chapter.00 / Towards Zero / ゼロ時間へep.00 / 全ての始まり─────sec.01 / 夏の公園海で囲まれた島国、日本は例年にない猛暑日を記録していた。全国で900人を超える熱中症患者が病院に搬送される一方で、日本一暑い街を目指す地域すら存在する。どうあがいても暑いのだから、いっそのこと売りに使おうという精神である。ここ冬木市もその猛暑の例外に漏れない。テレビニュースで記録的な暑さの報道、小まめな水分補給を促す報道が連日の様に続いている。冬木大橋。未遠川に掛かるその橋は、『新都』と呼ばれる区域と『深山町』と呼ばれる区域を繋げる重要な役割を担っている。近代化が進む新都と歴史ある深山町の町並み、異なる趣の明確な線引き場所となっている橋である。その傍には公園がある。特筆するほど珍しいものではないが、近所の子供たちが集い遊ぶには不都合もない。一通りの遊具は揃っており芝生も一部植えられて傍には未遠川が流れているという、とっておきの憩いの場である。当然そこには子供だけではなく、その母親達も穏やかな一時を過ごす姿が見受けられる。滑り台で遊ぶ子供、ブランコに座り親に背を押してもらって楽しむ子供、他の子供と一緒になって駆け回る子供達。その親たちもまたそれぞれの時間を過ごし、交流を楽しんでいた。夏真っ盛りにも関わらずこれだけ活気づいているのは、通う学校が夏休みの時期だからである。そんな平和な一時が流れる公園でポツンと一人、ベンチに座っている子供がいる。年齢は七歳前後だろうか、灰色の長髪が特徴の少女。公園にいる子供達と遊ぶでもなく、この公園の景色を眺めているでもないらしい。白いワンピースを着、麦わら帽子を被った少女はただ一人静かにベンチに座っている。「─────」と、ここで少女が立ち上がり、木陰へと向かって歩き出した。炎天下の中、ベンチに座っているのが耐えられなくなったのだろう。だが長時間座っていたために軽い熱中症になっていた。足元がフラつき、こけてしまった。「───いた……、あ」腕に力を入れて立ち上がろうとした少女に手が差し伸べられた。─────赤い髪の少年。「大丈夫? ひーちゃん」太陽の光の所為で顔はよく見えなかった。けれどその少女にとっては見間違えなどない姿、聞き間違えなどない声。「うん、大丈夫だよ。し……」差し伸べてくれた子の手を取り立ち上がるも、再びフラついて倒れそうになる。その少女の体を少年が抱きとめた。「ひーちゃん、無茶しちゃダメ。ほら、あっちに行こう」少女がこけないようにしっかりと手と肩を掴み木陰へと入る。暑い夏ではあるが、木陰に入ると若干暑さは和らいだ。「はい、これ」そういって渡されたのは一杯のお茶だった。少年が持ってきていた水筒に入っているお茶。「ありがとう」感謝の気持ちを素直に伝えてお茶を飲む。こくこく、と可愛らしく喉を潤していく。「大丈夫? お茶、まだ飲む?」「ううん、もう大丈夫」そんな少女を見ていると額から汗が流れているのが目についた。おもむろにポケットに手を入れると、そこからハンカチを取り出して少女の汗を拭いていく。「─────ありがとう」少女は少年の顔を見て、向日葵のような笑顔でお礼を述べた。それを見た少年もまた笑顔で応じていた。木陰に移動してから少し時間が経った頃に少年が訪ねてきた。「今日はどこ冒険しよっか」どうやら公園にある遊具で遊ぶ気は無いらしい。「どこでもいいよ? 一緒に遊べたら楽しいから」少女もまた遊具で遊ぼうとは考えていないらしい。普通の子供ならブランコなり、滑り台なりジャングルジムなりに遊びに行きそうなものである。「それじゃあ僕の家にくる? 庭に向日葵が咲いたんだ。それ見ながらスイカを食べようよ」「うん、それじゃ行こう!」二人は少年の家に向かうため歩き出した。手を繋いでまるで仲の良い恋人のように。今日も夏の日差しは暑い。けれど、二人一緒にいる彼と彼女にとってそれはあまり関係のない話のようだった。─────sec.02 / 向日葵の咲く家暑いアスファルトの道を、二人は手を繋いで歩く。公園を出てから何分経っただろうか、もう公園の姿形も見えなくなっていた。その代わりに目の前に少年の家が見えてきた。二人はこの間もいろいろな会話をしていた。昨日の晩御飯は何だった? 今日は何時に起きた? 今日はいつぐらいに公園に着いた? 二人は明確に会う時間を決めている。けれど二人揃って相手よりも早く会う場所へ着こうとするため、予定の時間よりも早く会うことになる。一緒にいる時間は長くなり、遊ぶ時間も長くなる。二人にとってそれは幸福の時間。好きな相手と少しでも長い間、一緒に遊べるという時間。