…まずは水に慣れることが大切だから。っていうレイの提案で、シンジはスクーバ装備一式を身に付けてプールに潜ってる。バディにはアスカ。子離れできない母親みたいに、シンジの一挙手一投足を見守ってた。
スクリーンネットは斜めに設置され、深いところでも2メートル。浅いところでは1メートルもないだろう。プールに何か落としても取りこぼさないように、視線も通さないくらい目の細かい網だから、シンジでも大丈夫みたいね。
意外だったのは、アスカがあまりレイを毛嫌いしなくなってきたらしいってコト。こうしてレイの提案を採用しているのことからも、そのことが伺える。
その兆候は、シンジが溺れた直後。浅間山への出撃準備の時には顕れていたように思うわ。
…………
「アナタには、ワタシの弐号機に触ってほしくないの」
かつてワタシはその言葉とともに、レイが挙げた手を叩き弾いた。なのに、アスカはやんわりとレイの手を下げさせたのだ。
「悪いけど」
レイから視線を逸らす直前に、一瞬だけ瞳が揺れた。本人だったことのあるワタシでも、それが示すものを知らない。
「ファーストが出るくらいならワタシが行くわ」
****
≪ アスカ、準備はどう? ≫
≪ いつでもどうぞ ≫
アスカの声が、指揮車を経由して届く。いつもなら起動と同時に開いてくるはずの直通の通信ウィンドウが、まだ繋がれてないのだ。初号機からの接続要求も、弐号機側でシャットアウトしているらしく応答がない。
当然、シンジがUN空軍機を見つけたときの遣り取りにも加わってなかった。
≪ 発進! ≫
架橋自走車のブームから吊り下げられた弐号機が、熔岩煮えたぎる火口底に向けて降ろされる。
≪ うっわぁ~、あっつそぉ~… ≫
軽々しく茶化してるけど、その口調を震わす怯みを、ワタシは憶えてるわ。
…そう、アンタも恐いのね。
その恐怖を、ワタシはシンジと喋ることで、おどけて見せることで紛らわせた。
アンタは、どう紛らわせようっての?
≪ 弐号機、溶岩内に入ります ≫
マヤの報告が終わる前に【FROM EVA-02】の通信ウインドウが開く。
≪…≫
通信を開いておいて、アスカはこっちを見ようとしない。その視線を、眼下の熔岩から離せないんじゃないかしら。
≪シンジ…さっきはゴメンね≫
ぽつり、と。
「…さっきって?」
『きっとプールでのことよ』
…そう、アンタ。謝るべきかどうか、いつ謝るべきか、今まで悩んでたのね?
そして、謝るなら今しか、今のうちじゃないと謝れないかもって、思ったのね?
ワタシなら…、昔のワタシだったなら、たとえシンジを溺れさせたとしても、泳げないシンジが悪いって責任転嫁してたと思う。そうしておいて万が一の時には、たくさんたくさん後悔してたでしょうね。
…アンタも、変わってきてる。それは、きっとイイコトだと思うわ。
「…そんなの、もう気にしてないよ。…それに、救けてくれたのも惣流じゃないか」
弐号機は、とっくに熔岩の中。
≪…それだけ≫
「待って!」
ウィンドウを閉じようとしたアスカを押しとどめて、シンジ。
≪なに?≫
「惣流っ!帰ってきたら、僕に泳ぎを教えて!」
初めて。ウィンドウを開いてから初めて、アスカがこちらを向いた。
≪…≫
強張ってた口元が、次第にほどけて、にやりと。
≪ワタシ、スパルタよ。覚悟はイイ?≫
「……お手柔らかに」
あはははっ。なんて、とうとう笑い出しちゃった。シンジ、アンタいったいどんな顔したってのよ?
