「………それもそうか。悪い、氷室。気付けなかった。────もう昼だし昼食の準備をするか。メシ、食って行けよ。ご馳走するからさ」そう言って二人を残して彼はキッチンへと向かった。─────第二節 苦悩─────キッチンで士郎が昼食の準備をしている間、鐘は一人脱衣所に来ていた。いつまでも浴衣姿でいるわけにはいかない。昨日洗った制服は乾いており着る分には問題はなかった。目立たない程度に小さいシミが出来ていたが大丈夫だろう。浴衣を脱ぎ、制服を着る。昨夜は親に電話して友人の家に泊まる様に言っておいたため家に帰らなくても問題はなかった。深呼吸をする。今まで聞いた情報を整理する為に一度頭の中をからっぽにしてもう一度組み立てる。考えてみれば異常だった。昨夜の学校の一件から今日まで。もちろん得体のしれない人物に命を狙われるという事実も異常であるが、彼との絡みもまた異常だった。そもそも彼と彼女は顔や名前は知っている程度だった筈だ。会話も何度かしたことはあったが、ここまでのものではなかった。(つまり特殊な環境に陥った故の逃避行動、或いは衰弱状態で優しくされたが故の心の緩み、ということか?)何度も言うが彼女は魔術師でもなければ魔術を知っている人物ですらない。あくまでも普通に生きる真人間であり、魔術の世界とは無関係。当然、本当に殺されそうになるなんてイベントは普通に生きている限りは皆無であるし、目の前で大怪我をして死んだような状態の人間―しかもそれが顔見知り―を見るということなどまずない。いわば昨日は全てが異常。自身の周囲に起こった出来事も自身の内の感情もその全てが異常。情報を整理し終えて、混乱していた自身は回復した。無論、殺されるときに震え上がらなくなった、というわけでもない。人は誰だって死にたくはないし、怖がるのは当然である。そんな本能とは別の、自身の内の感情だけは冷静でいなければならない。「彼はなぜあそこまで他人の為に、と言う理由で立ち上がることができる? あれほどの思いをしたというのに」士郎の発言はまさしく『どこの小説だ』という発言だった。彼の言った『他人を守るために戦う』。確かに人を救うということは大切だろう。警察や消防だってそうだ。犯罪者や火事から人を守るために彼らは存在する。けれど、自身の身がどう考えても危ない時は消防隊だって死地には入ろうとしない。死んでしまっては元も子もないからだ。ある程度の危険はあったとしても入れば100%死ぬしかない、と言う火災の状況にGOサインを出す消防隊の上司などいない筈だ。だが彼は違う。平気でそんな状況でも入ってきて人を助けようとする。自身が死ぬかもしれないというのに。たとえば店のアルバイトに入っていたとする。最初に習うマニュアルは『刃物など凶器を持った人物の言うことを聞く』だ。『金を出せ』といわれて『嫌だ』とは習わないだろう。それは自身の身の安全を優先するために習う事。しかし彼には“そんな常識がない”。自身の身の安全を考えない人間は絶対にどこか人間として欠落している。空想論で『そんなことは自分だってできる』と言ったところで、実際にできる人間は果たして何人いるのだろうか。ましてや守る対象が知っている人間じゃない、或いはそう繋がりが深い人間じゃない人の場合、それをできる人はさらに少ないだろう。自分の命を顧みず、また助けた報酬をも顧みず、ただ人を助けるという行為をする。冷静で客観的な物見ができ、状況判断もそれなりにできると自負している彼女にとって、彼の行動は理解できない。確かに彼は力は少なくとも彼女よりはあるだろう。自身を『魔法使い』(実際は魔術使いだが)と呼ぶのだから一般人と比べて上位にいることは間違いない。しかしそれでも勝てなかった。それを知っているはずなのにそれでも他人の為に死地へと赴く。無論、赴いたから必ず死ぬわけではないだろうがそれでも危険性は高すぎた。昨日がよい例だ。だからこそ彼女は突き付けられた難問に頭を悩ませていた。「頭が痛くなってくるな…………」死にたくはない。それは彼女だって同じ意見。自分の力で自分を守れるなら何も問題はなかっただろう。襲いかかってくる敵を迎撃するだけでいいのだから。けれど何度も言う様に彼女は真人間。迎撃できるだけの力は持っていない。となると、彼の言う通り彼に『守ってもらう』という選択肢しかなくなるわけなのだが………「理解できても納得はできない」そもそも見たという理由だけで殺されるのが彼女にしてみれば理不尽なのだ。納得なんてできるわけもない。しかし現実は最早彼女自身の力ではどうしようもなくなっていた。となると、どう考えても彼に頼るしかなくなる。ふぅ、と軽いため息をついた後「彼を信じろ、というのか。生き残ることを」別に信じたくない訳ではない。むしろ信じたい。が、それとは別に何もできない自分にイラつきを覚えていた。それに信じるなんて行為にどれほど力が存在するのだろうか。甚だ疑問ではあるが、それ以外に方法がないのもまた事実だった。コンコン、とドアがノックされる。「衛宮か?」「いえ、私です。ヒムロ、入っても構わないでしょうか」「………どうぞ」ドアが開かれて入ってくる。その姿は相変わらずのドレス姿。対する鐘はすでに制服に着替え終わっていた。「何か?」「一つ貴女に言っておくことがあります」その表情は真剣そのもの。「本来、魔術師でもない一般人には聖杯戦争について語られることはまずありません。しかしそれでも話したのは知っていた方が今後の行動にも僅かに影響がでると思ったからです」「………知らないよりも知っている方が理にかなった行動はできるだろう、という配慮ですね」「はい。ですが、今言いました通りこれは語られるべきことではない。故に─────」「他言無用でお願いする、ということでしょう。………わかってます。彼からも昨夜言われましたので」他人行儀で、冷静に、分析しながら答えていく。彼女はこのことを誰かに言うつもりなど全くなかった。言ったところで信じてもらえるとは思えないし、もしかしたら伝えたことでその人も狙われるかもしれなかったからだ。「わかっているならば結構です。では、失礼します。もう間もなく食事ができるとのことですので居間へいらしてください」そう言って出て行くセイバーの後ろ姿を眺めていた。彼女には悪意はない。事実を冷静に彼と自分に伝えただけ。けれど。「何か乗せられたような気がしてならないのは、私の気のせいだろうか」