だから二人は一日の大半を一緒に過ごしている。二人の両親も旧知の仲なので、互いの家に行っても二人は歓迎されていた。「ただいまー」「お帰り。あら、いらっしゃい」「お邪魔します」家に入る二人。少年の要望を聞いた母親が、宛がわれた子供部屋にスイカを持ってくる。二人はそのスイカを食べながら、綺麗に庭に咲いた向日葵を眺めている。勿論会話は弾んでいるようだ。食べ終えたら次は眺めていた向日葵のスケッチ。大きめの画用紙にそれぞれがそれぞれの向日葵を描いていく。少年は絵を描くのが得意ではないらしく、悪戦苦闘していた。一方少女は反対に綺麗にスケッチをしている。大よそ七歳前後の子供が描いたとは思えないようなスケッチだ。「ひーちゃん、上手だねー。いいなあ、ひーちゃんみたいに上手くなりたい」互いのスケッチを見せ合いっこするや否や、少年は描かれたスケッチを絶賛する。褒められた少女は嬉しそうに顔を緩めた。好きな相手から褒められることは誰でも嬉しいものである。しばらくして子供部屋に母親が入ってきた。覗いてみれば、スケッチを終えた二人は眠ってしまっていた。それを見た母親が夏用のタオルケット一枚を二人のお腹にかける。二人の手は繋いだまま、安寝やすい顔で眠っていた。夕方。先に目を覚ました少女は隣で寝ている少年の顔を覗き込んだ。「……ふふ」薄らと笑い、ほっぺたを指でつつく。何度かつついている内に少年が目を覚ました。「おはよう、しろ君」「ん…、おはよう、ひーちゃん」寝起きではあったが笑って挨拶。少女が幸せそうに笑っているのを見て、少年も無意識のうちに幸せそうに笑っていた。その後部屋でテレビゲームをすることとなった二人。スケッチの時とは打って変わってこちらは少年の方が上手だった。「わぁー、負けたぁー」くやしい、という言葉を言いつつも少女の顔は笑顔だった。夜。少女の親が車で少年の家に迎えに来た。夏でまだ少し明るいとはいえこの時間帯を子供が一人歩いて帰るのは躊躇われたからだろう。少年の母親が連絡を入れたのだった。迎えが来たことに少し残念そうな顔をする少女。しかし家に帰らないわけにもいかないので呼んでいる親に着いていく。「ひーちゃん」その背中に声がかかった。反応して後ろを振り返ったら「また、明日も遊ぼうね」そういって笑顔で小さく手を振っている少年がいた。今日という日は終わる。けれどそれは同時に明日という日がまたやってくるということ。明日は何をしよう? そう考えるだけで心は楽しくなっていく。だから「うん、明日も遊ぼうね。絶対に約束だよ、しろ君!」親に手を引かれ車に乗り込み走り去っていく。それが見えなくなるまで少年はずっと手を振っていた。そんな我が子の姿を見た母親が話しかける。「士郎、鐘ちゃんとは本当に仲良しだね。大切な人は大切にしなさい。泣かしちゃダメよ、いい? お母さんとの約束」そう言って小指を出した。指切りのつもりだろう。「うん、わかってる。ひーちゃんを泣かせる悪い奴は僕がやっつけるんだから!」いかにも歳相応の答えを返しながら小指を出して指切りをする少年。かわいい答えに小さく笑いながら、母親もまた指切りをしたのだった。─────sec.03 / 無機質な冬の街夏とは打って変わり冬木市は一段と冷え込んでいた。清潔で華美ながら無機質で無個性な新都のオフィス街が、より一層寒さを誇張しているようにも感じる。当然同じ市内である深山町も寒さは同じ。だがそんな寒い冬でも元気溌剌な子供達にとってはあまり関係がない。雪が降ろうものならば、喜んで外に出てはしゃぎ遊びまわっている。大人は交通機関の乱れや雪かきの手間で頭を抱えてしまうというのに。所謂“子供は風の子”ということである。そしてそれはこの二人の子供にも当てはまる。違う点は少し遠出をして───といっても歩いていける距離だが───様々な冬の景色を見たり、他の子供が見れば頭を傾げるような楽しみ方をしているところか。少し大人びた感じもするが、ピクニックと称して持参している食べ物を見るとやはり子供だということを思い知らされる。オフィス街として予定され、着実に建設工事が進められている新都。時折ある小さな公園はオフィスで働く人たちがたまにやってきて息抜きをする場所として最適である。二人は歩く。人気の少ない道から公園を抜けて人通りの多い道へ。鉄筋と硝子とモルタルの現代建築の建設ラッシュが続く新都。東京中心部のような都会、というわけではないが、小さな子供だけでいくには少し威圧されてしまう。しかしこの二人には関係ない。いつも一緒の二人、様々な場所を開いて回って景色を見てきた二人はこういう道も歩いていたからだ。