≪そうと決まればさっさと片付けて、とっとと帰るわよっ!≫
正面に向き直ったアスカは、初号機との通信を切ろうとしてたことを忘れちゃったみたいね。そのまま指揮車への報告、始めちゃったもの。
****
「…おはよう、碇君」
「えっ!? あっ、おはよう、綾波…」
シンジが顔だけで振り向くと、ダイニングの戸口にレイが立ってた。制服姿にカバンまで提げて、学校に行く準備も万端みたいね。
レイが、このミサトんちの隣に引っ越してきたのは昨日のこと。浅間山から帰ってきてすぐだったわ。
夕ご飯をここで食べさせたときの、これからは朝ご飯もここで食べるようにってミサトの言いつけを素直に聞いてたみたいなんだけど…
レイ。アンタ、来んのが早すぎ。シンジ、まだおべんとを作り始めたばっかなんだから。
「朝ご飯まで、まだ時間あるけど?」
「…問題ないわ」
今日からここがレイの席ね~♪と家主が宣言したイスに座って、じっと宙を見つめだしちゃった。…アンタ、そんなんだから人形みたいだって言われんのよ。あんな姿、アスカに見せないほうがいいんだケド…
もうしばらくすれば、シャワーを浴びにアスカが起きだしてくるだろう。メンドクサイの一言で隣りへの引っ越しを断ったアスカは、そのまま今の部屋に居着いちゃってるのだ。
『どうしたもんかしらね?』
う~んと唸ったシンジが、ダイニングのサイドボードに歩み寄って電気ポットの中身を確認した。
…
「はい、綾波。コーヒーだけど、砂糖とミルク要る?」
シンジが、レイの前にマグカップを置く。差し出したスティックシュガーとポーションは無視されたっぽい。
「…どうして?」
「待ってる間、手持ち無沙汰でしょ」
「…そんなこと、ないわ」
ぽりぽりと頬を掻いたシンジが、所在無げにレイを見下ろした。
「綾波がここに来たのは、もしかしてそれが任務だと思ったから?」
「…ええ、そうよ。葛城一尉はそう言ったわ」
やっぱりね。って嘆息したシンジが、自分のマグカップを取り出す。…ああ、そういうことか。
「それは、ミサトさんの照れ隠しだと思うよ」
頭の上に? を浮かべたレイに微笑みかけてやりながら、自分にもコーヒーを淹れてる。
「僕も経験あるけど、ミサトさんも素直じゃないから、なかなか本音を言ってくれないんだよ」
ミサトさんは…。と言葉を継ぎながら、レイの向かい。普段のアスカの席に腰掛けた。
「きっと綾波に、普通の女の子としての暮らしをさせたいんだと思うよ?」
「…ふつうの?」
うん。と頷いたシンジがコーヒーをひとすすり。
「…なぜ?」
「それはミサトさんにしか解からないよ。綾波が自分で訊くべきじゃないかな?」
…そう。ってマグカップに口をつけたレイが、顔をしかめた。…熱いわ。だって…。
さ、お弁当作んなきゃ。って立ち上がったシンジが、そうだ!って、どうしたのよ?
「こないだのお礼、綾波に言ってなかったよね。ありがとう。救かったよ」
「…なに?」
ああ、そういえば。使徒が来ちゃったし、このコは留守番だったから、うやむやになってたんだっけ。
「溺れたとき、救けに来てくれたでしょ」
「…ええ」
「だから、ありがとう」
…ありがとう。感謝の言葉。二度目の言葉…。なんて呟いちゃって…って二度目? え?
「綾波。二度目ってどういうこと?」
「…昨晩、惣流さんに言われたわ。「アンタが居なかったら、ワタシは体が動かなかったかもしれない。シンジを救けにいってくれてありがとう」…と」
そう、あのコ、そんなことを。レイへの態度が軟化してるのは、そういうことなのかしら?
「アスカがそんなことを…」
そうね。もしワタシがシンジを水に叩き落して溺れさせたとしたら、やっぱり体が動かなかったかもしんないわ。軽くじゃれたつもりだったから。溺れさせようなんて、そんな気はなかったから。どうしていいか判んなかったんでしょうね。
レイが落ち着いて行動してくんなかったら、シンジを見殺しにしたかもしれない。それが恐くて、だから今のアンタがあるのね。アスカ。
キッチンから聞こえてきた電子音に、シンジが我に返った。タイマーセットされてた炊飯器が、たった今ご飯を炊き上げたみたい。
「とにかく、待機命令って訳じゃないんだから、リビングでテレビでも見ててよ」
「…そう? そうしたほうがいい?」
「命令したわけじゃないよ。綾波が、自分のしたいようにして時間を使えばいいんだよ」
…私の、したいように。なんて、ぽつぽつと呟き始めたレイを複雑な視線で見やったらしいシンジが、溜息一つ残してキッチンに戻った。
…
しばらくして聞こえてきた音からすると、レイはとりあえずリビングでテレビを見ることにしたようね。
…シンジの、口元がほころんだわ。
****
≪なんだ?≫
電話口の声は不機嫌そうで、とても実の息子への態度とは思えない。いくら仕事で忙しかったにしてもよ?
「あ、あの…父さん…」
ほら。シンジが萎縮しちゃったじゃない。
≪どうした!早く言え!≫
「あぁ…あの…実は今日、学校で進路相談の面接があることを父兄に報告しとけって、言われたんだけど…」
≪そういう事はすべて葛城君に一任してある。下らんことで電話をするな。 …こんな電話をいちいち取り次ぐんじゃない!… ≫
「ん?」
ぶつっと回線の切れた音。あれ? そういえばシンジがパパに電話した時って…
『シンジ。周囲の様子、おかしくない?』
受話器を握りしめたまま、シンジが周りを見渡した。
「そう言われれば、…なんとなく …?」
「なに、きょろきょろしてんのよ。電話、終わったの?」
「なんだか急に切れちゃって…というか、なんか変じゃない?」
シンジに釣られて、アスカとレイも周囲を見回しだす。これから本部棟でシンジの水泳特訓のつもりだったから、一緒だったのだ。
「…信号。点いてないわ」
「停電!?」
第3新東京市が停電したってことは、あの使徒が来るってことよね。
『本部、連絡つくかしら?』
言われて携帯電話を取り出したシンジが、発令所にコール。
…
「本部もつながらないよ。…どうしよう?」
レイが、鞄からプラスチックシーリングされたマニュアルを取り出す。それを見たアスカも真似をするんだけど、…考えてみれば二つも要らないわよね。
『緊急時のマニュアルね』
三つ出しても無駄なので耳打ちする。無用にバカにされることもないしね。それに…と思い当たって、続けてシンジに耳打ちしとく。
「…とにかく、本部へ行きましょう」
「じゃあ、行動を開始する前にグループのリーダーを決めといた方がいいと思う。…アスカ、頼める?」
浅間山から帰ってきて以来、シンジはこのコをアスカって呼ぶようになった。アスカもまんざらじゃなさそうだし、ワタシもなんだか嬉しい。
「えっ!? ワタシ? …いや、その…どして?」
立候補するつもりだっただろうに戸惑ったのは、誰かが推薦してくれるなんて思ってなかったからでしょうね。
それが示す意味を考えると、ちょっと哀しいわ。
「そういうのは、決断力のある人間の方がいいから。…それで提案なんだけど、ここでの生活が一番長い綾波に先導役をお願いすべきだと思うんだけど、どう?」
これは前回の経験で、ワタシが学んだことの一つ。
「そっそうね。シンジにしては悪くないアイデアだわ。ファースト、頼める?」
「…ええ」
こくりと頷いたレイが、…じゃ、こっちに。と歩き出した。
***
≪もぉ~お、かっこわるーい≫
増設バッテリをウェポンラックに装着して、エヴァにはいささか狭い通路を這って進む。
≪…縦孔に出るわ≫
「ちょっと待って」