歩いている最中に少女が地面の段差に躓いてこけてしまった。膝を小さく擦りむいた程度だったが、やはり痛いものは痛い。これじゃいけないと少女に肩を貸すようにして歩いていく。その距離は手を繋いで歩くときよりもさらに近い。そうして先ほど通り抜けた公園に戻り、ベンチに座って休憩する。「大丈夫?」「ん………、ちょっと痛いけど平気だよ」怪我をした膝へ目をやると薄らと赤くなっており、血が僅かに滲み出ていた。残念ながら救急道具は持ち合わせていない。傷を見ながら二人が会話をしているところに、人が近づいてきた。それに気が付いた二人が視線をやると、そこには「あら? 怪我をしてるわね、大丈夫?」白い女性が立っていた。白い帽子に白いコート、そして白い長髪に赤い瞳をした女性だ。「大丈夫………です」子供でも一目で外国人とわかる姿。そんな見知らぬ人から突然声をかけられた少女は戸惑い、少年の服を握る。少年もまたその見知らぬ外国人から守るように少女の前に立った。二人は「知らない人にはついていっちゃいけない」と親から教え込まれている。その相手が男性であろうと女性であろうと“見知らぬ人”には変わらない。ましてやそれが外国人であるならばなおさらで、必然的に警戒心が高くなる。しかしその声をかけた女性はというと二人の警戒を気に留めた様子もなく、近づいてきたもう一人の外国人に声をかけた。「ねぇ、セイバー。絆創膏ってあったかしら?」「は? 絆創膏、ですか。確か鞄の中にあったとは思いますが。アイリスフィール、どこか怪我をされたのですか?」一言で表すとするならば「白」の女性が、同じく一言で表すならば「黒」の“男性”と会話をしている。どちらも今まで見たことがない人物。「いいえ、私じゃないわ。その……灰色の長髪の子。膝に擦り傷があるみたいだから。渡そうかなって」「………なるほど」黒の“男性”が少年と少女に視線をやる。少女の膝には確かに擦り傷があった。白の女性の意思を確認した黒の“男性”は、鞄の中から絆創膏を取り出して白の女性に手渡した。「はい。これを膝に貼れば痛いのも直るわ。スカートが汚れることもないから安心して」手渡された絆創膏。受け取った少女は一瞬きょとん、とした顔になったが親切にしてくれたのだと理解した。「あ………ありがとう、ございます」少し緊張しつつも子供にしてはしっかりとした言葉使いで白の女性にお礼を言った。手渡された絆創膏を傷口に貼る。「ありがとう、お姉さん」そんな光景を見た少年もまた素直に感謝の言葉を述べた。「どういたしまして。貴方がこの子の騎士ナイトなのかな?」「な…ない、と? は…はい、そうです………?」問いかけてきた言葉の意味をイマイチ理解できない少年。答えこそしたが理解できていない、ということは白の女性もわかったようだ。「あら、ごめんなさい。ちょっと難しかったかな。けど、見た感じでは間違ってはいなさそうね」少年の目線と合う様にしゃがみこんでいた白の女性は立ち上がった。「どうかしましたか? アイリスフィール」「いいえ。いろんなところを見て回ろうとして少し細い道に入ったけれど、正解だったなって」「正解……、というのは?」「ほんの数十分前の私とセイバーを見てるみたい、ってこと」その言葉にまたもや頭を傾げる黒の“男性”。当然ベンチに座っていた少女も、その傍に立つ少年も意味を理解することはできない。「行きましょう、セイバー。まだ見てみたいところは沢山あるんだもの。それじゃあね、エスコート頑張ってね」手を振って去っていく白の女性と同伴する黒の“男性”。最後もまた二人にはイマイチ理解できない言葉を残して去って行った。二人が視界からいなくなるまで茫然とその姿を眺めていた。「なんだったんだろうね、あのお姉さん」しかしそんな事を知る由もない少女が答えられる筈もなく「多分………外国の人だよ」と、誰がどう見てもわかる答えを答えとして返していた。◆夕刻時。今日は不思議な人と出会ったものだと二人会話しながらいつもの場所で別れる。別れる時はすごく寂しい。それが好きな人となら尚更である。そして加えるとこれから少し、二人は会えなくなる。「明日から遊びに行くんだよね? ひーちゃん」「うん。……私はしろ君と一緒に居たいけど……」「ひーちゃん。お父さんとお母さんが遊びに連れて行ってくれるんだから、ちゃんと楽しまなきゃダメだよ」俯いて少し暗い顔をしていた少女に笑いかける。「だから、帰ってきたらどんな事をしたか教えてね、ひーちゃん」それは。また帰ってきてから遊ぼうね、という約束。赤い髪の少年が、灰色の長髪の少女に投げかけた約束。「うん!お土産も持ってくるから一緒に食べようね、しろ君!」だから少女も笑う。屈託のない真っ直ぐな笑顔で。そうして二人は別れた。少しだけ会えないけれど、また必ず会って一緒に遊ぶ。二人はそう心に誓った。─────sec.04 / そして絶望がやってくる少女が帰宅できたのは夜も遅い時間だった。流石にこの時間から外へ出歩くわけにもいかない。(だから、明日)そう思って眠りにつく。また明日からあの少年に会える、その事実で頬を僅かに緩めながら………。***interlude In***地響きがする。どこかの家屋が倒壊した音だろうか。視界は真っ赤に燃え上がり、あちこちから黒い雲が立ち上る。走れるだけの体力はすでに無く、走れるだけの気力もない。─────目が覚めたら家が燃えていた。父親が部屋に助けに来た。何が起きたかも理解できないまま、けれどこの状況は明らかにおかしいという認識。急いでこの家を出ようと、少年の腕を掴もうと近寄った時だった。地面が揺れた。子供である少年にはそれだけしか認識できなかった。近づいてきた父親に突き飛ばされ、その光景を目の当たりにする。見たこともないような大きな瓦礫が、今さっき自分がいた場所にあった。一瞬何も考えられなくなって、けれどそこから見えた腕が少年に事実を突きつけた。下敷きになった人物の名前を叫び助け出そうとするが、腕はぴくりとも動かない。そしてその行為も母親によって止められた。自分が今いるこの家から逃げることとなる。母親と一緒に家の外へ。そこへ家の完全崩壊が少年へと襲い掛かった。それが理解できるほど、今の少年は正常ではなく。結果落下してくる家の一部から母親が身を呈して少年を助け出した。─────そう。先ほどの父親と同じように。「お母さん!!!!」必死に助け出そうとするが、火の手が強く近づくことができない。それでも助け出そうと泣きじゃくりながらも近づこうとする。「逃げ……なさい……!」それを母親は許さなかった。「ここから遠くへ、逃げなさい!士郎はいつも街を歩いていたんでしょう!? なら、士郎なら逃げ切れる。だから……」「嫌だ、いやだ!なんで、お母さんが、お母さんも……!なんで、なんで!?」現状の理解ができない。子供である少年にとって今まで何も変わらない一日だった筈。いや、正確には少し外を出歩くのを控えなさい、と注意されてはいたが、大筋として変化はなかった筈だ。それが夜眠って目を覚ましたら赤く染まっていたのだ。「士郎!早く……逃げ、なさい。貴方が死んだら……鐘ちゃん、悲しむでしょ。お母さん、言った……よね? 泣かせない、って」「─────」ピタリ、と動きが止まった。母親の言葉を聞いて脳裏に浮かんだのは、あの灰色の髪の少女の姿。今、この絶望とはまるで無関係の様に笑っている姿が思い浮かぶ。そして同時に、ある日母親と指切りをして約束した事もこの混乱の中で蘇ってくる。「お母さんとの……約束、守れない……? 士郎」「約束は……守る、お母さん」泣きじゃくりながらも母親の言葉を理解しようとする。嘘つきにはなるな、なんてどこの家庭でも言われそうな事を思い出しながら。「なら─────ここから逃げなさい。鐘ちゃんの家は、わかるでしょ……? 少し、遠いけど……士郎なら預かってくれる」「でも、お母さん、お母さんが……!お父さんも……!!」火は確実に迫ってきているのに、それでも動こうとしない。否、動ける筈がない。目の前で自分の親が死にかけているのに、どうしてそう簡単に動けようか。この間にもどんどん逃げ道が失われていく。これ以上脱出が遅れようものなら、少年も家の中で焼け死ぬだろう。そんな事だけは決してあってはならない。体の半分は家の燃え盛る瓦礫で潰れてしまっている。そこで分かる。分かってしまった。もう、自分にも先はない、と。だからこそ。だからこそ。未来ある自分達夫婦の、たった一人の大切な息子だけでも。───助かってほしいと、切に願った。「士郎! 早く行きなさい!!」涙を溢しながら。こんな恐怖でいっぱいになる状況下でありながら、それでも母親である自分を助けようと頑張った幼いその勇姿をしっかりと目に焼き付けて。最愛の夫と、生涯自慢できるであろうその息子との記憶達が走馬灯の様に目の前に現れて。彼女の視界は赤く染まった。母親の最期の叱責。それは少年が今まで聞いたどれよりも強い口調だった。耐えきれなくなった少年は出口に向かって走り出す。その間にも火の手が襲い掛かり、母親の場所を包み込んだ。だが、振り返らない。振り返るな、走って進めと言われたから。家を出て見慣れた筈の街を走る。その街はあまりにも知っている光景からかけ離れていた。ただひたすらに走り続けた。涙を流し、恐怖に蝕まれ、熱さで朦朧としながらそれでも約束を守る為に前へと進み続けた。