相互の通信に使う電力すら惜しんで、各機は通信ケーブルで結ばれてる。抜けたり切れたりしないよう慎重に行動しないといけないから、ちょっとウットウしいわね。
≪なに、シンジ≫
「使徒が直上に居るって言ってたでしょ。それって待ち伏せしてるってことじゃないかな?」
≪…そうね。ありえるわ≫
なるほどね。って頷いたアスカが弐号機の顔だけ縦孔に出して上を見る。カメラアイが4つある弐号機は、測距儀としての機能は一番優れてると思う。もっとも、実験機としていろんな機能が盛り込まれてるっぽい初号機が決して劣ってるわけじゃないってことを、今のワタシはよく知ってんだけど。
≪きゃあっ!≫
弐号機が頭を引っ込めた向こう、縦孔を落ちていったのは使徒の溶解液ね。レイが、使い終わったバッテリを差し出した。じゅっ…と嫌な煙を上げて、溶ける。
≪…目標は、強力な溶解液で本部に直接侵入を図るつもりね≫
「どうする?」
向けられた視線は、弐号機への通信ウィンドウ。
≪試しに、ライフルだけ突き出して撃ってみて。ファーストは着弾観測≫
「わかった」
≪…わかったわ≫
零号機の準備が出来たのを見計らって、初号機がライフルを一斉射。
…
≪…ダメ、目標が遠すぎる。ほとんど内壁で弾かれたわ≫
そっか、パレットライフルって命中精度よくないんだったっけ。たしか電圧や磁気の影響で初速が安定しないし、構造上ライフリングも刻めないとか聞いたことがあるわ。前回より低い位置から、しかも内壁に沿ってじゃ難しいってワケね。
≪中てるには、もっと近づかなくちゃダメか≫
「あと、3分もないよ?」
この縦孔をよじ登るわけには行かないし、他のルートを上がってるヒマはないってコト。
…通信ウィンドウの中で唸ってたアスカが、ついになにか決心したって顔してこっちを向いた。微妙に視線がそれてるのは、零号機への通信ウィンドウも並べて表示させてるからでしょうね。
≪なにか、提案はある?≫
…はい。って…レイ。手は挙げなくていいと思うわよ?
≪…ここから撃つなら、出来るだけ縦孔の中心でライフルを固定して撃つ必要があるわ≫
≪そうね。…で?≫
≪…エヴァ2体がディフェンス、ATフィールドを中和しつつ目標の溶解液からオフェンスをガード。オフェンスはガードの機体の隙間を二脚代わりにライフルを固定。エヴァ3機のカメラアイをすべてリンクして照準を修正…≫
一斉射して目標を殲滅ってワケね。と言葉尻をさらって、アスカが頷いた。
≪いいわ、それで行きましょ。ワタシとファーストがディフェンス…≫
「そんな、危ないよ」
≪だからなのよ。アンタにこの前の借りを返しとかないと、気持ち悪いからね…≫
何かまだ言いかけて、アスカが口を閉ざす。一瞬動いた視線は、きっと零号機への通信ウィンドウね。…アンタ、レイにも何か言いたかったんじゃない?
≪だからシンジがオフェンス、言い出しっぺのファーストはワタシと一緒にディフェンス。いいわね?≫
≪…分かったわ≫
「……うん」
2人の頷きを見て取って、アスカが身構えた。
≪じゃ、行くわよ。…ゲーヘン!≫
零号機と弐号機が手足を突っ張って壁を作る。互い違いになって、頭と脚の方向は逆だけど。なにより前回との最大の違いは、カメラアイを有効に使うために仰向けだってコト。
その下で射撃体勢を整えたシンジが、ライフルを2機の隙間、脇腹あたりから突き出す。すかさず零号機が片手を使って銃口を庇った。
≪うっ…っく≫
≪…くぅぅ≫
狙いすましたように、溶解液が降ってくる。装甲を溶かす音が、…やけに耳につくじゃない。
「早く…、早く!」
バイザーの中で、なかなか合わないレチクルをシンジが罵る。
…
「綾波っ!!」
零号機が手をどけるのと、トリガーが引かれたのは、ほぼ同時だったと思うわ。
弾切れまで撃ち尽くしたライフルはなんとか命中弾をたたき出し、かろうじて使徒を撃退できた。
****
気持ちの問題だとは思うけど、おハダがぴりぴりして水着が着れない。っていう理由で、本日の水泳特訓はお流れになったわ。
こら、シンジ。そんなことで喜ばないでよ。ホント、なさけないんだから…
つづく