だがその間にも落下物の障害にあったり、瓦礫に躓いてこけて血が出たりと体はボロボロになっていた。走れるほどの体力もなくなりただ茫然と歩いている。それ以上に少年の精神は完全に果てていた。両親が目の前で死に、街のあちこちに倒れている人がいる。涙は枯れて、今にも倒れそうな体をほとんど無意識に歩き続かせていた。 (ひーちゃ……ん)それは。最後の理性が、それでも彼女の家キボウに向かおうと脚を動かしていたのである。約束を守る為に。助かりたい為に。会いたい為に。ああ、そうだ。もし無事に会う事が出来たら彼女に抱きつこう。抱きついて、涙を流して。今まで耐えてきた分を少しだけ外へと出して。そして約束を守ろう。会えたら────(────────────────────────)ふと、何かが視界に入ってきた。瓦礫の下敷きになっている人がいる。もう何度も見た光景。だが、それは今までのどれとも違う衝撃を与えた。(─────ぁ)その下敷きになった人は俯せに倒れている。顔は見えない。首より下が瓦礫の下敷きになっていてどうなっているかわからない。年齢は同じくらいだろうか、小さい子供のようだ。少女らしく、髪が長い。そして、その髪が黒色のはずなのに灰色に見えた。見えてしまった。「─────」違う、と否定する。だが見えてしまった。そして想像してしまった。─────そもそもこの火災が尋常じゃない事くらい、子供である少年にも理解できる。じゃあなぜそこで考えなかったのか。…………この火災が自分だけではなく、彼女にも被害を加えているかもしれないと。考えたくなかった。父親も母親も。目の前で押しつぶされて燃やされて。死んでいくさまを見て。彼女だけは。あの灰色の少女だけは無事であってほしいと願った。願ったからこそ、考えなかった。考えそうになる頭を無理矢理切り替えて、考えないようにしていた。のに。─────限界だった精神に強大な、これ以上ない負荷がかかった。「あ」その時。少年の言葉が失われた。手はそこで憤怒を失くし、足はそこで希望を失くし、己はそこで自身を失くした。「あ あああああああ ああ あ あああ!!!!」そうして────絶望が少年を支配する。─────ここに、「しろ君」と呼ばれていた少年は今、呆気なく死を迎えた。***interlude Out***地響きで飛び起きた少女の両親が、夜にも関わらず明るくなっていることに気付く。消防の音が耳触りに聞こえるほどに五月蠅い。すぐさまベランダに出て、そして即座に理解する。大火災。一言で的確に表現するのであれば、何よりもその言葉に尽きた。だがその大火災は少女の両親が今まで見てきた火災のどれよりも遥かに大きいものだ。経験したことなど当然なく、二人ともただ固まってその光景を見ていることしかできなかった。そう。一人の少女がベランダに出てくるまでは。「お母さん、どうしたの………」灰色の長髪の少女がやってくる。けたたましいサイレンの音が鳴り響いているのだ、目が覚めない方がおかしい。しかしまだ眠いのだろう。目は完全に開ききってはいなく、擦りながらベランダに出てきた少女。「………え?」それもここまで。次には意識が覚醒する。ベランダから見た光景は、はたしてこのような真っ赤な光景だっただろうか。あの少年と一緒に眺めていた光景は、はたして黒煙が立ち上るような世界だっただろうか。違う、と少女は断言する。あの少年と一緒に見た光景はこんな赤くはなかった。あの少年と一緒に眺めた街はこんな世界ではなかった。そうして気付く。あの燃えている方角は、いつも少年に会うために向かっている方角だと。「しろ、君………!」小さく呟いたその言葉を、両親は聞き逃さなかった。ベランダを出て玄関へ向かおうと走り出す少女を父親が止める。「鐘、どこに行くんだ!」「しろ君が!しろ君が、あの中にいるの!だから、だから行かなきゃ!」そう叫んだ少女は腕を掴む父親の手を放そうと躍起になる。だが少女の力では大人、しかも男性の手を引きはがすことはできない。「はな・・・して、お父さん!離して!」「鐘!落ち着きなさい!」「離し………て!」その瞳には涙が滲み始めていた。ベランダから見た光景が、脳裏から離れない。少し視線をベランダへ移せば、真っ赤な空が見える。あらゆるものを焼き尽くす、この世を焼き尽くす死の劫火。ああ、大人な両親にとっては確かに大火災ではあるが、この世を焼き尽くす、なんてことはありえない。せいぜい地獄を見せる『業火』だ。それでも十分な破壊力はあるが。だが、この少女にとっては違う。文字通り、言葉通り、この世を焼き尽くしかねない『劫火』なのだ。一体何を以てしてこの少女はあの火災をそう判断したかはわからない。大人にしかわからない世界があるように、子供にしかわからない・理解できない世界も確かに存在する。だからこそ。「離して、お父さん!!!」泣きじゃくりながら父親の掴む手を叩きながら、必死に体を動かす。もはやその声は両親が聞いたことがないほどの叫び声………否、『悲鳴』だった。「鐘、消防車がやってきて火を消してくれる。士郎君もきっと助かる!だから──」「やだ、やだやだやだぁー!!」母親の言葉すらも否定する。正常な判断などもうそこにない。自身の内にある、経験したことがないほどの不安と恐怖を一秒でも早く解消しなければ壊れかねない。──あの火災は、一目見ただけの少女を一瞬で突き落すほどの精神的破壊力を持っていた。「いい加減にしなさい!!」だが、それは少女だけに当てはまるものではない。混乱の度合いこそ少女よりマシではあるが、少女の両親とて少なからず混乱している。だからなのだろう。こうやって叫んでしまった。─────それを、父親は一生後悔することとなる。父親の叱責に驚いた少女の体がビクッ、と停止した。その顔は驚きを隠せずに、そして恐怖が滲み出ていた。その顔を見て、自分の思考がどうなったかを確認する前に父親はすでに次の行動へと移していた。その行動を後になって想う。子供相手にすら、大人である自分の行動・思考に自信が持てなかった故なのだろう、と。「きゃあ!」父親は無理矢理少女の部屋へと連れて行き、ベッドの上に放り投げた。小さな体が宙を舞い、ベッドの上に落ちる。それを確認した父親は部屋の扉を閉め、そして出られない様に扉の前に家具を置いた。ガチャガチャ、とドアノブを動かす音と、扉を開けようとして家具にぶつかる音が家に響く。「開けて!出してよ、お父さん!」ドンドンドン!と、少女の悲痛な懇願の声が両親の心を痛めつける。だが、決してその扉は開くことはない。理由は明白だった。「鐘、お前が行ったところで何もできない。消防に任せるんだ」「鐘、貴女が心配しなくても士郎君は大丈夫。信じなさい。………きっと、生きていると信じていれば生きているわよ」………はたして、母親の最後の言葉は愛娘に向けて言った言葉だっただろうか。消防に任せたところであの大火災を早々に鎮火することはできない。それにただ願うだけで人が救われるようなファンタジーな世界でもない。少女の両親はそれを理解している。だが、現に少女の両親にさえできることはない。故に心のどこかに諦観があったとしても、それをすることしかできなかった。◆どれほどの時間が経っただろうか。どれほどの涙を流しただろうか。いくらドアを叩いても、子供の力で壊れるほど軟な作りではない以上。こうしてどうしようもなくベッドに倒れこむ他なかった。「痛い………」叩き続けた小さな手はあまりにも叩きすぎた所為か血が滲みだしている。その手で叩き続けた所為でドアには僅かに、ほんのわずかにだけ血が付着している。何もできない。そう分かったから、少女は母親が言った様にただあの赤髪の少年が生きていることを願った。僅かに赤く滲む手。ふと、思いだした。道でこけて、あの少年に支えられて公園まで歩いたことを。どちらがより痛い状態だったか。怪我の度合い的には断然道でこけた時だろう。だが。「う………ううぅ………」枕を抱く腕に、力が入る。あの少年を思い出すと、どうしようもなく悲しくなる。怖くなる。苦しくなる。─────嘘少し前の少女なら、絶対にこう言い返していただろう。あの赤髪の少年との記憶はどれもこれも幸福に満ちていた。そこに嬉しさを感じることはあっても。決して、決して。悲しくなるなんてことはなかった筈なのに。幼い少女はそこまでの思考は働かない。だが、働かなくともその心に訪れるもの。如何とも耐え難い、苦痛だか息苦しさだかわからない、経験したことのないものを味わっている。体が熱くなる。心が熱くなる。それは心地よいものではなく、経験したくない感覚。─────ああ、なら眠ってしまえ少女自身がそう思ったかどうかはわからない。ただ事実として少女の震えは止まり、そして意識は闇へと落ちていった。恐怖で押し潰されそうな心の中で、それでも彼の少年が生きていることを願って──────────sec.05 / 赤い人形気が付いたら焼野原にいた。見慣れた筈の街は一面廃墟になっていて、映画で見る戦闘跡のようだった。建物のほとんどが崩れていて、その中で自分だけが原型を保っているのが不思議なくらい。この周辺で生きているのは自分だけ。それはわかった。周りに立っている人が一人もいなかったから。生き延びたからには生きなくちゃ、と思った。周りにいた人達のように、黒焦げになるのがイヤだったわけじゃない。─────きっとああなりたくない、という気持ちより、もっと別の理由で心が括られていたからだろう。周囲には倒れている人がたくさんいる。時折吹きつける風は熱波の如く耐え難い苦しさを与え、その耳には呪いじみた低い風切音のようなものが聞こえる。─────なんで、あそこにいたんだろう目の前に瓦礫に埋もれた黒髪の女の子。俯せになって顔こそ見えなかったけれど、生きていないことくらいはわかった。─────ナンデアソコデ立チ尽ツクシテイタンダロウそこで思考を切った。周囲を見渡してもそこは赤い世界。助かる道理はない。幼い子供ですら理解できるほど、その場所は地獄だった。ならば今の思考に意味はない。遅かれ早かれ周りと同化するのであれば、今の思考は無意味だから。そうして倒れた。空を見上げたら今すぐにでも雨が降りそうな灰色の空模様。─────ああその時何を思ったかなど少年にはわからない。─────雨が降れば、この火事も終わる─────息もできないくせに口を動かした。両親が死んだこともわかった。周りにいなかったから。家がなくなったのも覚えている。家があった場所も覚えている。しかしそれだけだった。そしてもうそれすらも意味がない。もう何も残っていない。残っているのはこの地獄のような光景を記録した記憶だけ。簡単な話。何もかもを失って、それでいて子供の体が残っている。要約すれば。生きる代わりに、心が死んだのだった。◆目を覚ましたら、見知らぬ場所にいた。どうやら病院らしい。周囲には怪我をした人達がいる。大怪我をしているようだが、どうやら助かった人達らしい。そんな場所に数日が経ち、漸く物事が何とか呑み込めるようになった。ここ数日のことは思い出せるようになった。けれどそれより前のことはどうも無理だった。たまに診に来る医者は『大丈夫、少しずつ回復するよ』と、その一言だった。両親は消えて、体中は包帯だらけ。状況は分からないけど、独りぼっちになったんだということは分かった。納得するのも早かった。周囲にいるのはみんな子供だったから。これからどうなるのだろう、なんて考えながら漠然と天井を見ていた時に、その人はやってきた。「こんにちは、君が士郎君だね?」その人はしわくちゃの背広にボサボサの髪だった。「率直に訊くけど、孤児院に預けられるのと初めて会ったおじさんに引き取られるのと、どっちがいいかな」親戚なのか、と問うと赤の他人だよ、と答える人。ここに倒れている身としたら、どっちに行こうとも同じ。だったらこの人についていこうと思った。─────どうせ、何も残っていないのだから「そうか、よかった。なら早く身支度を済ませよう。新しい家に一日でも早く慣れなくっちゃいけないからね」そう言ってその人は慌ただしく荷物を纏める。慣れていないのだろうか、子供から見ても雑だった。「おっと、言い忘れた事がった。うちに来る前に一つだけ教えなくちゃいけないことがある」これからどこに行く?なんて気軽な口調で言うその人。「─────うん、初めに言っておくとね、僕は魔法使いなんだ」─────sec.06 / 灰色の人形あの大火災から既に数日が経過していた。テレビニュースは連日冬木市の大火災が取り上げられている。『大火災!死者500人超えか!?』『被害家屋は数百世帯!』などといった報道が飛び交っている。「……………」その報道を見るたびに少女はテレビのチャンネルを変える。どれだけ両親がそのニュースを見ていたところで、無言でチャンネルを変えていく。今の少女にとって必要な情報は死者の数ではない。ましてや焼け焦げた家の数なんかでもない。生存者の確認。それが彼女にとって最大の問題。ただ機械的に、無言でテレビに向き合う姿。─────まるで人形みたいだなんて、愛娘に対して思ってはいけないことを思ってしまった。無論、そんなものを見続けたくなど断じて無いので、父親は自分のできる範囲で捜索を開始する。だが、どこにもあの少年が、あの家族が保護された、救出されたという情報はなかった。病院・役所・避難所。火災地一体は軒並みインフラが壊滅しており、それの対応もあってかロクに情報が入ってこない。だが、それでも駆け回る。日に日に弱っていく少女。その顔に笑顔など微塵もない。あるのは崩れそうになる心の大部分を、それでも『生きている』という細い希望の柱でなんとか支えている姿。あの少年との仲が良かったことは十分に理解している。あの少年と一緒にいた時の少女が一番輝いて楽しそうだったということも知っている。─────その欠片など、微塵もないその事実が、各所を巡る父親の足をより一層早くしていた。そして既に数日。発見が遅れれば遅れるほど生存確率は低くなる。大人である両親は十分承知していたし、幼い少女も漠然とではあるがそれを理解していた。一日が過ぎる度に崩れる心の瓦礫は量を増し、それを支える柱はより細くなっていく。だが、それでも支える。その姿は、あの赤い少年が助かってほしいという希望と同時に「助けてほしい」という自身の懇願も含まれていた。あの少年が、少女が好きになった少年が生きていると信じて。どこかに保護されていると信じて。そうでもしなければ、あの大火災当夜の得体のしれない恐怖によって、今度こそ崩れてしまう。─────そうして、とうとうその日はやってくることはなかった。帰宅する父親に駆け寄って少年がいたかと確認する。いつもの父親ならば『まだ回っていないところがあるからわからない』と言って答えをはぐらかしてくる。最初は本当にまだ捜索していない場所があった。次は一度全て回ったが、もう一周するために同じ答えを返した。それが、いつからだっただろうか。単純に先延ばしをしているだけのものとなってしまっていたのは。返事を渋る父親に答えを聞かせてと乞う少女。嘘を言ったところでこの世界にあの少年はいない以上、ここが限界だった。「………見つからなかった、鐘」その瞬間。少女の足元が崩れ去ったような気がした。欠けてしまった少女の顔から血の気が引いていく。全身がひどく冷めていく。自分の心の支えだった少年がいなくなった。その事実が少女の体を、脳を、心を蝕んだ。立っていた足に力が入らなくなり、両膝をついて座り込んだ。表情は凍ったまま、父親の言葉を理解する。彼と一緒に遊んだ日々。彼と一緒に寝た事もあったし、一緒に夕食を食べたこともあった。お互いがお互いをスケッチしあって。手を繋いでいろんな場所に行って、いろんな景色を見た。それがもうやってこない。あの幸せだった日々はもう戻ってこない。帰ってこない。大好きだったあの赤い髪の少年はもう、イナイ。「─────ぁ」泣いて、泣いて、泣いて。枯れた筈の涙が頬を伝っていた。泣いていると気付き、もう帰ってこないと解り、別れなければならないと悟る。しかし今までの幸せと別れることなど永久にできない。あの少年といつまでも一緒にいたい。再生され続ける記憶。その再生が終わった………あの大火災へと辿り着いたとき。心を支えていた柱は簡単にへし折れた。支えていた心の瓦礫は容赦なくその下にいた少女へ落下する。─────そこから先はもう何もない。プツン、とまるでテレビの電源を切るように簡単に、そして呆気なく全てが終了した。─────sec.07 / そうして二人はいなくなった目を覚めして気が付けば、そこは自室の天井ではなかった。周囲を見渡すとどうやら病院の個室らしい。傍には花が入った花瓶があった。時折吹きこむ風がカーテンを靡かせる。なぜこんなところにいるのだろう、と少女は考える。思い出せないことに気が付いて、思い出そうと必死になる。家にいて、テレビを見ていて、火事があって。─────ズキリ、と頭が痛むコンコン、とノックの音と共に人が入ってくる。両親と医者である。その姿を見て少女は安堵する。「ねぇ、お母さん、お父さん。なんで私病院にいるの?」その言葉を聞いた両親は僅かに言葉を詰まらせた。ショックによる記憶障害だろう、という診断結果を医者から伝えられていた。実際にこの火災によって記憶を失ってしまった子供はまだ数人いたらしい。少女は比較的軽微で、実生活には支障はないと判断された。だがそれで安心してはいけない。突如として襲ってくる『フラッシュバック』等で再経験してしまう恐れは十二分にあった。故にPTSD(心的外傷後ストレス障害)やASD(急性ストレス障害)になってしまうこともあり得なくはない。ならば、事実は言うべきではない。だから両親は嘘をつく。一生、墓の下まで持っていく嘘をつく。たった一人の最愛の愛娘を守るために、優しい嘘をつく。「体調不良で念のために病院に入院していただけよ、鐘」「体調不良………? 私、あの火の近くにいたの?」その言葉を聞いてギクリ、と体を強張らせた。だが、少女の言っている内容が微妙にずれていることがわかり、答える。「あ、いや違う。単純に気持ちが悪くなって倒れたということだ、鐘」「そうなんだ………御免なさい、お父さんお母さん。もう大丈夫だよ」そういって笑う少女。その姿を見て両親は思う。あの本当に幸せそうな自分達の娘の笑顔は、記憶と共に永久に失われたのだと。彼女の記憶から、あの少年に関する記憶が完全に忘却の彼方へと葬り去られていた。それは彼女が生きるための、脳の防衛本能なのだろうか。真実は誰にもわからない。